半月の道標 第1章 青い鳥は劇場に

 太正十四年九月二日、銀座四丁目の大帝国劇場に珍奇な来客があった。
 その人物は、軍帽に軍衣袴、長靴に拍車、銀色の鞘も眩しい指揮刀、少尉の階級章など、身につけているものすべてが真新しいことと萌黄色の襟章から、任官したばかりの騎兵少尉だと知れた。もう少し注意深く観察すれば、ウエストを絞って体にフィットするように仕立てられた軍衣の胸元が柔らかく盛り上がっていて、軍衣の主が女性だと分かる。
「ふう、暑……」
 彼女は後ろ手に閉めた玄関ドアの前で軍帽を脱ぎ、ポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭いた。
 そうして明らかになった容貌がこれまた珍奇であった。
 くるくるとよく動きそうな、ぱっちりとした大きな目。眉から鼻にかけての造作には知的な雰囲気が漂う。顔立ちはまあ整っているが、本人がその辺に無頓着なのだろう、肌は日焼けして浅黒く、ふっくらとした唇はがさがさに荒れていた。短く切り刻まれた茶色の髪は、ショートカットというより伸ばしっぱなしの坊主といった風情で、見る者をぎょっとさせる。
 彼女――帝国陸軍・坂東好騎兵少尉は、軍帽をかぶり直して玄関ロビーを見渡した。
 公演期間中ではないらしく、まったく人気がない。左手に見える食堂の入り口にあるショーケースの電源は落とされていて、営業していない様子だった。奥に進んで客席の左隣にあった売店も無人だった。
 好(よしみ)は客席扉のすぐ横に掲示されていた案内図を見て、事務室が食堂の奥にあることを知った。そこに行けば誰かいて、米田一基中将に取り次いでくれるだろう。彼女は正面玄関を出て、反対側にある小玄関の方に回った。

 小玄関の奥には小さなカウンターがあり、どうやらそこが事務室につながる受付のようだった。
 好は卓上に置かれたベルを鳴らした。
 すると、「はい、ただいま」と声がして、中から若い男が現れた。
(あっ……)
 男の姿に、好は強い既視感を覚えた。
 天を突く黒髪がまず目を引く男は、切れ長で三白眼気味の目に、鼻筋はすっきりと通っていて、さわやかな印象の美男子であった。袖まくりしたシャツに前をはだけたベストという軽装で、その体格はシャープな逆三角形だった。全体的には細身なのに、首と肩の辺りがやけにがっしりして見えるのが、特殊な鍛錬のあとを思わせた。
 士官学校時代に憧れていた騎兵の先輩が、民間に就職していたらこのような感じになるだろうか。声と髪型が先輩のものとは異なるから他人のそら似だとは思うが、一瞬我を忘れて見入ってしまうほどだった。
「本日付けで帝国華撃団・月組に配属されることになりました、坂東好少尉であります。米田中将閣下にお取り次ぎいただきたくあります」
 好がそう名乗ると、男は驚いたように目を瞬かせた。
「あなたが?」
「はい」
「……女性?」
「……はい、一応……」
 好が答えたのと、男が手を合わせて頭を下げたのが、ほぼ同時だった。
「すみません! 最近紛らわしい人が多いから」
「いや、いいんですいいんです。軍服着てれば普通男だと思いますよ。それにほら、こんな頭だから」
 軍帽を取って説明してやっと、男は納得したようだった。
「本当に申し訳ありません。あまり詳しいことを聞かされてなかったもので」
「それで、米田中将閣下はどちらにいらっしゃいますか?」
「支配人室です。ご案内いたしますので、右手のドアからお入りいただけますか」
 男に言われて玄関ホールのドアを抜けると、入れ替わるようにして男が事務室から出て来た。
「坂東少尉、どうぞこちらへ」
 男に誘われ、好は廊下を奥へと進んでいった。

