「あれ、大神提督。正月なのに、戻られんとですか?」
「ブーツこそ、妻子がいるじゃないか」
滑走路脇の天幕に大神の姿を見かけた村田重治海軍少佐が声をかけてきた。
「いやー、あいつらをおいてはいけですよ」
村田が視線を向けるのは、訓練中の航空隊であった。
空母への着陸の基本となるのは三点姿勢での着陸である。主輪と尾輪を同時に接地させるこの形は、滑走距離が短くなる上、機体後尾の着艦フックを甲板上の制動索にひっかけてとまる空母艦載機には必須の着陸方法である。
しかし、主として陸軍で使用されている二点姿勢での着陸(先に主輪を接地させ、速度をおとしながら尾輪をつける)に比べると、許容される機体姿勢が限定され、また、機体に角度がついて下方視界が悪いため、より技量が要求される。
「ほら、まーた、跳ねやがった。ね、あれじゃ、いけませんよ」
大神も苦笑する。
「あんなんで卒業させらてるんじゃ、現場(こっち)の苦労が増えるばかりですよ」
戦争が始まって以来、海軍は搭乗員の速成に勤しんでいる。
幸い、太正期以来の経済発展によるモータリゼーションの発達で、自動車を運転したことのある国民は比較的多い。過去の統計でも“機械”を運転したことのあるものと、そうでないものの初期教育段階における成長の差は顕著であったから、大いに助けになっている筈だ。
だが、それでも搭乗員の不足、速成による技量低下は、村田のようなベテランからすれば目を覆うばかりである。
「それに、こんなんじゃ海軍軍人たーいえません。空軍ですよ」
戦前は士官搭乗員であれば、海軍士官としての教育も受けた。当直士官として艦を指揮することも可能であった。
それが今や艦にのったこともないまま任官する始末である。
「空軍か。ドイツ軍は三軍体制だったな」
「そうですか。空母を持ったら、艦載機はどうすんでしょうな?」
「さてな。それだけ空軍だったら意思の疎通が悪くて面白いことになりそうだが……」
「なるほど。他の軍とは仲が悪いに決まってますからな」
村田は豪快に笑って見せる。
それは洋の東西を問わず存在する現象であり、マシな部類とはいえ帝國にも共通する悪弊だ。
大神も苦戦した一連のフィリピン周辺での海戦も、陸軍側のフィリピン攻略要請のために生じたものである。海軍の作戦計画では、封鎖にとどめる筈だったのだから。
「だからといって、協力せんわけにもいかんからな」
苦笑する大神の言葉に村田は直感した。
「ははぁ。じゃ、また大神閣下は海の上でチョンガー(独身)生活ですか」
「悪いな。今は陸でもチョンガーだ」
「へぇ。じゃあ、噂は本当ですか!」
大神は、またこの話になっていまったか、とついのってしまった自分を呪う。
今では噂とやらにどんどんと尾ひれ背びれがついていっている気がする。もうコリゴリだと首をすくめて見せると、村田もそれを汲み取ったようで、話題を変えてきた。
「ま、今回はチョンガーにご同行させていただきたいですな」
どうやら前回の海戦に乗り込めなかったのが不満なようだ。
開戦時の総飛行隊長格、淵田美津雄海軍中佐は負傷に伴い、教官転出。瑞鶴飛行隊長を務めていた嶋崎重和海軍少佐も教官となり最前線を外れた。また、村田より兵学校で二期上で、艦爆隊の元締的立場にあったカク親分こと高橋赫一海軍少佐は沖縄沖海戦でレキシントンを撃沈するも未帰還となる(死後二階級特進、大佐)。
そして、村田と兵学校同期で“艦爆の神様”ともいわれた江草隆繁海軍少佐も硫黄島沖海戦の後、横須賀航空隊へ転出した。
裏を返せば、開戦時に最前線に集中させていた人材を後方に回せるだけの余力ができたということである。未だに前線の練度不足は否めないが、その根本的解決は教育システムを建て直し、一定練度の新兵を需要数以上に供給すること、それによって生き残れる人数を増やして全体の平均練度を向上させるしかない。ようやく、教官クラスの熟練搭乗員を前線に集中投入して凌いできた緊急態勢を解除し、そこに手をつけられるようになったのである。
「安心しろ、ブーツ。敵空母が出てきたなら、貴様に第一次攻撃隊を指揮してもらうんだからな」
「そいつは有難いです。久々に腕が鳴ります」
村田は快活に笑う。
開戦時には横須賀海軍航空隊で、特修科高等学生として唯一の雷撃専修学生(この場合の学生とは教わる生徒という意味ではなく、研究専任者という意味合い)を勤めていたほどである。
そして、この配属のために開戦時のトラック奇襲には巻き込まれずに済んだ。
だが、本来なら自分が母艦としていた空母が撃沈され、また、多くの同僚、後輩達を失ったことは痛恨時であった。
(自分がいれば)
そう後悔がある。
実際、空母に載っていたとしても、あるいはトラックの飛行場にいたとしても結果が変わることはありえない。そう言い切れる程、ハルゼーの奇襲は完璧だった。
だが、もしかしたら一人くらいは救えたかもしれない。
是非もないことだが、どうしてもそう考えてしまう。
「今度もハルゼーが出てくると言いんですがねぇ」
「ほう?」
「そしたら、挨拶代わりです。あいつののってる空母のドテッ腹に穴あけてやりますよ」
「頼もしいな。だが、挨拶代わりなら、半長靴(ブーツ)でもおいてきたらどうだ?」
「ん、そりゃいいですな。脱ぎたてのヤツを甲板においてきましょう」
「そっちのほうがダメージがあるかもしれんぞ」
「臭いですからなぁ」
村田の渾名、ブーツとひっかけた冗談に二人は笑う。
