親愛なるきみへ(第七話)  作・鰊かずの

<1>

 親愛なるハインツ。
 ベルリンの街路樹も新緑が鮮やかな季節になってきましたが、その後お変わりありませんか?
 クリスは今、次の霊子学論文執筆と、声楽コンクールの課題曲と自由曲の練習の真っ最中で、ほとんど外へ出ない日が続いていますが、毎日元気です。
 あなたの薦めもあり始めた霊子学ですが、本当にあの子の性に合ったようです。
この間提出した論文が博士号という素晴らしい評価をいただきました。博士号の歴史を見ても、最年少なんですってね。あの子のおかげで霊子学の歴史が十年は早く進んだと研究所の所長先生が言っていました。
 あの子が評価されるのは嬉しいのですが、これからの事を考えると、少し複雑な気持ちがします。
 でも御心配なく。私とあなたの娘は、とてもいい子に育っています。
この間聞いたのですが、あの子が霊子学を始めたのは私のためなんですって。なんだかとても嬉しく思います。
 それに、さっきも書きましたが霊子学だけじゃなくて、声楽にも興味を示してくれています。レーラー先生に言わせると、クリスはとてもいい声をしているとのこと。高く澄んだ声は、これから訓練次第でオペラ歌手としてもやっていけますよとお墨つきをいただきました。
 あの子も歌うのは好きで、霊子学とどっちが好きかと聞いたら「両方」と言い張って聞きません。今だって、論文書きの合間に発声練習や腹筋は欠かしません。ほら、今も歌っています。私の好きな「四季」を自由曲にするんだと言っていました。手紙では音を伝えられなくて残念です。
 そうそう。この間、手紙を書いているところをクリスに見られました。「誰に書いているの?」と聞かれたので、「いつもお世話になっている、大切な人よ」と答えたら「じゃあ私もお礼状を書く!」と言いまして手紙をしたためていました。同封しておきますね。こんな所は歳相応で、嬉しく思います。

 この前の手紙で、再三帝都へ帰るようにおっしゃいましたが、それはできません。
 私とあなたが出会ってもう十二年になります。帝都を出る時お兄様に「絶対に幸せになる」と誓いました。
 独逸へ渡ってからいろいろな事がありました。正直に言うと辛い事もありました。でも、例え今は手紙でしかあなたに会えなくても親友に恵まれて、娘に恵まれて、写真家として一人立ちできて、私は今、とても幸せです。だから心配しないでくださいね。

 私たちは幸せです。いままでも、そしてこれからもきっと。クリスには常々言い聞かせています。「人はみな、幸せになるために生きているんだ」って。例え何があったって、どんな事があったって、支えてくれる誰かがいてくれれば幸せになれます。だから、他の人を大切にしなさいね、と。
 以前あなたは、自分が帝都へ行かなければ私はもっと幸せになれたのにと書いていましたね。でもあなたの存在は、私を幸せにしてくれました。
 私は子供の時から体が弱くて、帝都で独逸のお医者様にかかっていました。
 だから、たまに仙台の真宮寺本家に帰った時には、私だけが家族じゃないような気がしてなりませんでした。お父様もお母様も厳しい方で、私にも厳しく接していました。今はそれが愛情なんだと分かりますが、子供の頃はそれが分からず、いつも寂しく思っておりました。
 お兄様と従兄弟だけは私に優しくしてくれました。写真家になりたいという私の夢を理解してくれて、誕生日に最新式の蒸気写真機をプレゼントしてくれました。今でも大切な、私の宝物です。
 夢を追いかけようとしても、帝都ではまだ女性が一人で仕事をするには辛い状況で、この世界のどこにも居場所がないような、そんな気持ちをかみ締めていました。
 でも、あなたに出会って独逸へ渡って伯林に住んで、やっとここで居場所を見つけました。最初は辛い事もありましたけど、今ではみんな私の事を認めてくれています。ジェイコブもリーリエも、みんなが私を愛してくれています。私もみんなが大好きです。
 私は、ここへ来た事を後悔なんてしていません。それどころか、あなたには感謝しています。不自由な状況の中、精一杯の事をしてくれている事は、私が一番よく知っていますから。
 だから、米田のおじさまがあなたに何か言ったかもしれませんが、私は帰るつもりはありません。帝都の状況は、十二年前よりももっと悪化していると聞きます。お兄様も、対降魔特殊部隊という所へ配属になったそうです。
 そんな中、真宮寺家を裏切った私や、結果的に手引きしたあなたを助けてくれるとは思えません。
 いつか、あの子は私を恨むでしょう。でも、あの子ならばこの問題を解決してくれる。そう信じたいです。あなたはただ、体に気をつけて一日でも長く生きてください。
 もっと書きたい事はたくさんあるのですが、今日のところはこの辺りで筆を置きます。同封の写真は、霊子学博士号の授賞式のものです。
 それでは、お体にお気をつけて。

1917年 5月20日
サツキ・シュトックハウゼン


<2>

 屋根裏部屋へ駆け込んだクリスは、一息つくとすぐに木箱を取り出して蓋をあけた。
 木箱は、同じ大きさで同じ形の霊子水晶が五つ収納できるようになっていて、その内一つは空になっていた。予備として持ってきたそれは今、「れいばいくん」に組み込まれていた。
 クリスは急いで水晶を取り出したが、四つの内の一つを持ち上げた時、思わず大声を上げた。
「嘘だ!」
 手の中の水晶にはいつのまにか大きな亀裂が走り、他の三つと比べても明らかに輝きがなかった。
 霊子水晶を蹴飛ばした時、目に見えない亀裂が入ったのだろう。それが時間と共に広がり、雷のような亀裂を走らせていた。
「そんな! 昨日はちゃんと使えていたのに……」
 クリスは手に持った水晶を取り落とした。水晶はゆっくり机の上に落ちると、澄んだ音を立てて砕けた。その音は、最後の希望が砕け散る音のように聞こえてならなかった。
 クリスは力尽きたようにその場にしゃがみ込むと、小柄をいっそう強く握り締めた。
 長い間そのままうずくまっていたが、やがて顔を上げると書棚の中の分厚い書籍に目をやった。
 しばらくそれを凝視していたが、諦めたようにぽつりとつぶやいた。
「わたしが犠牲になる事で、呪いが解かれれば、それでいいんだよね、母さん」
 クリスはため息をついてその場に寝転がった。髪や衣服が汚れるのも構わずに見上げた天井から、蒸気照明がクリスを見下ろしていた。視界に広がった薄暗い屋根や見慣れたテーブルが、妙にゆがんでクリスの心に広がった。
「空が……見たいな」
 ぽつりとつぶやくと、誰もいないはずの室内に向かって声を掛けた。
「監視役さん。……机と床、掃除しておいてくれ」
 それだけ言うと、クリスは立ちあがって部屋を出た。しばらくしてから、どこからともなく黒子が現れて、床と机に散らばった霊子水晶の破片を綺麗に掃除した。
 やがて掃除が終わると、黒子はクリスが去ったドアに向かってつぶやいた。
「どうしてあなたは、呪術研究に手を染めたんですか……?」
 その問いに答える者もなく、黒子はどこへともなく立ち去った。

