親愛なるきみへ(第八話)  作・鰊かずの

<1>

 親愛なる母の「いつもお世話になっている、大切な人」さん。
突然のお手紙で驚かせてしまいましたね。私はサツキの娘のクリス・シュトックハウゼンといいます。いつも母がお世話になっています。

 単刀直入に聞きます。あなたは母の事をどう思っていますか?
 もしもあなたが母とは単なる仕事上のおつきあいだと思っていらっしゃるのなら、もう奥さんも子供もいて幸せな家庭を築いていたら、ここから先は読まずに破棄してください。私たちは今ある幸せを壊してまで、幸せになろうとは思いませんから。


 二枚目を読まれた、という事はあなたは独身で、しかも母の事を憎からず思っていると判断して話を進めます。 私は母に幸せになってもらいたいので、もしもあなにその気があるのなら、一度会いに来てもらえませんか?
 あなたと母が文通をしている事は知っています。私が物心つくかつかないかの頃から、母はずっとあなたと手紙のやりとりをしていましたね。十年以上の間続いているのは素晴らしい事だと思います。
 あなたと母がどういう関係かは知りません。でも、あなたの手紙を受け取ると母は幸せそうに笑います。私はそんな母の顔を見るのがとても好きなんです。
 娘の私から見ても、母はとても優しくていい人だと思います。顔だって美人だし、料理も上手なんですよ。
 もう、母は父の事を忘れてもいい頃だと思うんです。父が亡くなって、もう十年近くになります。私は父の顔も知りません。
 父は母をドイツへ連れてきた人です。母は故国・ニッポンの事を多くは語りません。
 ですが、帝都トーキョーを愛し、故郷のセンダイをなつかしく思っています。それは、言葉の端々に上るニッポンの情景や、朝焼けを見つめる母の視線を見れば分かります。
 この間、帝都のヨネダさんという人からいろいろな物が送られて来た時も、とても嬉しそうでした。
 ニッポンへ帰らないのかと聞いても、駆け落ちして家を飛び出した手前、帰れないと言っていました。もし実家が母を許さないのなら、私が一緒に行ってドゲザして謝ってあげるから、と言っても笑うだけで首を縦に振りません。きっと、私だけじゃ足りないんだと思います。
 話がそれてしまいました。もしあなたが母を好きなら、一度会いに来てください。あなたが何故私たちを援助してくれているのかは知りません。ですが、もしも母を愛してくれるのだったら、結婚してやってくれませんか?
 母は私のために、ずいぶん辛い思いもしてきました。私のために幸せを逃してきたのでしょう。だから常々「幸せになろうね」と言うのだと思います。
 母が話したかも知れませんが、この間私は博士号という物をいただきました。自分ではまるで実感が湧かないのですが、これは凄い事のようです。私はもう一人立ちできます。だから、そろそろ母は自分の幸せを掴んでほしい。そう思います。
 長々ととりとめのない事ばかり書いてしまいました。もしもその気があるのでしたら、手紙を通じて御一報ください。
 それでは。これで失礼します。

