半月の道標 第2章 戦場に燃える炎は……

1

 地下にあるその部屋は、真っ暗な物干場の様相を呈していた。壁と壁との間に細いロープが何本も張り渡され、念入りに洗われた「洗濯物」が無数にピンチで止められている。
 坂東好(よしみ)は、赤く暗い照明の下でそれを取り込んで大きめの封筒に入れた。その中の一枚を取り出して独りごちる。
「うーん……この灯りの下だと、すごく色っぽくて妖しく見えるな」
 手の中にあるのは、帝国歌劇団・花組で男役トップを務めるマリア・タチバナが、どこかの旅館のものとおぼしき浴衣を着て微笑んでいる構図の写真である。普段黒っぽくマニッシュな服装を好むマリアにしては珍しい、彼女のはんなりとした浴衣姿には、同性である好でも少しばかりどきりとさせられる。
 好自身が撮影から現像・プリントまでを手がけたそれは、お正月に発売されるスペシャルブロマイドの試し撮りだった。売店の目玉商品の開発という大仕事の割には、失敗のリスクが少ないという理由で、事務局に入って一ヶ月の彼女にその企画が任された。
 また、スペシャルブロマイドに限らず、写真の現像・管理が好の事務局における担当領域になりつつあった。午前中に地下の暗室で現像とプリントを行い、午後からプリントを各部署に届けるというパターンが増えた。写真の届け先が、神田の月組本部や浅草の花やしき工厰など、帝劇の外になることもままあり、ついでとばかり買い物を頼まれることも少なくなかった。
「よ・し・み・ちゃ〜ん、待ってたわあ〜ん」
 暗室を出るなり頭上からそう声をかけられ、好は一瞬身を竦ませたが、相手の用件を察して傍らの巨漢を見上げた。
「どうしました、斧彦さん?」
「好ちゃんに頼みがあるの。これなんだけど」
 太田斧彦は、軍衣の懐から一枚の紙を取り出して好に渡した。それは、雑誌広告の切り抜きで、フランスの有名メーカーの新作口紅が、今月三越で発売されることを告知したものだった。
「えー……『秋の新色全六色、十月上陸』。どの色ですか?」
「全部よ。全部買ってきてちょうだい。お金は渡しとくから」
「あ、でも、スペシャルブロマイドの打ち合わせとさくらさんのポスター撮影があるから、今日中には無理ですよ。明日神田に行くから、そのときにでも」
「わかったわ。じゃ、楽しみにしてるわねん」
 数枚の高額紙幣を好に押し付け、斧彦はその場を去っていった。

 好は紙幣と広告をポケットに入れ、その足で二階に上がった。サロンには花組が集まっているはずだ。スペシャルブロマイドの試し撮りを見てどの衣装にするかを決めてほしいからと、花組隊長でブロマイドコレクターでもある大神一郎を通じて、サロンに集まってもらうように頼んであったからだ。
 大きな窓からたっぷりと光を取り入れて明るい室内に、今をときめく帝国歌劇団の看板女優たちが三つのテーブルに分かれ、優雅に座っている。テーブルにはよく手入れされた白磁の茶器と高級そうな茶菓子が置かれ、ガーネットのように深みのある色の紅茶が、香り高い湯気を立てていた。
 あまりにゴージャスなその光景に気後れを覚え、好はサロンの入り口で立ち止まる。
「……お待たせしました」
「ああ、気にしなくていいよ。好くんの席はここだから」
 大神が笑って彼の正面の席を手で示す。
 好が失礼します、と一礼して席に着くと、大神が手慣れた手つきで紅茶を入れて供した。そのよどみのない、洗練された動作に、彼女は目を丸くした。
「ずいぶんと手慣れていらっしゃる。どちらかというと、お茶を入れてもらう立場でしょうに」
 将校には、身の回りの世話をする兵がつけられる。その役割を果たす兵を、陸軍では当番兵、海軍では従兵と呼ぶ。宇都宮では見習士官で、正式な少尉任官と共に帝劇に来た好にはまだついていなかったが。
 好の疑問に答えたのは、大神ではなく神崎すみれだった。
「このわたくしが、手ずから少尉にお教えしましたの。お紅茶をおいしく入れられるのも、国際人に必要な教養ですわ」
 好はそういうことかと納得して、紅茶を口に含んだ。紅茶通として知られるすみれが自慢げに言うだけあって、大神の入れた紅茶は申し分ない味だった。
「とてもおいしいです」
「それはよかった」
 好が感想を述べると、大神は破顔した。
 好はなぜかその笑顔を正視できなかった。ごまかすように逸らした目が、今になって重大な想定外を見つける。
「織姫さんはどうしたんですか?」
 そうなのだ。花組の一人で、大神がこの場に呼んだはずのソレッタ・織姫の姿がない。そのことを誰も疑問に思っていない様子だったので、好は今の今まで気がつかなかった。
「シエスタの時間だから」
「そうそう。一時から三時まではお昼寝の時間なんだって」
 レニの端的な説明を、アイリスが補足する。
 好は再度目を丸くした。
「大神さんが呼んだのに来なかった? いいんですか?」
「いいんだ。織姫くんは必ず来るから。気にせずゆったり構えて」
 上官の命令に従わないことは、軍隊なら軍法会議にかけられるほどの重罪だ。帝国華撃団には軍隊とは異なる秩序があると大神に教えられてはいたが、それでも、上官が部下の命令違反を容認しているように取れる彼の発言には驚きを隠せなかった。

 大神の言葉に釈然としないものを感じながらも、好は用件を切り出した。
「スペシャルブロマイドの試し撮りができました。お客様代表の大神さんの意見を参考にして、今日どちらの衣装にするか決めて下さい」
 と、先ほどできたばかりの試し撮りを本人たちに配り始めた。
 ちなみに、候補となる衣装は、各人以下のようになっている。
 真宮寺さくらは、白を基調とした、清楚ながらも大胆な水着姿と、湯上がりの香りがほんのりと漂ってきそうな藍染めの浴衣姿。
 神崎すみれは、夏公演『リア王』で演じた長女ゴネリルの衣装と、六月にお見合いをしたときに着たという紫色のカクテルドレス。
 マリア・タチバナは、肩から胸元にかけて大胆に露出した黒のイブニングドレスと、どこかの旅館のものとおぼしき質素な浴衣姿。
 アイリスは、秋公演『青い鳥』で演じたミチルの衣装と、明るいブラウンで落ち着いたデザインの、少し大人っぽいワンピース姿。
 李紅蘭は、中庭のトマト畑で農作業に励む姿と、緑色のつなぎを着て整備の合間に休憩する姿を、やや俯瞰気味のアングルで捉えたもの。
 桐島カンナは、夏公演で主役のリア王を演じた堂々たる姿と、帝劇の屋根から遠い空を見つめる姿。この撮影は大変な恐怖を伴うものであった。
 レニ・ミルヒシュトラーセは、『青い鳥』のチルチル役の衣装と、中庭の犬(フントという名は彼女がつけたらしい)と戯れている姿。
 そして、この場にまだ来ていないソレッタ・織姫は、『リア王』で次女リーガンを演じたときの衣装と、一風変わったデザインの深紅の水着姿だった。
 この場にいない織姫の分は大神に渡して、好は各自の意見を聞き始めた。
 最初に意見を述べたのはさくらだった。
「あたしは、水着の方で行こうと思います。動きがあって目を引く構図だと思いますから。大神さんはどう思われますか?」
「そうだね。明るく健康的な感じがして、さくらくんらしいと思うよ。浴衣の方も色っぽくて捨てがたいけど」
 大神の言葉に、さくらがぱあっと頬を染める。
「でしたら……好さんがいいって言ってくれたら差し上げますよ。いいですか、好さん?」
「あ、ええ。決定の方だけいただければ、後はご自由にどうぞ」
 好がやや気圧され気味に了承したので、選考はすっかりその路線になってしまった。すなわち、無難な方を販売用にし、大胆な方を大神に進呈である。
「私としては、どちらも少し恥ずかしいのですけれど……」
とマリア。
「このドレスには、あの日少尉がわたくしを選んで下さった思い出がございますから」
とすみれ。
「ちょっと大人になったアイリスをあげるね」
とアイリス。
「まあウチはどっちも似たようなもんやけどな。トマトの収穫手伝ってくれたお礼に、畑の方は大神はんにやるわ」
と紅蘭。
「あたいも。屋根裏の修理手伝ってくれたお礼だぜ」
とカンナ。
「ボクは『青い鳥』が初舞台だ。舞台衣装の方がお客様に認知されやすい。残った方は……好きにしていいよ」
とレニ。 
 帝劇の看板を華やかに飾る花組スタアの、公には流通しない写真を一斉に手渡され、大神は圧倒されながらも、先ほど好に見せた笑顔でそれを受け取った。
「みんなありがとう。大切にするよ。あとは織姫くんを待つだけだね」
 そのとき、大神の声を待っていたかのように、鋭い声と固いヒールの足音がサロンに飛び込んできた。
「なーに写真を勝手に自分のものにしてるですか−!」
 織姫が、足音高く大股でテーブルに歩み寄る。テーブルに置かれていた十数枚の写真の中から、正確に自分の写真をひったくり、そのうち水着の写真を好に突きつけた。
「これを決定稿にするです! わたしの写真が、許可なく少尉さんのものになるなんてとんでもナッシングでーす! 部屋で一人わたしの水着姿を眺めてるところを想像しただけで、チキンスキンになります! あなたも、スペシャルブロマイドの企画担当者なんですから、写真の管理ぐらいちゃんとやってください。スタアの写真は、試し撮りでも商品になり得るんですよ? そこのところ、ちゃんと分かってるですか? それじゃあわたし、またシエスタしますからー、チャオ」
 長台詞を見事な滑舌で叩き付け、織姫はドレスの裾を翻して去っていった。

 そのあまりの勢いに、好はしばらくぽかんとしていたが、言葉の意味が浸透するなり織姫を追いかけるように腰を浮かせた。だが、その落としどころはもうこの場にはない。自分にも正体が分からない感情の矛先は、そんな織姫の在りようを容認した大神に向いた。
「どうしてあんなに言われて、黙ってるんですか。だめなことはだめだと、きちんと注意するのが隊長の務めでしょう?」
「どんな諌言も、相手が聞こうとしなければ言っても無駄だよ。それに、ああやって人を試すのが織姫くんのやり方だから、挑発に乗った方が負けだ」
「それはそうですけど……」
 好は釈然としないまま席に着いた。大神の言葉が後を追う。
「少なくとも、織姫くんは初陣以外で俺の命令に反抗したことはない。戦闘のとき以外でもそうだ。今のところはそれで十分だと思っている」
 そう言う大神の声には、己の無力さへの苛立ちがわずかに込められていた。
「……そうですか」
 好は溜め息をついて、腕時計で時刻を確かめた。さくらをポスター撮影の現場に送る時間が近づいている。彼女は写真を封筒に収めて席を立った。
「お忙しい中、時間を割いていただいてありがとうございました。そろそろ時間のようですので、私たちはこれで……。さくらさんは着替えてロビーで待っていて下さい」
「あ、そうですね。あたしたち、これから撮影があるので失礼します」
 さくらがいとまを告げて、その場はお開きとなった。すみれとマリアが茶器を片付け、他の者がそれぞれにサロンを離れてゆく。

 好はその様子を背後に感じ取りながら、先ほどの自分の過ちを悔いた。着任初日に、月組隊長の加山に言われた言葉を、苦々しく思い出す。
『あの花園は遠くから眺めるだけにしとけ』
 そう厳しく戒められていたのに、好はそれを破って花園の泉に石を投げ込んだ。
(私は何をやっているんだろう……)
 自分がブロマイドの企画担当者としての責任を問われることは仕方のないことだ。それよりも、好は大神が織姫に悪し様に罵られるところを見ていられなかった。
 くさくさした気分のまま、好は車庫に下りた。むっつりと唇を引き結んで、無言で蒸気自動車の点検を始める。
 蒸気自動車の運転ができるからという至極単純な理由で、好は女優が外で仕事をする際の運転手兼付き人の仕事を頻繁に任されるようになっていた。
 そうでないときは、写真の現像で暗室にこもり、写真の配達で華撃団の拠点を渡り歩き、神田の月組本部(帝都芸能出版社)に行った時にはそこで研修も受ける。それが着任当初の任務−−スパイのあぶり出し−−を終えてからの過ごし方になっていた。
 おかげで出勤時と退勤直前以外に事務室にいることが少なくなり、事情通の榊原由里から噂話を聞かなくなって、最近の好は花組の事情にとんと疎い。
 だから、何の予備知識もなく大神と織姫の確執を見せられて、どうしても冷静でいられなかった。大神が部下である織姫から罵られることは、自分が将来部下を持った時にそうなる可能性に直結している気がした。
 もし自分が大神の立場だったとして、部下からああも悪し様に罵られて彼のように冷静でいられるだろうか?
 否。
 好はそう即断した。そんな自分の狭量さに、ほとほと嫌気がさす。
 火の入った蒸気自動車のエンジンが暖まるにつれて、好の頭も煮えていった。至らない自分を責める気持ちが胃を突き上げ、喉にこみ上げる。唇を噛んでそれを耐え、一言だけ形にすることを自分に許した。
「かなわない……何もかも」
 大神の器の大きさにも、大神と花組の絆の強さにも。
 大神は織姫を信頼している。今だけでなく、将来心を開いてくれる可能性を含めて。織姫も、それを承知で大神に突っかかっている。要するに甘えているのだ。他の花組隊員も、大神と織姫の微妙な均衡に口出しせず見守っていられるほど、彼を信頼しきっている。少なくとも好にはそう見えた。
 確かにあそこは、好のような余所者が足を踏み入れることを許されない花園だった。今さらながら、それに干渉した自分の無粋さが痛かった。
 角度を調整しようとバックミラーを見上げると、そこには今にも泣き出しそうな顔が映っていたので、好は目を閉じて深呼吸した。

(大丈夫。私はまだ笑えるはず)

 そう念じてバックミラーに向かって笑ってみせる。
 いかなる状況でも笑みを絶やさないのは、指揮官たる将校のたしなみだ。それは部下を不安にさせないためであり、心と体に余裕を取り戻すためでもある。部下を持ったことのない窓際少尉の彼女でも、将校としての心得は自分に課していた。

(大丈夫)