 好は背筋を正して支配人室のドアをノックし、腹に力を込めて名乗った。
「騎兵第十八連隊の坂東好少尉であります!」
「おう、入ぇんな」
 すると、嗄れた男の声で返答があった。ずいぶんとくだけた口調に疑問を覚えながらも、好は精一杯威儀を正した。
「はっ。失礼します。本日一四〇〇時付けで帝国華撃団・月組に配属になりました、坂東好少尉であります!」
 入室するなり、十五度上方を見つめつつ音が出そうなほどしゃちほこばって敬礼してから、好はようやく相手の顔を見た。
 眼鏡をかけた初老の男が、灰色の三つ揃えの背広を着て、机の前に腰掛けている。その顔は写真でも見たことがある米田一基中将に間違いないが、顔つきは締まりなく、どこか意地悪な笑みを浮かべているようにすら見える。
 それだけならまだしも、机の上にはとっくりとお猪口があり、今まで彼がそこで一杯やっていたのが伺える。
 好は驚きのあまり言葉もなく、敬礼した形のまま動けないでいた。
(『酔いどれ将軍』って言葉通りの意味だったんだ……)
 陸軍屈指の猛将につけられた異名の真実を知り、彼女は愕然とした。
 華々しい功績を挙げた軍人には、いろいろと異名がつくものである。それには二つの種類があり、一方は彼の功績や戦いぶりを讃えてつけられるもの、もう一方は近しい者が彼の言動や癖などをユーモラスに表現するものだ。
 米田一基中将にもその両方がある。
 彼の功績を讃えた異名は『拠点防衛の芸術家』である。これは、日清戦争時に、わずか一個大隊で数万の敵軍を相手に援軍が到着するまでの数日をしのぎきった時につけられたものだ。
 そして、彼の言動を表現した異名が『酔いどれ将軍』だった。軍人らしからぬべらんめぇ口調で、飄々と人を食ったような言動をすることと、規律にこだわらない大らかさをそう表現したと聞いていた。それがまさか、本当に昼間から酒を飲んで酔っぱらっている爺さんだとは。
 次ぐべき言葉を失って固まったままの好に、米田が酒臭い溜め息をついた。
「ああ、堅苦しい挨拶はなしにしようや。でぇいち、ここは劇場なんだぜ?」
「はあ……そうでしたね」
 手を下ろして気の抜けた返事をした好に、米田が畳み掛けた。
「だから軍人言葉も、軍服も駄目だ。そんな格好でうろうろされちゃあ、目立ってしょうがねえや」
「はい」
「あー、それでだ。お前さんの任務は、劇場の事務一般だ。明日から隣の事務室に勤務することになる。今日のところは副支配人の指示に従って動いてくれや」
 好は冷静さを取り戻して復唱した。
「了解しました。坂東好少尉は、明日より大帝国劇場事務室に勤務。本日は副支配人の指示に従って行動します」
「……復唱もいい。なんだかなぁ、お前さんは。物分かりがいいんだか覇気がねぇんだか、はっきりしねえな」
「そうでしょうか」
 一見従順に見える慎重な態度は、軍隊生活の中で好が身につけた処世術だ。
 軍隊という究極の男社会で女がうまくやっていくには、女であることを言い訳にせず、かといって決して彼らと同じ「男」になりきらないことが肝要だ。一人の軍人として求められる能力や技能を身につけるのは当然として、何より求められたのがある種の慎み深さだった。場の状況や共有される文脈を把握してそれに逆らわないこと、周囲のプライドを刺激しないこと――などなど。それらの経験則が、彼女の慎重な態度を作っている。
「ま、劇場勤めにゃそれぐらいでいいだろうよ。客ともめ事を起こしたり、ひと月持たずに辞める辞めねぇの騒ぎになるよりゃマシだからな」
 何かと比較するような口調を疑問に思っていると、米田が声を張り上げた。
「なぁ、大神よ」
『いいっ!?』
 聞き覚えのある声がドアの外から聞こえてきて、好はその方を振り返った。
「観念して入ぇってきな」
『はい……』
 ドアを開けて現れたのは、予想通り先ほど好を案内した事務員だった。気まずそうな表情を浮かべて、米田と好を交互に見比べている。
 米田が意味深な笑みを浮かべて大神と呼んだ男を見た。
「二年前の再現だ。お前が好のことを気にしねぇわけがねえやな」
「そうはおっしゃいますけど、あの時は本気だったんですよ?」
 話が見えなくなって目を瞬かせる好に、米田が男を紹介した。
「こいつは大神一郎、モギリ兼雑用係ってところだ」
「大神一郎です。これからよろしくお願いするよ」
「はい。よろしくお願いします」
 大神がにっこりと笑って右手を差し出したので、好はその手と握手をした。
 彼が今後好の同僚になるらしいことは分かった。だが、『二年前の再現』とは? 今と同じような状況があったということは、実は彼も将校なのだろうか。
 そのことを尋ねたものか迷っていると、米田が大神に命じた。
「かえでくんが戻ってくるまで好に劇場内を見学させて、花組と裏方連中に顔合わせをさせてやれ。地下の連中にもだぞ」
「なんだか俺の時とはずいぶん違いますね……」
「つべこべ言うな! さっさと行け」
「はい!」
 米田に怒鳴られ、大神だけでなく好までもが直立不動で返事をしていた。