<3>

 ふらふらと階段を降りて、二階と一階の間の踊り場に足を踏み入れた時、ふと人影が目に入った。
 誰かいるのかと思って見ると、そこには姿見があった。
 全身を見る事のできる大型の鏡に映った自分の顔は、頬の一部だけ色が変わってまだら模様になっていた。それを見た時、背筋にぞわりとした物を感じた。その感触に触発されるように、さっきの織姫の言葉が耳に蘇った。

『今のあなたはルドルフ・シュトックハウゼンとインケンマンザイをしてる時と同じ顔をしています!』

 クリスは弾かれたように駆け出すと、洗面室に飛び込んだ。
 蛇口を全開にひねると、髪や服が濡れるのも構わずにただ顔を洗った。
 勢いよく流れ出る水を両手で受けては顔に叩きつける。機械的にただそれだけを繰り返した。
 水の音が耳をふさぎ、頭の芯が真っ白になったが、織姫の声はどこまでも追いかけてきた。

『今のあなたはルドルフ・シュトックハウゼンとインケンマンザイをしてる時と同じ顔をしています!』

『ルドルフ・シュトックハウゼンとインケンマンザイをしてる時と同じ顔をしています!』

『ルドルフ・シュトックハウゼンと同じ顔をしています!』

 自分は。
 みんなをあの男と同列にまで貶めていたのだ。

 襲い来る吐き気を必死にこらえながら、肌を刺すような冷たい水をただひたすら顔にぶつけた。
 
 どのくらい時間が経ったのか、クリスはようやく顔を上げると、鏡に映った自分の顔を改めて見た。
 そこに映った顔にまだら模様はなくなっていたが、お世辞にもいい顔色だとは言えなかった。
 クリスは軽く苦笑すると、鏡に映った自分の顔にそっと触れた。
「ひどい顔だな……」
「まったくね」
 掛けられた声に振り返ると、タオルを持ったかえでが悲しそうに立っていた。
 そんなかえでを、あきれたように見やった。
「どうしてあなたがそんな顔をするんだ?」
「あなたを見てるといたたまれなくなるからよ」
 そう言うと、クリスにタオルを渡した。クリスはタオルを顔に当てると、出しっぱなしの蛇口を閉めるかえでの足元に座りこんだ。
「……ごめん。かえでさん。私は迷惑ばかりかけて……」
「迷惑だ、なんて思ったら、最初から帝撃に招き入れたりしないわ。それは米田司令も同じ気持ちよ」
 そう言うと、かえでは窓から中庭を見た。見下ろす先では大神とレ二とアイリスが、白犬にえさをあげるために中庭に入ってきたところだった。
 時刻は十一時半を回り、白犬は三人の来訪にしっぽを振って喜んでいた。
 見下ろすかえでの視線には気付かず、三人は何か話しながら白犬に近づき、笑っていた。
「帝劇に来てから、レ二は変わったわ。よく笑うようになったし、他人に対して心を開くようになった。以前のあの子では受け止められなかった事も、今なら大丈夫なはずよ」
「……」
 クリスは動かない。ただじっとタオルに顔をうずめたまま、かえでの言葉を聞いていた。
「あなたはよく頑張っているわ、クリス。それは私がよく知っている。その努力を、もう少し違う方向へ向けてみないかしら?」
「……」
 かえでは振り返った。そこには洗面台の足元でまだ顔を上げられないクリスが一人うずくまっていた。
「……こんな言い方、おこがましいかも知れないけど、私はあなたの理解者でありたい。あなたの力になりたいの。私に、力を貸させてちょうだい」
「……」
 一言もしゃべらないクリスの肩に手をかけて、かえでは優しく言った。
「……なんて、本当は、あなたのためじゃないわね。あなたを見ていると、姉を思い出すの。私たち姉妹は、結局解かり合う事のないまま終わってしまった。私は姉さんを理解しようとは思わなかったし、自分が「代え」でしかいられないのは、姉さんのせいだってずっと思ってた。でも、姉さんが亡くなって、その仕事を全部受け継いで、ようやくあの人の気持ちをちょっとだけ理解できるようになって、私は知ったの。分かり合おうとしなかったのは、私の方だったんだって。もしもあなたとレ二が分かり合えたなら、姉さんに対して少しは償いになるんじゃないかって。……自己満足ね」
 クリスは顔を上げてかえでを見た。複雑そうな顔に微笑んで、かえではクリスを軽く抱きしめた。
「私たち姉妹は、もう終わってしまった。でも、あなたたちは違う。今、お互いにお互いを理解しようと努めているわ。どんなに空回ったって、その気持ちがあれば、分かり合える。本当に笑い合える日だって、そう遠くないはずよ。だから、ね? 私たちを信じて」
「……怖いんだ」
 クリスはかえでの目を覗きこんだ。さっきまでの激情は去り、感情はひどく凪いでいた。
「私は怖いんだ。かえでさん。花組もあいつも、過去も未来も何もかも全部」
「クリス……」
「……あなたは迷惑をかけてもいいと言った。お言葉に甘えさせてもらうから、覚悟してくれ」
 少しだけいつもの調子の戻ったクリスに、かえでは微笑んだ。ブルーメンブラッド事件の頃から、「信用」はされていた。でも今、少しだけ「信頼」してもらえた。ほんの小さな変化だったが、それが自分でも不思議なくらい嬉しかった。
「ええ。いつでもいらっしゃい」
 かえでの言葉に、クリスは少しだけ笑った。