 確認するように心中に呟いて、好は車を出した。

 玄関前に車を付けて迎えにいくと、さくらはグレーのワンピースに着替えてポーチで待っていた。清楚なデザインと大きな白い襟が、修道服を連想させる。それに合わせて、髪を下ろしてカチューシャで止めたスタイルは、彼女の清純派のイメージをよりいっそう際立たせていた。
 さくらを後部座席に乗せ、車を発進させる。
「これから一橋の撮影スタジオに向かいます。そこで、衣装とメイクについて打ち合わせの後、S社の年末商戦ポスターに使う写真を撮影します」
 運転しながら、今後の予定についても確認した。
「今日はそれ以外に予定がありませんから、さくらさんに行きたい場所がおありなら、お供いたしますよ。どうなさいますか?」
 そこまで確認して反応がないのを訝しく思い、好はバックミラー越しにさくらの表情を確かめた。
 さくらは硬い表情で、好に何か言いたそうな様子を見せていた。
「さくらさん?」
 好が呼びかけると、さくらは意を決したように口を開いた。
「……あの、好さん。大神さんと織姫さんのこと、あまり責めないであげて下さいね」
「いえ。私の方こそ無粋なことを……」
 自分が無粋なことをしたことは十分に承知しているはずなのに、明確な謝罪の言葉を口にすることができない。好は曖昧に言葉を濁して運転に集中した。
 気まずい沈黙の空気が車内に充満する。
 それを申し訳ないと思いながら、好が話の接ぎ穂を見つけられないでいると、さくらが気遣うように言った。
「びっくりしたでしょう? 軍隊ではありえないことだから」
「ええ、まあ。でも、大神さんと織姫さんの間に何があったんですか? 大神さんは『試してる』とおっしゃってましたが」
 少なくとも好の知る限り、織姫は周囲の誰に対しても自信満々、明るく強気にふるまっている。彼女が自身の言葉通りに大神を嫌っているとすれば、しつこくつきまとわれでもしない限り、彼からどのような感情を抱かれようとたいした問題ではないはずだ。また、好が感じ取ったように甘えの現れであるなら、織姫のあの試し方は過激に過ぎる。そこには見捨てられることへの強い怯えが透けて見えるのだ。織姫ほどの自信家が取る態度のようには見えない。
 ならば、大神がよほど織姫を怒らせるようなことをしたのだろうか。大神は織姫にとって直属の上官に当たるが、その立場よりは、帝劇で共に働く仲間として織姫に接している。織姫が、大神に対して「上官と部下」という命令系統上の関係だけを求めて、そうした個人としての交流を疎ましく思うというのはありそうだ。ただしその場合でも、織姫がわざわざ突っかかって彼を試す必要はない。
 さくらも不可解そうに首をひねった。
「さあ……。織姫さんは『日本の男が嫌いだ』と常々言ってるんですけど、そもそもどうしてそうなったんでしょうね? 星組時代に何かあったのかしら」
「星組?」
「帝国華撃団ができる前に実験的に組織された、エリート部隊だそうです。織姫さんとレニはその隊員だったそうですよ。……あ」
 さくらは何かを思い出したのか、そこで言葉を切った。
「月組にも、元星組隊員がいるんですよね? この前レニを探すのを手伝ってくれた、伊藤さんって人。好さんは、何か聞いてないんですか?」
「いえ……元星組ってこと自体初耳でしたので」
「もしかしたら、何か知ってるかもしれませんね」
「そうですね。クラレンスとは会う機会もあるし、覚えてたら聞いてみます」
 月組隊員で『月刊帝都芸能』の編集長であるクラレンス・伊藤は、現在チューターとして、好に諜報活動・呪術・対降魔戦の基本を教えている。そんな事情で、帝劇以外に所属する月組隊員の中では、会う機会がもっとも多かった。好は明日写真を届けに行ったついでにでも聞いてみようと、心の中にメモした。
 そんな話をしているうちに、車は目的のスタジオへと着こうとしていた。好はスタジオでの段取りを考えながら、車を目的地に滑り込ませた。

2
 
 翌日、好は現像した写真を届けに神田の月組本部に出かけることになった。
 その途中、帝劇の玄関先で花組に出会った。スタアが一所に集まると、普段着でも華やかなものだ、と好は目を細めた。
「おはようございます。皆さんお揃いでどちらに行かれるんですか?」
「ああ。浅草寺の秋祭りを見に行くんだ」
「それはそれは。楽しんでいらしてください」
 大神の答えに愛想良く返しながらも、不本意そうにその場にいる織姫の姿を見つけ、好は内心で舌打ちしたくなった。

(大神さんのことが嫌いなら、無理して来なきゃいいのに)

 心の中に広がるどす黒い感情の存在に気付き、好はいたたまれなくなった。自分がひどく醜い人間に思えて、胃のあたりが固く冷える心地がする。
「では、私は写真を届けに神田に行ってきますので……」
 好は内心の醜さを悟られぬよう、それだけを注意深く言って、足早に玄関を出て行った。大神のいってらっしゃい、という声に、たまらないほどの罪悪感を覚えながら。


*    *    *

 そうして訪れた月組本部で写真の配達と研修をすませたのち、好はクラレンスに聞いてみた。
「クラレンスは星組の隊員だったんだって?」
 好より二歳年上で、月組の先輩でもある彼にこのような話し方をするのは、「日本の友達」を欲しがる彼がそれを強く望んだからだった。最初は抵抗を覚えたが、彼の明るくストレートで、ある意味幼く見える言動のおかげで、今は弟にでも話すかのように自然にそうできるようになっている。
「はい。といっても、星組の中の月組みたいな、いわゆる後方部隊ですけど」
 対するクラレンスは、相変わらず敬語である。こちらは、単に敬語しかしゃべれないからだ。
「織姫さんが大神さんに対してずっと反抗してるのは知ってるよね? クラレンスなら、来日前の織姫さんのことを何か知ってるかと思ったんだけど」
「うーん……僕も織姫さんのことはそれほど知らないんですよね……」
 クラレンスが顎に手をやって首を傾げた。黒髪の映える端正な容貌に落ち着いた黒のスーツ姿で、こうして静かに話している分には、東洋の血を引く神秘的な英国紳士というふうに見える。実際は、その印象とは正反対のハイテンションな男なのだが。
「星組時代には部隊が違うから話す機会もそれほどなかったし、日本に行く船で一緒になった時にいきなり嫌われたもので」
「え? なんで」
「僕が日系人だからです。『日本人の子のくせに英国紳士気取りなんて、日本人よりたちが悪い』って、それはもう」
「それはさすがに……」
 好は言葉をつまらせて口を塞いだ。激しく生々しい憎悪と差別感情の現れたその言葉は、当事者でない彼女をも動揺させるに十分だった。
「でも、それが本心だとは思えませんでした。むしろ、もっと深いところからくる強い怒りと憎しみ、それと同じだけの悲しみが、あの言葉の裏にあったのではないかと」
「どうしてそう思ったの?」
「僕に、それを感じ取る力があるからです」
 クラレンスはそう言って、織姫との出会いを語り始めた。


*    *    *


 Mars(火星)部隊の織姫さんは、部隊の中でも少し変わった存在でした。他の隊員がレニさんのように、寡黙で自分のことを話したがらないのに、彼女はイタリアの名門貴族ソレッタ家の出身だということを自ら明かし、部隊を越えて自分の存在をアピールしようとするところがあったからです。でも、華やかな美人で明るい人だから、人気者ではありました。
 だから、日本行きの船で一緒になる前に、僕は織姫さんのことをある程度知っていました。夏の太陽のように輝く容貌と、熱い感情を無差別に叩き付けるような激しい言動から受けた彼女の第一印象は、「まさに太陽。不用意に近づけば火傷しそう」でした。
 けれど、実際に話をしたのは、帝国華撃団への入隊が決まり、日本行きの船に乗り合わせてからでした。その船には僕と織姫さんの他に、かえでさんとレニさんが一緒に乗っていました。そこでの初対面(実際には、僕は何度も織姫さんを見かけてて顔は知っていたのですが)の挨拶を交わしたのが、初めての会話でした。
「初めまして。僕の名前はクラレンス・伊藤です。よろしくお願いします」
「ふふん、よろしく。でも、握手はノーサンキューでーす」
 初対面の挨拶と一緒に差し出した手は、はたかれることすらなく拒絶されました。理由を尋ねると、「日本の男は汚らわしい」と一言だけ。
 もちろん僕は反論しました。
「確かに僕の父は日本人ですが、僕はイングランド生まれのイングランド人です」
 そう言ったら、織姫さんは激怒しました。
「日本人の子のくせに、ジェントルマン気取りですか? 日本人よりたちが悪いです! それで両親に愛されてまっすぐ育ってきましたって顔して。冗談じゃないわ!」
 そう叫んだ織姫さんの、強烈な憎しみのこもった目は、今でも忘れられません。そして、織姫さんはレニさんを連れて自分の船室に帰ってしまいました。
 あれは……すごくショックでしたよ。僕は慇懃な隔絶という形での差別には慣れていましたが、そこまで激しい憎悪を向けられたことは初めてでしたから。
 それから織姫さんとは口をきくこともできず、船の上で悶々とした日々を過ごしていました。
 でもある日、甲板で織姫さんのイヤリングを拾ったんです。
 すると、イヤリングにたまっていた織姫さんの感情が、僕の指を通して一気に流れ込んできました。星組入隊前からの、寂しさ、心細さ、不安、悲しみ、怒り、憎しみ……そういったものが、混沌と混ざったままで。「遮断」も間に合わず、僕はその場でイヤリングを持ったまま泣いていました。
 その時に意識して読み取ろうとすれば、イヤリングにたまっていた感情の正体もわかったのでしょうが、僕にはできませんでした。あまりにも重い感情の塊を取り込んだ体の方がそれに耐えられず、熱を出して寝込んでしまったからです。
 部屋に置いてあるだけで悲しくなって仕方がなかったので、イヤリングはかえでさんを通じて織姫さんに返しました。
 そうして日本に着いてからは、花組と月組で離ればなれになり、レニさんが帝劇を飛び出して僕が呼ばれるまで、会うことがありませんでした。


*    *    *

「だから、この前織姫さんに会ったときは驚いたんですよ。ずいぶんと穏やかになってて。ああ、これは大神さんのおかげなのかな……と思いました」
 クラレンスは昔語りの最後にそう付け加え、ふっくりと幸せそうに笑った。
 好は、彼の笑顔にわずかな胸の痛みを覚えながら同意した。
「うん……そうかもしれない。今の織姫さんは、大神さんやみんなが許してくれるのを承知で、大神さんに突っかかってるように見える。それにしても」
 好は両手を広げて「お手上げ」のポーズをしてみせた。
「クラレンスにも分からないなら、きっと星組以前の話だよね。もう大神さんじゃどうしようもないじゃん」
「そうなんですよね。一般的に、女の子の男性観は父親を基準に作られるといいますから、織姫さんの父上が日本人で、幼い頃にその父上との関係が何らかの傷を残した……というのが原因として想像できますけど」
「本当にどうしようもないな。だから大神さんも、積極的に関係を修復しようとしないのかな」
 好の耳に、命令に従ってくれるならそれで十分だと言った大神の声が蘇る。自力では解決できない問題を前に己の無力を呪う彼の声は、これまでに聞いたことのない色をしていた。
「織姫さんが父上との問題を解決するのは難しいとして、大神さんが父上とは別の人格を持っていて、信頼に足る人だと認識できるようになれればいいのでしょうけど……」
「それだって難しいよ。この半年一つ屋根の下で暮らしてきて、大神さんのいいところを見る機会はいっぱいあったはずだよ? なのに、織姫さんが素直に大神さんを認められないってことは、それだけ織姫さんが頑なになってるってことじゃない。何年かかるんだって話になっちゃう」
「どちらにしても、僕らが気をもんでも仕方のないことです」
「そうだね。しょせん私たちは、外から見ていることしかできない立場だ……」
 口に出して言うと、改めてそのことを認識させられる。花組は不可侵の花園、自分たちは部外者で、干渉することは許されないのだと。好はほぞを噛む思いでその言葉を反芻した。
 気付けばうっかり長居をしてしまった。好はクラレンスに礼を言ってオフィスを辞した。


*    *    *

 その後、好は三越の食堂で少々奮発した昼食をとり、斧彦に頼まれた買い物をして帝劇に戻ってきた。
 劇場に足を踏み入れるなり、売店で店番をしていた野々村つぼみが、不安げな顔をして駆け寄ってきた。つぼみの表情と緊迫した空気にただならぬものを感じ、好は眉を顰めた。
「どうしたの?」
「あ、好さん……。さっき怪しい人が劇場の前に立ってたんです。大神さんが中に入れたんですけど、なんだか二人とも、深刻そうな顔をしてて……」
「その人が何者か、つぼみちゃんは知ってる?」
「いえ、知らないです。でも、大神さんは『緒方さん』と呼んでました」
「緒方さん?」
 好はその名前に聞き覚えがなかった。つぼみが怪しむぐらいだから、帝劇の職員ではありえない。可能性として高そうなのは、クラレンスや鈴木レイのような、帝劇に所属しない華撃団の隊員か。
 そこまで考えたところで、甲高い女の叫び声が、食堂の方から聞こえてきた。
「ウソでーす!」
 その声は、吹き抜けになった天井に反響してよく響いた。その独特の抑揚と響き方から、声の主は織姫で、彼女が二階から二人を見下ろしていることが想像できた。
「あなたの言ってることは、全部でたらめ。あなたは、大ウソつきです!」
 織姫が階上から誰かを責めている。その声には、心がちぎれそうなほどの悲しみがにじんでいた。
「……あなたは、ママとわたしを捨てた最低の男です! わたしの前から消えなさい! そして二度と現れないで!」
 その言葉で、織姫が責めている相手が、彼女の父親であろうと想像がついた。
 織姫の名を呼ぶ大神の声と、低く沈んだ別の男のぼそぼそとした声が聞こえてきて、食堂のドアが開いた。
 中からは、きちんとした身なりをした日本人の男が、大神に付き添われて出てきた。前髪を下ろした髪型は若作りに見えるが、口元の髭としわに、相応の年齢が感じられる。悄然と肩を落とし、無理に微笑を浮かべているのが、少し離れた場所にいた好にも見て取れた。
「……どうも、とんだご迷惑をおかけしました。大神さん……織姫のことをよろしく頼みます」
 男は大神に向かって頭を下げた。
「いえ、こちらこそ、辛いことをお話しいただいた上にこんなことになってしまって……本当に申し訳ありませんでした」
 大神が男を玄関ドアまで案内し、閉じられたドアに向かって深々と礼をした。
 そして仕事に戻ろうかと振り向いたところで、売店の前にいた好とつぼみに気付いたか、ややぎこちない笑みを浮かべた。
「やあ好くん、お帰り。いつ帰ってきたんだい?」
「つい先ほどです。つぼみちゃんがとても不安がってたので、何事かと思ってたんですが……今のお客様は?」
「織姫くんの父上で、緒方星也さんという人だ。いろいろ事情があって、今まで生き別れになってたそうだ」
「そうだったんですか。怪しいなんて言っちゃって悪いことをしました」
 つぼみが自分の頭をこつんと小突いた。
「そうか……それで……」
 思わず漏れた好の呟きを、大神が聞きとがめた。
「好くん、何か知ってるのかい?」
「いえ、知ってるというわけでは……神田でクラレンスとそういう話になったもので、少し気になってて」
 好はクラレンスから聞いた、織姫との船上での話と、彼の推測を大神に伝えた。
「そうだったのか……俺はともかく、織姫くんと緒方さんが分かり合えないままというのは悲しすぎるな」
 唸るようにそう言う大神の表情は、険しく何かを思いつめているようであった。
 その表情に、好はひやりとしたものを感じた。白い布を薄墨に浸すかのように、悪い予感が胸中に兆すのを感じながら、彼女は地下へと下りていった。