 支配人室を出ると、大神が苦笑していた。
「いきなり劇場の事務係をやれだなんて、がっかりしただろう?」
「いえ。まあ、こんなものでしょう」
「冷静なんだね」
 好の淡々とした返答に、大神は意外なものを感じた様子で、照れくさそうに呟いた。
「俺さ、兵学校を出てすぐここに配属された時、すごく落ち込んだんだ。人々を、平和を守るために軍人を志したのに、なんで劇場のモギリなんだ……って」
「ああ……」
 その言葉で、好は大神の立場を察した。兵学校とは、海軍士官を養成する、江田島の海軍兵学校のことだ。米田の「二年前の再現」という言葉から推測するに、彼は二年前、兵学校を卒業してすぐ帝国華撃団に配属され、大帝国劇場のモギリをさせられて落胆したということか。
「確かに。将来有望な海軍士官が劇場のモギリでは、面目丸つぶれですもんね」
「君だって陸軍将校じゃないか」
「私は、慣れてますから」
 好は意識して笑みを作ってそう言った。
 事実、好はこうした人事に慣れている。士官学校を卒業してから、実体のない小隊の隊長を任せられたり、こじつけでひねり出したような奇妙な役職につかされたり。それでいて、実際にやることといえば、民間人の身分で軍に雇われて事務作業などに従事する軍属と変わりなかった。
 落胆しなかったと言えば嘘になるが、あきらめて受け入れるしかなかった。現場の下士官から面と向かって「女の上官なんかに従えるか」と言われたこともあるし、「女は引っ込んでいろ」という無言の空気が、どこに行ってもついて回った。それでもクビにならない以上、上層部には何らかの意図があって好を置いているのだろうが、中隊長や連隊長などに尋ねてもはぐらかされるばかりだった。
 そんなことが繰り返されるうちに、彼女はそのことについては考えることをやめてしまった。答えの代わりに、「残念ながら、これが現実」という諦めの言葉を、ひっそりと胸中に呟くようになっていた。
 微笑んではいたが、好の声には無意識の険がこもっていたのだろう。それを聞き取ったか、大神がまずいことを聞いたとばかり話を変えた。
「あ、いや――すまない。まずは俺の部下たちから紹介するよ」
 大神に部下の元へと案内されての道すがら、彼は改めて自己紹介をした。
 曰く、彼の帝国華撃団での所属は、降魔迎撃部隊・花組の隊長。花組が帝国華撃団の実戦を担う部隊で、「光武」という名の人型蒸気を駆って、怪蒸気や降魔など人外の敵を殲滅するのが任務であるという。
「海軍少尉という向こうでの身分もあるけど、そのことは忘れてほしい。君もだよ、好くん」
「ええっ!?」
 大神に釘を刺され、好は裏返った声を上げてしまった。
「ここには軍とは異なる指揮系統があるし、平時は劇場だ。軍人精神が邪魔になることの方が多い」
「いやそうじゃなくて、今私のことを何と――」
 周囲から「坂東」と呼ばれる軍隊生活の長かった好には、自分の名ながらそれほど衝撃的な一言だった。
 好の驚きを見て取った大神が笑って付け足した。
「あ、そうか。ここでは男性は名字で、女性は名前で呼ぶのが慣習になっているんだ。俺だけじゃなく、いろんな人に『好くん』だの『好さん』だのと呼ばれることになるよ。早く慣れてね」
「努力します」
 それだけ言って、好は軍帽を深くかぶり直した。顔が火照って熱いのは、きっと暑さのせいだろう。