1917年 6月20日
クリス・シュトックハウゼン


<2>

 花組全員が大テーブルについたのを確認して、レ二は手に持ったアルバムを置いた。
 それは『青い鳥』千秋楽の日、クリスがレ二に手渡したアルバムだった。
「これは?」
「アルバム。これを、みんなで見て欲しい。そして感想を聞かせて」
 大神は、アルバムをテーブルの中央に乗せて、一ページ目を開いた。
 そこには、赤ん坊を抱いた女性と、その隣に立つ夫らしい青年の姿があった。
 さつきだった。以前サロンで見た時よりも若く、まだ顔にあどけなさを残してはいたが、意思の強そうな目をしていた。男性の方は独逸人のようで、金髪に優しそうな目をしている。
 美しい木立を背景に、三人の親子は幸せそうに微笑んでいた。
「うわ、めっちゃかわいい赤ん坊やなぁ」
 紅蘭が、感嘆の声を上げた。赤ん坊は目鼻立ちがしっかりしていて、目許がさつきによく似ていた。おそらく、この子がクリスだろう。
「さつきさんとクリスくんだね」
「では、こちらがクリスさんのお父様ですわね」
 すみれが、隣に立つ男性を指差した。その顔立ちは、確かに今のクリスによく似ていた。
「クリスは父ちゃんに似たんだなぁ」
 カンナが腕組をしてうなった。
 レ二は驚いたように目を見開いたが、口に出しては何も言わなかった。
 大神は次のページを開いた。同じ場所で撮られたのだろう。クリスを抱いたさつきが、こちらを見て微笑んでいた。
 そこに夫の姿はなく、これ以降一枚たりとも彼が写された写真はなかった。
そこからしばらく写真は途切れ、次の写真にいるクリスは、三才ほどに成長していた。
 それは、何かの記念写真だった。
 それには、大人が三人とクリスが一人で写されていた。さつきはクリスの肩に手を乗せてこちらに向かって微笑んでいた。
 彼女は以前の写真より明らかにやせていて、疲れた様子が隠せなかった。おかっぱ頭のクリスは神妙な面持ちでこちらを見ていた。そんな二人の両側に見なれない男女が、二人を勇気付けるように力強く笑っていた。
 それ以降、この二人は写真によく出てきたが、さつきの映っている写真は驚くほど少ない。おそらくこの写真の撮影をしているのだろう。絵を描いているクリスを映そうとしているさつきの写真が後に出てきた。
 クリスは二人になついたようで、一緒に写っている写真はどれも笑っていたが、それ以外は一人で写っているものがほとんどだった。
 お昼寝をしている写真、さっきの女性に手を引かれている写真、教室のような場所で真剣に何かを聞いている写真、白衣を着た知らない大人たちと一緒に写された写真。
 その中で、同年輩の子供と写された写真というものはなく、どれも孤独の色は隠せなかった。
 そして、そこに映し出されたクリスは、みんな黒髪だった。
「クリスさんは、以前は黒髪だったんですのね」
「染めたんでしょうか?」
「どちらにしても、寂しそうだね」
 それが、一匹の犬の出現で変わった。真っ白な犬が出てきてからは、みるみる間に顔色も良くなり、明るい笑顔があふれていった。
 アイリスが、子犬とじゃれあって草原を転がっている写真を指差した。
「この子がユキウサギだね。キャハっ! ホントにトルテにそっくり」
「犬にウサギって名前を付けたんですか? あの人のセンスはよく分かりませーん」
 織姫があきれたように肩をすくめた。
 やがて犬も出てこなくなり、クリスを取り巻く二人の大人に変化が現れた。
 窓辺に座った女性は妊娠しているようで、クリスが大きなおなかに耳をぴったりつけている写真が、なんだか微笑ましかった。
 そして、赤ん坊が出てきた。
 産着にくるまれて、クリスの腕の中で幸せそうに笑う赤ん坊を、愛おしそうにのぞき込んでいた。
 大神はその写真に目を止めた。赤ん坊を抱いた小さな子供。レ二が言っていた劇場の白昼夢に当てはまっていた。
 そこから先は、クリスと赤ん坊の写真がほとんどだった。
 木陰で赤ん坊と一緒に眠っている写真、追いかけっこをしている写真、ウサギのヌイグルミを取り合っている写真、二人が同じ姿勢でうたたねしている写真、肩車をされて笑っている写真、バレエのレッスンを受けている写真、木登りをしている写真、クリスがテーブルに上って歌を歌っている写真……。
 そのどれもこれも、明るい笑顔と幸せな雰囲気、そしてお互いに対する愛情でいっぱいだった。
 写真の中の赤ん坊は、成長するに従ってやがて誰かに似ていった。