3

 好は斧彦に頼まれて買った口紅を携えて、地下にある特務隊員詰所(通称:薔薇組の部屋)を訪ねた。
 そこには士官学校時代の同期である丘菊之丞が常駐しているし、部屋の主である清流院琴音にも「いつでもいらっしゃい」と言われているが、わざわざ積極的に訪ねることはあまりない。ただ、部屋の住人からしばしば買い物を頼まれる関係上、好にとっては、なんだかんだで週に一度は訪ねている、ちょっとした友人の住まいのような位置づけの部屋だった。

「こんにちはー」
 やや気の抜けた挨拶をして鉄扉を開けると、煙ったい薔薇の香りが漂ってきた。他人の家にはどこも独特の匂いがあるものだが、こんなに強烈な香りを年中漂わせる「人んち」はここくらいなものだろう。
 中では斧彦と菊之丞の二人が、机に積まれた新聞や雑誌を熱心に読んでいた。それが諜報活動の基本で、もっとも重要なものだと知ったのはつい最近のことだ。好自身が月組での研修で諜報活動の何たるかを学んだからだ。
 好に気付いた二人は、誌面から顔を上げて笑顔で答えた。
「いらっしゃい、好さん。散らかっててごめんなさい」
「あら、もう買ってきてくれたのね。仕事が速くて助かるわ」
 菊之丞がいそいそと机の上を片しながら立ち上がり、斧彦が巨体をくねらせながら歩み寄ってくる。
 好は部屋をぐるりと見渡して尋ねた。
「いや、それはいいんですけど……琴音さんは?」
「琴さまは床屋に行ったわ。もうすぐきれいになって帰ってくるわよ」
 斧彦の答えにそうですか、とだけ答え、好は口紅の入った紙袋を彼に手渡した。
「きゃーっ、これよ、これ! ケースのデザインもおしゃれねぇん」
「あ、今度の新色はわたし好みの色もあってうれしいです」
 好の手から紙袋を受け取ると、男たちはきゃあきゃあと女学生のような黄色い歓声を上げつつ、口紅の品評を始めた。試しにとばかり塗ってみたりもする。
 鏡に向かって筆で丁寧に紅を塗ってゆく彼らの姿は、迷彩以外の化粧をしたことがない好なんかより、ずっと手慣れて見えた。迷いのない筆さばきできれいに塗り上げ、半分に折った懐紙をくわえて余分を吸い取らせる。体格も顔の造作もごつい斧彦だと特殊メイクの作業中のようだが、華奢な体格で童顔の菊之丞だと少し色っぽくさえ見えた。好はそれを見て、奇妙な苛立ちを感じた。

(すっかり板についてる……以前に、あれが私よりも似合うこと自体、なんというか、その)

 あれとは、菊之丞が着ている女性用の略装である。好も一応持ってはいるが、騎兵は馬に乗るのが本分だからと男性と同じ軍装で通していたので、ほとんど着たことがない。とはいえ、男性である彼がそれを着て自分よりも似合っている現状には、これはこれで悔しいものがあった。
 彼らの喧しいおしゃべりが終わりそうもないので、好はいとまを告げて退出しようとした。その耳に自分の名が聞こえたので、ふと足を止めた。
「あ……これ、わたしにはちょっと濃すぎたみたい」
「そうねえ……好ちゃんになら似合うんじゃないかしら。ちょっと試してみない?」
「いいですね! 好さんはもう少しおしゃれした方がいいとわたしも思ってました」
 聞かなければよかった、と後ずさりして部屋を出ようとしたが、それよりも早く、キラーンと輝く二人の目に捕まってしまった。
「好ちゃん、ここにかけてちょうだい」
 斧彦に猫なで声で言われ、こわごわソファに腰掛ける。本来少尉が軍曹の命令を聞く必要はないが、普段妹のように可愛がってくれてる相手の好意を無下にはできないという良識が好を押しとどめた。
 好の目の前では、菊之丞が明るいローズピンクの口紅を筆にとっている。そして、彼女の傍らで膝立ちになって顔をのぞき込んできた。菊之丞の顔が近づいてきて、彼女はぎくりと身をこわばらせた。
「ウソ、冗談でしょ……? ちょっと……」
「好さんったら、何をそんなに怖がってるんですか。口紅を塗るだけでしょう?」
 菊之丞がニコニコと微笑みながら、不思議そうに首を傾げている。
「そんなに怖かったら目をつぶってていいですから。ね?」
「うん、わかった……」
 言われた通りに目を閉じて、両手でしっかりと肘掛けを握りしめる。そうしたところで何が変わるというわけでもないが。
 菊之丞が覆いかぶさるように近寄ってくるのが、気配と顔に降り掛かる吐息で分かる。彼が言うように口紅を塗るだけなので身構える必要はないはずなのに、体が燃えそうに気恥ずかしく、早く終わらせてほしいと心底思った。
 それはさておき、歯を食いしばってるのを注意され、指示通りに唇を「イ」や「エ」の形にしているうちに、肝心の作業は終わった。好としては、筆先が唇に当たる感触に慣れなかったので、不用意に動いて菊之丞の手元を狂わせないよう我慢するのが大変だった。
 にもかかわらず、菊之丞からは「終わりました」の一言がない。一分近くたって、さすがに怪しいと思った好が目を開けると、彼は食い入るようにこちらを見つめている。
「丘……?」
「好さん……可愛い……」
「はい?」
 聞き慣れぬ言葉に戸惑って菊之丞と斧彦を見比べると、二人は何かを堪えるような表情で、だが目は爛々と輝かせて好を見ていた。
 斧彦がたまらない、とでも言いたげに身悶えする。
「ああ〜ん、好ちゃんったらすっごい可愛かったわあ。女の子なのにチューしたくなっちゃったじゃないの」
「ふふ、そうですね。赤くなって震えてて。わたしまでいけない気分になりそうでした」
 女の子なのにチュー? いけない?
 彼らは男で、自分は女なのだから、それは普通のことなのでは……? いや、この場合、彼らの心は女だから「いけない」ことなのか……。
 好は、賞賛しているのか値踏みしているのか分からない二人のコメントに、目を白黒させるばかりであった。
「どうですか?」
 と菊之丞に差し出された鏡をのぞき込むと、見たこともない自分の顔が映っていた。頬がほんのりと上気して、少し目が潤んでいる。丁寧に塗られた口紅は肌の色によく馴染み、唇そのものがきれいな色になったようだった。好は、今初めて自分が「女」になった気がした。
 自分も捨てたものじゃないかもとか、でもなんか自分じゃないみたいだなとか、口紅だけではだめなんだろうなとか、とっさにいくつか思いついた感想を、好は一言で要約した。
「うーん……微妙……」
「好ちゃんは色付きリップ(クリーム)ぐらいがちょうどいいかもね、キャラ的に」
「う……」
 斧彦に遠回しに子供扱いされたような気がして、好は憮然とした。
 そこへ、床屋に行っていた琴音が帰ってきた。
「あら好、来てたの」
 声の方に振り返った好は、一瞬目を疑った。
 部屋に入ってきたのは、上から下まで完璧な軍装をした男だった。腰の辺りまでしかない、丈の短い憲兵マントが彼の身分を物語っている。無論、よく見知った顔と髪型から、彼が清流院琴音憲兵大尉であることは疑いようもないのだが。
 琴音は小気味よさそうに笑った。
「これならちゃんと憲兵らしく見えるでしょ?」
「ええ、それはもう」
 好は同意しつつも根本的な疑問を口にした。
「でも、床屋に行くのにわざわざ軍装を? 何かのついででした?」
 琴音は軍帽とマントを取り、それを斧彦に片付けさせながら奥の席に腰掛けて答えた。
「床屋談義も情報収集の一環だからね。市ヶ谷の床屋でも当たり障りのない噂話ぐらいしか聞けないけど、お宝はそういうところに眠ってるものよ」
 市ヶ谷の床屋と聞いて、具体的な店名が好にも想像できた。陸軍士官学校の側にあるその店は、少々値は張るが、丁寧な仕事ぶりで士官学校関係者のみならず、陸軍の高官にもこよなく愛されている。いわば、陸軍将校たちの非公式な社交場の一つだ。将校生徒が気軽に行けるような雰囲気ではなかったので、好は行ったことがないし、同期の菊之丞も同様のはずだ。
「それで、お宝は見つけられたんですか?」
 好が尋ねると、琴音は渋い顔をした。
「重要度からいえばお宝かもしれないけど、あまり嬉しくない話ね」
 琴音が聞いてきた噂話は、京極慶吾陸軍大臣が、陸軍士官学校で異例の演説を行ったというものだった。演説の内容は、国家の治安維持は軍と警察が担う、崇高な使命である。諸君らは若いうちは最前線で指揮を執り、遠くは軍の行く末を左右する将校の卵、この崇高な使命を肝に命じ、訓練と勉学に励まねばならない、とかなんだとか。
「うーん……正論というかありきたりというか、わざわざなんでっていうか……」
 話す対象を間違ったのではないかと好は思った。将来の進路を決めかねる中学生相手や、士官学校の入学式でならまだしも、生涯を軍務に捧げると決めて久しい将校生徒に話すには、今さらすぎる内容である。
「それに、どうして今の時期に? わたしたちがいた時に、京極大臣がお見えになったといえば、入学式と卒業式だけですよね?」
 菊之丞が疑問を示すと、斧彦が分厚い唇を歪めた。
「……なんかやな感じよね、それ。演説では語られなかったことが真意、じゃなくて? 琴さま」
「私もそう思ったの。だからこれは嬉しくない話よ」
「わたしたち、どうすればいいんでしょうか……」
「月組の力を借りたいところね」
 薔薇組の主語なき相談は、好の理解が及ぶ前に結論が出たようだった。その意味を尋ねたところ、信じられない答えが返ってきた。
「要するに、軍と警察以外の武力組織を許すなってこと−−帝国華撃団排除への布石と取れるかもって話よ」
「そんな!」
 好は狼狽もあらわに叫んだ。もしその実現に武力という手段が選ばれたら、彼女たちは自分を育てた古巣を相手に、絶望的な戦いをしなくてはならない。
「しかも一度兵糧攻めに失敗してるから、次は力ずくでくるわよ」
 琴音の言う兵糧攻めは、好が月組に配属される前の話だという。
 米田一基司令が銃撃された直後、財界から帝国華撃団に対する援助が一斉に打ち切られた。その後の月組の調べで、京極陸相が裏で糸を引いていたことが、断片的ながらも分かったそうだ。山口和豊海軍大臣の口添えもあり、帝国華撃団に対する経済封鎖は一月足らずで終わったそうだが。
 それが事実だとしても簡単に納得できる話ではない。好は敢然と異を唱えた。
「単に目障りというだけで、そこまでするでしょうか。確かに帝国華撃団の潜在兵力は、侮れない規模ではありますが」
 陸軍としては、公に認められた軍と警察以外の武力組織の存在に危惧を覚えるのは当然だ。帝国華撃団は陸軍対降魔部隊が母体だが、現在は陸軍から独立し、政府直属の首都防衛組織になっている。いわば、政府が陸海軍とは別の私兵を持っているような状態だ。
 今のところ、大した脅威と見なされていないので存在を黙認されているのが実情だが、軍内部で実態をそれなりに知る者は突出した技術力を危険視し、女子供の戦隊もどきだと思っている者は感情的な不快感を人道のオブラートに包んだ言い回しで表明する。好自身は、どちらかというと前者寄りの立場で、斬新な人型蒸気に対する知的好奇心をずっと持っていた。
 現在陸軍側の情報で公になっている戦力は、対降魔戦に特化された九機の霊子甲冑と九名のパイロットのみということになっている。
 しかし、実際の戦力は、好が知っている限りでも、その数十倍から百倍にはなる。花組の霊子甲冑が戦車一台相当と単純に考えるとして、これに二百名近い月組隊員と破格の機動力を有する武装飛行船・翔鯨丸を合わせると、一個大隊(千人弱)くらいの兵力にはなる。これに風組・夢組・雪組が加わるとして、その人数によっては、立派に一個連隊(約二千人)級の組織だ。実態を知るものにとっては十分な脅威である。総司令・米田一基中将の陸軍内での影響力も視野に入れると、「軍部統治論」−−すなわち軍部による独裁を目論む京極にしてみれば、排除すべき障害と見なされてもおかしくはない。
 だが実際、そこまで強引で拙速な手段をとるだろうか? 米田のいる帝劇だけが目標なら一個中隊(約二百人)で制圧できるだろうが、花やしきや帝都一円に数多く点在する月組の拠点をも制圧しようとすれば、それこそ内戦と言っていい規模の戦闘になる。かかるコストと後始末の大変さを考慮すれば、よほどの理由がない限り、そこまではしないだろう。軍部の十年先を行くと言われている花やしきの技術が目当てでも割に合わない。もっと穏便な手段で十分事足りるからだ。
 好が思うところを述べたが、三人は難しい顔をして考え込むばかりだった。陸軍が帝国華撃団に手を出そうとする理由について、彼女の知らない別の要素を知っているのかもしれない。それを聞いても答えてもらえないであろうことは、彼らの様子から察しがついた。
「いざとなったらバラバラになっても……」
「仕方がないわね。本当に一個中隊で来られたら、私たち三人じゃ守りきれないでしょうよ」
「そうなる前に、月組が手を打てればいいんですけど……」
 その月組の隊員に内緒で進められる密談に、さすがに気分を害した好が退出しようとすると、琴音が厳かな声で警告を発した。
「今からでも、最悪の事態に備えておきなさい。いざとなったら、あなたが花組を守るのよ」
 陸軍の一個中隊を相手に、花組を守りながら戦う−−琴音の言う通り、それは最悪の事態だ。万年筆を主力兵器とする事務員将校には重すぎる責任を両肩に乗せられ、好は息がつまりそうになった。

4

 大神一郎は、スタッフが夕食の片付けまで終えて無人になった厨房で残り物を物色していた。
 冷蔵庫を開け、何か軽くつまめそうなものでもないか探してみる。しかし、あったのはどれも調理を必要とする食材ばかりで、午後九時を過ぎた時間帯に食べられそうなものは一つもなかった。
 それは、自分が食べるために探しているわけではない。織姫のためだ。
 花組の隊長として、夕食の時にも自室から出てこなかった織姫の体のことが心配だった。消灯時の見回りのついでに、彼女が好きなドルチェの一つでも持っていってやろうかと思いついたまではよかったが、彼女が何を好きでどう扱われると嬉しいのか、ほとんど知らない自分に気がついて愕然とした。
 それどころか、今自分が何をしたところで、やぶ蛇もいいところだという気がしていた。なにせ、今織姫が直面しているのは親子関係の問題である。それに関して大神はまったくの部外者であり、下手に何か言おうとしたら、ただでさえおせっかいを嫌う彼女の心証を余計悪くするのは目に見えていた。今はただ、彼女が落ち着いて、緒方との関係を見直せるようになってくれるのを待つしかないのか。
 大神は、暗澹とした気分で電灯を消し、厨房をあとにした。

