貿易船『ゴールデンアックス』。
横浜に停泊中の英国籍のこの船が、ハインリヒ・フォン・マイヤーの仮の宿だった。
その船上からぼんやりと横浜の街並みを見つめ、マイヤーは先日、雨の中で垣間みた光景のことを回想していた。
「魔操機兵……あの少女はそう呼んでいたが……」
異形の敵と戦い、丸腰で倒した少女の技があれ以来瞼に焼きついたように残っている。
あれは、忘れがたい光景だった。
一見したところ、取り立てて特別な何かを感じさせる少女ではなかった。
小柄で華奢だという印象の日本人女性――その定義からは、彼女は確かにかけ離れていた。並の日本人なら、男とも並びそうな上背。そして鍛え上げた肉体。しかし……マイヤーの見たあの戦いの光景は、そんな程度の違和感など吹き飛ばしてしまうものだった。
あの化け物ともう一度会うことがあったら……。
そんな思いを、つい抱かずにはいられなかった。
あの少女が素手で倒したその敵に、自分はほんのかすり傷さえ負わすことができなかった。
そう……こんなにもあの光景が忘れられずにいるのは、その敗北感から……なのかもしれなかった。
今度こそは……。
勝てるという確信があるわけではない。
愛用のルガーで手も足も出なかったあの謎の相手に、ではどうやって戦うつもりだと問われても、多分これだという答えは出せないままだろう。
それでもマイヤーは、故国・ドイツを離れて以来、ずっと探し求めていたもののの片鱗と言えそうな何かを、あの戦いの中で見出したように思えるのだ。
あの少女とともに戦うことか……。
それとも自分の戦うべき敵を見つけたという事なのか……。
それはまだ判然とはしなかった。
だが……。
「マイヤー、ここにいたのか。ボスがお呼びだぜ」
デッキでぼんやりとしているマイヤーを見つけて、同じ『ゴールデンアックス』の乗組員・ジャックが声をかけた。
「……ああ」
そう低く返事をしたが、マイヤーはすぐには振り返らなかった。彼の目は、まだ横浜の街並みを見つめている。
その横顔は、感傷的にも見えるものだった。
或いは、ふてぶてしさから生まれた無関心とも見えた。
そしてジャックをはじめとする『ゴールデンアックス』の乗組員の大半は、たいていの場合、マイヤーのつきあいの悪さ、寡黙さの原因は後者だろうと考えていた。
得体の知れないドイツ人……彼らにとってマイヤーはそういう存在なのだ。
噂はいろいろ聞く。
後ろぐらい密輸にまで手を出して私腹を肥やすこの船のオーナーに、懐刀として重宝がられている彼の過去をあれこれとやっかみ混じりに噂する者は少なくない。
元は軍人だったというのはその中ではかなり信憑性の高い説だ。
第一次大戦後、ワイマール体制下での軍縮が多くのドイツ軍人を失業者に転身させた。それはジャック程度の教養があれば耳に入ってくる“世界情勢”だったし、マイヤーの統率力や危機に直面したときの冷静な行動、それに銃器の扱いに長けた群を抜いた戦闘能力を考えれば、確かな証拠がなくてもそう判断するのが妥当というものだ。
もともと、単なる使い捨ての用心棒などにはもったいないほどの力を持っている男である。密輸品や盗売品を扱う職種がら日常的と言っても良い頻度で起こる小競り合いを、ここ数年ひとりで片づけてきたのはマイヤーだった。
ジャックもまたそうした小競り合いに端を発した撃ち合いの中で彼に生命を助けられたことがあった。
アイツは気にいらねえよ。
『ゴールデンアック』の乗組員なら誰もがマイヤーのことをそう語るだろう。だが同時に、その誰もが、彼の実力を認めていた。
そしてジャックは、マイヤーが後生大事に持っている勲章のことも知っていた。
その勲章の本当の価値が分かっているわけではないが、やはりジャックもまたマイヤーには一目を置いていた。
勲章を得るほどの軍人がどこをどう間違ってこんなやくざな密輸船の用心棒に成り下がったのかは知ったことじゃない。
どうでもいいことだ。
犯罪を犯したのだとか、軍に裏切られて恋人や家族を失ったとか……メロドラマのような噂は船内で繰り返し、反吐が出るほど囁かれているが、それはすでにジャックの関心を惹くものではないのだ。
犯罪をエサに肥え太っていく犯罪組織の中で、別にボスと言うわけではなく、一目置かれる存在と言うわけでもないケチな小悪党として存在しているだけの自分が、それはそれで分にあった生き方なのだろうとあきらめの心境にも似た自嘲を浮かべてはいたが、ジャックにだって多少なりとも野心がある。
マイヤーのような存在になることに……。
いや、照れを隠さず言ってしまえば、憧れとも言える感情を……今も密かに抱いているのだ。真っ先に捨て駒として使われる今の自分ではなく、ジャックが本当に欲していたのはそういう生き方だったはずだ。