「なあ、この子供レ二じゃねえか?」
 カンナが一枚の写真を指差した。
 その表情や受ける印象は全く違うが、長い髪を三つ編みにしてスカートをはいた少女は、確かに今のレ二の面影があった。
「うん、そうだよ!」
「間違いないでーす」
 アイリスと織姫が同時に頷いた。今よりもずっと幼いレ二は、クリスと手を繋いで笑い合っていた。
「せやたら、どうしてクリスはんはあないな事したんや?」
 紅蘭が不満そうに言う。確かに、こんなに愛に溢れる家庭で育った子供が、残酷な計画に手を染めるとは考えづらかった。
 二人が成長するに従って、二人きりしか映っていなかった写真にも変化が現れた。
 茶色の髪の少年とクリスが、お互いにひきつった笑みを洩らしながら握手している。その奥でレ二が満面の笑みを浮かべながら、二人の手を取っていた。
 それ以降、写真に映る人数が徐々に増えていった。クリスとレ二の周囲に人が増え、笑顔の枚数もまた増えていった。
 お互い以外の友人を得たのは、さつきも同様だった。
 さつきの隣には、最初の少年によく似た中年の女性が映されていて、エプロンをした二人は、テーブルに筑前煮らしい煮物とおむすびを運んでいた。
「遠い異国で、こんな風に受け入れられるのは、素晴らしい事よ」
「さつきさん、だから日本へ帰らなかったんですね」
 マリアとさくらが、写真を見てしみじみと言った。
 だが、この家族はもう存在しない。
 未来に起こるであろう悲劇を知る由もなく写真は綴られ、八歳くらいのレ二がバレエのレッスンをしている写真を最後に、不自然なくらいあっさりと写真が途切れた。
 大神はページをめくった。残りのページを全てめくっても写真は一枚もなく、アルバムは終わった。
「素晴らしい家族でしたわね。素晴らしすぎるくらいに」
 すみれが感想をもらした。ここに出てくる写真は、まるで幸せな時間だけを抜き出したように、全てのページが光り輝いていた。
 もっとも、アルバムというのは元々そういうものかもしれなかったが。
 アルバムを見終わり、大神は腕組をした。このアルバムの後、彼らに何が起こったのだろうか?
 大神はレ二を見た。レ二は思いつめたようにアルバムをじっと見つめていた。
「レ二? どうしたんだい?」
「ボクは……このアルバムは何もないって思ってた。全部のページが真っ白に輝いていて、見ていると頭痛がするんだ」
 レ二は意を決したようにアルバムを開いた。まぶしそうに目を細めたが、ひるまずにページを凝視した。
「レ二!」
「ボクは、知らなければいけないんだ。ここにボクの事があるのなら、確かめて、受け止めたいんだ」
 レ二は眩しそうに目を細めたが、決してアルバムのページから目を離そうとはしなかった。みんなの声も聞こえなくなり、やがて視界が真っ白に染まり、ふいに暗転した。


<3>

 気がつくと、レ二は青い空間にいた。
 見渡すと青は限りなく広がり、地平線のごく淡い青が、天頂に近づくと黒にも見える深い藍色になっていった。
 足元も天空を反転させたような深い色で、どこまで深さがあるか分からないほど水が湛えられていた。本当なら溺れてしまうはずだったが、不思議と足首までで宙に浮かび、冷たい水がゆっくりと流れていた。
 以前ここは、一面氷で埋められていたんだ。レ二は自然とそう思った。
 静寂が支配するその空間で、レ二はすすり泣く声を聞いた。
 振り返ると、いつの間にそこにいたのか、膝を抱えて泣いている少女がいた。レ二はこちらに背を向けてうずくまるその姿に声を掛けた。
「きみは……」
 少女はびくっとしたように顔を上げると、こちらを振りかえった。それは、七歳のレ二だった。
 背中までの長い髪を三つ編みにして垂らし、レースがいっぱいついたワンピースを着た少女は、泣きながら立ちあがってレ二と向き合った。手には例のアルバムがしっかりと抱かれていて、まっすぐレ二を見上げた。
 レ二はしゃがむと、そっと腕を伸ばした。肩をすくめておびえる少女に、レ二は優しく語りかけた。
「おいで。ボクはもう一人じゃないから、きみの事も受け入れられるよ」
 おずおずと歩み寄った少女はレ二を見上げたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……かなしかったの……」
 レ二は少女をそっと抱きしめた。腕の中に抱いた少女はひどく懐かしく、かつての夢で感じた懐かしさと切なさが胸の中に蘇った。