 そうして自室に戻ってもなお、今日織姫が見せた激しい怒りに対して自分が何もできなかった無力感を噛みしめていた。
 帝劇を出た時には、あんなに楽しそうだったのに。


*    *    *


 今日の花組は歌や踊りのレッスンも外での仕事もない完全オフの日、それに準拠する形で、大神も事務局や裏方の手伝いをしなくていい休日だった。
 折よく浅草寺で秋祭りをやっているものだから、日本に来て間もない織姫やレニに日本の文化を知ってもらおうと連れ出した。
 しかし、そこで織姫が似顔絵描きの男に出会ったことで、事態が思いもよらぬ方向に急展開した。どうやら二人は互いに知りあいらしかったが、織姫の方がひどく気分を害して一人で先に帝劇に帰ってしまった。彼女をそのままにしておくわけにもいかないので、境内に散った花組に事情を話して、大神たちもすぐに帰った。
 その後、大神は織姫に事情を聞こうとしたが、まったく取りつく島もなかった。
 いったい、あの似顔絵描きの男は何者なんだろう?
 その答えはほどなく明らかになった。似顔絵描き本人が帝劇を訪ねてきたからだ。
 彼の名は緒方星也。十七年間生き別れになっていた、織姫の父親だった。
 緒方はイタリアで名門貴族の令嬢カリーノ・ソレッタと恋に落ち、彼女との間に織姫をもうけた。カリーノの妊娠を知った緒方は、彼女との結婚を許してもらおうとソレッタ家を訪ねたが、彼が修行中の画家で日本人であることを理由に断られた。ソレッタ家は、緒方に帰国の旅費を与える一方で、彼のイタリアへの再入国を禁じた。緒方は、自分がいては貴族社会でのカリーノと織姫の立場が難しいものになると悟り、最愛の女性と娘の幸せのために断腸の思いで帰国した。
 ところが、最近になって、緒方は思いもかけず銀座の大帝国劇場で女優として活躍する娘の消息を知った。しかし、いかなる事情であれ、娘とその母親を十七年間顧みなかった自分に、会いにいく資格はないとあきらめていた。
 織姫はそうした緒方の事情を知ってか知らずか、父親が自分と母を捨てたと強く恨み、その余波で日本人男性全般を嫌うようになる。
 そんな二人が突然再会して、普通の親子再会のような展開を期待する方が無理というものだ。おそらく食堂の上の廊下から緒方の話を聞いていた織姫は、緒方を激しく非難して立ち去り、現在に至るまで自室に引きこもっている。


*    *    *


 織姫の抱える問題ははっきりしていて、解決の鍵は手に取れる位置にある。だが、彼女がそれを手に取るかどうかは、本人が決めるべきことで、直属の上官といえどそれを命じることはできない。たとえ命じてそうできたとしても、根本的な解決からはかえって遠ざかる。
 それが分かっていながらも、大神は何もしてやれない自分に苛立った。苛立ちが募りすぎて、木刀の素振りでそれを発散する気にもなれず、ばりばりと頭をかきむしった。
 そしてふと、格言好きの親友がかつて独り言のように呟いた言葉を思い出す。

(どんな問題も、結局は本人が乗り越えるしかないんだよ)

 普段陽気な彼が、ひどくシニカルな表情と陰鬱な声でそう言ったのが印象に残ったのだった。それは一番の親友である大神にさえ事情を聞くのをためらわせるほどだった。
 彼ならどうしただろう?
 そう思ってふと窓の外に目を向けた時、その親友が顔を真っ赤にして逆さにぶら下がっているのが見えたものだから、大神は裏返った悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。
「うわあああっ! 加山……お前、いつからそこにいた!?」
「……お前が部屋に戻ってきてすぐだ……ぐっ……」
「と、とりあえず中に入れ。話はそれからだ」
 大神が窓を開け放つと、加山は窓枠を鉄棒代わりにし、腕力と腹筋を駆使してゆっくりと体を半回転させながら机の上に下りてきた。
「相変わらず、無駄に器用だなあ……」
「……それが俺の信条だからな」
 加山はそうは言いながら、肩で荒い息をしていた。あのまま大神が気付かずにいたらどうするつもりだったのだろうか。
「そう言う大神こそ、相変わらず難しい顔をしているなあ」
「ああ……お前がここに来たってことは、もう何もかもお見通しなんだろう?」
 大神が片頬だけで笑うと、加山はとんでもないと手を振った。
「そりゃ、月組の隊長だから、それなりにはな。でも、織姫さんに関してはお前の知るところと大差ないぞ。ましてや彼女の本心など分かるわけもない」
「そういうのをお見通しっていうんだ」
 大神にねめつけられ、加山は乾いた笑い声を上げた。
「大神ぃ、お前らしくもないなあ、どうしたんだ。相手が誰であろうと、まっすぐ向かっていくのがお前のやり方じゃないか。それに、織姫さんにあれだけ嫌われちゃってるんだから、犯罪行為にでも走らない限りこれ以上嫌われることもないだろう?」
「お前なあ……」
 身もふたもない事実をさらりと指摘されて、大神は憮然とした。
「ほれ、昔から言うだろう。『当たって砕けろ』とか『雨降って地固まる』とか。お前が動くことで、織姫さんにちょっとした気付きを与えられるかもしれんし、ひょっとしたら劇的な反応を起こせるかもしれん」
 加山はそこで意味深な笑みを浮かべた。
「何しろお前は、『触媒』だからな」
「『触媒』はそういう意味じゃないと思うぞ……」
 「触媒」とは、二年前に花組を率いて黒乃巣会総帥・天海との戦いに勝利した時に、米田が大神を評して言った言葉だ。曰く、一人一人バラバラに存在していた花組隊員の霊力を、信頼という絆で一つにまとめあげ、強敵にも打ち勝つ強いものに練り上げていくのが、大神に課せられた使命であり存在意義であると。要は、少女たちが「この人のためになら戦える」と思える精神的支柱だ。自分がその器であるとは、今になってもあまり思えないのだが。
「お前の思ってる意味でもそう間違ってはいないさ。織姫さんが自分の意志で花組の隊員を続けている以上、従うにしろ反発するにしろ、お前の言葉をもはや無視できないんだ。そして織姫さんは行動を起こすための刺激を必要としている。ここまで言えばもう分かるよな?」
「OK、了解、よく分かった。織姫くんともう一度話をしろと」
「ああ。お前から特別何も言ってやれなくても、話を聞くだけでいい。気にかけている姿勢をきちんと見せてやるんだ」
「ありがとう、加山。忠告感謝するよ」
 大神は最後にちくりと付け加えた。
「……実体験に基づくものだったら、もっと説得力あったんだがな」
「ははっ……そこはそれ、月組には月組のやり方があるのさ」
 さらばだ、という声を残して、加山は窓から逃げていった。
「なんだかなあ……」
 大神は口に出してぼやいてみたが、その心が一人で悩んでいるときよりずっと軽くなっているのに気がついた。花組の前では口にできない軽口や皮肉とともに、心の中にあったもやもやを少し吐き出せたような、ちょっとだけ清々しい気分になっている。
 思えば、自分の中ですでに答えは出ていたのだ。織姫の話を聞く必要があると。それが、家族の問題に他人が口出しすべきでないという常識や、これ以上嫌われたらどうしようという恐れが、一歩踏み出すことをためらわせていた。
 加山はああ言っていたが、おそらくは大神が背中を押されたがってることまで見越していたのだろう。
「加山のやつ……」
 言いながら頬が緩んでいくのが、大神自身にもよく分かった。

 加山が出てからすぐ、大神は夜の見回りに出た。その最後に、織姫の部屋に立ち寄った。
 ドアをノックして返ってきた声は、案の定不機嫌極まりないものだった。
「……誰ですか?」
「大神だけど……織姫くん、話があるんだ」
「……どうせあいつに言いくるめられてきたんでしょー? わたしは、少尉さんと何も話すことはありませーん」
 木で鼻をくくったような、とはまさにこのことだ。だが、ここで引き下がっては何も変わらない。大神は深呼吸をして気持ちを落ち着け、ドア越しに静かに告げた。
「俺の話を聞きたくないなら、君の話を聞かせてほしい。……君がドアを開けてくれるまで、ここで待っているつもりだよ」
「ふん、勝手にすればいいでーす」
 宣言した通り、大神はドアの前で待ち続けた。
 分厚いドアに遮られているというのに、織姫の強烈な視線が突き刺さってくるような心地がした。おそらくは、いつも大神を試す時にするように腕を組むか腰に手を当てるかし、胸を反らして傲然とこちらを見据えていることだろう。大神は十八センチの身長差がある織姫の目の高さを想像し、仮想の視線と正面から斬り結んだ。ドアを隔ててさえこれだけ激しい視線の鍔迫り合いで、金属のこすれ合う音がしないのが不思議なくらいだった。
 その状態が五分、十分と続いて時間の感覚も怪しくなった頃、大神にかかっていた視線の圧力がふっと途切れた。織姫の気配が離れ、部屋の中からかすかな足音と箪笥の開閉する音が聞こえる。そうしてまた、突き刺すような視線の圧力とともに、織姫の気配がドアの前に戻ってきた。
「……もう、少尉さんもしつこいですねー」
 中に入って下さい、とドアが開けられた。中からはきちんと身なりを整えた織姫が現れた。大神を迎えるためにわざわざ着替えたのだろう。
 鍔迫り合いに疲れ果てた大神の口からは、気の抜けたような謝辞が漏れた。
「ありがとう……織姫くん……」
「それで? いったい何の用なんですか?」
 織姫は想像通りの腕組みをした姿勢で切り口上に問うた。もし手袋をはめていたら、それを投げつけて決闘でも申し込みそうに見える。
 大神は、まず織姫の知るところを確かめることにした。
「緒方さんの話は聞いていたね。あれは本当のこと?」
「あんなの、ウソに決まってます!」
「じゃあ、ソレッタ家の誰かが、緒方さんの話とは違うことを話していたんだ。織姫くんは誰から、どんな話を聞いていたんだい?」
 大神の問いに、低く押し殺したような声が返ってきた。
「……誰も、本当のことなんか教えてくれなかったわ−−ママだって」
「えっ!?」
「ママはわたしの前では絶対に泣かなかったけれど、一人のときはいつも泣いてました。私がその理由を、ママや周りの人に聞いても、誰も教えてくれませんでした」
「緒方さんのことはどうやって知ったの?」
「それは……話したくありませーん」
 織姫は俯いて唇を噛んだ。
「ああ……すまない」
「……わたしは、本来ソレッタ家にはいてはいけない子供でした。ママはそんなわたしを守るために、おじいさまたちや世間の目と戦って戦って……心の休まる暇なんかなかったはずです。その原因を作ったあいつを、許せると思いますか?」
「でも、緒方さんはカリーノさんのことを本当に愛してたみたいだよ」
「そりゃあそうでしょうよ、わたしが生まれるまでは! でもあいつは父親としての責任を果たす気がないから、日本に逃げ帰って似顔絵描きなんかやってる。本当に今でもママのことを愛してるなら、とっくに画家として大成してるはずなのに!」
 織姫はガン、と床を踏み鳴らして憤りをあらわにした。
「ち、ちょっと待って、織姫くん。緒方さんがカリーノさんを愛してることと、画家として大成することが、どうつながるのか分からないんだけど」
「ママは画商です。緒方星也の才能を誰よりも高く買ってて、その絵をヨーロッパに広めるために、自分が画家になることをあきらめてまで画商になったんです。なのにこの十何年、あいつは似顔絵描きとして日銭を稼ぐばかりで、日本のコンクールに出品すらしていません。あいつはママやわたしと一緒に、画家としての誇りまで捨てたんだわ!」
 おや、と大神は思った。織姫は緒方を憎んでいると言うが、どうやらそれだけではないらしい。織姫本人はそのことに気付いているだろうか。
「……ということは、織姫くんも緒方さんの才能は認めてるんだね」
 図星を突かれたか、織姫はさっと顔を赤らめた。
「少尉さん、わたしを見くびらないでください。わたしはアーティストとして、作家への感情で作品を見る目を曇らせるほどバカじゃないつもりですけど?」
「だからこそ、緒方さんが日本で才能をくすぶらせているのが許せないと?」
「ど……どうしてそうなるんですか!? 少尉さんはそんな話をしにきたんじゃないでしょー?」
「そうだったかな……俺は君の話を聞きにきただけだからね」
 織姫が涙目で睨みつけてくるので、大神はごめんごめん、と両手を挙げた。さすがに少々やりすぎたかもしれない。正しくても余計なことを言って相手を追いつめるのは、大神の悪い癖だ。
「……うん、でも織姫くんが思っていることを緒方さんにちゃんと伝えないと、いつまでたってもこのままだよ。それじゃ疲れるだろう?」
「……別に今さら−−もう慣れました」
 織姫は悔しそうに目を逸らした。
「織姫くん、俺は君に、人を憎むことに慣れてほしくない。……一度だけでいい、緒方さんときちんと話し合ってくれないか? 頼む」
 大神は織姫の目をしっかりと見据えて訴えた。
「今のわたしがあいつに会ったって、かんしゃく起こして傷つけ合うだけです……そんなことになったらまた見捨てられるわ……」
 意外に殊勝な織姫の返答に、大神はえっ、と虚をつかれた。
 ここにきてようやく彼女の本心が見えた気がした。事情がどうあれ、父親が自分たちの元を離れたことは、幼い彼女にとって悲しく心細いことだったのだ。その悲しみを伝えれば父親もまた悲しむし、今度は他ならぬ自分が原因で彼に見捨てられるかもしれないと彼女は恐れている。振り返ってみれば、織姫の自分に対する挑発的な言動は、自分が見捨てられない確信を得たかったからではないのか。
 大神は教えてやりたいと思った。親子の絆はそれくらいで壊れはしないと。だが、それを教えるのは自分ではない。
「織姫くん、だったらなおさら緒方さんと話し合った方がいいよ。……明日の夕方迎えに行くから、準備をして待っているんだ。大事なことだから、これは命令ということにしておくよ」
 我ながらちょっと強引な言い方だったかな……と思いながら、大神は部屋をあとにした。ここまで織姫の心に踏み込んだのだから、自分ももうあとには引けない。


*    *    *


 翌日、大神が約束した刻限通りに織姫の部屋を訪ねると、彼女は苦虫を百匹ほどまとめて噛み潰した表情をしながらも、きちんと出かける準備をして待っていた。
「ちゃんと待っていてくれたんだね」
「命令だからしょーがないです。いやなことはさっさとすませましょー」
 そうだね、と応じながら、大神は密かな感慨を覚えた。
 花組に転属してきてからの半年で、織姫は少しずつだが確実に変わってきている。初陣では無断で出撃して大神たちの肝を冷やしてくれたりもしたが、今はそんなことは決してない。指揮にはちゃんと従うし、他の隊員と連携しての戦闘もそつなくこなすようになった。帝劇での生活においても、マイペースにふるまいつつ、本当にしてはいけないことはわきまえているのが最近の彼女だ。

 浅草寺に着いてみると、緒方が昨日と同じ場所で似顔絵屋を構えていた。
「緒方さん」
 大神が声をかけると、緒方が友好的な笑みを浮かべて立ち上がった。
「やあ、大神さん」
 そして、大神の後ろにいた織姫を見つけて笑みを凍り付かせた。
「……織姫……」
 織姫は、昨日大神が見たよりも数倍険しい表情で、緒方を睨みつけていた。
 大神は、織姫に緒方とよく話し合うよう言い含めて、その場を離れた。
 ほどなく、織姫が緒方を怒鳴りつける声が聞こえてきて、やはり拙速だったか、様子を見に行こうかと思案している時にそれは起こった。
 後頭部を張り飛ばすような爆発音と共に、境内から火柱と黒い煙が上がった。火柱が間欠泉のようにあちこちで伸び縮みし、真っ黒でずんぐりとした体型の煙の巨人がゆっくりと立ち上がる。幾人もの巨人が炎に照らされ、目のない不気味な顔で人々を見下ろしながら身長を伸ばし続けていた。
 人々が悲鳴を上げながら大神のいた門へと殺到してくる。大量の人間が狭い門に一斉に集まり、あっというまに押し合いへし合いの大渋滞になった。押すな、どけ、早くしろと渦巻く怒号の中から、大神は重要な単語を拾い上げた。
 「怪蒸気」−−彼らの多くがその禍々しい加害者の名を口にしていた。
 黒鬼会はいったい何を狙って?
 その思考は一瞬の光のまたたきのようなもので、大神はすぐに現実へと目を向けた。
 逃げ惑う人々の群に織姫と緒方がいない。様子を確かめようにも、人の波がすでに一人では逆らって進めないほどに膨れ上がっていた。その間にも、炎と煙は勢いを増して広がり、人々に追いすがろうとしている。

(このままでは織姫くんと緒方さんが危ない!)