2

 大神に案内されてたどり着いた場所は、舞台袖だった。劇場そのものも初めてなら、その舞台裏を見るのも初めての好は、物珍しそうに周囲を見回した。
 天井は普通の建物なら三階分に相当する高さで、上から各種の幕やら照明機材やら吊り具やらが下がっている。その他にも、小道具や台本、稽古の合間に飲む飲み物が置かれたテーブルなどがあり、暗くてごちゃごちゃしている印象がある。それとは対照的に、舞台後を飾る幕しかない舞台には、昼間の陽光のような強い照明がたかれ、別世界の眩しさを感じさせる。
 どうやら舞台稽古の最中らしく、ピアノの伴奏に乗って、少女の明るく澄んだ歌声が聞こえてくる。
「みんな夢を見る 夢に手を伸ばす どんな夢ならば 叶うのだろう?」
 だが歌い手の姿は好の位置からは見えなかった。その手前、舞台袖に劇団員とおぼしき女性たちが台本を手に稽古の様子を見守っている。台本には、『青い鳥』という題名が書かれていた。
 まさか、彼女たちが?
 好が問うように見上げると、大神はそれには答えず舞台袖の方に声をかけた。
「やってるね」
「あ、隊長……その方は」
 振り返った四人を代表して、背の高い金髪の女性が大神に尋ねた。短く切り揃えた髪にシンプルな稽古着姿が目を引くが、それ以上に、好を見る目の鋭さと隙のなさにはっとさせられる。
「月組の新人の、坂東好少尉だ。事務局に配属になるそうだ」
「では、稽古を一旦休止しますか」
「いや、切りのいいところまでやってくれ。彼女にも見せてやりたい」
「はい」
 女性は、他の三人を脇に移動させて大神と好の場所を作ってやると、どうぞ、と目礼した。大神とのやり取りから察するに、彼女が花組の副隊長的地位にある隊員らしい。
 稽古を見られる位置に来ると、強い照明の光が目に飛び込んできて、好は思わず目を細めた。

♪夢はつかめない そこに向かうだけ だけど信じよう みんなの夢を♪

 歌声が高いところから聞こえてくるのに気付いて見上げると、五メートルくらいの高さに下げられた金属の環に、好と同年代の少女がブランコのように乗って歌っていた。長い黒髪を赤いリボンでポニーテールに結わえた少女は、全身をぴったりとフィットした稽古着に包み、つま先にまで凛とした緊張感をみなぎらせている。
 その下では、銀色のショートヘアーの少女が、ふわふわした金髪の少女を抱きかかえ、頭上で歌う少女を見上げている。
 銀髪の方は、稽古着にかすかな胸のふくらみが見て取れなければ、少年に見えたかもしれない。
 金髪の方は、たっぷりとした髪に結わえられたピンク色の大きなリボンや、フリルのついた稽古着が、可憐なフランス人形を思わせる。
 舞台上では、黒髪の少女の独唱が続いている。

