元冶元年六月五日。新撰組は三条池田屋に潜伏していた吉田稔麿、宮部鼎蔵を中心とする倒幕浪士を討つべく出動した。
この事件で、主導的立場にあった倒幕派の浪士たちの多数が死亡し、ために明治維新が一年は遅れたと言われているが、むしろ早まったというべきであろう。
池田屋事件で浪士が多数斬殺されたことにより、長州では倒幕の動きが強まり、幕末の戦いが始まる。言うなれば、池田屋事件が起こらなければ、明治維新は1年・・・いや、それ以上遠のいていたかもしれない。
池田屋事件の興奮さめやらぬ、六月七日の夜。新撰組屯所に早馬が到着した。
「開門!!江戸千葉道場、千葉重太郎殿より真宮寺竜馬殿と藤堂平助殿へ火急の報せあり!開門願います!!」
自室で寝ていた竜馬の下に、当直の松原忠司が駆け込んできた。
「局長代理!」
「!?」
竜馬はただならぬこととすぐに気付き、飛び起きた。
「松原君か、何事だ?」
「江戸より早馬が着きました。局長代理と、藤堂さん宛の手紙だそうです。」
「江戸から?・・・・・・その手紙、持っているか?」
「はい、これです。」
差出人の名前を見ると千葉重太郎の名前がある。彼は桶町千葉道場の道場主・定吉の息子で、千葉周作の甥にあたる。
「・・・・・・・」
手紙を読んだ竜馬の顔はただならぬ表情であった。
翌朝、夜の巡察から帰ってきた藤堂が竜馬の部屋を訪ねた。
「竜さん、俺とアンタ宛に手紙が来たそうだが・・・」
「・・・・これだ。読んでみろ。」
手紙を読む藤堂の顔もまた、容易ならぬ顔をしていた。
手紙には次のようなことが書かれていた。
数日前より、江戸に降魔が数匹出現。活動を始めたとのこと。しかし、折悪しく千葉定吉は病により床に伏せている。
重太郎は降魔と戦えないため、京都から竜馬と藤堂の二人を呼び寄せようとしていた。
「エライことになったね、竜さん。」
「ああ。まさか降魔がまだ居たとは。先生が亡くなられ、しかも定吉殿はご病気だ。いつ玄武館が狙われるかわからん。平助、江戸に戻ろう。」
「よし来た、竜さん。裏の北辰一刀流を振るう最初の機会だ。」
裏の北辰一刀流、それは破邪の剣術。降魔という古より日本に住む魔物に対抗すべく、千葉周作が研究に研究を重ねて編み出した剣術であり、これを使いこなせる者は奥州の真宮寺、中央の藤堂、西国の隼人の『裏御三家』等、並外れた霊力を持っている者のみ。
現在、裏北辰一刀流を会得しているのは、千葉定吉、真宮寺竜馬、藤堂平助、千葉佐那の4人だけであった。
藤堂は常々、裏御三家の一つでもある伊勢藤堂家の落胤を自称していた。彼の言うことは本当である。彼の人並み外れた霊力が何よりの証拠なのだが、彼の明るさと冗談好きな性格があって、誰も本気にしていない。
このことを知っているのは千葉門のごく一部の者だけであった。
竜馬と藤堂は早速、近藤に休暇願を出した。
「ふむ・・・・君たちが休暇願か・・・・珍しいじゃないか。なあ、トシさん?」
「ははは・・・この二人でも疲れることはある。休暇を取らせてやってもいいだろう。」
「そうだな。それで、どれくらい取るつもりだね?」
言いにくそうにしていたが、竜馬は思い切って答えた。
「少なくとも、1ヶ月。」
「1ヶ月!?」
「江戸に用がある。どれぐらいかかるか、俺にもわからん。」
「しかし・・・1ヶ月とは・・・そんなに屯所を離れられては・・・」
近藤がどうしようか迷っていると、土方が口を開いた。
「近藤さん、いいじゃねぇか。竜さんも藤堂君も、今まで一度も休暇を取ってないんだ。取らせてやろう。」
「・・・・そうだな・・・いいでしょう。」
「ありがとうございます。」
二人は深深と頭を下げ、礼を言った。竜馬と藤堂はその日の内に京を発った。
馬を飛ばし、乗り継ぎ、東海道をひたすら駆けた。そして、翌日には江戸に到着した。
二人は早速、北辰一刀流の総本山、玄武館を訪ねた。
「定吉殿!!」
二人は定吉の部屋に入った。
定吉はいつもと違い、弱々しい顔をして横になっていた。傍らには重太郎と道着を着たままの佐那がいた。
「先生・・・・」
「おお・・・・・竜馬殿・・・藤堂君・・・来てくれたか。」
「定吉殿・・・真宮寺竜馬、藤堂平助、ただ今戻りました。して・・・病の重さは?」
「ふふ・・・見ての通りだ・・・剣を握ることも出来ん。力が戻るには時間がかかる。・・・降魔が蘇ったというのに、情けない・・・」
「・・・・・重太郎殿、それで、いつ頃から降魔が?」
「ああ・・・確かめたところ、十日ほど前から、化け物騒動が町のあちこちで起こっている。なにゆえ突然現れたかはわからんが、とにかく佐那一人ではどうしようもない。それで君たちを呼び戻したわけだが・・・・」
「・・・・・降魔の狙いは、恐らくこの千葉道場でしょう。」
竜馬の発言に、一同に緊張が走った。
「降魔はこれまで先生と定吉殿に苦しめられてきました。奴らは復讐の機会をじっと待っていたのでしょう。先生は亡くなられ、定吉殿は床に伏せているのを絶好の好機と思い、出てきた。そんなところでしょう。」