 大神は意を決して人の奔流に飛び込んだ。自分を押し戻そうとする流れを文字通りにかき分け、ようやく開けた場所に出た時には、あたりの様子が一変していた。
 寺の重要な建物のいくつかと出店の屋台は炎に包まれ、日暮れ空との境界がなくなるほど赤一色となっていた。そんな中でも一際目を引く赤が、織姫のドレスの緋色と、その傍らに立つ長身の男が着ているスーツの茜色だった。
「お前は……火車!」
 黒鬼会五行衆・火車−−この男が七月に海軍大臣もろとも料亭を焼き討ちにしようとしたことは今でも鮮明に覚えている。
 さくらが父を思う気持ちや、紅蘭が大火とともに家族全員を失った記憶を巧みに利用し、華撃団を葬ろうとした。そればかりか、何の関係もない周辺地域に爆弾を仕掛け、それをネタに脅迫までしてきた、五行衆でも最悪に位置する卑劣漢だ。
 あのとき、マリアが死角から起爆装置を破壊するという奇跡的な援護がなければ、花組は生き長らえなかっただろう。と同時に、人の命を盾に取った脅迫になす術もない花組の弱点を思い知らされた、大神にとってはもっとも戦いにくい難敵だった。
 その火車が、今度は織姫の頭に拳銃を突きつけながら、こちらに向かって薄笑いを浮かべている。黒目が異様に小さい切れ長の目は、炎の照り返しと狂気で赤く光っているように見えた。
 織姫は、銃口から父親を守るように、ぐったりと横たわる緒方を抱きかかえている。仰向けになった体に外傷は見えないが、血の気が失せた顔色から、背中に負傷して相当出血しているのが見て取れた。織姫の目はこちらに強く助けを求めているが、余計なことを言うと殺されると分かっているのだろう、唇を切れるほど強く噛みしめて声を上げるのを堪えている。
「織姫くんと緒方さんを放せ!」
 大神の咆哮に、火車はサングラスを指で押し上げながら失笑を漏らした。
「こちらが圧倒的に有利な状況で、人質を放せと言われて放すバカがどこにいますか。華撃団の隊長とは思えない単純な発言ですね」
「二人をどうするつもりだ!」
「もちろん、ゴミは焼きますよ。最高の演出をほどこしてね……それには何が必要だと思いますか?」
 火車は大神を一瞥して、憐れむような視線を向けた。
「観客ですよ。単純で、仲間思いで、かつ見栄えのする女優−−彼女たちを連れてくるまでは待ってあげましょう。彼女たちに、仲間の最期を看取るチャンスをあげます。慈悲深いことでしょう?」
 非道を絵に描いたような火車から慈悲などという言葉が出て、大神は唾を吐きかけてやりたい衝動に駆られた。
「貴様……」
 火車は酷薄な笑みをいっそう深くした。
「おや? 敵である私の言うことなど聞くに値しない? では、こちらの可愛い部下から頼んでもらいましょうか」
 火車は、銃口を織姫の頭にぐりぐりと押し付けた。織姫の喉がひゅうっと鳴って、か細い声でけなげな哀願を絞り出す。
「……少尉さん。わたしなら大丈夫です。少尉さんは、早く花組の皆さんを連れてきてください」
「……分かった。俺は一旦戻ってみんなを呼んでくる。必ず助けに行くから、それまで緒方さんを守っててくれ」
「ええ、もちろん。パパは、わたしが守ります」
 それを見ていた火車は、手紙に追伸を付け加えるような調子で言った。
「ゴミが灰になるまでに、戻ってこられますかね? 私はウソはつかない方ですが、あいにくと気が短くて」
「心配するな。貴様がちんたら準備してる間に戻ってきてやる。……その時が貴様の最期だ。覚悟しておけよ」
 捨て台詞を叩き付けて、大神はその場を離れた。織姫がいつになく真摯な眼差しで彼を見送っていた。

5

 その頃、帝劇の事務室では終業間際のまったりとした空気の中、かすみ・由里・好の三人が帰り支度を始めていた。
 好が、今日は稽古相手がいないから槍ではなく射撃の練習にしようか……などと考えていると、由里が奇妙な疑問を口にした。
「ねえ好、陸軍には素敵な男の人っていないの?」
「うん?」
 好が聞き返すと、由里が言いづらそうに例を挙げた。
「だって、あたしたちが知ってる陸軍の代表って、支配人に薔薇組でしょ? 支配人も若い頃はいい男だったかもしれないし、陸軍があの三人みたいなのばっかりとは思わないけど……大神さんや加山さんのいた海軍と比べるとちょっとね」
「へ? 加山隊長って海軍だったんですか?」
 好の間抜けな疑問に答えたのはかすみだった。
「お二人は兵学校の同期で親友同士なんですよ」
「へえ……そういや隊長も、なんとなく船乗りっぽい感じがしますもんね」
「あの二人のことはいいの。あたしが知りたいのは陸軍のことよ。こんなこと、まさかかえでさんには聞けないし……」
 好もそりゃそうだ、と笑って、士官学校で共に学んだ、騎兵の同期と憧れの先輩の顔を思い浮かべた。それはつい三ヶ月前のことなのに、ずいぶん昔のことのように思えた。
「手前味噌でなんですが、騎兵にはそれなりに集まってたかもしれませんね。何しろ服・顔・馬術が優れてることが優秀な騎兵の条件らしいので……まあ、その中で私が満たせたのは馬術だけですけど」
「ホントに!?」
 由里はぱあっと顔を輝かせた。そこまで驚くなんて、陸軍はどんなイモの集団と思われていたのか……と好は複雑な思いであったが、由里の言うように米田に薔薇組しかサンプルがないのでは仕方がないとも思った。
「えー……、で。その中に、気になる人はいなかったの?」
 それが聞きたかったのか、と好は苦笑した。隠して変に勘ぐられるのも困るので、あっさりと答える。
「いましたよ」
「え? だれだれ? どんな人?」
「一年上の先輩で、男爵家の若き当主でした。服・顔・馬術と三拍子揃った、まさに騎兵になるために生まれてきたような人で、明るく華やかな空気を常に漂わせてましたね。それでいて、細やかな愛情に基づく馬の扱いにはほれぼれするものがありました」
 好は先輩の思い出を語りながらふと、絵本の昔話でも聞かせているような気分になった。あの頃は彼のようになりたいと、馬術も座学も必死で頑張っていたのに。あの頃と言ったって、彼が士官学校にいた頃まで遡っても、たかだか一年と少しのことなのに。
「うんうん、それでそれで?」
「それで……って、それだけですよ。ただすごいなあ、って一方的に憧れてただけで。個人的な思い入れを言うなら、赤城の方がよっぽど印象に残ってます」
「赤城? その人は好の同期?」
「いえ、士官学校時代に乗っていた馬です。何しろ毎日世話をしてましたから」
 体は小さいが、高い障害も難なく跳び越える勇敢な馬だった。好が馬術で優秀と言える成績を残せたのは、半分は赤城の功績によるものだ。ベテランの彼は、今も騎兵将校の卵を乗せて跳んでいるのだろうか。いずれにしても。
「……昔の話です」
 好は穏やかに微笑んだ。今ではその微笑みが、「その話はもうおしまい」という合図だということが、他の二人にも伝わっている。

 三人が帰り支度を終えていよいよ事務室を出ようとした時、帝国華撃団の出動を告げるブザーが鳴り響いた。
 いち早く事務室を出た好の元に、白く小さな人影が駆け寄ってきた。
「好ちゃん、車を出して! 民間人に負傷者が出たの」
 好の元まで駆けてきて肩で息をしているのは、医務室の玉川佑菜先生だった。手には道具や薬を入れる医師用の黒い鞄を持っている。彼女はそれを好に渡した。
「一般の病院に運ぶからそのままでいいわ。わたしは取りに行くものがあるから、先に車で待ってて」
 玉川先生はそう言うと、厨房に向かって走って行った。好は言われた通り、車庫へと向かっていった。
 好が車に乗り込んでから五分ほどして、玉川先生がバケツいっぱいの氷とシーツを手に乗り込んできた。「浅草に」と指示されたので、バケツの中の氷をこぼさないよう慎重に車を発進させた。

 浅草に向かう車中で、玉川先生が状況を説明してくれた。
 大神は、織姫の父・緒方星也に会うため、織姫を連れて浅草寺に行っていた。そこで黒鬼会五行衆の火車に襲われた。二人に怪我はなかったが、緒方が織姫を庇って背中に被弾した可能性がある。その後、織姫と緒方は火車の手に囚われ、大神が花やしき支部から銀座本部に助けを求めたということだった。


*    *    *


 浅草の現場近くに着いてみると、月組の黒い戦闘服を着た男が一人、双眼鏡で対岸の戦場を見ていた。その足元には、金属製で使い込まれた感じの工具箱が置いてある。
 細くてもそれなりに筋肉のある長身と、少しラフなオールバックの髪に見覚えがある気がしたが、好は彼の名前を思い出せなかった。
 人の近づく気配を察し、男が振り返った。その左頬に一筋、血涙の痕のような痣。確かに見覚えがある。先月の水狐戦のとき、帝劇警備に携わっていた一人だ。どこか荒んだ目の色と合わせて、好は不吉な印象とともに彼の顔を覚えていた。
「小見さん」
 玉川先生が彼の名を呼ぶと、無言の会釈が返ってきた。
「しばらく見ないと思ったら−−いつから浅草に?」
「隊長にしてやられました。……出張が思いのほか長引いて」
 小見正廉(おみ・まさかど)は顔を背け、額に手を当てた。
「水狐が花やしきでどの情報に手をつけたか調べるために、水狐戦の直後から花やしきに詰めてたんですが、遊園地の方が大忙しで俺まで駆り出されて……道化師の扮装をして子供たちに風船細工を配らされてました……」
 よほど屈辱だったのか、その声は怨嗟を含んで呻くようだった。
 そんな小見に向かって、玉川先生が花のように笑った。
「でも、いいことだと思うよ。小見さん、前に比べて表情がぐっと柔らかくなったもの。隊長も、それを狙ってたんじゃないかしら」
 それでもなお、小見は握りしめた拳を震わせていた。
「……それは分かってますよ。分かってても、隊長の掌の上で踊らされたかと思うと、悔しくて悔しくて」
 それを聞いて、好は一回りも年上のこの先輩に親近感を覚えた。ああ、この人もそうなのかと。
 月組隊長の加山雄一は、持って回った人の悪いやり方で部下を諭すことを好む。好自身、初対面の前に彼にうかうかと尾行されて自分の無能さを思い知らされたし、他の同僚からも同様の事例をいくつも聞かされた。彼の企みに引っかかって何が腹が立つといって、ネタばらしをする時の、あの心底楽しそうな表情ほど腹立たしいものはないとは、同僚たち共通の弁だ。苦言を楽しみに変えると言えば聞こえはいいが、好には悪趣味なやり方だとしか思えなかった。
「けれど……先生にそう言っていただけると、少し報われた気がします。それで、現在の状況ですが」
 小見が赤くなりながら、わざとらしく話題を変えた。
「用水路をはさんだ対岸、ここからは建物の死角になって見えませんが、十時方向に小屋があり、そこに人質が囚われています。花組は二時方向から進撃し、目標に到達したらこちらに連絡することになっています。その時に我々も突入して負傷者を搬出します」
 小見の説明通り、用水路の対岸では、花組と魔操機兵の集団が交戦していた。炎に包まれる建物の合間から、鮮やかな色をした花組の霊子甲冑が、小型の魔操機兵・脇侍を次々と斬り伏せるのが見えた。好は言葉もなく、食い入るようにその様子を見つめた。
「使うか」
 不意に、低い声と共に双眼鏡が突き出された。好はそれを受け取り、再び戦場に目を向けた。
 大神機・さくら機・カンナ機の近距離攻撃型の三機が真っ先に飛び込んで進路を切り開く。すみれ機・レニ機・アイリス機の中距離攻撃型の三機がぴったりと後について前衛をフォローする。遠距離攻撃型のマリア機・紅蘭機は、その正確無比な射撃で、前衛・中衛が討ち漏らした敵にとどめを刺してゆく。その動きは、陸軍で想定していた歩ける戦車のそれではない。生身にシルスウス鋼の鎧をまとった、鎧武者のそれだった。
 双眼鏡を通さずに肉眼で見ると、より強くそう思える。鎧武者どころか、あの色鮮やかな戦闘服を着た彼女たちが、その姿のまま武器を取って戦っているようにさえ見えた。燕尾服を思わせる、あの上着の裾を軽やかに翻して彼女たちが舞う。ときどき強く放たれる霊力の光は、色のついたサーチライト。戦場に燃える炎は美しくも凄惨な舞台装置。もっとも、この舞台のプロデューサーは火車で、作り物ではなく本物の家や店を燃やしての演出なのだから、決して褒めてはいけないのだが。
 その舞台の主役であり指揮官が、白銀の機体を駆る大神一郎隊長だ。炎の照り返しで赤く光る両刀を右に左に閃かせ、流れるような動きで脇侍を斬り捨てながら先頭を切って進んでゆく。好はその姿に、彼の精悍な横顔を見た気がした。事務室で見る時には、知性と気品をうかがわせる、穏やかな横顔が、今は炎のように苛烈な目で、進むべき目標を見据えている。
 時折吹きつけてくる向かい風は、大神の両刀から放たれる剣風のようだった。熱風に煽られて頬が熱い。それ以上に、内側からの熱が頬を熱くしていることに好は気付いた。