 ああ。
 ボクは今まで、きみの夢を見ていたんだね。

「今まで一人にしてごめん。きみが抱いていた思い出を、ボクに渡して。ボクが持っている全ての記憶を、きみに渡そう。ボクたちはもう、二人じゃないんだ」
 少女は泣いてレ二を抱きしめた。
 泣き声に導かれるように、青い世界の地平線から強い光が射し込んだ。


<4>

「……二。レ二!」
 大神の呼び声に、レ二は目を覚ました。
 全身の力が抜けたように床に座り込んでいたレ二は、ふいに目の焦点が合った。
 目の前に見える大神の顔に安堵して立ちあがると、軽いめまいを覚えた。あれから大して時間は経っていないのだろう。レ二の周りに集まったみんなが心配そうにこちらを見ていた。
 そんなみんなに笑いかけると、レ二は立ちあがった。
「レ二! 大丈夫かい?」
「大丈夫。全て、思い出したんだ……」
 心配そうに見つめるみんなを見渡し、レ二は語り出した。
「八歳以前の事を思い出したんだ。みんなにも聞いて欲しい」
 そう言うと、レ二は静かに語り始めた。


「一九〇九年一二月。ボクは独逸のベルリンでジェイコブ・ミルヒシュトラーセとリーリエ・ミルヒシュトラーセの長女として生まれた」
 レ二は淡々と語った。
「父はベルリンフィルハーモニー交響楽団のバイオリニストで、母はドイツ国立バレエ団のプリマドンナだった。一九〇六年、母はケガによる引退と同時に父と結婚。バレエとバイオリンの教室を開いて生計を立てていた。新居の隣には、東洋人の女性と彼女の娘が住んでいた。当初、彼女たちは街に馴染めず、周囲から孤立しているようだった。何度か『夫に愛想をつかされたくせに生活費はもぎ取っている悪女』という誹謗を聞いた事がある」
「そんな!」
 さくらは憤慨して立ちあがったが、レ二は冷静だった。
「当時は、それが一般的な意見だったんだ」
 現在もそうだが、欧米では東洋人というだけでずいぶん格下に見られる風潮があった。
 それだけでなく、遠い異国で言葉や文化の壁にはばまれながら一人で子供を育てるのは並大抵の事ではなかったはずだ。
「受け入れられた後なら分かるけれど……この時点で日本へ帰る事はできなかったんでしょうか?」
 マリアが誰にともなく質問を投げかけたが、 ここにはその問いに答えられる者は誰もいなかった。
「さつきさんがどうして帰らなかったのか、今は知る術もない。周囲が親子を白い目で見る中、父と母は違った。母はさつきさんと打ち解けて、友達になった。父は母娘を何かにつけて弁護して、後ろ盾になっていたようだった。ボクの家とクリスの家は家族同然のつきあいをしていた。そんな中、ボクが生まれた。クリスはボクを実の妹のように可愛がってくれて、父さんや母さんもボクたちを分け隔てなく可愛がってくれた。それはさつきさんも同様だった。ボクは父さんと母さんからバイオリンとバレエを習っていた。クリスは霊子学研究所に通いながら、バレエよりも性に合うからという理由で声楽家に声楽を習っていた。さつきさんは写真家で、風景や人物をたくさん撮っていた。ボクはクリスが大好きで、クリスもボクを好きでいてくれた。ボクは、この幸せが永遠に続くと思っていた……」
 生まれた時から姉妹同然に育った二人を取り巻く環境は、とても素晴らしいものだった。