♪ブルーバード ブルーバード たくましく生きてゆこう
 ブルーバード ブルーバード 素晴らしい夢を見て
 君が夢となって 光り輝く♪

 歌詞も歌声も歌う姿も、何もかもが眩しかった。軍服姿の自分の存在がひどく場違いなものに思えて、好は目を伏せた。
 そうした思いにふける間もなく、手を打ち合わせる音とハスキーなアルトの声が聞こえた。
「はい、そこまで! さくら、レニ、アイリス、こっちへ来て。織姫もよ」
 声の主は、先ほどの副隊長格の女性だった。彼女を中心にして、年齢も国籍もさまざまな女性たちが集まってくる。
 そうしたところで、彼女はさりげなく大神に話の主導権を引き渡す。彼はそれを受けて切り出した。
「紹介しておくよ。彼女は月組の新人で、事務局に配属されることになった坂東好くん。見ての通り、陸軍の将校だ」
「坂東好です。よろしくお願いします」
 好は姓名のみを申告し、踵を鳴らして挙手敬礼した。
 花組の隊員もそれに返礼し、次々と自己紹介を始めた。
「マリア・タチバナです。よろしく」
 この場を仕切っていた副隊長格が、花組のチームリーダーを務めるマリア・タチバナ。ロシア出身で、舞台では男役を主に演じているという。
「真宮寺さくらです。よろしくお願いします」
 先ほど舞台に吊られた環に乗って歌っていたのが、仙台出身の真宮寺さくら。今度の秋公演『青い鳥』では青い鳥役を演じるそうだ。
「アイリスです。仲良くしてね」
 先ほど舞台上で銀髪の少女に抱かれていたのがアイリスことイリス・シャトーブリアン。フランス出身で、『青い鳥』では主役のミチルを演じるそうだ。
「ソレッタ・織姫でーす。よろしくお願いしまーす」
 愉快なイントネーションの日本語でそう自己紹介したのは、先ほどまで舞台上でピアノを弾いていた、ソレッタ・織姫。イタリアの名門貴族の出身で、ヨーロッパの劇場でも高い評価を受けているそうだ。
「神崎すみれですわ。よろしくして差し上げてよ」
 そう自己紹介したのは、花組のトップスタア・神崎すみれだった。立って、歩く。ただそれだけの動作が舞踊のように優雅に見えるのは、トップスタアのオーラのなせる業だろう。
「あたいは桐島カンナ。よろしくな」
 快活に名乗って手を差し出したのは、沖縄出身の桐島カンナ。見上げるほどの長身に筋肉質の体躯、赤銅色の肌がいかにも強そうだ。差し出された手と握手すると、がっしりと力強く握られて好は面食らった。
「ウチ、李紅蘭や。よろしゅうな」
 関西弁で自己紹介したのは李紅蘭。中国生まれだが、神戸に長く住んでいたのでそうなったという。お下げ髪に愛嬌ある顔立ち、大きく丸い眼鏡が、何ともユーモラスな印象を醸し出している。
「レニ・ミルヒシュトラーセ」
 最後に素っ気なく名乗ったのは、アイリスをかき抱いてさくらを見上げていた、レニ・ミルヒシュトラーセだ。それ以上のことは何も言わないので分からない。銀色の髪と深く澄んだ湖水のような瞳が際立って印象的だった。
 しかし、その澄んだ目が、必ずしも澄んだ心を反映するとは限らない。好を一瞥して退屈そうに逸らされた視線からは、極めて控えめながらも敵意が含まれているのが感じられた。
 よくあることだ。軍人に対する世間の視線は、好意的なものばかりではない。むしろ、地方(陸軍では軍隊の外の世界をこう称する)ではそのような眼差しを向けられることの方が多いくらいである。慣れたはずのその視線に、好はなぜか引っかかりを覚えた。 
 総勢八名、いずれも稽古着を着ていてさえ華やかな女性たちである。彼女たちが前線を担う戦闘員であることが、俄には信じがたい。
「この方たちが花組の隊員――」
 本当に戦力になるのだろうか? という疑問を飲み込み、好は彼女たちを注意深く観察し、その実力を推測した。
 マリアとレニからは自分と同じ軍人の匂いを感じるし、カンナの体つきは格闘技を極めた者のそれだ。さくらとすみれは剣術をやっていた者特有の足運びで歩いてきた。アイリス、織姫、紅蘭の三人は戦闘向きにはとても見えないが、それでも何か常人離れしたものを感じる。
 彼女たちの周りだけ、空気の温度が違うような。
 いや、ここにいる、大神を含めた全員からか。
 何となく冷え冷えとしたものを感じて身を震わせると、舞台袖の向こう、好たちが入ってきた方向から、軽い足音と男の声が聞こえてきた。
「ああ、ここにいたんですか。大神さんも」
 舞台に現れたのは、大神よりやや背の低い、着物姿の三十過ぎの男だった。角刈りにいかつい顔立ちと鋭い目つきが、やくざの親分を連想させる。
「どうしたんですか、斎藤さん?」
「月組に新人が来ることになってたでしょ? ちょっと採寸をと思いまして」
 大神に問われ、斎藤と呼ばれた男が笑む。凄みのある風体なのに、物腰がやたらと柔和なのが奇妙に思われた。
「ええ。彼女が坂東好少尉です」
「坂東好です。よろしくお願いします」
「あたしは衣装係の斎藤泰生(やすお)という者です。月組の副隊長で、この劇場の警備を任されてます」
 好の自己紹介を聞いた斎藤が目を細めた。
「ははあ……これはまた、ユニークな人選を――」
「何か?」
「いえ、こちらのことです。装備の採寸をしますんで、衣装部屋へ来て下さい」
 好の追求を笑み一つでかわし、斎藤がすたすたと先導するように歩き出した。好がそれに続き、しばらく迷っていた大神が舞台の花組に一声かけてから追ってくる。