(そうか。私は、大神さんを好きになってたんだ)

 その思いは、天啓のように好の心に降り立ち、耳に届くすべての音をかき消した。
 ひとたび自覚するともう止まらなかった。体の奥の、どこか深いところから熱いものがどんどんこみ上げてきて、みるみる頭に血が昇る。この思いを告げるために、そのまま大神の方に向かって歩き出してしまいそうになる。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。
 それを強く戒めるように、胸に刺さった棘が激しく痛んだ。好は思わず胸のあたりを握りしめた。その棘は、光武を初めて見た時にちくりと刺さったものだ。

(どうして……私はあそこに行けないんだろう)

 もちろん、理由は分かっている。好には光武を動かすだけの霊力がないからだ。それだけでなく、花組をサポートする立場の自分がそこに行ってはいけないことも。それは今、絶望的な高さの壁として彼女の前に立ちはだかっていた。
 その壁の高さを思うと、初めての恋に高揚した心がしゅんと冷えるような気がした。といっても消えてなくなったのではなく、熱気が行き場をなくして体の中でとぐろを巻いているようだった。頭を冷やそうとする理性と、押さえきれない感情が体内で乱闘を始め、くらくらと目眩がした。
「好ちゃん、大丈夫?」
「おいおい、救助に来たやつが倒れてどうする」
 玉川先生と小見に言われ、好は気を取り直して頭を振った。
「……失礼。熱風でのぼせたようです」
「少し遠回りになるが、車で小屋の側まで付けられるルートがある。そこまでの運転は俺がしよう。それでいいか?」
「ああ……はい。すみません、お願いします」
「気にするな。初めて戦場を間近で見た者はみんなそうなるんだ。夜間だと特にな」
 それだけが原因じゃないんですけど……好は喉元まで出かかった言葉を飲み込んで曖昧にうなずいた。
 それから続いた数分の沈黙を破ったのは、小見の無線に入った大神の声だった。ザザ……という耳障りなノイズに交じって、緊迫した声が聞こえてくる。
『こちら大神。このあたりの脇侍は掃討したから救助に来てくれ。ただ、小屋に爆弾が仕掛けられているから、解除しないことには手が出せない。解除は頼めるか?』
「了解。爆弾解除は俺が引き受けます。三分で行きますので、大神隊長はそこで待機していてください」
 小見が無線を切って短く告げた。
「行きましょう」

 現場に足を踏み入れると、遠くから見ていた時には感じられなかった戦場の匂い−−物理的なものから緊迫した空気感といった心理的なものまで−−がその一帯に充満しているのがすぐに分かった。焦げ臭い匂いと極度の緊張で、好は自分の胃が不自然な蠕動をするのを察知した。嘔吐の前兆だ。彼女は冷えきった両拳を握りしめ、深呼吸をしてそれをやり過ごした。
 織姫と緒方が囚われている小屋の前に、白い光武がここだ、と示すように佇んでいる。身長は平屋建ての小屋よりやや低いくらい。人が乗っているとは思えない小ささだった。
 光武は好たちの姿を認めると、ずしゅん、ずしゅん、と金属音と圧縮蒸気の噴き出す音をミックスした足音を響かせて小走りにやってきた。そう、全身を小刻みに上下させ、軽く手を振りながら、文字通りの小走りに。これまた機械とは思えぬ、ひどく人間くさい動作だった。
 そして、好たちの前までやってくると、機体の前面全体を前倒しにする形でハッチを開いた。中には真っ白な戦闘服に身を包んだ大神が、両手両脚を広げた形で乗っていた。否、腕を通している穴の位置から想像すれば、着込んでいたと表現した方がより正確だ。

(霊子「甲冑」とは言い得て妙だな)

 道理であんなに人間くさい動きをするわけだと好は納得した。
 好たちは光武から下りた大神と敬礼を交わした。
 ついで、小見が大神から爆弾についての情報を聞き出した。二人が話している内容は好にも理解できるものの、専門用語の飛び交う会話には余人を入り込ませぬものを感じさせた。
「……なるほど。単純な時限装置じゃないなら、時間稼ぎはやりやすいですね。花組の皆さんには、このまま敵の足止めをしてもらってください。大神隊長は解除後すぐに突入できるよう、ここで待機してくれますか」
「分かった。他にやることはないか?」
「じゃあ、解除を待ってる間に、負傷者の詳しい状況を聞かせてくれる?」
 工具を手に小屋へ向かった小見と入れ換わりに、玉川先生が話を引き継いだ。
「それが……近くで見れなかったので何とも。意識がなく、背中に負傷して相当出血したようには見えましたが」
「……それから一時間か−−難しい状況ね」
「すみません……」
「いいの。後悔や反省は戦闘が終わってからにしましょう? まだやるべきことがたくさんあるわ」
そう諭すように言って、玉川先生は大神から緒方の負傷に関する情報を聞き出していく。その口調は、いつものふわふわとしたものではない。簡潔な中にも暖かみの感じられる、実に医師らしいものだった。
 二人には余人に代えがたい技能があり、それで大神の役に立てている。対して自分は、車の運転ができる以外ではいくらでも代わりのいる、ただの事務員だ。好は己の不甲斐なさに唇を噛み締めた。
「好ちゃん、シーツで袋を作って、氷を包んでおいて。傷口に当てるから汚さないようにね」
「はい」
 玉川先生に命じられ、好は頭の中から雑念を追い払ってその通りにした。シーツを二つ折りにして端と端を結んで袋状にし、その中に氷を手ですくって入れる。氷水の冷たさに痛くなったのは、手ではなくて心の方だった。
 小屋の方では、小見がいまだ爆弾と格闘している。必要なことを話し終わった玉川先生と大神も、その様子を固唾をのんで見守っていた。
 好は大神の横顔をちらりと盗み見た。彼は先ほど予想していた通りの真摯な
目で、爆弾を解除する小見とその向こうにいる織姫たちを見つめている。彼への恋心を自覚したばかりの彼女には、眩しすぎてそれ以上見ていられず、さりげなく奥へと視線を移した。
 そこにはハッチを開放した大神の光武がある。それは自分と花組を隔てる、硬い鋼の壁だという気が好にはしていた。
 しかし、思い返せば、そうした壁は帝劇の至る所にあった。女優の許可がなければ支配人でさえ立ち入れない楽屋の扉に、見えない境界線をひしと感じさせるサロンの入り口に。それを作ってきたのは、花組ではなく好たち裏方の方だ。誰言うことなく自主的に、そこが何かの聖域であるかのように立ち入らないようにしている。
 考えてみれば不自然なことだった。特に月組の隊員は、加山から『帝劇職員は己の職分をわきまえ、公私においてそれを越えることを厳に慎むべし』という心得を言い渡されているからか、花組と距離を取ろうとする傾向が顕著だ。
 だが、その心得はそもそも何のためにあるのだろう? 加山の言う「花園」は、そこまでして守らねばならないものなのだろうか。
 心得そのものに疑問を持ちながらも、好は己がそれを破ることはできないだろうことを自覚していた。彼女は軍人だ。どんなに理不尽でも、上官の命令に逆らうことはできない。そればかりでなく、決まりに従わないことを気持ち悪く感じるほどに、その精神は根付いてしまっている。
 好がそんな物思いにふけっている間に、作業を終えた小見が、両手で頭の上に大きく○を作ってそれを知らせている。
 大神がそれに向かってうなずき、光武に乗り込んでハッチを閉じた。好はその瞬間、彼が自分の手の届かないところへもぎ取られていくような、ひどく切ない喪失感を覚えた。

(いけないいけない。今は任務に集中しなければ)

 ゆっくりと深呼吸をして、気持ちを入れ替える。シーツで作った即席の氷袋から水をしたたらせながら、玉川先生や小見とともに光武のあとをついていった。
 小屋の木戸は、光武の足で蹴破った。光武を降りた大神を先頭に中に入ると、織姫と緒方が背中合わせに太い柱に縛られているのが見えた。
「織姫くん! 緒方さん! ……無事でよかった」
 大神が言う通り、織姫には怪我もなく、緒方も顔色が悪いが意識はしっかりしている様子だった。
「迎えにきたよ、織姫くん」
 大神が、優しく声をかけながら、ナイフでロープを切って二人を解放する。彼の差し出した手を、織姫は素直に取った。
 その様子は、大神の白い戦闘服と織姫の緋色のドレスという服装も相まって、騎士と囚われの姫君を描いた一幅の絵のように見えた。初めての戦場で神経が昂っている好はもちろん、何度も戦場を見てきてこうした状況には慣れているはずの小見でさえ、一瞬状況を忘れて見とれてしまうほどだった。
 だが次の瞬間、好は現実に引き戻された。
「日本のオトコも、やるときはやるだろう?」
「ふふっ……ちょっと遅刻ぎみでーす」
 互いにじゃれて小突き合うような言葉の応酬。そこにはつい先日好の前で見せた、表面上の激しい憎悪も、内に秘められた見捨てられることへの怯えもない。そこにあるのは、近しいもの同士の間に流れる、和んだ空気だけだった。
 また、あの魔法だ。
 認識した途端、好の胸が柔らかいもので締め付けられた。
 他者に対して殺伐とした無関心を貫いていたレニが、先月の水狐戦を機に、全幅の信頼と敬愛のこもった眼差しを大神に向けるようになったように。
 人の心を急激に変えさせる何かが、大神にはある−−自分も含めて。
 好はそれを、魔法のようだと思っていた。
 大神たちのすぐ後では、玉川先生と小見が、緒方に声をかけたり怪我の様子を調べたりしている。
「大丈夫ですか? 自分の名前は言えますか?」
「緒方……星也です」
「すぐそこに停めてある車まで、立って歩けそうですか?」
「ああ……なんとか……」
 緒方が立ち上がろうとするが、負傷したところが痛むのか、鋭い悲鳴を上げてうずくまった。
 玉川先生が緒方の体に触れて、骨に異常がないか確かめる。
「肋骨が折れてるかもしれないね……小見さん、おぶってあげて」
「はいよ」
 玉川先生の指示で、小見が緒方の前でかがみ込んだ。大神が手を貸して、緒方を小見の背中に移らせる。
 緊張が解けて、今になって痛みを感じるようになったか、緒方は額に脂汗をにじませて呻いていた。織姫が緒方の元に歩み寄ってハンカチでそっと汗を拭ってやり、玉川先生に哀願した。
「先生……お願い。パパを助けて!」
「大丈夫よ。緒方さんは、わたしたちが必ず助けるわ」
 それでも不安そうにしている織姫に、大神が声をかける。
「ここは先生たちに任せて、行こう。織姫くん」
「ええ……!」
 織姫は顔から不安を一掃してうなずいた。
 緒方を背負った小見が、ゆっくりと立ち上がった。好は氷袋を背中に宛てがいながら、慎重に歩を進める彼のあとをついて歩いた。
 車まであと少しというところで、くぐもった声が聞こえてきた。
「……大神さん……織姫を……頼み……ましたよ……」
 言ってそのまま、緒方は気を失った。

6

 小見と別れ、好たちは十分足らずで、玉川先生が内科医として籍を置く浅草第一病院に緒方を運び込むことができた。
 事前に連絡が行っていたらしく、車寄せのところにはストレッチャーが待機していて、緒方は迅速に収容された。玉川先生が、病院の医師に負傷した時の状況や体温・血圧・脈拍・出血などの必要な状況を伝えた。
 そして、「入院の手続きや準備があるから待ってて」と言われ、好は待合室で一人待つことになってしまった。待合室の壁に貼られている掲示物を熟読したり、人に見つからない範囲で病院内を探検したりしたが、手持ち無沙汰な時間は過ぎる実感をなかなか与えてくれなかった。
 すでに日も落ちて宵の口という時間帯、無人の待合室は寒々しさを感じるほどに清潔で、消毒薬の匂いがそこはかとなく漂っていた。戦場の匂いに病院の匂い。今日はよくよく、不吉な匂いのする場所にいるものだと好は思った。
 好は壁際の長椅子に腰掛け、壁にもたれかかりながら目を閉じた。
「疲れた……」
 今日はいろんなことがあった気がする。
 帰り際に敵襲があって、負傷者の搬送に必要だからと浅草の戦場に車を出した。初めて見た花組の戦いはレビューのようで、光武が霊子甲冑と言われる理由も分かった。
 そしてあのとき初めて、大神に対する自分の気持ちに気付いたのだ。
 その後、小見が爆弾を解除して、光武で小屋の扉を蹴破って、織姫父子を救出し、車でこの病院まで運んできた。
 確かにいろんなことがあった今日一日−−いや、浅草に来てから今まで、自分は何をしたと言えるだろう?
 実のところ、車の運転だけだ。好は手で顔を覆った。
「私、何言ってんだろ……何もしてないのに疲れたなんて」
 確かに好は、玉川先生のように高度な医学の知識もなければ、小見のように爆弾の解除ができるわけでもない。それでも、あの場でできることが他にもあったはずだ。だというのに、玉川先生の指示でかろうじて手伝いらしきことができただけで、現場ではまったくの役立たずと言ってよかった。
 初めての戦場で、緊張のあまり視野が狭くなっていたこともあろう。それは致し方ない。それよりも、より個人的で、仕事に持ち込むべきではない感情に飲み込まれて、できたはずのことをできなかったのは痛かった。

(隊長に合わせる顔がない……)

 加山は最初から、このことに対する警告を発していたのに。好自身も、同僚として以上に親しくなろうとはしてこなかったのに。
 けれど大神は、そんなことにはおかまいなしに、優しい言葉と誠実な態度で心の扉を自然に開いてしまう。鍵の音すらさせないで。
 いや違う。大神を好きになったのは自分の方だ。
 最初は、憧れの先輩と似ていると思っていた。由里には言わなかったが、顔立ちだけなら従兄弟と言っても通じそうなほどだった。もっとも、似ているのは顔立ちだけで、気質は正反対だ。天真爛漫で鷹揚だが、派手好きの浪費家で喧嘩っ早い先輩。呆れるほどのお人好しで、育ちの良さを感じさせる言動の割には、慎ましい金銭感覚の大神。それこそ、両者を比べたのは初めのうちだけで、大神のそうした人柄を知ってからは、先輩のことを思い出すこともなくなっていた。
 戦場では光武の動きに大神の精悍な横顔を重ねて見ていたが、好が大神について真っ先に思い出すのは、帝劇での仕事の合間に見せる、何気ないしぐさや表情の方だった。書き物をしているときに、ときどき思い出したようにペンを回す、軽やかな指の動き。真剣な面持ちで伝票を数えていたのに、かすみに間違いを指摘されて、声を上げて驚く、ちょっと愛嬌のある表情。由里に軽くからかわれて、子供のようにむくれてみせたあの表情。
 そして何よりも強く印象に残っていたのが、大神の声だった。「好くん」と自分を呼んだ時の、優しく親しみのこもった声。初めてそう呼ばれた時は、あまりに珍しかったのでひどく驚いた。その後、彼が言ったように帝劇の多くの人間から名前で呼ばれ、その状況にも慣れたが、それでも、あんなに優しく自分の名を呼ぶ者を、好は他に知らない。
 それを自分のものにしてはいけないことは好にも分かっているし、できるとも思わない。言葉を交わせる程度の距離にいて、見ていたいだけだ。もしかしたら、そんな淡い願いも許さないものなのだろうか、例の「心得」は。

