慶応二年 一月二十三日
山南敬助切腹から一年が経とうとしていた。ある日、監察の島田 魁が西本願寺屯所に駆け込んできた。
彼が持ってきた情報は……
「坂本龍馬が?」
「はい、伏見の寺田屋という宿に潜伏している模様です。」
「寺田屋……どっかで聞いたような……」
寺田屋が幕末の歴史に名を留めたことはこの一件を含めて二回ある。
新撰組が結成される以前、文久二年の四月に尊王攘夷主義で過激派の薩摩藩士たちがここに宿泊していたが、藩主・島津久光の命令を受けた公武合体派数名の藩士と口論になり、やがて斬り合いが始まった。
戦闘が終わると双方にかなりの死傷者が出ていた。討つ方も討たれる方も同じ薩摩藩士。この『寺田屋事件』の報は悲劇的な戦いとして全国に広まった。
「その寺田屋に坂本が居るのか?」
「伏見奉行所は今夜にも大手入れをするそうです。いかが致しましょう?出動の要請は受けておりませんが……」
「俺が行く。」
まっさきに名乗り出たのは竜馬であった。
「相手は坂本一人だ。大人数で行く必要もなかろう。……斎藤と大石と……服部でやる。」
「四人だけでいいのか?」
土方の問いに、竜馬は自信満々でうなずいた。
その日の夜、真宮寺竜馬、斎藤 一、大石鍬次郎、そして服部武雄の四人の姿は伏見にあった。既に寺田屋は伏見奉行所の与力、同心ら百三十名によって取り囲まれている。
「時間だ。」
与力たちが寺田屋に雪崩れ込んでいく。
だが、竜馬たちは突入せず、裏でじっとしているだけだ。
しばらくすると銃声が聞こえてきた。どうやら坂本は拳銃を所持していたようだ。
やがて、裏口が開いて坂本龍馬と思われる剣客、槍を持った長府藩士…三吉慎蔵、そして一人の女が飛び出してきた。
「……待ちな。」
龍 馬たちの前に竜馬たち四人が立ちはだかった。
「……真宮寺…竜馬……」
「久しぶりだな、坂本。」
竜馬と龍馬は同門で、江戸の千葉道場でも会ったことがある。(第壱部参照) また、元治元年の海仙寺党事件(第参部参照)でも鉢合わせしている。その時は佐那が一緒に居たこともあって、見逃している。
「海仙寺の一件以来だから……二年近くになるな。」
「…わしに何の用じゃ?」
「…なぜ、佐那さんを捨てた?」
「……」
「なぜ、佐那さんとの婚約を破棄した?……そして、なぜ…そこの女と一緒になった!」
「……真宮寺殿、おまんさん、相変わらず固いのう。」
「何ぃ?」
「今、この国は危機に瀕している。諸外国が日本の領土を、虎視眈々と狙っちょる。そんな時に日本人同士が斬り合いしてどうするんじゃ?」
「貴様に言われずとも、そんなことは百も承知だ。じゃあ何か? 国を救うためなら、佐那さんを見捨ててもいいってのか?」
「………仕方ないことぜよ。」
この一言に、竜馬はキレた。佐那には坂本を斬らないと約束したが、勘弁ならなかったのだ。
「……こぉのぉ………もう勘弁ならねぇ!ぶっ殺してやる!!」
竜馬が斬りかかろうとしたが、そのとき龍馬の背後にいた女性が飛び出し、竜馬の前に立ちはだかった。慌てて竜馬は剣を止めたが、もう少し遅ければ女性の顔面を斬っていたところだった。
「……何だ、お前は?」
「私は…楢崎 龍。龍馬さんの妻です。夫を殺すと言うのなら、まず私を殺しなさい。」
「………」
「さあ、お斬りなさい!!」
なぜか、竜馬はこの女を斬る気にはならない。
少しの恐怖心も見せず近付いてくるこの女に、竜馬は逆に恐怖心を覚えた。
「…好いた男のためなら命も惜しくねぇ、か。負けたよ。」
「……」
「龍馬、お前にではない。その女に、俺は負けたのだ。見逃してやる、行け。」