 衣装部屋は舞台からは楽屋をはさんだ先にあった。
 中では色とりどりの衣装のかかったハンガーがひしめき、騒々しい色の壁となって部屋の左半分を圧迫していた。右手には天井近い高さの棚があり、マネキンの頭部にかぶせられたカツラが収められている。部屋のの真ん中が、ミシンと作業台からなる作業スペースだった。
 斎藤が、ミシンの前にあった椅子を持ってきて、好の目の前に置いた。
「とりあえず、上着と帽子を脱いで、指揮刀をはずしてくれますか」
 好はそれに従い、軍衣を脱いで椅子の背にかけ、軍帽を椅子の上に置いた。指揮刀は少し迷って、椅子の後に立てかけた。そうすると、何やら急に心許なくなった。
「では失礼して――」
 斎藤が後に回り、肩幅から測り始めた。次いで上着の着丈、袖丈、胸回り、胴回り、腰回り。股下丈に足のサイズまで、かつてないほど詳細に測られ、数値がメモに書き取られてゆく。
「――はい、終わりました。装備は明日朝一で支給しますから、この部屋に取りにきて下さい」
 斎藤にそう告げられ、好はようやっと安堵の息をついた。
 斎藤に一礼して衣装部屋を出てみると、大神が部屋の前で所在無さげに立っていた。
「お待たせしました」
 好が何気なくそう言うと、大神は生返事で何やら気まずそうに目を逸らした。
 彼が、好の採寸が終わるのを待っていたことに思い至り、気恥ずかしさが怒濤のように押し寄せる。
「別に……裸になったわけじゃありませんから――」
 苦し紛れに口にした言葉が墓穴を掘る結果となり、好は頬を熱くして俯いた。
 それは大神にしても同じであったらしく、彼は咳払いをして妙に力の入った口調で話を変えた。
「それじゃあ、他のところも見て回ろうか。後々世話になる人もあるだろうから」
 好は大神に連れられ、劇場内のいろいろな場所を見て回った。
 大道具の工房に厨房、照明室に音楽室。売店やクロークなど、客から見える部分以外にもそれぞれの役割があり、それに従事する人がいる。劇場というものがこれだけ多くの人手を必要とするものだということを、好は初めて知った。