(でも、好きなんだ……どうすればいいの)

 好は声なき声で呟いた。
 鬱々とした気分でどこをともなくぼんやりと眺めていると、玉川先生がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。パンプスの硬い足音が、広い廊下に反響する。
「お待たせー……って、まだ手術は終わってないんだけど」
「緒方さんは大丈夫なんですか?」
「肋骨が二本折れて、左肺も損傷して、けっこうな大怪我で入院が必要だけど、命に別状はないよ」
「よかった……」
 好は心から安堵の息をついた。
「織姫ちゃんがいたから気を張ってられたんだろうね。それにしたって大した気力だよ。好ちゃんも、お疲れさま」
 玉川先生が飴玉を差し出したので、好はそれを受け取って口に入れた。黒砂糖の甘みが口の中に広がり、耳の下の唾液腺と胃袋が同時に欠乏を訴えた。
 その痛みに顔をしかめた好に、玉川先生がくすっと笑った。
「ホントは、頭の疲れにはブドウ糖の塊が効くんだけどね。持ち歩くにはちょっと不便だから」
「確かに、何もしてないのに頭ばっかり疲れてます」
 言いながら、口の中で飴玉を転がす。黒砂糖味の唾を飲み込むと喉まで痛んだ。
「車でわたしや緒方さんをここまで運んできたじゃない」
「そんなの、何かしたうちには入らないでしょう」
「そう? 車の運転って貴重な技能だと思うけど。好ちゃんは好ちゃんのできることをちゃんとしたと思うよ、わたしは」
「そうでしょうか……」
 好は俯いてじっと手を見る。氷水でかじかんだままの、小さく縮こまった手。
「どうしたの? 誰かに何か言われた?」
 尋ねる声の優しさに、感情を抑え込む力が緩む。その代わりに、膝の上で硬く両拳を握りしめた。
「……いえ。感情に流されるあまり、できたはずのことができなかった自分が情けなくて−−」
「初めての戦場で、夜間だもん。しょうがないよ。小見さんも言ってたでしょ?」
「そうじゃないんです……!」
 言ってしまってから、しまった、と思ったが遅かった。
 玉川先生は、言葉を挟まず、じっと次の言葉を待っている。
 その沈黙に耐えられず、好は告白した。
「極めて個人的な感情に目を奪われて、注意力が散漫になってました。……こんなこと、あってはいけないのに−−」
「こんなこと?」
「私が、こんな気持ちになってはいけない……」
 声が震えて弱くなっていくのが自分でも分かった。いけないことは分かっている。だが、それでこの気持ちを忘れられるなら世話はない。
「もしかして、大神くんのこと、好きになっちゃった?」
「はい……」
「辛いね」
 心に沁み入るような声だった。そればかりか、握りしめた拳の上に柔らかい手がそっと添えられ、好は泣きたくなる。
「感じてはいけない感情はないし、好きになってはいけない人もいないよ。それはあなた自身の、大切な感情。でも、わたしたちは立場上、それを悟られないようにしないといけない。そのための行動を選ぶ自由と責任が、あなたにはある。分かるよね」
「どうしてですか!」
 好は噛み付くように怒鳴った。なぜこんな不自然な状況を強いられる。
 玉川先生は困ったような笑みを浮かべた。
「隊長は常に公正な振る舞いを求められるものだからでもあるけど、わたしの経験を言わせてもらうと、花組にとって大神くんの存在っていうのはえらく大事でねー」
 玉川先生は、昨年の春、海軍復帰で帝国華撃団を去った大神と入れ替わりに月組に入隊したという。
「あやめさんも大神くんもいなくなった帝劇は、照明が壊れたんじゃないかってくらい暗くなっちゃてて……」
 前副司令の藤枝あやめ、花組隊長の大神一郎という二つの精神的支柱を失った花組は、それこそ芝居で無理矢理に気を奮い立たせているという状態だった。花組が大神不在を受け入れられるようにすることが、着任してから一年間の、玉川先生の課題だった。各隊員に何度もカウンセリングを行い、時にはハーブの栽培やお菓子作りを一緒にし、何より彼女自身が小さな灯として、慎ましくも明るく暖かい態度を貫くことによって、一年近い時間をかけて花組隊員の凍てついた心を溶かしてきた。
「それでもマイナスがどうにかゼロに近づいたってレベルなんだけどねー、大神くんがまた来るって分かった途端、みんな楽屋の鏡みたいになっちゃって。わたしの一年間の苦労はなんだったの、って」
 楽屋の鏡には、三辺を取り巻く形でたくさんの電球が取り付けられている。つまり、それくらい明るくなったということだろう。
「それに加えて、霊子甲冑という兵器の特殊性がね。霊力−−人の精神力を原動力にしている以上、搭乗者の士気が機体性能そのものを左右する。そのために、花組の良好な信頼関係の維持は、花組のみならず華撃団全体が協力すべき優先事項なの」
「そんな……それって、危うくありませんか? 組織として」
「うん、危うい。隊員死亡の可能性を常に考えなきゃいけないこの手の組織としては、致命的な弱点だよ。そもそも、あやめさんたちが世界中を探しまわってやっと見つけた、ごく少数の適任者に前線が委ねられるってこと自体もね。でも、それが一番安全な方法なんだ……」
「現状ではそうですね」
 入隊したばかりの頃なら、もっとはっきりと反論していただろう。だが好も、月組での戦闘訓練で、魔操機兵や降魔に対して通常兵器がまるで効かないことを学んでいた。
 霊子甲冑に乗ってやっと対等な白兵戦の様相を呈する対降魔戦は、生身では四人が死にものぐるいになって三メートル近い大きさの降魔の動きを封じている間に、一人がなけなしの霊力を注ぎ込んでとどめを刺すという、圧倒的に分の悪い戦いになる。しかもその間、降魔の爪に引っ掻かれて傷口から毒を受けたり、強酸性の体液で皮膚を焼かれたりするリスクを背負いながら、だ。
 だから、うら若き少女たちが鋼の衣装をまとって戦わねばならない。彼女たちが自分の意志でそうしている、いわば志願兵なのがわずかな救いではあるが。
 そんな状況下では、前線に出ない者の個人的感情など些末な話だ。
「まったく、ひどい話です」
「これも戦争だからね」
「そうでした」
 それに、武力組織における戦争という例を持ち出すまでもない。どんな組織にも目的があり、それを達成するために、個人の感情を脇に置くことが必要な場合があるのは当然のことだ。ましてや、職場恋愛などというものはなるべくバレないようにするものらしい。伝聞形なのは、好が男ばかりの軍隊に溶け込むあまり、そうした問題について考える機会がなかったからだ。
 それが、自分が当事者になっただけでこうまで冷静さを失うとは。
 恥ずかしい。穴があったら入りたいではすまない。
 好は声にならない声を上げて両手で顔を覆った。自分では見ることができないが、きっとゆでダコみたいに赤くなっていることだろう。それだけでは収まらず、口の中の飴玉を思いっきり噛み砕いた。
 玉川先生はそれを見てくすくすと笑っている。
「難しく考えなくてもいいよ。今まで通り、同僚として接してればいいんだから」
「そんなのできませんよ……同じ部屋にいるだけで意識しちゃいます」
「それでも、やるの。嫌いな人に友好的に接するよりは簡単でしょう?」
 かつての自分ならできたと思う。だが好は、軍隊で自分を守ってきた「盾の笑み」やそれに類する演技が、帝劇に来てからうまく働かなくなってきたことに気付いていた。
「大丈夫よ。好ちゃんにならできるわ。あんなに難しかった初任務をこなしたんだもの」
「あれだって、私は何もしてないじゃないですか」
 好の初任務は、ただ普通に事務員として勤め、スパイをおびき寄せる餌に徹しろというものだった。確かに彼女はスパイ容疑者と相対してもその任務を悟られることがなかったが、それはただ単に、相手の意図が読めなかったから素のままで接しただけだ。だというのに、それが帝劇内で彼女の功績として知られてしまっているのには、何とも歯がゆい思いをさせられる。
「あの状況で何もしないでいるのは、言うほど楽じゃないと思うけどな。特に、自分に頼むところのある人はね。わたしはそう思うし、隊長もそこは評価してると思うよ」
「それは、私に頼むところなんか何もないから……」
「それでもいいの。あなたは自分の仕事をちゃんとやってきたし、それだけの能力がある。そのことだけでも、自分で認めてあげようね」
 一生懸命に励ましてくれる玉川先生の思いやりが、ありがたくも申し訳なかった。それを言葉にするのに抵抗を感じ、どうにか表情だけでもと努めてみたが、泣き笑いのような顔になっただけだった。
 玉川先生、と別の医師に呼ばれ、彼女はそちらに行った。二、三、言葉を交わし、好に向かって告げた。
「緒方さんの手術は成功したって。しばらく絶対安静だけど、面会できるようになったらまた連絡するから。米田さんにもよろしく伝えといて」
「分かりました。先生はどうなさるんですか?」
「わたしはもう少しこっちの仕事を片付けるよ」
「では私も、車を返してきます。お疲れさまでした」
 二人の医師に一礼して、好は病院をあとにした。

7

 帝劇に帰った好は、支配人室に出頭して米田に戦場であったことを報告した。
 米田は時折質問を加えながら報告を聞き、最後に好をねぎらった。
「ご苦労さんだったな、好」
「いえ、それほどでも……」
 言いながら、顔がこわばっているのが自分でも分かった。
「どうした。初めての戦場で気を張りすぎて疲れたのか」
「……その逆です。何もできなかった自分が不甲斐なくて……」
 米田が辟易した様子でふんぞり返った。
「あぁ? お前さん、まともに服が畳めるようになるまで何ヶ月かかった。兵ですら、それらしい動作ができるようになるまで半年間みっちりしごかれるんだろうが」
 服の畳み方は、軍隊に入って最初に教えられる基礎の一つだ。立体的で複雑な形をした服を素早くきれいな四角形に畳むのには、コツと熟練の両方がいる。もちろん、それは軍隊で覚えるべき膨大な事項のほんの一つに過ぎない。
「それはそうですけど……」
「まったく何かと思えば……それこそ疲れてる証拠だ。風呂入って寝て、明日の朝になってもまだ悩むようだったら、加山に相談しな。そんなありふれた悩み、頭越しに俺んとこまで持ってくるんじゃねえぞ」
「は……」
 まだ納得しかねる様子の好に、米田が重ねて言う。
「加山が、何のために新人と文通してると思ってるんだ」
 加山との文通−−それは、月組隊員の新人研修における課題の一つである。
 特殊な製法で作られた、それ自体が呪符であるメモ用紙に用件を書き、それを術で鳥の姿にして相手の元に飛ばす。この呪術版伝書鳩は、月組隊員全員が最初に覚える術で、月組でもっとも広く使われている連絡手段である。新人研修でそれを教わった隊員は、術を使いこなせるようになるまで毎日の報告を加山宛に送ることになる。ただし、目的は術の訓練なので、特別に報告すべきことがない限り日付と名前さえ書いておけばよいとされている。
 好がそのことを説明すると、米田はかーっ、と痰でも吐きそうな仕草を見せた。
「お前さんがそこまで莫迦だとは思わなかったよ。白紙同然の伝書鳩に、毎日一言でも返事をくれてる加山の気持ちを、考えたことがないのか」
「あ……」
 好は絶句して固まった。頭から血の気がさっと引く。
 米田の言う通りだ。
 読後処分が推奨されるので現物は残っていないが、好が日々飛ばす伝書鳩には、毎翌朝律儀に返事が来る。それには必ず、加山からの一言が書き添えてあるのだった。そこには部下に対する気遣いが明白に込められているにも関わらず、彼女は今の今までそれを見過ごしてきた。彼女の心の中で、それ以上に大神が大きな位置を占めていたがために。
「ま、何に気を取られてたか察しはつくし、ここに来るまでに誰かから注意は受けただろうから、くどくは言わねぇがな。お前の直属の上官は加山だ。そこんとこ、くれぐれも間違えるなよ」
「はい。肝に命じます」
 好はそう言うのがやっとだった。そのまま一礼して、逃げるように支配人室を出て行った。


*    *    *


 いたたまれなさのあまり、自分でもどこへと分からぬまま走って、気がついてみればあまり馴染みのない場所に来ていた。
 天井の灯りは落とされていてほとんど真っ暗だが、足元の非常灯が壁の位置を示している。
 そのわずかな光に目が慣れてくるに従って、その場所にあるものの輪郭が掴めてきた。二メートルくらいの高さに向かって伸びている金属製の階段、その先にある細い通路。構造からいえば足場と表現した方が正確かもしれない。足場のすぐ脇には、端をビスで止められた鞍のような物体が、それより大きい何かの一部として視認できる。
 それが光武の肩部装甲で、ここが霊子甲冑の格納庫だと気付き、心臓がばくんと強く打った。

(私が、ここにいてはいけない)

