半月の道標 プロローグ
九月に入ったというのに、帝都・東京は汗ばむほどの残暑であった。終わりに近い蝉の声と街の喧噪が、このビルの最上階まで届いている。
帝都芸能出版社の最上階にある社長室で、副社長の鈴木レイは書類に目を通す社長兼会長の視線を追っていた。
社長兼会長は、その地位からすれば驚くほど若い。見た感じは二十代の始め、後ろに撫で付けた茶褐色の髪と日焼けした肌、垂れ目気味の焦げ茶色の瞳が、人懐っこい印象を与える。真っ白なスーツに真っ赤なシャツ、奇天烈な模様のネクタイはおよそ社長にふさわしくないが、この男の軽薄な言動にはいっそお似合いのように思えた。
彼が帝都芸能出版社をはじめとする、望月グループの会長兼社長、加山雄一である。
加山は先ほどから、新しく彼の部下になる女性について書かれた書類を眺めてニヤニヤ笑いを浮かべている。その書類は鈴木も見た。新人の名は坂東好(ばんどう・よしみ)。宇都宮の騎兵連隊に所属する見習士官だ。
「ずいぶんと彼女がお気に召されたようですね」
「そういうわけでもないんだがな……彼女、大神に似てると思わないか?」
鈴木が少しばかり揶揄をこめてそう言うと、加山は子供のように笑って書類を返した。
「どうでしょう。堅苦しそうには見えますが、軍人が軍服で写真に写ればみなこうなるのではないかと」
写真には、陸軍の軍服を着た、生真面目そうな軍人の顔が写っている。丸坊主が少し伸びたような短髪に、正面を見据える視線は鋭く、一見して女性とは分かりにくい。しかし、いざ女性だと思ってよく見てみたら、眉から鼻筋にかけての造作は涼しく、大きな瞳は力強く見開かれ、花びらのような唇が凛と引き締まっている。その姿は美しき戦乙女と言えなくもなかった。
……にしても、猿のようなその髪型がどうにもいただけないと、鈴木は評するのだが。
「雰囲気もそうだが、何より境遇が、な」
加山がおかしくてたまらないとばかりくつくつと笑う。
おおかた、海軍兵学校を首席で卒業しながら大帝国劇場のモギリにならされた親友の落胆ぶりを思い出しているのだろう。かくいう加山も、海軍兵学校を二位の成績で卒業しながら、まったく畑違いの現職にある。
「見に行きたくてたまらないって顔してますよ」
「分かるかぁ〜?」
加山は口元を緩め、そわそわと落ち着きない様子で両手の指をくるくる回し始めた。目は好奇心に輝き、やや童顔の甘い顔立ちをいっそう若く見せる。
「隊長は、堅物の軍人をからかうのがお好きですから」
鈴木は、上官のろくでもない思いつきをやんわりとたしなめた。
ところで、彼女が加山を「社長」でも「会長」でもなく、「隊長」と呼ぶのには理由がある。
この帝都芸能出版社はただの出版社ではない。その実体は、政府直属の首都防衛組織・帝国華撃団の拠点の一つだ。加山雄一はそのうち諜報活動を任務とする月組の隊長で、彼が会長を務める望月グループの各社は月組が諜報活動を行うための拠点であり、会社はそのための擬装である。
鈴木は帝都芸能出版社の副社長、帝国華撃団・月組においては参謀長の地位にある。月組の各拠点から集められる情報を分析し、それを元に作戦を立案し、隊長である加山に助言を行うのが彼女の主な任務だ。
「そういうわけで鈴木、俺はちょっと出かけてくるよ」
「隊長自ら新人を迎えに行かれるのですか?」
「いんや、見物しに行くだけ」
「見物、ね」
楽しげな笑みを崩さない加山の後ろ姿を見送って、鈴木は溜め息をついた。
まったくこの人は、どうしてそういうしょうもないことばかり思いつくのか。
海軍兵学校を卒業してすぐに帝国華撃団・花組の隊長に抜擢された、大神一郎少尉。彼が着任当初、何の説明もなく大帝国劇場のモギリをさせられ、あわや辞める辞めないの騒ぎになりかけた話は、帝国華撃団の古参隊員で知らぬ者はない。鈴木もその一人だ。それに秘められた上層部の意図を知っても、彼女は大神に同情を禁じ得なかった。