<4>

 昼前、大神はアイリスとレ二と一緒に帝劇で飼っている白犬に餌をあげていた。
「おいしい? トルテ」
「わん!」
「いーっぱいあるから、たーくさん食べてね」
「わんわん!」
 アイリスの言葉が分かるのか、犬は律儀に返事をした。
「フント、だいぶ大きくなったね。帝劇に来た時にはもっと小さかったのに」
「あれからもう三ヶ月経つからね」
 白い犬が大神に拾われて帝劇に来た時、犬の名前をどうするかサロンで会議が開かれたが、結局みんな自分の名前で呼びたがり、収拾がつかなくなったためにそれぞれが好きな名前で呼ぶようになった。
 犬のしつけ的には名前が統一しないのは良くない事だったが、この白犬は頭がとても良く「自分に向かって言われる親しみを込めた単語」が自分の名前だと了解しているらしく、どんな名前で呼ばれても混乱する事なく反応した。
 大神はというと、自分が名前を付けるとそれが公式の名前になりそうだという理由で、あえて名前を付けずに「お前」と呼んでいた。すると、白犬的には大神に付けられた名前は「お前」だと思いこんだらしく、大神が「お前」と呼ぶとしっぽを振って喜んだ。
 一人で、または三人以上一緒にいる時には白犬を「お前」とか「こいつ」とかと呼ぶ割には、誰かと二人でいる時にはその人が付けた名前で呼ぶため、白犬を一番混乱させているのは間違いなく大神だった。
 花組隊員だけでなく、加山も「海」という名前を付けた事から、かえでや帝劇三人娘、米田支配人までそれぞれの名前を付けていた。
 臨時で帝劇へやってきたつぼみも名前を付けているため、この白犬に名前を付けるのは帝劇では親交の証のようになっていた。
 レ二は白犬の背中をなでながら、ぽつりともらした。
「隊長……。フントの名前、クリスにも付けてもらおう」
「え? レ二、それって……」
 アイリスがレ二の顔を覗き込んだ。
「クリスだけ名前を付けないのは、不自然だ」
 微笑むレ二に、アイリスは笑顔で頷いた。
「うん! そうしようよ!」
「アイリス……アイリスはクリスの事、怖くないの?」
「……ほんとはまだ、ちょっとだけ。でもこわがらないってきめたの」
 アイリスは少し上目遣いにレ二を見た。
「それにクリスはきっとやさしいひとだよ。レ二にひどいことをしたけど、でも……」
「うん。……最近少しだけ、ボクもそう思う」
「キャハッ! レ二、だーいすき!」
 満面の笑みを浮かべたアイリスはレ二にだきついた。そんなアイリスに照れたようにレ二は少し微笑んだが、ふと何かの気配を感じて振りかえった。
 そこにはクリスがいた。ベンチに座り、化粧を落としてただ天を仰ぐその顔色はお世辞にもいいとは言えなかったが、外へ出てくるだけの元気が戻ったようだった。その手にはしっかりと小柄が握られていた。
「ちょうどいい。今決めてもらおう」
 そう言うと、三人はえさを食べ終わった白犬を連れてクリスに話しかけた。
「クリスくん。何をしているんだい?」
「空を見てた」
 そう言って視線を地上に戻したが、レ二の顔を見た途端にあからさまに嫌な顔をした。視線をそらして立ちあがり、背中を向けて歩き出そうとした。
「ど、どうしたんだい?」
「そろそろ部屋へ戻るよ」
 そう言って立ち去りかけたクリスを、レ二がさえぎった。
「ボクが出ていく。クリスはボクにいてほしくないみたいだから。隊長、アイリス。さっきの件はよろしく」
「あ、レ二!」
 レ二は大神の制止も聞かず、中庭を後にした。クリスは立ち去るレ二にほっとしたようにため息をつくと、改めてベンチへと座った。アイリスはそんなクリスの態度にほっぺたをぷう、とふくらませた。
「んもう! クリスぅ、あんな風にしたら、レ二かわいそうだよ。せっかく仲良くなりかけてたのにぃ」
「迷惑だ」
 アイリスの抗議を一言で切り捨てると、クリスは空に視線を戻した。
 秋の空は高く澄み、白ひとつない青が帝劇の建物にさえぎられるまでずっと続いていた。
 ただ黙って空を見上げる姿は、どこか寂しげな気配を漂わせていた。
「クリスくん。どうしたんだい? 何か悩みでもあるのかい?」
「プライバシーに関わるから、相談はよしておく。……何か用かい?」
 視線を空から地上へ戻したクリスに、大神はアイリスが連れている白い犬を指差した。白い犬はきょとんとして茶色の目をクリスにむけていた。
「こいつに、名前を付けてやってほしいんだ」
「わん」
「その犬に? もう名前くらいあるだろう?」
「みんな一つずつ名前を付けているんだ。クリスくんにも名付け親になってほしいって、レ二が言っていたんだ」
「レ二が?」
「そうだよ。それなのに、あーんな風に追い出すんだもん」
 アイリスの抗議の声に微笑みを返して、クリスは白犬をなでて即答した。
「ユキウサギ」
「ユ、ユキウサギ? クリスくん、その言葉の意味を知っているかい?」
「雪で作ったウサギだろう?」
「えーっ」
 アイリスは大きな目をますます大きくした。
 花組のみんなも、結構好き勝手に名付けをしているが、犬に兎と名づけたのは初めてだった。
「クリス、犬にウサギって名前付けるの?」
「いけない?」
「ううん! おもしろくていい名前だと思うよ。ね、お兄ちゃん」
「そ、そうだね。個性的でいいね。……どうしてユキウサギなのか、聞いてもいいかい?」
「この子はユキウサギだから」
「はは……」
 答えになっていない答えに、大神は苦笑した。


<5>

 それからしばらくして、大神は屋根裏部屋のドアを叩いた。さっき中庭で会った時には朝よりも余裕を取り戻してはいたが、昨日帰って来てからは明らかに元気がなかった。そんな顔をする仲間を、放っておける大神ではなかった。
「クリスくん、いるかい?」
「ち、ちょっと待ってくれ。今着替え中だから」
 少し焦ったような声がした。しばらくしてから扉が開いてクリスが顔を出した。
 クリスは大神の顔を見ると、少しほっとしたように息をついた。
「何か用か?」
「ああ。少し話をしようと思ってね。入っていいかい?」
「どうぞ」
 招き入れられて、大神は部屋に入った。
 四度目に入ったその部屋は、過去に入った時とはとはうって変わってきちんと整頓され、壁を所狭しと埋めていたメモ用紙も見られなかった。
 部屋が掃除されているのはいい事だったが、その部屋からは生活感というものがごっそりとはぎとられていた。ただ一つ、鏡の前の床に包帯が落ちていたのが不自然だった。
「クリスくん、これは?」
 大神が包帯を拾い上げるより早く包帯を拾い上げ、ごみ箱へ押し込んだ。
「なんでもない。それより、何の用だ?」
 クリスは椅子に座りながら質問した。
 何故そこに包帯が落ちていたのか不思議だったが、この様子だとはぐらかされるばかりで答えないだろう。とりあえず本題に入る事にした。
「クリスくん。昨日から本当に元気がないけど、どうしたんだい?」
 ストレートな問いに、クリスは視線を逸らせた。
「別に。大神少尉には関係ない」
「そうかもしれない。けど、何か力になってあげたいんだ。辛い事があったら、聞かせてほしい。昨日、何があったんだい?」
 クリスはため息をついた。一つ首を振ると、大神をまじまじと見詰めた。
「帝劇へ来てからずっと思っていたんだが、大神少尉は本当におせっかいだな。私のことなんて放っておけばよかったじゃないか。私はあなたの指揮下にはないし、一ヶ月足らずで消える。米田支配人やかえでさんは何か言うだろうが、私の方から言っておこうと思っていたのに、何故」
 大神は、クリスの問いに真剣に答えた。
「俺は、この帝劇にいるみんなの内の誰かが辛い顔をしていたり、元気がなかったりするのが嫌なんだ。みんなが笑顔でいてくれると、俺も笑顔でいられるから。だから、クリスくんにも笑顔でいてもらいたい。きみはもう、立派な帝劇の一員だ。みんなだってそう思っているし、レ二も今必死にきみを理解しようとしている。その気持ちを、受け取って欲しい」
「大神少尉……」
 クリスは視線を外して少しうつむくと、ぽつりと語った。
「損な性分だな、それは。だが、残念だったな。どうやら、私が帝劇にいられる時間は、もういくらもない」
「ええっ!? そうなのかい?」
「どうやらそうらしい」
 クリスは立ちあがると、窓辺に座って手を伸ばした。ばい煙でかすんだ帝都の町並みは、帝劇の屋根裏から見るとまるでフィギュアのように小さくて、手を伸ばせば触れられるんじゃないか、そんな気がした。
 だがもちろん、実際の建物や人の波はもっとずっと大きく、その手に掴むのは不可能な事だった。
 クリスは手を下ろして、何も言わずに街並みを見下ろした。
 帝都は秋の風を一身に浴びて、セピア色に輝いていた。通りを歩く人の波も秋色の装いで、思い思いの場所へ歩いていった。そんな流れを、クリスはただ見詰めていた。
「私は、……母さんが愛したこの街に来れただけでもう十分だ。それ以上は望んではいけなかったのに、あの朝、差し出された手を取ったから今、こんなに辛い」
「クリスくん……」
 心配そうな声を上げる大神に、クリスは振りかえって苦い微笑みを返した。
「そんな声を出すな、大神少尉。この二週間、楽しかった。こんなに楽しかったのは、八年ぶりだよ。レ二を、助けてくれて、ありがとう」
 そう言って微笑んだクリスは、机の上のバッグを手に取るとドアへと向かった。
 大神は、立ち去ろうとするクリスの左腕を思わず掴んだ。このまま行かせたら、もう会えないような予感がした。さっきの言葉で別れるのはさみしすぎる。
「待ってくれ、クリスくん。まだ帝劇にいられるように……」
 握った手に違和感を感じて開くと、そこにはべったりと血がついていた。
「クリスくん!」
 クリスは痛みに声が出ないように、左腕をかばって床に座りこんだ。