「ようし、じゃあ、その必中の訓練をしてきます」
「頼むぞ」
村田は九七式艦上攻撃機に乗り込んでいく。
そしてもちろん、この時、訓練しているのは、雷撃隊だけではない。
他の隊も技量の引き上げには必死であり、少し離れた空域では戦闘機隊──零戦も訓練を繰り広げていた。
「次、二小隊!」
「了解」
中隊長からの指揮に従い、瑞鶴飛行隊戦闘機第二中隊第二小隊──川島紅雄が率いる四機小隊が上空待機から翼を翻す。
「列機よし……と」
既に硫黄島沖、マリアナ沖、第二次フィリピン沖と三度の空母戦を生き抜き、敵機撃墜一を記録する紅雄は、新米扱いされる存在ではなかった。
更に折からのベテラン搭乗員の一部配置転換に伴い“上”に空きができたことで、必然的に自分がそこに押し上げられることになってしまった。
「ま、新編成のおかげで助こーたけどなぁ」
第二次フィリピン沖海戦以後の再編成の中で、帝國海軍は戦闘機編隊の編成を変更している。
戦前より、昭和一七年に至るまで、海軍航空隊戦闘機編隊は三機で一個小隊を形成していた。例えば源田実による有名な献納式(国民からの寄付による軍用機納入の式典)での源田サーカスも三機編隊による宙返りであった。
だが、小隊長機に対して追随する機が二機となるため、列機は常に小隊長機ともう一機の二機の位置を確認しつつ自分の位置を確認する必要がある。そのため、開戦直前の練度が高い状態であればともかく、開戦以降の技量が低下した状態では、小隊長機についていくのがやっとという列機が多かった。
これに対して現在、二〇三航空隊飛行隊長である横山保海軍中佐が中心となって提唱したのが二機を一組とした編隊とする戦術であった。
これは、ドイツ空軍がスペイン内戦(三六年〜三九年)で生み出したといわれているものだ。ドイツ空軍では二機でロッテ、四機でシュヴァルムという単位を編成して戦闘機隊を運用している。米航空隊も同様に二機を一組とする同様の戦術を採用していた。
二機を一組とする編隊であれば、列機はとにかく長機を追いかけていけばよい。要求される技量、負担は三機編隊よりずっと軽減される。
横山飛行隊長は既に戦前からこの戦術を試行していたが、フィリピンでの制空戦では二〇三空にこの編成をとらせ、効果を実戦で証明した。
それを知った大神は、大ベテランを引き抜かれた空母航空隊も、この編成を取り入れる効果があると考え、源田実航空参謀の反対を押し切って導入を実現した。
ただ、指揮官を勤められる操縦士数の関係から、一個小隊は四機としている。その上で戦闘中は二機を単位として行動するという形だ。
だから、紅雄も実質的には1機だけを率いればいいということになり、それが、若干の気楽さとなっている──というより、気楽なのだと自己に言い聞かせようとしているというのが正確か。
いずれにせよ、紅雄が小隊長を務めなくてはいけないことに変わりはない。もう腹をくくるしかなかった。
「一撃したら右に捻って離脱やで」
「了解」
このところ、工作精度の低下のためか、やや雑音が多くなった気がするが、それでも無線機として実用上は問題がない。
練習機が引っ張っている吹流しに斜後ろ上方から接近すると、彼我の相対速度と弾道後落を計算に入れて、狙うところよりやや前方上方を狙って短く引金を引く。そして、すぐさま離脱。その直後、二番機が、そして更に三番機、四番機がと続いていく。
が、後続機はともかく、紅雄の結果は散々だった。
「こらーっ。川島! 全然、当たってないぞ」
「あ、あれ? へんやな」
上空で統括している中隊長に叱責を浴びる始末。
地上に降りて確認するまでもなく、外れているのが見えてしまったということだろう。
「ほーか。思ったより弾道がおちへんのやな」
空母機動部隊の零戦は、それまで二一型に代わり、三二甲型に更新されている。
この機体は零戦の能力向上回収型で、発動機を二速加給機付の栄二一型に換装するとともに、主翼先端の折りたたみ部を廃して角型に整形したものとなっている。これにより、最高速度は二四キロ向上し、上昇力、高空性能、横安定性も改善された。
一方、発動機の燃費悪化と機体形状の変更による燃料タンクの縮小により、航続力距離は四二〇キロ〜九七〇キロ減少していたが、フィリピン攻略戦でもフィリピンの飛行場へ進出して作戦活動を行なっている現在では、さして問題にはなっていない。
更に大きく変わったのが武装である。
照和一七年四月に予定されていた生産開始は、とにかく一機でも多く零戦をという前線の声におされ、二一型からの生産ラインの切り替えがずれ込むことなった。しかし、その間を利用して、当初は二一型と同じ装備だった翼内機関銃を、九九式二号二〇粍固定銃三型に換装するという改良を受け、実際にはこの甲型が三二型の主要生産形式となる。
九九式二号三型は、それまでの一号が六〇発だったものを一〇〇発と携行弾数を増強するとともに、翼から大きく突き出すような長砲身となって初速が二割以上向上している。これはどちらかというと対大型機用として貫通力を増大させるための改良ではあったが、当然ながら後落の度合いも小さくなるため、今までの二一型での射撃とは弾道が異なるのも道理だ。
もっとも、きちんと間合いを詰めて撃てば、そう問題になるようなものではない。ただ、紅雄としては当たると感じて射撃したはずの見越射撃だった。
「あ〜、なんか新型に勘が合わんのかなぁ」
紅雄は中隊長に命じられて、再度の射撃訓練へと入っていった。