龍馬とお龍、そして三吉慎蔵はその場を脱出し、伏見の薩摩藩邸に駆け込んだ。
「竜さん、どうして斬らなかったんです?」
「……あの女……あいつだけは斬れない。……好きな男のためなら命も惜しくない女……江戸の佐那さんによく似ている。だから、俺には斬れねぇ。」
「……」
「…帰るぞ。」
結局、伏見奉行所の役人たちは130人もいながら龍馬の拳銃一丁に怯えて取り逃がしてしまった。
この報告を受けた竜馬は幕府ももう長くないと思った。
その帰り道、西本願寺の近くを歩いていると岡引が向こうから走ってきた。
「あ、ちょうどようおました。何や向こうから物騒なこと言いながら、浪士が五、六人来ますわ。」
「何?……よし、下がってろ。」
しばらくすると浪人が五人ほど向こうからやってくる。しかし、竜馬たちの姿を見るといきなり方向を変えて逃げていった。
「逃がすな、追え!」
斎藤たちは逃げた浪士を追って行った。だが、竜馬はその場に留まった。
逃げなかった男が一人居たのだ。一緒にいた浪士と違い、立派な着物を着ているが、手を袖の中に引っ込めていて態度が悪い。
「……文七郎。」
「フン、真宮寺か。」
その男の名は、遠藤文七郎允信。伊達藩家老、執政にあった人物だが、新撰組が結成される以前の安政年間、熱心な尊皇攘夷論者であっために家老の座から失脚させられていた。
「……新撰組局長代理…真宮寺竜馬である。役儀によって尋問する。今逃亡した浪士たちはお前の連れか?」
「答える必要は無い。」
「役儀によって尋問すると言ったはずだ。……それから、その懐手を出せ。」
「わしは仙台…伊達家中の者。陸奥守以外に命令を受けたことはない。わしにこの手を出させたければ、陸奥守を通すことだ。」
「フン、尤もなことを言いやがって。お前、俺に喧嘩を売っているつもりのようだな。買ってやるから、好きにすればよい。」
「………」
次の瞬間、文七郎は抜刀し竜馬に斬りかかった。だが、竜馬は一瞬の抜刀術で切り返し、文七郎の刀を弾き飛ばして、刀を喉下に突きつけた。
「生兵法はよすことだ。藩名を笠に着た空威張りは、この京都では通用せん!!」
「ぬ……」
「同じ伊達家中だ。その誼で今回は見逃してやる。即刻京都から出て行け。今度会ったら容赦なく叩っ斬る!」
刀を納めた竜馬は斎藤たちの後を追って走り去って行った。
だが、竜馬は後にここで文七郎を斬っておくべきだったと後悔することになる。
慶応二年 秋
二条城へ行っていた近藤 勇が肩を怒らせながら帰ってきた。
土方の部屋に入ると、そこには竜馬と土方が将棋をさしていた。傍らには伊東甲子太郎もいた。
「どうした、近藤さん。」
「…帝が崩御なされた!」
「何っ!?」
「しかし、お体が悪いとは聞いておりませんでしたが……」
「……疱瘡を患われてにわかにお隠れあそばした。」
「……毒殺か。」
「まさか!」
竜馬の推測に伊東は反対したが、土方は賛同した。
「いや、薩摩のことだ。帝は大の幕府びいきだったからな。」
「………いずれにせよ、薩長は思うがまま、朝廷を牛耳ることが出来る。」
「……幕府にとっては、実に大きな痛手となりましたな。」
このとき、策士・伊東甲子太郎は時勢を見た。
新撰組を脱退して薩摩藩に近づこうと考えたのだ。翌日、彼はある料亭に藤堂平助を呼び出した。
「お話とは?」
「うむ……藤堂君、単刀直入に言おう。私は近々、新撰組を出ようと思う。」
「何ですと!?」
「近藤、土方、ご両所とはどうにも意見が合わず、私は分屯所を作って行動する。君の言いたいことはわかっている。局中法度には『局を脱する事を禁ず』とある。だが、これは脱退ではない。分離なのだ。」