<6>

 すぐに医務室へと運ばれ、クリスはマリアの応急処置を受けた。
 大神が掴んだ左腕の上腕部に、腕を横に切り裂いたような傷があり、数針縫われたその隙間から血が流れ出していた。
 さっきの包帯は、このケガを保護していたのだろう。だが、そんな事が今分かっても仕方のない事だった。
 剥き出しになったクリスの腕には、複雑な文様が刺青されていて、傷はそれを横切るようについていた。それは、以前クリスの部屋で見た魔法陣に酷似していて、何か呪術的な意味でもあるものなのだろう。
 マリアは少し眉をひそめると、手早く処置を施した。
「すまない、クリスくん。怪我してるとは気付かなくて……」
 詫びる大神に、クリスは首を振った。
「いいや。何も言わなかった私が悪いんだし」
「それにしても、どこでこんな怪我をしたの?」
 マリアの問いに、クリスは答えた。まるで何でもない事のように淡々と語る口調からは、感情と言うものが欠け落ちていた。
「昨日、散歩している途中、土手で転んだんだ。その時、尖った木の枝でこすってしまって……」
「そうなの? 私には銃創のように見えるけど」
「いいっ? それはどういう意味だい? マリア」
 大神の問いには答えず、マリアの目が意味深に輝いた。さぐるような視線をかわして、クリスはうつむいた。
「どうして私が銃で撃たれなければならないんだ? 本当に、転んで怪我しただけだよ」
「そう。じゃ、そういう事にしておくわね」
 そう言うと、マリアは手早く包帯を巻きかけたが、ふと顔を上げると天井の一点を凝視した。
「隊長。視線を感じませんか?」
「視線?」
 大神は顔を上げて、マリアと同じ天井を見上げた。確かに、そこからは何らかの視線があり、じっとこちらを見ていた。
 やがて視線が途切れて気配が消えた。あの視線は、大神に向けられたものではない。怪訝そうな顔を見るとマリアに向けられたものでもないだろう。
 大神はクリスを見た。マリアもまたクリスを見た。クリスは一人無表情に、医務室の壁にかかったカレンダーを見ていた。
「クリスさん、あなた……」
 マリアが問いかけた時、階段の方からばたばたと足音が響き、賑やかにドアが開いて花組のみんなが駆けこんだ。
「大丈夫ですか? クリスさん」
 息を切らせるさくらの隣で、紅蘭が労わるようにクリスの肩を叩いた。
「かえではんに聞いたけど、昨日散歩の途中でケガしたんやて? せやから元気なかったんか」
「クリスぅ。さっきは、ケガが痛かったから、きげんが悪かったんだね? アイリス、ひどい事を言っちゃったね」
 クリスの膝にジャンポールを乗せて心配そうにのぞき込むアイリスの後ろから織姫が呆れたように肩をすくめながら明るく言った。
「アナタも意外とドジですね。でも、命に別状がない分、感謝するがいいでーす」
「まったく、クリスさんをお一人で屋外へお出しするなんて、横浜研究所の警備態勢をもっとしっかりしなくてはなりませんわね」
 腹立たしげに腰に手をやるすみれの隣で、カンナが優しく言った。
「クリスよう、痛けりゃ痛いって、はっきり言わねえとな」
「のぼせたりケガをしたり、クリスはもっと自己管理をしっかりするべきだ」
 冷静なレ二の言葉にマリアは微笑んで、治療を終わらせた。
「そうね。……処置はしたけど、わたしは医者じゃないから一度専門の外科医に診てもらったほうがいいわ」
「みんな……」
 クリスは目を見開いた。言葉はそれぞれ違うが、自分を心配してくれている気持ちが嬉しかった。自分を仲間として受け入れたという大神の言葉が、実感を持って心によみがえった。
 そんなクリスを、大神ははげました。
「ほら。みんな心配してくれているだろう? 例え離れたって、俺たちはみんな仲間だよ」
 大神の言葉に、紅蘭が疑問を投げかけた。
「離れるって言うたかて、あと二週間はありますやろ?」
「それが、もっと早まるって」
 大神の言葉に、紅蘭は飛び上がって驚いた。せっかく瀬潟達とも和解の糸口が見えていたのに、ここで帰ってしまっては元も子もない。
「なんやて? そらうちも初耳やで。……ひょっとして、今回迷子になってケガした事が原因なんか?」
 クリスは困ったように軽く頷いた。
 カンナは猛然と怒った。
「なんだそりゃ? そんなふざけた理由で期間を短くするってか? 冗談じゃねえ! ただでさえあと二週間しかいられねえってのに、そんな理由で追い返されるなんてスジが通らねえぜ! あたい、米田支配人に抗議してやる!」
「うちも行きます! 今抜けられたら、秘密プロジェクトにも支障をきたす言うたら折れるはずやで!」
「カンナ、紅蘭! そんな事を言う必要はない!」
 クリスの制止も聞かず、カンナと紅蘭はすごい勢いで階段を駆け上がった。
 カンナの声が支配人室前まで遠ざかって、ドアの閉まる音と一緒に消えた。
「まったく、騒がしいですこと」
 あきれたように言って振りかえったすみれは、クリスを見てぎょっとした。
 クリスはうつむいて、声も上げずに泣いていた。透明な涙は止まる事なく流れ出し、頬を伝って廊下に落ちた。
「クリス、痛いの?」
「痛み止めが効いているはずですけど……」
 口々に心配する声に、クリスは絞り出すような声で答えた。
「……痛いんだ」
「え?」
「痛いんだよ」
 クリスはそれだけ言うと、涙も拭かずに泣きつづけた。