「相変わらずの洞察力ですな。しかし、君ら二人と佐那が居れば、降魔も手出し出来んだろう。」
「・・・・だったら、いいんですけどね。」
佐那は一人、不安げな表情でそう呟いた。
その晩、竜馬と藤堂は旅の疲れを癒していた。
「空いたよ、竜さん。」
「お、そうか。入ろう。」
竜馬は玄武館の片隅にある五右衛門風呂に向かった。
「あ〜・・・・疲れたぁ・・・・」
湯船につかると、竜馬は体が軽くなり、疲れが一気に取れる心地がした。
と、そのとき、釜の下から声がした。
「真宮寺様、湯加減はいかがですか?」
気付かなかったが、佐那が下で薪をくべていたのだ。
「・・佐那さんか。ああ、いい加減だよ。佐那さんも、風呂焚きが上手になったな。」
「まあ、真宮寺様ったら。」
「ははは・・・あんたなら、いい嫁になれるさ。聞いたよ、坂本龍馬と夫婦になるそうじゃないか。」
「・・・・・・」
佐那は何も答えなかった。
「佐那さん?」
「・・・・・」
「・・・・龍馬と・・・坂本龍馬と、何かあったのか?」
「・・・・・私は、坂本様の嫁にはなれません。」
「・・・・何?」
「坂本様は、確かに私を嫁にもらうと約束されました。でも、坂本様は京都で出会った女性と・・・・」
「夫婦になったとでも言うのか?」
「・・・わかりません・・・ですが、そのような話を・・・」
「・・・・・・」
竜馬も佐那もしばらく沈黙した。
このとき、坂本龍馬は京都で出会った楢崎 龍と結婚。伏見の寺田屋で同居していた。
「・・・・ふふ・・・坂本様は、私なんかが嫁に行くには、不釣合いだったんですよ。坂本様は国の明日を案じて奔走される方。私は一介の道場の娘。・・・初めから、私には手の届かない人だったんです。」
佐那は自分自身に無理にそう納得させていた。
「それは違う!佐那さん、あなたは女性として立派な人だ。坂本はあなたよりずっと下等な男だ!」
「真宮寺様、いいんです。・・・私はずっと坂本様を待ちます。たとえ、誰かと一緒になっても・・・二度とここに戻ってこないとわかっても・・・・・私は・・・・坂本様を・・・・・」
そして、竜馬の耳に、佐那のすすり泣く声が聞こえてきた。
そのとき、竜馬は桂のことを思い出していた。桂もまた、自分の帰りを待ちながら、泣いているのではないだろうか。
佐那は竜馬が風呂から上がった後も、ずっと泣いていた。満天の星空がそれを優しく見守っていた。
翌日、道場に藤堂を残し、竜馬と佐那は江戸の街中を歩いた。降魔の動向を調査するためだ。
江戸の町は、恐ろしいほど静かだった。威勢のいい男たちで賑わう築地にも、商店の建ち並ぶ浅草にも、ほとんど人気が無かった。
「参ったなぁ、見事に人気が無い。」
「ええ、みんな、降魔を怖がって出てこないんです。」
そのとき、後ろから一人の男が声をかけてきた。
「真宮寺殿、佐那殿!!」
振り向いてみると、同門で伊東道場の道場主・伊東甲子太郎と一人の剣客がそこにいた。
「伊東さん!久しぶりだな!」
「いやぁ、聞きましたぞ。池田屋の一件。やりましたな。」
「いやいや、俺は別に何も。」
「ははは・・・謙遜かね?余裕のある人は違いますな。わたしはこれから玄武館に行く所です。定吉殿のお見舞いに行こうと思ってね。」
ふと、竜馬は伊東が連れている一人の剣客に気付いた。
左之助と同じような、ガッチリとした体格だ。
「・・ああ、紹介しよう。彼は服部武雄。播州赤穂の出身で、神道無念流・北辰一刀流の免許皆伝。今は私の道場で篠原君と共に師範代を務めてもらっている。」
服部は竜馬にガンを飛ばす、挑戦的な態度で手を差し出した。
握手をしたが、その握力でも、彼の実力が只者でないことがわかる。
「服部武雄です。」
「・・・新撰組局長代理・真宮寺竜馬だ。」
「強いぞ、服部君は。新撰組にどうだね?役に立つぞ。」
「まぁ・・・・いずれ。近々、江戸でも隊士の募集をする予定らしいし。」
事実、この後新撰組は江戸で隊士募集を行い、伊東甲子太郎、服部武雄ら伊東道場の者が多数入隊することになる。
伊東は参謀に、師範代の服部、篠原泰之進は監察。伊東の実弟・鈴木三樹三郎は九番隊組長に就任する。しかし、彼らは慶応三年に脱退。禁裏御陵衛士(高台寺党)として薩摩藩に味方する。
しかし、密偵として潜り込んだ斎藤 一によって近藤 勇暗殺計画が知らされ、近藤は伊東をおびき出して暗殺。そして篠原、服部、藤堂らは伊東の遺体を引き取りに新撰組が待ち伏せる七条油小路へ向かう。
一方、京都の新撰組屯所では土方が山崎を呼び寄せていた。
「お呼びですか?」
「ああ、呼んだ。山崎君。ご苦労だが、江戸へ行ってくれ。」
「江戸・・・ですか?」
「江戸に、竜さんと藤堂君がいる。二人が何の用があって向こうに行っているのか、探ってきて欲しい。」
「はい・・・わかりました。山崎 丞、江戸へ向かいます。」
かくして、監察方の山崎 丞も馬にまたがって江戸へ向かった。