伊東の言うとおりならば、局中法度に触れることはない。
義理堅い平助には近藤を裏切ることは出来ない。だが、平助はその心を揺り動かす事件を思い出していた。
総長・山南 敬助の切腹である。
山南は平助と同門でもあるが、それ以上に、平助は山南を慕っていた。家族の居ない平助にとって、山南を父親のように、竜馬を兄貴のようなものだったのだ。
「藤堂君、今の新撰組は何事も剣だけで解決する手段をとっている。だが、これからはそういう手段が許されなくなる。何事も剣だけで解決しようとすれば、必ず間違いが起こる。」
「……」
それは常々山南が言っていたことである。
この言葉で平助は心を決めた。さんざん迷って出した答えは……
「私は……私の新撰組は、もう終わったと思っています。」
平助は伊東の要請に応じて、新撰組から離れる道を選んだ。それは平助なりに考えて出した答えであった。
その日の夕方、平助の姿は壬生光縁寺の墓地にあった。ここには多くの新撰組隊士たちの亡骸が葬られている。平助の前の墓には一人の男が眠っている。
『山南敬助・藤原知信之墓』
山南の墓である。もう一つの藤原知信というのは山南の変名である。平助は山南に脱退することを報告しにきたのだ。
「山南さん……私は、伊東先生と共に新撰組を出ます。」
だが、平助には一つだけ気になることがあった。
「脱退すれば、新撰組とは敵同士になります。恐らく戦うことになるでしょう。しかし……あの人とだけは……」
平助はそこで口を閉じた。
あの人………それは竜馬のことである。竜馬とだけは戦いたくないと、平助は思っていた。
翌日、伊東甲子太郎は新撰組から離れ、分屯所を設けるという話を近藤…土方…竜馬に持ちかけた。近藤と土方は当然これに猛反対。だが竜馬は何も言わなかった。
伊東が巧みに時勢を説いて弁論をすれば、土方は局中法度を出して反論する。だが、よくもまあと感心するほど、次から次に言葉が出てくる伊東に、遂に土方は折れた。 近藤も伊東の分離を承諾し、伊東甲子太郎とそれに従う者…鈴木三樹三郎、篠原泰之進、服部武雄、富山弥兵衛、阿部十郎、加納鷲雄らは新撰組屯所を出て行った。
「ケッ、伊東甲子太郎め。弁論だけで俺の心臓を止めようとしやがって。……大体、竜さん。アンタ、なんで黙ってたんだ?」
「そう熱くなるな、トシ。伊東の奴ぁ、始めから新撰組に必要ない男だったんだ。」
そんなことを話していると、平助がやってきた。
「おお、藤堂君。どうした?」
「……よかった……土方さんや竜さんにも会えた。」
「……どうした、平助?」
平助は近藤に向かって深々と頭を下げた。そして………
「近藤先生、新撰組結成以来……いえ、江戸試衛館以来、今日まで……長らくお世話にあいなりました。」
これには近藤も土方も、そして竜馬も驚いた。
まさか、まさか人一倍義理堅い平助が脱退するとは思ってもみなかったのだ。
「私は、私なりに考えました。そして、伊東先生と行動を共にしたいと思います。」
「……」
竜馬は何も言わずに立ち上がり、ドスドスと足音を立てながら出て行った。
「そうか……試衛館以来の……結成以来の同志である君が……私から離れていくとは思わなかった!!」
「………」
近藤や土方にとって、平助の脱退は精神的にも大きな痛手となった。
二人だけではない、総司や新八たち幹部、平隊士たちの士気にも影響することは明らかであった。
その翌日。竜馬は平助に連れられてある料亭に入った。
通された座敷には篠原泰之進と鈴木三樹三郎が待っていた。
「………俺に何の用だ?」
「まぁ、座ってください。」