<7>

 米田支配人の指示で、花組全員とクリスがサロンに集められた。全員の顔が揃ったのを確認すると、米田はおごそかに宣言した。
「単刀直入に言うが、俺はクリスを今独逸へ返すつもりはねえ。帰すとしても、昨日迷子になった事が理由じゃねえ。任期が終わったから帰すんだ」
 きっぱりとした言葉がサロンに響き、紅蘭はほっとしたように胸をなで下ろした。
「クリスが何を言ったかは、まあ大体想像はつく。……お前さんはまだ、昨日の事を気にしてるのか?」
 クリスは無表情のまま答えない。その顔からは涙はきれいに消え失せ、今クリスに会った人はついさっきまで泣いていた事に気付かないだろう。
 目は赤くならず、はれぼったくもならず、本当にいつもと変わらないように見えた。
 そんなクリスに、米田はいたわるようにいった。
「気にする事ぁねえよ。面倒な事ぁ、俺が全部片付けてやるから。だがよう、お前さん、そろそろ例の事を俺からこいつらに話させちゃもらえねえか?」
「例の事って、何ですか?」
「何でもない」
 さくらの質問に即答するクリスに、カンナは抗議の声をあげた。
「何でもねえじゃねえだろ? お前さんはそうやって、全部秘密にしてよう。あんたはそれで満足かもしれねえけどよ、あたいたちの胸にはな、こう、しめっぽい物が残るんだぜ? 何があるのかは知らねえけどよ、遠慮せずに言ってみなって」
「……」
 優しいカンナの言葉にも黙り込むクリスに、米田が語りかけた。
「なあ、クリスよ。お前さんの気持ちはよく分かるぜ。でもよ、ここにいる大神たちは、まだ『見知らぬ他人』かい? そろそろこいつらを信じてみねえか?」
 米田の言葉に、クリスは瞑目して考えた。しばらく何か思い悩むように黙っていたが、やがて意を決したように目を見開いて米田に言った。
「明日の夜。……明日の夜、全て話します。今はまだ、心の準備ができないんです。明日の夜に、私の口から、全部話します。だから、それまでは何も聞かないで欲しい」
 クリスは静かに頭を下げた。


<8>

 サロンでの会議(?)の後、中庭の前を通りかかった大神は、ユキウサギと遊んでいるクリスを見かけた。
「やあ、ユキウサギ」
 白い毛並みをなでてやりながら、大神はしゃがみこんだ。ユキウサギは嬉しそうに吠えると、大神にじゃれついた。
「大神少尉」
 クリスはそんなユキウサギを愛しそうに見ていたが、ふと表情を曇らせた。
「この子の名前だけど……ユキウサギは、やめようと思うんだ」
「どうしてだい? おもしろい名前だと思うけど……」
「縁起が悪い」
「縁起って……どうしてなのか、聞いてもいいかい?」
 クリスは少し考えて、ぽつりと語り始めた。
「ユキウサギは、わたしが昔飼っていた犬の名前だ。この子みたいな白い毛並みをしていて、とてもかわいがっていたんだ」
 クリスは少し遠い目をした。過去の情景を思い出しているのだろう、少し現実と離れた場所を見ながら言った。
「あの子を見つけたのは、初雪が降った日だった。私は一人で雪遊びをしていると、道路の片隅が一ヵ所だけ盛り上がっていた。近寄るとそれは白い子犬で、赤い目がこちらを見ていたんだ。耳がちょっと垂れていて、母から教わった日本のユキウサギという雪の人形に、とてもよく似ていた」
「だからユキウサギなんだね」
「ああ。私は家に連れて帰って、こごえていたあの子を一生懸命看病した。そのかいあってユキウサギは一命をとりとめた。それから、私の家族になったんだ」
 クリスはユキウサギの頭をなでてやりながらつぶやいた。
「でもある日、散歩の途中突っ込んできた蒸気自動車に跳ねられて、死んでしまった」
「それは……その……」
 気遣うような大神の声に、クリスは首を振った。
「いいんだ。昔の話だし。私は母と一緒にユキウサギのお墓を作ってあげた。花を供えて、日が暮れて帰る時間になっても、私は泣いていた。泣いたら、ユキウサギが私をなぐさめに来てくれるって思ったんだ」
「……」
「帰ろうとしない私に、母はこう聞いた。『クリス、生き物はいつ死ぬと思う?』……大神少尉はどう思う?」
 大神は少し考えて答えた。それにしても、大人でも回答にとまどうような哲学的な質問を子供にするものだと思った。
「寿命が尽きた時……かな?」
「そうかもしれないな。――蒸気自動車に轢かれた時だと答える私に、母は『生き物は忘れられた時に初めて死ぬんだ』と答えた。その人の事を生きている人間が忘れない限り、心の中でずっと生き続けるって。だから、私が忘れなければユキウサギは生きている。いつまでも泣いていたら、あの子も悲しむよ、って」
 ふかふかの毛並みをなでるクリスは、さみしそうな微笑みを浮かべていた。
「この子を初めて見たとき、ユキウサギがいると思った。だから思わずユキウサギって名前を付けたけれど、同一視されてはこの子も迷惑だよな。大体、ずっと前に死んでしまって、もうそこにいるはずがないのにね」
 クリスは頭を振って、大神に微笑みかけた。
「すまないな。こんな話をして。幸い、この子にはたくさんの名前があるから、一つくらいなくたっていいだろう。この子をユキウサギって呼ぶのはやめて欲しい」
「確かに、この子はクリスくんが失ったユキウサギじゃない。でも、こいつには名前が必要だ。どれか一つでも欠けたらいけないんだ」
「……」
 犬はしばらくの間クリスを見上げていたが、やがて中庭の奥へと駆けていった。そんな子犬を、クリスはまぶしそうに見詰めていた。
「今すぐじゃなくてもいいから、新しい名前を付けてやってくれな
いか?」
「考えておく」


<9>

 自室から廊下に出た途端、ひんやりとした空気が流れ込んできて、大神は思わず肩をすくめた。十月に入ってからというもの、風が一段と冷たくなり、夜の見回りには厳しい季節がやってこようとしてた。
 まずは一階から見て回ろうと階段へ向かった大神の前に、ふわりと白い影がよぎった。
 さつきだった。
 久しぶりに姿を現したさつきは、今まで目撃された時とは違い、白い体は向こう側の景色が透けて見えるほど薄く、あるかなしかの風にふわりとゆれた。
「さつきさんですね? どうしたんですか?」
 さつきは何も言わず、辛そうな表情を浮かべるとテラスの方向を指差して消えた。
 大神は振り返ると、手に持った懐中電灯の明かりをその方向へ向けた。人の気配は感じられず、廊下にはただ冷気が漂っているだけだが、あの先に何かあるに違いなかった。
 大神はテラスへ向かった。


 テラスの前まで来ると、そこにはクリスの姿があった。窓をぴったりと閉めて、テラスの手すりにもたれかかって銀座の街を一人で見ていた。
 窓を開けようと手を掛けた瞬間、静電気のような衝撃が指先を走り、大神は思わず手を引いた。
「痛っ! ……静電気かな?」
 大神は改めてノブに手を伸ばすと、今度は難なく開いた。
 窓を開けた瞬間、つんとした甘い臭いが鼻についた。ワサビの中に蜂蜜を混ぜたような、かいでいるだけで少し気分が悪くなってくるようなにおいだった。
「クリスくん。なにをしてるんだい?」
「喫煙」
 素っ気なく答えたその指から、火のついたタバコが緑色の煙を吐き出していた。消えそうなほど細い月が、星の光をいっそう引き立たせる中、テラスによりかかってぼんやりと口に運んでいた。
「こ、個性的なタバコだね」
「はるばる独逸から持ち込んだ特注品だ。臭いは変だが、慣れるとくせになる。……それにしてもよく入れたな。鍵を掛けておいたんだが。さすがは花組の隊長さんだ」
「? 何の事だい?」
「何でもないよ」
 そう言うと、クリスは緑煙を吐き出した。例のあまり好きになれない臭いが辺りに充満して、大神は思わずせき込んだ。
「煙がいやなら中に入っててくれ。もうしばらくしたら私も行く」
 手すりに置かれた携帯灰皿には、もうすでに何本も吸殻が押し付けられているのを見て、大神は眉をひそめた。
「こんなに吸ったら、体に良くないぞ」
「いいじゃないか。帝劇内では吸っていないし、こうして灰皿も持参している。吸殻だって自分で処理するし、誰にも迷惑はかけないつもりだが……」
「そういう問題じゃない! こんなに一度に吸ったら体に良くないって言っているんだ」
 大神はクリスの手から火のついたタバコをもぎとると、灰皿の中に押し込んだ。クリスは驚いたようにまばたきした。
「別に隊長さんの体じゃない」
「確かにそうかもしれない。でも、クリス君はもう少し自分を大切にするべきだ」
「大切さ」
 クリスはそう言うが、その言葉はにわかには信じられなかった。案の定、手すりに置かれていた袋を手に取ると、最後の一本を口にくわえた。
「クリス君! もうよすんだ!」
 このタバコももぎとると、大神は思い切り握りつぶした。
 火をつけようと構えた手が宙に浮き、クリスは大神をねめつけた。
「大神少尉……」
 抗議の視線でにらみつけられて、大神は少し焦った。
「ご、ごめん。どうしても好きになれなくて、このタバコ」
「いや、いいさ。臭いが体質に合わなかったんだろう。……後で入浴する事をおすすめするよ」
 そう言うと、クリスはすっと銀座の町の一点を指差した。
「あそこに……」
「え?」
 目をこらしても何も見えない。もっとよく見ようとテラスから身を乗り出した時、かすかなマッチの音と共に例の臭いが漂ってきた。
 振り返ると、案の定懐から取り出した新しいタバコに火をつけて、緑の煙を吐き出すクリスと目が合った。タバコを人差し指と中指で挟んで、同じ手の親指で額をかきながら、いたずら好きな目で笑った。
「クリス君……」
「あと、一本だけ」