 それは、百万の言葉よりも一冊のアルバムがより多くを物語っていた。お互いを本当に信頼し、愛していなければあの写真を撮る事はできなかっただろう。
 それだけに、その後に起こるであろう悲劇の予感に胸が痛かった。
「一九一六年六月。クリスが突然倒れた。原因不明の高熱を出して寝込むクリスを介抱していたら、訃報が舞い込んだ。それは、さつきさんが亡くなったというものだった。通り魔にナイフで刺されたらしいけど、詳しい事は分からない。ただ、その日の朝、仕事に出かける前にさつきさんがボクにさようならを言いに部屋まで来たのが不思議だった。いつ目覚めるか分からないクリスを待っている訳にもいかず、葬儀がささやかに行われた。遺体はさつきさんの遺言に従い、火葬にされて遺灰は全て風に撒かれた」
「そんな……」
 さくらは口元を押さえて驚愕した。
 クリスは、最愛の母親の葬儀に参列する事はおろか、墓参りをする事すらできなくなったのだ。
「十日後、クリスが目覚めた。さつきさんの事を知らされたクリスは、ひどく取り乱して悲しんだ。体調は快方に向かっていたけど、精神状態は不安定で、少しの事ですぐ癇癪を起こして泣くようになった」
 十歳かそこらの少女が突きつけられたあまりにも重い現実。そう簡単に立ち直れるものではなかっただろう。
「そんな日がしばらく続いたある日、二階でプレゼントの用意をしていたら、一階からクリスの叫び声が聞こえた。また癇癪を起こしたのかも知れないと思っていたら、物が壊れるような大きな音がして、両親の悲鳴が聞こえた。ボクはただごとではない気配を感じて、そっと一階の居間をのぞいた」
 大神はレ二を見た。レ二は何かに浮かされるように宙を見て語り続けていた。
「プレゼントを抱えたまま、ボクは階段を降りて居間の扉をそっと開けた。そこは……アイボリーで統一された室内は、真っ赤に染まっていた。見なれたテーブルや椅子があちこちに散乱して、黒いまでに赤い物で染まっていて、それは天井にもまだら模様をつけていた。白いカーテンも同じだった。父には、左肩から右脇腹にかけて三本の爪で掻かれたような傷が……」
 大神はレ二を見た。レ二の顔からは血の気が引いて、真っ青な顔色の中で目だけが脳裏の光景にくぎ付けになっていた。
「もういい! レ二、それ以上はよすんだ」
 大神はレ二を制止した。大神の声に気がついたレ二は、現実に立ちかえると一つ息を吐いた。
「ごめん……」
「謝る事はないよ。それ以上はもういいから」
「うん」
 レ二は気を取りなおして語り始めた。どこか心が麻痺してしまったのだろう。淡々と語る口調はいつもと変化がなく、静かな声がサロンに響いた。
「その部屋に、クリスは一人立っていた。ボクの気配に気付いて振り返った時、クリスは返り血を浴びて服も髪も真っ赤に染まっていた。放心したようにこちらを見ていたけど、突然走り出してドアの横にいた降魔に飛びついて、消えろと叫んだ。すると、まるでクリスの命令を聞いたかのように降魔が消え去った。クリスはしばらく呆然としていたけど、やがて自分の両手を見て笑ったんだ。ボクはクリスが両親を殺したんだと思った。目の前が恐怖で真っ暗になって、ありったけの声で叫んだ。目の前の光景全てを心が拒否した。……その時、眠っていた霊力が発現した。ボクは意識を失って、気がついたらブルーメンブラッドの白い天井を見上げていた」