とりあえず座り、篠原が酌をしたが、竜馬はそれを飲もうとはしない。
「さっさと要件を言ったらどうだ?」
「………」
まず切り出したのは篠原だった。要件は竜馬の予想通り、新撰組を脱退して欲しいという要望だった。
「真宮寺殿、我々と一緒に来て下さい。これは伊東先生の要望でもあります。」
篠原の後を服部が付け加える。だが、服部は相変わらず態度が悪い。
「我々の脱退は、局中法度には触れていない。近藤、土方らと意見が合わぬから、分屯所を作るというだけのことなのだ。既に十名近くの者が脱退を決めている。その中には、ここに居る藤堂君や、斎藤 一も含まれているのだ。」
「斎藤が?」
これには竜馬も意外だった。斎藤も平助と同じく人一倍義を重んじる男。
伊東に義理がないから脱退するはずがないと思っていたのだ。
「江戸…試衛館以来の古参幹部ですら、近藤局長から離れようとしているのです。ですから、真宮寺殿。あなたが脱退したとしても、とやかく言う者は誰も居ないはずです。」
「……」
「頼みます、竜さん。脱退して、伊東先生と…我々と共に行動してください!」
「……そいつは出来ねぇ相談だな。」
竜馬の答えは拒否だった。だが、平助も篠原も服部も、予想していた答えだった。
「俺は義理だけで動く。近藤さんやトシを裏切るような真似は、俺はしない。…平助、お前はなぜ脱退した? お前は人一倍義理を重んじていたはずだ。そのお前が、なぜ新撰組を離れる?」
「………私は……もう新撰組は終わったと思っているからです。局中法度だけにこだわり、多くの若い命を無駄に失ってきた新撰組は、私の……私や山南さんの考えていた新撰組と大きく違っているんです。」
「そう言えば、山南総長と真宮寺殿は同門であるだけでなく、同郷でもあったではありませんか。真宮寺殿は山南総長の切腹に、何も疑問や不満が無かったのですか?」
「あるはずねぇだろうが。」
竜馬は即答した。
疑問を持たない理由は、山南が局中法度を承知で脱走したから、切腹させられただけのこと。不満がないのも同じ、山南が全て承知の上で脱走して処分されただけ。
「それだけなのですか?」
「そうだ。」
「しかし、山南総長はあなたと……」
同門で同郷である、それゆえに関係は親密だったはず。そう言おうとしたが、先に竜馬が答えた。
「確かに。……確かに、敬助は同門、そして同郷でもあった。だが……それだけだ。」
「それだけ……?」
「言ったはずだ、俺は義理だけで動くと。敬助には何の義理もない。」
「義理だけで動くとは……あなたには、勤皇の志は無いのですか!?」
「………無いね。」
竜馬はあっさりと答えた。
この男に政治も無ければ、主義…思想も無い。あるのは義と誠だけ。
「………俺が守るのは、主君である伊達陸奥守様。その陸奥守様が主君と仰ぐ将軍様。世話になった近藤さん。俺の大切な許嫁、そして屋敷に居る奉公人たち。それだけだ。いつも御簾の向こうに隠れていて、何もしない天皇を守る気などない。」
「しかし、真宮寺殿!!」
さらに説得を試みようとする篠原だったが、平助がそれを制した。
「篠原さん、もういい。……竜さん。固めの杯のつもりで持った席だったが……どうやら、別れの杯になってしまったようですね。」
竜馬は最初に注がれていた酒を飲み干すと、杯を平助に渡した。
平助も黙ってそれを受け取り、竜馬に注いでもらった酒を一気に飲み干した。これが、二人の決別となった。
竜馬も、平助も、このとき悟っていたのだろう。いずれ、お互いに敵同士として戦うことになるだろうということを。
このとき、二人はどちらか生き残った方が、残された家族の世話をしようと、約束したのだった。