 自称「最後の一本」をふかすクリスをその場に残し、大神は見まわりを続けるためにホールへと戻った。
 緑のタバコの匂いが満ちたテラスを離れると、ホールの空気の方がおいしく感じられるのが不思議だった。
「いよう大神ぃ。星夜の晩はいいなぁ」
 声を掛けられ振り返ると、案の定そこには白いスーツ姿の加山の姿があった。
「加山! 相変わらず神出鬼没だな」
「それが俺の身上ってやつさ。それよりも、何を持ってるんだ?」
 加山に言われて、大神は自分がタバコを握り締めているのを思い出した。緑色の細長いタバコは、折れてひしゃげて中の粉末を吐き出していた。
「さっきクリス君がテラスで吸ってたんだ」
 大神はテラスでの一部始終を加山に話した。まじめなのか不真面目なのか良くわからない態度で聞いていた加山は、ふいと手を出した。
「加山?」
「そのタバコ、俺にくれないか?」
「それは構わないけど……どうしてこんなものを?」
 タバコを受け取った加山は、あいまいな笑みを浮かべた。
「独逸直輸入のタバコという物に興味があるだけさ。かの国は医療大国だし。じゃあな大神。見まわりしっかりやれよ」
「加山!」
 声を掛けた時にはすでに姿はなかった
「いつもいつも、なんなんだ? あいつは」
 いつものつぶやきは、やはり誰に聞かれる事もなく空気中に消えた。


<10>

 見まわりを済ませて自室に戻ると、ノックの音がした。
「はい、どうぞ」
 ドアを開けると、レ二が立っていた。
 大神が姿を現すなり、レ二は少し顔をしかめた。
「嫌な匂いがする」
「え? ああ。さっきテラスでクリスくんがタバコを吸ってたんだ。その時の臭いがついたかな?」
 大神は袖の臭いをかいだ。鼻が麻痺しているのか、それほどにおいはしなかった。
「それより、どうしたんだい? こんな夜更けに」
「隊長。少し、時間いい?」
「いいけど、そこだと冷えないかい?」
 レ二は黙って足元を指差した。レ二は、緑色の怪獣の足のヌイグルミスリッパを履いていた。
 黄色い爪の一本一本がていねいに作られていて、足の裏にはごていねいに肉球までついていた。このユーモラスなスリッパは、もこもこの生地の中に綿がふんだんに入っているようで、見た目にもあったかそうだった。
 いつもの私服に足元は怪獣、というアンバランスさが、なかなか笑えた。
「ど、どうしたんだい? それ」
「アイリスがくれた。冬は足元が冷えるからって」
「愉快なスリッパだね」
「機能は悪くないから愛用している。それよりも、隊長」
 レ二は姿勢を正した。大神をまっすぐ見ると、自分の気持ちを語り始めた。
「ボクは、クリスが嫌いになれない。帝都へ来てからのクリスは、今までボクが感じていた感情を全部ひっくり返したんだ。クリスという人間を見たら、好意的に感じる。でも……」
 レ二は言葉をにごした。クリスはヴァックストゥームを推進して、長い間レ二の心を凍てつかせる原因を作った。八歳以前の記憶をなくしてしまうほどひどい事をした加害者だと思うと、素直に受け入れられないのだろう。
 大神は、レ二の肩を叩いた。
「レ二の受けた苦しみを、俺は本当の意味で理解する事はできない。心の傷は、最後には自分で癒さなければいけないと思う。でも、俺たちは帝都で出会った。帝都で出会って一緒に戦って、劇をして、かけがえのない仲間になった。それじゃあ、いけないかい?」
「隊長……」
「過去はどうする事もできない。でも、未来は変えていける。俺はそう思うよ」
 大神の力強い言葉に、レ二は微笑んだ。今まで心の中でもやもやしていた物が形になって、霧の中で迷っていた時に道しるべを与えられたような気がした。
「ありがとう、隊長。……ボクはもう少し、考えてみるよ」
「ああ。だけど、あまり遅くならないようにね」
「うん。それじゃおやすみ、隊長」
 去っていくレ二の後ろ姿を見送って、大神は肩の荷が一つ降りたような気がした。
 長い間すれちがっていたけれど、きっと分かり合えるはずだった。
「後は、クリスくんの話か。どんな事があっても、俺はみんなを守る。それしかできないからな」