 霊子甲冑の格納庫もまた、花組と整備関係者以外のものが立ち入りをはばかる「聖域」の一つだった。他の場所と違って、ここは安全上の理由からそうなっているはずだが、それでもなお、好にはそれ以外の理由が読み取れてならなかった。
 であれば、なおのこと。
 好はガガガガガ、と音高く金属の階段を駆け上っていった。その音が頭の中でやたらと反響するので、階段を登りきってからしばらく耳を落ち着かせなければならなかった。
 地下廊下の壁にもたれかかる好に、訝しそうに声をかける者があった。
「あれ、好はんやないの。あの子らを見に来たん?」
 振り返ると、いつものトンボ眼鏡にお下げ髪の李紅蘭が、作業用のつなぎ姿で分厚いファイルを片手に首を傾げていた。
 好はわたわたと手を振った。
「あ、や、そういうわけじゃ……ただ何となく足が向いて、気がつけばここに来てたんです」
 好の説明にもなってない説明に、紅蘭は得心したようにうなずく。
「うんうん、そやろそやろ。光武のあの動きを見た直後じゃ、実際どうなっとうか確かめたいのが人情やもんな」
「そ、それは……! 興味がないといえば嘘になりますけど、今日はそういうつもりじゃなかったんですって」
 紅蘭が眼鏡のレンズを禍々しく光らせた。
「へえ〜、好はんがそんなこと言うん? 光武を初めて見たとき、親方を質問攻めで困らせた、あの好はんがなあ」
「あれは我ながら、痛かったと思います。勘弁してください!」
 好は紅蘭に向かってコメツキバッタの如く頭を下げていた。
 紅蘭は鷹揚に笑う。
「いや、ええんよ。ウチ、そんなに光武に興味持ってもらえたんが嬉しゅうて、親方から話聞いた日には眠れんかったわ。好はんと、夜通し機械のこととか語り明かせたらって思たんやで」
「夜通し語り明かせるほど、詳しくはないですけど−−向こうのと全然違うと思っただけで」
「それやそれ! 陸軍の人型蒸気がどんなもんか、ウチ知りたいし」
「話したって幻滅すると思いますよ。光武と王虎では、蒸気自動車と四頭立ての馬車ぐらいの違いがありますから」
王虎は、陸軍で採用されている人型蒸気の愛称である。改良が繰り返されて、王虎四式が現行の最新型だ。光武が乗り物としての動きから歩兵並の戦闘機動まで一人でできるのに比べ、王虎は機長、操縦手、砲手、装填手の四名で操縦することになっている。そこが、両者を蒸気自動車と馬車に例えたゆえんである。
 紅蘭も、そのたとえが意味するところを理解したようだった。
「好はんは四人乗りを欠点と思とるようやけど、ウチはそこに希望もあるように思うな。霊子甲冑は乗り手にえらい負担がかかるんで、二時間ぐらいしか運用できんことになっとる。それを復座式にして、乗り手への負担を分散させれるかもって考えもあるんやで」
「それは考えたことがありませんでした」
「ま、実際にはクリアせなあかん問題が山ほどあるやろうし、需要のないことには開発の許可も下りんから、妄想レベルの話やけどな」
「へえ……」
 好は素直に感心した。面白いとも思った。紅蘭の話をもっと聞いてみたい。だが。
「せっかくですけど、霊子甲冑の話は、日を改めて時間を取ってからにしましょう。それまでに勉強しておきます」
「そやな。楽しみにしとくわ。ほな、ウチあの子らの微調整があるから」
 紅蘭はにっこりと笑って階段を下りていく。その途中でぴたりと足を止めた。
「−−好はんの、真面目で勉強熱心なとこ、ウチ好きやで」
 ぼっ、と音を立てて、好の顔が火を噴いた。
「紅蘭さん……っ」
「そういう、いじってくださいと言わんばかりのリアクションもな」
 人の悪い笑みを浮かべているであろう紅蘭にかける言葉もなく、好はその場に立ち尽くした。
 今日のところは早く帰った方がいいかもしれない。好は射撃の練習も入浴もキャンセルし、這々の体で帝劇を出て行った。

 帰宅直後、好は加山宛の日例報告に、珍しく私信めいた言葉を書き加えた。
 曰く、「紅蘭さんにはいじられキャラとして認識されているようです」と。
 術で鳥の姿を作ってみれば、これまた珍しいことに、とてもきれいな白バトの姿になったので、彼女は意気揚々とそれを空に放した。
 感情が昂っている時には、恥ずかしい文章を書いてしまうものである。普通の手紙であれば、出す前に読み返すことで冷静になり、恥ずかしい文章が相手に届いてしまうことはめったにない。また仮にそうしたものを受け取ったとしても、良識ある相手なら書かれた状況を察して苦笑するにとどめてくれる可能性がある。
 しかし今回の場合、媒体も相手も悪かった。月組式伝書鳩は、書いたその場で相手本人に文章を送ることのできる、極めてパーソナルな媒体である。それに加え、宛先の加山雄一という男は、面白がることの天才だ。後世でいえば、絵文字たっぷりのデコメールで送られた日例報告を読んだ彼が爆笑するのは、普段の好なら十分に予想できたはずだ。だがこの日の彼女は、その可能性をすっかり頭から飛ばしてしまっていた。
 まこと、夜に書く手紙は恐ろしい。
 それを好が認識するのは、翌朝加山から、往信のテンションを誇張した返信を受け取ってからだった。
「あ〜! やだもー!」
 受け取った当初は頭を抱えて転げ回ったりもしたが、好はそこで思い直した。

(いや。こんな恥ずかしい返信をした、隊長の意図を読むべきだ)

 いつだって加山は、直接諌言するよりも、問題を自ら気付かせようとしてきたではないか。方法がいささか悪趣味であるにしても。
 加山はきっと、「冷静さを失うな。公私混同もほどほどにしろ」と言っているのだろう。好はそう解釈することにした。

8

 ところが、当の加山雄一は、好からの日例報告を読み返しては、まだ思い出し笑いをしていた。早朝の帝都芸能出版社社長室に、押し殺しきれない笑い声が響く。
「くっくっくっ……『いじられキャラ』だって。大神以上に楽しいやつだよなあ〜、坂東は」
 加山のブレーンを務める鈴木レイは、能面のような白い無表情の眉間に、唯一の表情ともいえる縦じわを刻んで溜め息をついた。
「隊長。そこまで笑っては、好がかわいそうでしょう。本人にはそのネタを振らないでくださいよ」
「いやあ〜、そりゃ無理だろ。紅蘭さんにああまで言わしめた相手を目の前にして、どうしていじらずにいられようか」
「何を自信満々におっしゃっているんですか。女性に恥をかかせて笑いを取ろうだなんて、海軍士官が聞いて呆れます」
「あー、そういやあいつ、女だっけ」
「なんてことを……」
 鈴木は眉間の縦じわをいっそう深くした。それが彼なりの親しみの表現だとは分かっているものの、彼女は数少ない月組の妹分が不憫でならなかった。
 これ以上言わせてはあんまりなので、鈴木は仕事の話を切り出した。
「花組と黒鬼会が交戦した場所に出現した、謎の鳥居の件ですが。鳥居そのものから、ごく微量の妖力が検出されました。何らかの魔法陣を作ろうとしているのではないかというのが、夢組の見解です」
 仕事の話になるなり、加山は表情を別人のように引き締めた。
「そこまでは予想済みだ。問題は、それがどういう魔法陣で、どのような条件で完成するかだな。そっちは調べがついてるのか」
「それが、古文書の解読に手間取っておりまして」
「どうした」
 鈴木が文献のリストを差し出した。それには陰陽道に関する書物の名がいくつも並んでいる。その大半が京都にあると思われ、資料を探すことすらままならない状態だった。
「閲覧できたものはほぼ解読済みですが、めぼしい記述は見当たりませんでした。残りこれだけなんですが、資料にどう近づくかが問題で」
「で、紹介状が必要だってか。ひゃー、こりゃまためんどくさそうなのばっか」
 加山はリストを見直した。上から下まで目を通し、下から上に視線を戻す途中でん、と止まる。
「『陰陽寮覚書』を所有してる九条家がとっかかりになりそうだな。確か、当主の息子だか娘だかが星組の隊員だったはずだ」
 鈴木がああ、と声を上げた。
「クラレンスにアポを取ってもらいますか」
「それはあいつに話を聞いてから考えよう。クラレンスを呼べ」
「はい、ただいま」
 と鈴木が外に出ようとしたところで、社長室のドアがノックされた。
『社長、お客様がお見えです』
 声の主は「月刊帝都芸能」編集部員の榊凛(さかき・りん)だ。
「客ぅ? この時間に予約は入ってないぞ」
『……だからお通ししました』
「?」
 早朝にアポなしで来た者を、榊がわけもなく社長室まで通すはずがない。
 加山は、鈴木に目配せで下がっているように伝え、音を立てないよう注意深くドアの側に寄った。いつでも発砲できるよう拳銃をかまえる。
 ドア越しに客の正体を推測する−−おそらく男性。体格は加山より小さそうだ。榊も客もリラックスしている様子であることから、少なくとも彼を脅してここまでやってきた賊ではないらしい。
 そこまで確認して、加山は銃を収めて来客を通すように命じた。
 榊に付き添われて入ってきたのは、地味だが仕立てのいいスーツに身を包んだ、小柄な青年だった。胸元には茶色のマニラ封筒を抱えている。
 加山は見知った顔の青年に呼びかけた。
「よう、文学青年」
「本当は文学少女ですけどね。これならそう見えるでしょう?」
 文学青年−−丘菊之丞は控えめな笑みを浮かべた。
「変装も演技もたいしたもんだ。憲兵志望ってのは伊達じゃないんだな」
「そんなんじゃないですよ。わたしたちのような人間は、常に周囲を欺きながら生きていかざるを得ないだけで」
 帝劇という、世間の価値観から少しは自由になれる場所だからこそ、彼らはありのままの姿でいられるが、外では普通の男のふりをしなければならない。
「そうだったな。で、何があった。直接俺を訪ねてくるってことは、それなりに重要な用件だと思うが」
「ええ。京極陸相が、陸士で異例の演説をしたそうです」
 菊之丞は神妙な面持ちで、演説の内容と京極の意図に対する推測を述べた。
「陸軍が動くかもしれません。政治的な動きは上層部にでもいない限り知る術がありませんが、武装蜂起の予兆は外から監視していればつかめる可能性があります。それで、陸軍の拠点を監視していてほしいんです」
「簡単に言ってくれるなあ……。二十四時間態勢で見張れってんなら、一カ所あたり四人は割かなきゃいけないんだぞ?」
 帝国華撃団で一二を争う大所帯とはいえ、任務に対しての必要人数を考えれば少なすぎる隊員のやりくりを思い、加山がぼやいた。
「それでもやってくれるのが、加山隊長率いる月組だと伺ってます」
 しゃあしゃあと言ってのける菊之丞に、加山はけっ、と吐き捨てて右手を出した。
「文学少女と自称するからには、原稿を持ってきたんだろう。今日のは何だ」
「禁断の恋に悩む、乙女心を綴ったポエムです。枚数が少ないもので」
「隅々まで目を通しておくよ。機会があれば、穴埋め原稿には使ってやる」
「そちらも楽しみにしてますね」
 加山は封筒を受け取って中身を改めた。四〇〇字詰めの原稿用紙に几帳面な文字で、『人知れず咲く薔薇』という題名の詩が綴られている。もちろんそれは依頼の詳細を記した文書の擬装で、そちらの方は裏側に無色の特殊インクで書かれている。紅蘭が開発した「みえないくん」だ。対になっているライト「うきでるくん」で照らさなければ読めないようになっている。
 余談になるが、出版社に持っていくものだからと毎度毎度持ち込み原稿を装う薔薇組からの秘密文書、表の作品の出来も案外良い。琴音は小説、斧彦は俳句・川柳・都々逸といった定型もの、菊之丞は散文詩と得意分野はそれぞれに異なるが、編集部内に固定のファンを獲得するに至っている。帝都芸能出版社のカラーに合わないので、雑誌に載せてやったことはないが。
「じゃあ加山さん、よろしくお願いしますね」
 いとまを告げて退出しようとした菊之丞を、加山が呼び止めた。
「ときに丘。お前、坂東と陸士で同期だったな。あいつとは親しいのか」
「そうですね。お部屋でハーブティーを飲んだり、化粧品の試しっこをしたり」
 とても軍人同士の交流とは思えない内容に、加山が顔をしかめる。
「ここ数日で、変わった様子はなかったか」
「うーん……当然といえば当然ですけど、これに関して衝撃を受けた様子でしたね」
 菊之丞は原稿を指差して続けた。
「ここ数日に限らなければ、好さんは変わったと思いますよ。陸士時代の彼女は、笑顔にすら隙がないっていう印象でしたけど、今は少し可愛いところも見せるようになりましたしね」
 笑顔にすら隙がないという菊之丞の評価に、加山も初対面の時の彼女を思い出す。謙虚な笑みを浮かべながら、「私を侮るものは斬る」とでも言わんばかりだった、鋭い目。坂東好少尉が宇都宮で閑職に甘んじざるを得なかったのは、性別よりもその目が示す態度ゆえではないかという気がしていた。
「……たとえば『いじられキャラ』っぽくなったとかか」
「あら、もう知ってたんですか」
「日例報告にそう書いてきた。それで何があったのかと思ってな」
「そんなに気になるなら、本人に聞けばいいのに」
「あいにくと、月組は大所帯のうえに貧乏暇なしでな。だが心がけておこう」
「ええ」
 今度こそ、菊之丞は退出した。
 それを見届けてから、鈴木が静かに尋ねる。
「どうなさるんですか?」
「割ける人数によるな。人員の調整は鈴木に任す。今日中にたたき台でいいから出してくれ。坂東については、近いうちに帝劇に行って様子を見てみよう」
「かしこまりました」
「さあ〜て。次は、クラレンスと楽しい京都行きの話でもするか。榊、あいつを呼んできてくれ」
「了解」
 榊が短く答え、軽やかな足取りで社長室を出て行った。


*    *    *

 数日後、帝劇の事務室にクラレンス・伊藤が訪ねてきた。
「こんにちはー、織姫さんにお目にかかりたいんですが」
「織姫さんは、大神さんと浅草に行ってるよ。緒方さんのお見舞いで」
 顔見知りの気安さで好が答えると、クラレンスは目を丸くした。
「え? じゃあ、父上とは……」
「仲直りしたみたいだね。もちろん大神さんとも」
 クラレンスはへなへなと受付カウンターの向こうに沈み込んだ。
「……よかったあ〜。織姫さん、僕にも会ってくれるでしょうか」
「大丈夫だよ。ほら、立って」
 好は座り込んでしまったクラレンスに手を差し伸べた。彼は好の手を借りて立ち上がり、感極まったように目を潤ませた。
「よかった……ほんとによかった……。織姫さん、あの大きな苦しみを乗り越えたんですね。僕、自分が嫌われたことよりもそれがつらかった−−織姫さんが、あんな悲しみをずっと抱えたままだったのが……」
「クラレンス……」
 人目をはばからずぽろぽろ涙をこぼし始めたクラレンスに、ハンカチを貸してやる。それ以上のことは、どうしていいのか分からなかった。
 クラレンスはしばらく声を殺して泣いたあと、好のハンカチで涙を拭って照れくさそうな笑みを見せた。
「ごめんなさい。お見苦しいところを見せてしまいました」
「いや、それはいいけど……織姫さんに何の用? 取材の予定は入ってないよね?」
「ああ、月組の方です。織姫さんに紹介状を書いてもらわなきゃいけないので」
「織姫さんにというと、元Mars(火星:星組の霊子甲冑部隊)の人? その人に会いに行くの?」
「まあそんなところです」
「じゃあ、織姫さんが帰ってきたらそのように伝えとくよ。その上で、織姫さんに時間とってもらうから、決まったら連絡するね」
 好がそう言うと、クラレンスは「はい、お願いします」と少し赤くなった目で笑み崩れた。子犬のような邪気のない笑みは、今の彼女が正視するには少しばかり眩しすぎた。

(これで花組は一枚岩になった、んだよね)

 事務室を出て行くクラレンスの背中を見送りながら、好はふとそんなことを考えた。
 好が月組に入隊した当初には、レニや織姫といった小さな綻びがあった花組。そのときでさえ部外者が入り込む隙のなかったあの花園は、今や完全無欠の楽園として遥かな高みに行ってしまったように思えた。それこそ、あまりの眩しさゆえに、遠くから見ていることにも覚悟を要求するかのように。
「あはは……まいったなこりゃ」
 乾いた呟きが思わず漏れる。
 さわやかな秋空が運ぶ澄んだ空気が、好の鼻腔をつんと刺激した。
「ほんと、まいるよね……」
 他に誰もいないのを幸い、好は机に突っ伏した。頭が煮えるだけ煮えて、涙が出ないのが、今は少しばかり腹立たしかった。

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