おそらく加山は、士官学校を卒業して一月あまりで帝国華撃団に配属され、将校の華々しい活躍とはほど遠い劇場勤務に落胆する坂東少尉をちょっとからかってやろうというのだろう。仮にそれ以外の――帝国華撃団総司令・米田一基中将が大神一郎の適性を試したような――意図があったとしても悪趣味に過ぎる。
(彼女もそれくらいでへこたれたりはしないでしょうけど)
鈴木は書類を一瞥して封筒にしまい直した。
その頃、坂東好騎兵少尉は、陸軍省の三隅直之大佐の執務室に出頭していた。
前日、第十八騎兵連隊の連隊長に、見習士官である曹長から少尉への昇進を告げられ、今日の朝一で宇都宮を発って、陸軍省の三隅大佐の元に出頭するように命じられたのだ。
地方の連隊に所属する下級将校が陸軍省に呼び出されることは極めて異例だが、当の坂東少尉はそれを冷静に受け止めていた。なにせ、士官学校在学中の隊付勤務の時から一所に落ち着いていなかったのだ。現場が女性将校という異分子をもてあまし、扱いに困って部署から部署へとたらい回しにした結果が、現在の騎兵とは名ばかりの閑職だった。
そんな身の上で唐突に陸軍省に呼び出されたとしても、好には(ああ、また転勤か)としか思えなかった。連隊こそ変わっていないが、彼女は今年七月の卒業から一ヶ月あまりの間に、二回も異動させられている。今さらどこに飛ばされようと驚くに値しない。
好は三隅大佐を正面から見据えた。
三隅の身長は好より心持ち高いぐらいで、男性としては小柄な部類に入る。だが、口元に蓄えられた髭と横幅も厚みもある体格、低く渋みのある声でゆっくりと言葉を紡ぐさまが、彼の姿に大佐の威厳を与えていた。
好は直立不動のまま、三隅の言葉に耳を傾けた。
「君は本日から、米田一基中将の配下となる。帝国華撃団・月組が君の配属先だ」
帝国華撃団という名には聞き覚えがあった。帝都で起こった事件を解決するためにたびたび派遣される、謎の人型蒸気小隊だ。その人型蒸気がありえないほど斬新な形だといって、士官学校ではよく話題になっていた。
「例の、人型蒸気の小隊でありますか?」
好が問うと、三隅は肩をすくめた。
「その通り。もっとも、君が配属される月組はその小隊ではなく、その後方だがな。やることも大して変わらん」
そう言われて、好も任務の内容がおぼろげながら想像できた。
どうせまた事務方の仕事を宛てがわれることになるのだろう。それは現在、宇都宮の連隊でやっていることと何ら変わりがない。好は騎兵将校という華々しい身分からはほど遠く、実際には経理科の下士官や軍属の事務員と一緒になって、書類仕事ばかりやらされている身の上だ。
その場所が、宇都宮から帝都に変わっただけのこと。
(要は、体のいい厄介払いだ)
好は、胸中に吹く季節外れの寒風を、薄笑いでやり過ごした。
「時間がない。直ちに帝国華撃団の本部がある大帝国劇場に出頭し、一四〇〇時付けで帝国華撃団・月組に着任せよ。詳細は米田中将か、副司令の藤枝中尉に聞くように」
「了解しました。坂東好少尉は、直ちに大帝国劇場に出頭し、本日一四〇〇時付けで帝国華撃団・月組に着任、詳細は現場で受領します」
三隅はうむ、とうなずくと、ひどく矛盾した言葉を好に投げた。
「多くは期待しないが、せいぜい頑張りたまえ。君の存在そのものが、事態を動かす鍵になる」
なんとなく、その言葉の真意を量ることがはばかられ、好は釈然としないまま部屋を出た。
蒸し暑い東京の気候には、頭を日差しから守るはずの軍帽がかえって暑苦しく感じられる。額にも軍帽の中にも汗をかいていることは、触らずとも分かる。おそらく顔はのぼせたように紅くなっているのだろう。好は襟のホックをはずして中に風を入れようとしかけて、やめた。仮にも将校がそんなことでは、周囲に示しがつかない。
(仮にも将校が、か)
好は、将校としての思考がまだ残っていることに苦いものを感じながらも背筋を正し、顔にかすかな笑みをはいた。その笑みは人好きのするようなものではなく、紗の幕で柔らかく立ち入りを拒むようだった。
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