<11>

 翌日、騒がしい声を聞き、大神は二階の窓から中庭を見下ろした。
 そこでは、かえでとクリスが大声で口論しているのが見えた。
「クリス! あなた、自分が何をしたのか分かっているの? 転んでケガをした事よりもよっぽどいけない事だわ」
「自由時間に私が何をしようが勝手だろう? 帝劇内なら好きなように動いていいと言ったのは、かえでさんじゃないのか?」
「そうだけど、あのタバコは持ち込み申請の時には無かったものよね? 残りのタバコを出しなさい。これは命令よ」
 命令の一言にクリスはかっとなって、かんしゃくを起こした子供のように手に持っていた荷物をかえでに投げつけた。
 手提げの中に入っていた小物が辺りに散らばり、芝生の上に落ちた。
「命令、禁止、制約、強制! 何故だ? どうして私だけがこんな目に遭わなければならない? どうして、どうして私だけが!」
 叫んだクリスの周りの空気が変わった。
 異常なほどの霊力が渦巻き、風に舞った落ち葉がはぜて消えた。
 帝劇に住むカラスが騒ぎ出し、一斉に木から飛び立った。
 周囲に散らばった小物がふわりと宙に浮き、大神は直感的に危険を悟った。
 大神は急いで階下へ向かった。これ以上クリスを放っておいたら、大変な事になるのは確実だった。
「大神さん! クリスさんが……」
 途中さくらとすれ違った。さくらも一部始終を見ていたのだろう。
 不安の色を隠せなかった。
「ああ。俺も窓から見ていた。さくらくんは、みんなに窓から離れるように言ってくれ」
「はい」
 個室のある方へ駆け出すさくらを見送って、大神は中庭を見た。
 妖力、と呼んでいいほど濃密な霊力にひるまず、かえでは語りかけた。
「クリス、お願いだからあなたが八年間背負ってきた荷物を、私たちに分けて頂戴!」
「そんな事できるか! ……お前たちに何が分かる? 何度も何度も! 期待して傷つけて失望して恨まれて! そんなのはもうたくさんなんだ!」
 クリスは叫んだ。その叫び声に応えるように中庭に面したガラスにヒビが入って、一枚残らず割れた。中庭に降り注いだガラスの破片がかえでとクリスの方にも向かったが、その全てがクリスの霊力によって粉々に砕かれた。
 クリスの霊力が高いのは分かっていた事だが、これほどの霊力は異常だった。
 大神は中庭に辿りついたが、その場の異様な霊圧に近づく事さえできず、声をかけるのがやっとだった。
「クリスくん、落ち着くんだ!」
 大神は声を張り上げたが、まったく届いていないかのように、クリスはかえでにのみ意識を集中していた。
 かえでは一歩踏み出した。かまいたち状の霊力がいくつかかえでを切り裂き、鮮血が辺りに散ったが、一切構わずに語りかけた。
「私を信じて」
 まっすぐな視線を受け止めて、クリスは動揺した。かえでは更に一歩歩みより、それによってまた傷ついた。
「あなたが背負った荷物を、私にも背負わせてほしいの」
「来るな! 霊力のコントロールが効かないんだ!」
 クリスの言葉を無視して、かえでは叫んだ。
「どうして何も言ってくれなかったの? 私はそんなに頼りにならないの? 私はずっと、あなたに信頼してほしかったの! 姉さん!」
 かえでは更に歩み寄り、クリスを抱きしめた。ひどくおびえる細い肩を抱き寄せると、耳元で囁いた。
「お願い。一人で背負い込まないで」
 突然。
 今まで渦巻いていた霊力が消えた。宙に浮いた小物が地上に落ち、騒いでいたカラスが数羽舞い戻って来た。
 かえではゆっくりと離れると、クリスの目をのぞきこんだ。
「もう、大丈夫ね」
「荷物は……」
 クリスはかえでの目をのぞき込んだ。そこからは、さっきの狂気じみた色は消え失せ、静かな光がたたえられていた。
「荷物は、全部背負うか、全部降ろすか、どちらかしかないんだ。私は、あなたに全部を押し付けて、のうのうと生きていられるほど図太くはなれない。荷物が重くて、歩きにくい事を知っているから、余計にね」
「クリス……」
「おいおい。何の騒ぎだ? こりゃ」
 米田支配人が、かえでとクリスに話しかけた。頭をぽりぽりと掻きながらきらきら光る中庭のガラスを見ると、片方の眉を吊り上げた。
「私が……」
 クリスが何か言おうとするのをさえぎって、かえでが報告した。
「いいえ。何でもありません、米田支配人。少し、ケンカをしてしまっただけです。大人気ない事をしてしまいました」
 米田は、かえでの意思を汲み取ってにっと笑った。この事がクリスの霊力によって引き起こされた、という報告が賢人機関へ行くと、何かと面倒な事になるのは確実だった。
「そうかい。まぁ、女同士意見が対立する事もあらぁな。そういう事を繰り返して、仲良くなっていくもんだ」
 それだけ言うと、米田は支配人室へと帰っていった。
 クリスはその背中に声をかけた。
「米田支配人! ……」
 米田は振り返った。何か言いたいけれども言葉が見つからない様子のクリスを見ると、何も言わず、ただ少し微笑んで背を向けた。
 手をひらひらと振って去っていく米田の背中に、クリスはただ深く頭を下げた。


<12>

 騒動が一段落し、黒子が中庭と劇場内の掃除をしている間、花組とクリスは食堂でお茶をする事になった。
 紅蘭の発明品の蒸気掃除機「すいとるくん」が賑やかな音を立てている中、つぼみが紅茶を運んできた。
「騒がせてしまってすまない、みんな。特にかえでさんにはケガまでさせて……」
 開口一番、クリスは謝った。
 幸い、かえでの傷はどれもかすり傷で、アイリスが持ってきた救急箱で消毒するくらいで済んだ。
「いいのよ。私のケガなんて、かすり傷なんだから」
「ところで、一体何が原因なんですか? タバコがどうとか言っていましたが……」
 マリアがかえでに質問した。かえでは少し困ったような顔をすると、話し始めた。
「ゆうべ、クリスがタバコをすっているっていう報告を受けたの。それを受け取って調べてみたんだけど……」
 大神は、ゆうべの出来事を思い出した。加山が持っていったタバコは、かえでに渡ったのだ。
 レ二とクリスをちらっと見て、かえでは続けた。
「あれは、ブルーメンブラッドがヴァックストゥームの被験者に使った、通称「緑の薔薇(グリューネローゼ)」と呼ばれる、劇薬よ」
「劇薬ぅ!? なーんでそんな物騒なモンを持ってんだよ?」
「私が作ったからだよ」
 クリスは、何でもない事のようにあっさり答えた。
「私が作って、私が使った。私が持っていても不思議じゃないだろう」
「そ、それじゃおめぇ……」
 カンナは食って掛かりそうな勢いでクリスに迫ったが、そんなカンナをかえではさえぎって話を進めた。
「持ち込んでしまったものを今言っても仕方がないわ。……「緑の薔薇(グリューネローゼ)」は、使用者の霊力を高める事ができるの。その代わり、薬物で生み出された強制的な霊力だから、使用者に大きな負担をかけるわ。対処法は、できるだけ早くこれによって得られた霊力を吐き出させる事。「緑の薔薇(グリューネローゼ)」が体内に留まる時間が長ければ、それだけ危険の度合いも増すの」
「ねえクリス。ひょっとしてレ二もそれを使ったの? レ二はだいじょうぶだよね?」
 心配そうなアイリスに、クリスは安心させるように微笑んだ。
「ああ。レ二の場合、先天的に霊力が高いから「緑の薔薇(グリューネローゼ)」は逆効果だ」
「そう言って、更に霊力を高めようとする意見を退けたのはクリスよ」
 かえでの言葉に、レ二は一瞬クリスを見た。クリスは相変わらずの無表情で、かえでの話を聞いていた。
「そうなんだ。じゃあ、クリスくんがレ二を助けたって事になるね」
 大神の言葉に、クリスはぷいとそっぽをむいた。そんな彼女を、
レ二は冷静に追求した。
「クリス。どうしてあんな物を使ったりしたの? 理由があるなら教えて」
「それは……」
 言いかけたところに、黒子がかえでに何かささやいた。
「中庭と帝劇内の清掃が終わったそうよ。それで、クリスにバッグの中身を確認してほしいって」
「ああ」
 クリスはバッグを受け取り、中を開いた。
 ごそごそとしばらく漁ると、ふいに服の内ポケットをさぐった。
 ぱたぱたと全身を叩いて何かを探すと、突然黒子につかみかかった。
「小柄は? 私の小柄はどこだ?」
 黒子は、あわててそれだけです、と言った。
「そんな! ……じゃあ、どこかで見落としているんだ。探してくる!」
「クリスくん!」
 中庭に走っていったクリスを、大神は追いかけた。