そんな気持ちは、勿論おくびにも出したことはない。そんな現実離れした妄想を抱いているなんて知られたら笑い者になるのが関の山だ。
無口で無愛想なこの男に、何か――例えば同胞意識だとか、友情だとか――を期待しようなんて感情も、なくなって久しい。
とりあえずはマイヤーがいれば、『ゴールデンアックス』は安泰――それが今はジャックにとっても、他の乗組員たちにとっても……何よりマイヤーの雇用主であるこの船のオーナーにとっても重要なことなのだ。
「ボスはまたあんたを上陸させる腹積もりだ。奴ら、上手いこと言っておいてこの間の取引には現れず仕舞だったんだろう? メンツを潰されたって、ボスは頭から湯気を吹いているよ。ありゃあ、一戦構えるつもりだな。物騒なことだぜ。東洋の可愛い女を相手にのんびりやれるとふんでいたのになあ?」
ただの軽口のつもりなのか、それとも愚痴か、そのどちらともとれる口調でぼやきながら、ジャックはその言葉に似合わない、可愛い小僧のような愛想笑いをマイヤーに向けた。
「……」
マイヤーは何も言わなかった。
苦虫を噛み潰したようないつもの渋面で、ずかずかとその場を立ち去っていく。いつものことだった。
ジャックも別段、マイヤーの無反応を気にしている風ではない。
「ボスはでかいヤマを狙ってご満悦だが……危ないね、あのままじゃ。俺たちにとっちゃ日本はまだ馴染みのない土地だ。ヨーロッパやアメリカで博打を打つのとは訳が違う。それを忘れてるよ、ボスは……」
どうせ自分の言葉などに振り返るわけはないと分かっていたが、それでも、さっきマイヤーがやっていたように横浜の街並みを遠く見つめてジャックはまだぼそぼそと呻くようにしゃべり続けていた。
「一戦構えるつもり、か……」
今夜の取引の指示を受けてボスの部屋を出る。
船の中の狭い階段を降りて自室に向かいながら、マイヤーは、さっきジャックの言っていた言葉を口の中で低く呟いた。
『これ以上の寛容さを連中に示してやる必要はない』
それがマイヤーに下された指示だった。
つまり、相手が今夜の取引で大人しくこちらの条件に従わない場合は実力行使も厭わない、ということだ。
ボスのメンツになど興味はなかったが、すでに状況がどう転んでも対処できるだけの準備はできている。
ジャックなどに言われるまでもなく、ボスの腹のうちは読めていた。
新たな取引の開始は、それがまっとうな商売だったとしても腹のさぐり合いは付き物である。条件のズレ、言葉の壁、慣習の違いなど困難は山積みだ。ましてそれが莫大な金の絡んだ裏の商売ならなおさらだ。
先日マイヤーは日本での取引相手と最初の取引を試みたが、結局は待ちぼうけを食らう結果となった。
約束の時間を過ぎても、しばらくマイヤーは待ち合わせの目印となっていた桜の木の下で待ち続けていた。
そう、魔操機兵を目撃したのはそのときなのだ。
魔操機兵を目撃したことは、誰にも話さなかった。
話したとしても信じる者はいないだろう。
実際にあの姿を目撃したマイヤーにとってさえあんな化け物の存在は信じがたいものだった。
誰にも話さず、ただもう一度あの敵と対峙したときにどう戦うかだけを考え続けてきた。あの化け物が取引相手の手の者であったとしたら、再び戦う可能性はぐっと高いものになると思えたのだ。
最初は、大型の銃を使うことを考えた。
だが、相手は愛用のルガーの攻撃にびくともしなかった化け物である。いたずらに武器を大型化しても結果は変わるまい。
あの少女が放った攻撃に込められていた独特の精神力の高まり――それがあの化け物を倒したのだ。そしておそらく魔操機兵と呼ばれた敵を倒す唯一の方法なのだろう。
問題は武器の種類ではない。
いかにその武器に精神力を込めるか、なのだ。
例えば鉛の塊に過ぎない一発の弾丸に、精神力を込めることで飛躍的な攻撃力の増大を願う……なんてのは嘲笑を誘う非科学的な論理かもしれない。
だがマイヤーはこれまで修羅場をかいくぐってきた中で、その論理がにわかに現実味を帯びる瞬間を幾度も体験してきた。
一発の弾丸が、ただの鉛の塊以上の力を発する瞬間を、知っている。
だからこそ……彼は今日まで生き延びてきた。
ボスのところにはその後、取引相手から条件の変更を申し出る連絡があったというから、あの魔操機兵がマイヤーの生命を狙って放たれた刺客……と考えるのは深読みのしすぎなだろう。
ジャックの言うように取引相手と一戦交える事となったとしても、相手が人間であるというのなら、マイヤーにとっては脅威ではあり得なかった。
(いつも通りのつまらない銃撃戦で終わるか……それとも……)
マイヤーは自室のドアを開けて中に入った。
そこにはすでにいつでも戦いに出て行くことのできる準備が整えられている。
取引まであと数時間。
わずかだが休息をとることができるのはありがたかった。