 レ二の告白に、花組は息をのんだ。予想以上の壮絶な過去に、アイリスは泣き出していた。
「レ二……」
「クリスがボクを訪ねてきたのは、それから二ヶ月後だった。その時にはボクは以前の事を全て忘れてしまっていて、クリスが誰だかも分からなかった」
 レ二は黙った。予想以上の最悪な結末に、誰も何も言えなかった。
 クリスは、レ二本人への加害者であるだけでなく、彼女の両親までも手にかけたのだ。おそらく、その霊力で。
 アイリスはただすすり泣いた。
 大神はアイリスの背中をなでてやりながらレ二を見た。レ二は、紙のように真っ白な顔色をしていた。顔から表情が消えて、ただ黙ってテーブルの中央に置かれたアルバムを見ていた。
「レ二、大丈夫かい? 辛い事をしゃべらせてしまったね」
「ボクは……大丈夫。どんな事も受け止めるって決めてたから」
 そう言いながらも、心は認めていないのだろう。レ二は氷のような無表情のままだった。
「聞いてくれて、ありがとう。……ボクは一度、クリスと話をしてみる。クリスの真意が知りたい」
 レ二は立ち上がった。テーブルの中央にあるアルバムを手に取ったレ二を見て、アイリスが驚いて泣くのをやめた。
 サロンに息をのむ気配が広がった。いつものレ二ならばその気配に気付いただろうが、その時はまるで気付かなかった。
 花組が見守る中、マリアがレ二を制止した。
「レ二。気持ちは分かるけれど、もう少し時間を置いた方がいいわ。今すぐクリスに会うのはおやめなさい。きっと、冷静な判断はできないわ」
 マリアの言葉は、レ二をひどく驚かせた。アルバムを引き寄せた手を止めると、不思議そうに声を出した。
「ボクは冷静だよ。今までにないくらい」
「そうかしら。とにかく、お座りなさい」
「そうだぜ。少し落ちつけ。な?」
「二人とも、何を言っているの?」
 レ二はようやく、さっきとは様子が変わったみんなに気付いた。話をした内容は暗いものだったが、もう済んだ事だ。思い出した直後はショックだったけど、話をしたら落ち着いた。今更何を言っても過去は変わらない。ただ、クリスは何故今ごろになってアルバムを持ち出したのか、それを聞きたいだけだった。
 サロンの雰囲気に困惑し、とりあえず急ぐ必要もないと判断したレ二は、改めて椅子に座った。
「レ二」
 大神は立ちあがると、ハンカチでレ二の目許を押さえてレ二に渡した。男もののシンプルなハンカチは、大きな染みを作っていた。
 レ二は泣いていた。
 レ二はそっと頬に手をやった。冷たい手が触れた頬は確かに涙で濡れていた。
「え……」
 自分が「泣いている」という事を自覚すると、ようやく感情がついてきた。
 胸が痛かった。張り裂けてしまいそうなくらい、胸が痛かった。涙はとめどなく溢れ、嗚咽が口の端から漏れた。
 どれだけ望んだか分からない。どれだけ焦がれたか分からない両親の顔。暖かい家族。望んでも得られず、やがて望む事すらやめてしまった光は、レ二の手に落ちた瞬間に消えてしまった。
 耳の奥で、たくさんの声が響いた。両親のあたたかい声。クリスと笑い合った声。さざ波のように打ち寄せては返すたくさんの思い出たち。
 宝石のようにきらきらと輝く思い出は、どれほど望んでももう手に入らなかった。