<13>

 ひどく取り乱して落ち着かない様子で中庭を片っ端から荒らすクリスを見かねて、花組全員でもう一度中庭を探す事になった。
 かえでは黒子から何やら報告を受けると、仕事があるからと言ってそのまま出て行った。これからどこかへ行くらしかったが、詳しい事は教えてはもらえなかった。
「一緒に探してあげられなくてごめんなさいね、クリス。急に仕事が入ってしまって」
 申し訳なさそうなかえでに振り向きもせず、クリスは答えた。
「気にしないでくれ。私は仕事よりこちらの方が大事だからお互い様だ」
 草の根を分けそうな勢いのクリスの背中に、かえでは苦笑した。
「分かったわ。気の済むようにしなさいな。神崎重工には私から連絡を入れておくわ」
「済まないな」
 大神は地面まで掘り起こしそうな勢いのクリスを何とかなだめすかし、ベンチに座らせた。
「レ二。クリスくんについてあげてくれないか? 一人にしておかない方がいい」
「了解」
「いや、私も探す。手は一つでも多い方がいいだろう?」
 大神は立ちあがろうとするクリスを座らせた。不安と焦りに取りつかれた今のクリスが何をしても、から回るだけだった。
「いや。今のきみが探しても、みんなの足を引っ張るだけだよ。探してあげるから、少し落ち着いて」
「そうだよ。クリスのさがしものって、前にアイリスに貸してくれたこづかだよね? だったら、アイリスにも形とか分かるからだいじょうぶ。クリスは座ってて」
 そう言うと、ジャンポールを差し出した。
「はい。今度はアイリスが貸してあげる」
「アイリス……ありがとう」
 クリスはジャンポールを受け取ると、ベンチにすとんと座った。
 少し離れた所にレ二も座ると、クリスがぽつりとつぶやいた。
「アイリスはいい子だな。レ二が心を開いた訳が分かるよ」
「うん」
 しばらく沈黙が流れた。ケンカしたりたしなめられたり、うろうろしたり文句言ったり犬が吠えたり。帝劇でするいつもの声が自然に二人の間を流れた。
「太正十四年、五月。帝劇に初めて来た時、アイリスが大階段の手すりを滑り降りて、バランスを崩して落ちてきた。ボクはアイリスとジャンポールを受け止めて……」
「レ二?」
 突然語り始めたレ二に面食らったクリスに、レ二は静かに続けた。
「それから歓迎会を開いてくれて、ボクはこれも任務と割りきって出席した。歓迎会開始から十四分後、警報が鳴って黒鬼会の出現を告げた」
 レ二は、帝劇に来てからの事を語った。戦闘の事、芝居の事、夏休みの事。大神の事、アイリスの事、花組の事。理路整然と語っているが、その一つ一つがレ二にとってどれだけ大切な思い出かよく感じられた。
「ボクは帝劇に来て、大切な仲間を得た。初めて自分の意思で戦う事を知った。たくさんの事を、この帝都で学んだんだ。今ボクは、とても幸せだ。だから……ボクは、クリスを許すよ」
「嘘だ」
 思いもかけなかったレ二の言葉に、クリスは反射的に立ちあがった。
 レ二も立ちあがり、クリスの目をまっすぐみつめた。
「どうして嘘なの? これはボクの正直な気持ちだから、否定しないでほしい」
「だ……って、私は、お前をヴァックストゥームに引き入れたんだぞ? その後、私が何をしたか、忘れたわけじゃないだろう?」
「あの時の事は……辛かったよ。でも、そのお陰で今ボクは帝都にいる。ここで、花組のみんなと出会えたんだ。今が幸せだから、過去の事は全部許すよ。だから、クリスの事も聞かせてほしい。ボクは、クリスを嫌いになれない。クリスが背負っている物を、ボクにも背負わせて」
「レ二……」
 クリスはうつむいた。しばらく芝の数を数えると、遠くから大神の声がした。
「おーい、クリスくん! 見つかったよ!」
 反射的に顔を上げると、噴水の向こうで大神が手を振っていた。
 二人が駆け寄ると、大神はあちこちつつかれたようなケガをしながらも笑っていた。
「どうしたんだ? そのケガは」
「クリスくんのお守りをカラスが巣に持って帰っててね」
「それを隊長が木に登って取りに行ったって訳だ」
 クリスは驚いた。帝劇のカラスはかなり賢く、自分の巣から宝物を盗んでいった大神を今後目の敵にするだろう。すぐに帝劇を去るクリスならともかく、ずっとここで暮らす大神にはあまり愉快じゃないだろう。それなのに、率先して木に登り、カラスの襲撃を避けながら取ってくれたその気持ちが、心に染みるほどありがたかった。
「そんな……帝劇のカラスは気性が荒くて賢いって、紅蘭が言ってたのに」
「ウチの大切なトマトをいっつも狙ってたさかいな」
 紅蘭は夏の事を思い出してしみじみ一人頷いた。
「いや。クリスくんの大切な物が見つかるんなら、こんなかすり傷大した事じゃないよ」
 クリスは小柄を受け取って、握り締めた。しばらく握り締めた手の中の感触を味わっていたが、やがて顔を上げてレ二を見た。
「私は、本当に幸せ者だ。……レ二」
「なに?」
「アルバムを、紐解いてほしい。そして、みんなで見ろ。私に言えるのはそれだけだ」
 アルバムの一言に、レ二は直感的にそれが何かを悟った。「青い鳥」千秋楽の日、一度立ち去ったクリスがわざわざ戻ってまで渡してくれたあの本は、今レ二の部屋の雑貨の中に放り込まれていた。
「アルバム? あれに何の意味があるの?」
 クリスは寂しそうに微笑んだ。
「見れば分かる。……っ……」
 突然クリスが額に手を当てた。目を閉じて痛みに耐えているような様子に、大神は心配そうに声をかけた。
「どうしたんだい?」
「いや。……どうも、体調が十分じゃないらしい。少し、部屋で横になっている」
「大丈夫かい? 顔色が良くないよ」
「お医者さん、呼びましょか?」
 心配する二人に、小さく首を振った。
「いや。ただの偏頭痛だから、大げさにしないでくれ。……探してくれて、その……ありがとう。みんな」
 そう言うと、案外しっかりとした足取りで中庭を立ち去った。
 その背中を見送り、レ二はみんなに向き合った。
「みんな。見てもらいたい物があるんだ。サロンに集まってほしい」
 そう言うと、レ二は自室へ駆け込んだ。薄く埃をかぶった古いアルバムを抱きしめると、レ二はひどく落ちつかない気分になった。もしもこれをみんなで見たら、今まで信じてきたものが崩れるかもしれない。でももう、今のままでいる事はできなかった。
「……何があっても、ボクは受け止める。そう決めたんだ」
 自分に言い聞かせるように言うと、ゆっくりとサロンへ向かった。



_____________________________________________________________________________________________
次回予告

思い出。それは過去の自分。
切り捨てたはずの思い出がどんなに辛くても
いつか向き合わなければならない時が来るわ。
未来へと歩き出すために……。

次回 「親愛なるきみへ 第八話
__________アルバムと私」

太正櫻に浪漫の嵐!
消えない痛みもいつかは癒えるわ

_____________________________________________________________________________________________

 


第8話へ
第6話へ
小説メニューに戻る