 壊されてしまったのだから。

 光の中に、ぽつんと小さな染みができた。
 インクをこぼしたような黒い染みは、徐々にその面積を広げた。レ二は染みを止めようとしたが、ゆっくりと、しかし確実に広がっていくそれを止める事はできなかった。
「レ二ぃ……」
 アイリスがレ二のそばまで来て、心配そうにのぞき込んだ。そのまっすぐな目を、レ二は見る事ができなかった。自分の心に生まれた黒い物を、アイリスに悟られたくなかった。
 レ二は立ちあがると、逃げるようにサロンを飛び出した。
「レ二!」
 大神の声が聞こえたが、一度走り出した足は止まらなかった。
 どこか、遠くへ行きたかった。


<5>

「レ二! 待つんだ!」
 大神に肩を掴まれ、レ二はようやく立ち止まった。
 いつのまにか銀座の街を抜け、築地の外れまで来ていた。
 本当に大神たちを撒こうと思ったら、帝劇前の蒸気タクシー溜りでそれに乗り込んでしまった方が確実だったが、そんな方法が思いつかないくらい冷静さを欠いていた。
 レ二は肩で息をしながら、大神を見上げた。大神は息を整えると、レ二の目を見た。レ二は大神の目を直視する事ができず、うつむいた。
「レ二。泣いてもいいんだ。きみは今、両親を亡くしたばかりなんだから」
「隊長……。どうして、父さんと母さんは死んだの?」
「え?」
 レ二は涙で濡れた目で大神を見上げた。そこには、確かに悲しみと憎しみの色がにじんでいた。
「どうして降魔があの部屋にいたの? どうしてクリスの言う事を聞いたの? どうしてクリスは父さんと母さんを殺したの! ボクは、クリスが大好きだった。クリスだって、大好きだったのに、どうして!」
「レ二……」
「胸が痛いんだ。どうしようもなく黒い物があふれ出て、止まらないんだ。これはどういう感情なの? この黒い物がある限り、みんなの顔をまともに見れない……」
 レ二は戸惑っていた。今まで一度も感じた事のなかった「憎しみ」の感情に、ひどく戸惑いもてあましていた。
 大神はレ二を抱きしめた。両親を殺されたレ二の憎しみは正当なもので、誰に止める事もなじる事もできなかった。
「レ二。いろいろな感情が一度にやってきて、辛いだろう。憎んでもいいんだ。恨んでもいいんだ。その気持ちがなくなるまで、俺はここにいるから。一通り憎んだら、悲しんだら、次にどうするか決めたらいい」
「隊長……」
 レ二は、大神の腕の中で幼子のように泣いた。八年前に流されるはずの涙を、大神はただ受け止めていた。


 どれくらい時間が経ったのか、ひとしきり泣いたレ二は、そっと顔を上げた。
「隊長。もう大丈夫。ありがとう」
「落ちついたかい?」
 優しい大神の言葉に、レ二はぎこちなく微笑んだ。
「うん」
 レ二は大神から離れ、手の甲で涙を拭いた。目は赤くなり、頬ははれぼったくなっていたが、その表情はどこか晴れ晴れとしていた。
 そんなレ二に、後ろから声がかけられた。
「レーニ」
 アイリスの声に振り返ると、いつの間にそこにいたのか花組全員が立っていた。
 驚いて立ちすくむレ二の手を、アイリスがそっと取った。
「レ二、だいじょうぶだよ」
 まっすぐにのぞきこむアイリスの目を、今度はしっかりと受け止めて頷いた。
「うん。心配かけてごめんね」
「あんなに冷静さを欠いたレ二は初めてですわね。なんだか、安心いたしましたわ」
 すみれが微笑む隣で、カンナが腕を組んで頷いた。
「あたいも親父をなくした時は、ずいぶん泣いたからなぁ」
「一度、クリスさんとも話をしましょう。何か事情があるはずです」
 元気付けるさくらの隣で、マリアがレ二の肩を叩いた。
「人は感情の生き物だもの。光があれば闇があるのは当然の事よ」
「どんなに悲しくたってな、レ二はもう一人やあらへんで。うちらがついてるさかい」
 握りこぶしの紅蘭の横で、織姫が胸をどーんと叩いた。
「そうでーす! ドロ船に乗ったつもりでどーんと構えてるがいい
ですよ」
「織姫。大船よ」
「そうとも言いますね」
「みんな……」
 口々に励ましてくれる声は、レ二の心の奥にわだかまっていた闇を限りなく薄くした。
「レ二。どんな事があったって、きみには俺たちがついている。過去は変わらない。どうする事もできないけど、これからは違う。これからはどんな事があってもきみを支えていけるよ」
「隊長……みんな……ありがとう」
 レ二の目から、一粒の涙がこぼれた。それは、今までの涙とは違う真珠のような涙だった。


<6>

 帝劇へ帰ろうと歩き出した時、人気のない路地裏から獣の咆哮が響いた。
 それと同時に、殺気がこちらに駆けよってきて、白い影が踊り出た。
 白い降魔だ。
 白い降魔は他の人間が目に入っていないように、レ二に踊りかかった。
「はあぁぁぁぁあっ!」
 さくらの反応は素早かった。レ二と降魔の間にすべり込むと、降魔の爪を半分鞘走った荒鷹で受け止め、気合いと共に押し返した。
 降魔は間合いを取ると、間髪置かずに襲いかかった。
「ええいっ!」
 アイリスが念動力を使い、降魔の動きを止めた。そこへカンナが、「気」を練り込んだ拳を突き出した。
「チェストぉ!」
 必殺の一撃はしかし、降魔が吐き出した蜘蛛の糸のような物に阻まれた。
「うわっ! なんだこりゃ!?」
 とりもち状の糸に動きを封じられたカンナは、何とか抜け出そうともがいたが、動けば動くほどからみつき、自力では抜け出せそうにもなかった。
「カンナさん! お動きにならないでくださいまし!」
 すみれは携帯用なぎなたを一瞬で組み立てると、降魔が吐き出した糸を根元から断ち切った。
 体にまとわりついた糸を手早く払いのけ、カンナは臨戦態勢を整えた。
「さんきゅー、すみれ」
「ほっほほほ。わたくしの機転に感謝なさってくださいましね」
「へっ! 言ってろ」
 軽口を叩きながらも、すみれは慎重に間合いを取った。
 霊子甲冑が無いとはいえ、百戦錬磨の乙女たちが八人と隊長が一人対降魔一匹では結果は目に見えていた。
「大神くん! どうしてここに!?」
 路地の奥からかえでが駆け出してきた。かえでは、予期せぬ大神たちの出現に焦りの色を隠せなかった。
「かえでさん! 下がっていてください!」
 大神は慎重に立ち位置を移動した。降魔を包囲するように背後に回ると、降魔の背中には青い血のような物で複雑な魔方陣が彫りこまれていた。
 かえでに続いて霊能集団「夢組」のメンバーと見られる少女が三人駆けつけると、すぐに祝詞を唱えた。
 アイリスの念動力から開放されようともがいていた降魔は悲鳴を上げると、ぐったりしたように動かなくなった。
 アイリスはそっと降魔を地面に下ろすと、念動力を解いた。夢組の三人は祝詞を唱えながら降魔の周囲に座り込むと、その周囲に結界を張った。
 大神は注意深く降魔を見張りながら、かえでに問いかけた。
「かえでさん。これは一体……」
「白い降魔を結界の中に封じていたんだけど、きっとレ二の気配に気付いたのね」
 かえでは淡々と答えたが、声が少し震えていて、感情を押し殺しているようにも見えた。
「レ二の? レ二とはどういう関係が……」
 大神が言いかけた時、降魔が動いた。
 降魔はその視界に移動してきたレ二を確認すると、夢組の結界を引き破って彼女に襲いかかった。完全に封じたと思っていただけに、一瞬のスキを突かれたレ二には応戦のしようがなかった。
「レ二!」
 マリアが即座に銃の引き金を引こうとした瞬間、悲鳴が辺りに響いた。
『やめろ! レ二に、触れるなぁっ!』
 白い降魔の動きが一瞬止まり、その直後白い光が降魔を包んだ。
 強い光が収束した時、そこに白い降魔の姿はなかった。
 代わりに……。
「クリス!」
「クリスさん!」
 背中に刺青を施された全裸のクリスが、小柄をしっかりと握り締めたまま気を失って倒れていた。



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次回予告

全ての想いが交錯し、過去に隠された秘密を知った時
シュトックハウゼン家の背負った十字架の重さを知る。
例え何があろうと、俺はみんなを守る。だから……

次回 「親愛なるきみへ 第九話
________________パスト・リポート」

太正櫻に浪漫の嵐!
クリスくん、俺はきみの真意が知りたい。

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