 帝劇の地上部分の見学を終え、見学は地下へと移ることになった。
 地下で最初に連れて来られたのが、地下二階の格納庫だった。
 下りるなり、白、赤、ピンク、黄色……花を思わせる鮮やかな色の塊が目に飛び込んできた。その正体を知って好は驚いた。
 ずらりと並んでいたものは、人型蒸気の頭部だった。全部で九台の人型蒸気が、立った姿勢でそれぞれの場所に格納されている。機体の横、肩部装甲の高さには搭乗用の足場が組まれ、その上ではモスグリーンの作業着姿の整備士たちが、好たちに注意を払うことなく整備に勤しんでいる。
機体の高さは二・五メートルほど、カプセル状の操縦席部分に直接手足が生えた形で、背部には、子供がランドセルを背負ったような状態で蒸気機関が接続されている。吸気口は頭頂部に三角形のものが一つ、排気管は蒸気機関の左右に三本ずつ、計六本取り付けられている。武装は黒い機体にある七ミリガトリング砲と、緑色の機体にある八門の短い砲門だけで、他の機体には何もついていない。
「どうだい好くん、これが光武だ」
 大神に感想を聞かれ、好は反射的に呟いた。
「ありえない……」
 一部が戦車部隊に改編されつつある騎兵連隊で陸軍の人型蒸気を見てきた好には、光武がどれだけ常識はずれな機体であるかが分かる。
 何よりもまず、光武は小さい。陸軍での人型蒸気は、小さく小回りが利き、地形走破性により優れた戦車という位置づけだ。だから小さくなったとはいえ、戦車と同じ、車長・操縦手・砲手・装填手の四名での搭乗を前提とし、機体もそれだけ大きい。おそらく一人乗りであろうこの機体を実用化するのにどれだけの技術的困難を伴うかは、好の想像を絶した。
 小さいといえば、動力源である蒸気機関も、小さい機体に比してなお小さかった。同じ大きさの蒸気機関を他に探すとすれば、タクシーのそれくらいだろうか。タクシーよりずっと重そうな光武の主機関がこの大きさでは、歩けるかどうかも疑わしい。
 そして、黒と緑の機体を除けば、火器らしい火器がまったくついていない。まさか人型蒸気で白兵戦もないだろうが、もしそうならこれまた信じられない。少なくとも好の知る限り、人型蒸気はあくまで「歩ける戦車」であって、たとえ一人乗りでも、それ自体でそこまで機敏な戦闘機動ができるわけではない。
 好が疑問を口にすると、大神は感心したように口をすぼめた。
「さすが、鋭いね。光武はいわゆる『人型蒸気』と違って、『霊子甲冑』と呼ばれている。蒸気も動力として使われてるけど、メインは人が持つ霊力――精神の力なんだ」
「『霊子機関』ですね。理屈だけなら知っていますが」
 人の持つ霊力を、霊子水晶と呼ばれる特殊な結晶体に反応させ、大きな物理的エネルギーに変えるのが霊子機関の原理であり、蒸気機関と併用することでその出力を大幅に増強することができるという。しかし、陸軍霊子学研究所の試算によれば、一個中隊二百人分の霊力を結集して、やっと乗用車一台を走らせる程度で、とても使い物にならないと聞いたことがある。
「知っての通り、霊子機関を動かすには極めて高い霊力が必要になる。その能力を備えたパイロットが彼女たち――花組の隊員と俺なんだそうだ」
「ああ――」
 聞いた瞬間、好は肌が粟立つのを感じた。と同時に、舞台で花組と対面した時に感じた、空気の温度をも変えるほどの気配の違いの正体に納得した。
 特別なパイロットのために、軍の十年先をゆく最新技術で作られた、一人乗りの兵器。あまりの贅沢さに目が眩みそうだった。
「すごい! これが一人一機? どれくらいの速度で走れるんですか? 馬力はどれくらいあるんですか?」
「霊子甲冑はパイロットの動きを再現して動くから、そんなに速くは走れないよ。馬力も、パイロットの霊力によってけっこう変わるから正確には計測できないし――」
 興奮気味で矢継ぎ早に繰り出される質問に、大神は少々困惑した様子であった。
 それに気付いた好は、我に返って大神から離れた。いつの間にか、物理的な距離まで近づき過ぎていたようだ。
「あ、すみません。ちょっと舞い上がってしまいました」
「いや、気持ちは分かるよ。軍人として、最新鋭の兵器には憧れるもんな」
「ええ、そうです!」
 握りこぶしで言ってから、好は一つの事実に目を向けずにはいられなかった。

(でも、私は光武には乗れない)

 なぜなら、彼女たちと自分は違うから。
 彼女たちは特別な存在で、自分は普通の人間だから。
 その事実は、小さくとも決して無視できない刺のように、好の胸にちくりと刺さった。
「光武のことなら中嶋の親方に聞くといいよ」
 大神はそう言ってから、親方、と格納庫の奥に向かって声をかけた。
 大神に呼ばれて現れたのは、好と同じくらいの背丈の四十過ぎの男だった。その出で立ちは、つるりとしたはげ頭にはちまき、「大帝国劇場」の法被に地下足袋というもので、整備士というよりは舞台の裏方のように見えた。
「整備班長の中嶋さんだ。劇場の皆からは『親方』って呼ばれてるけどね」
「整備班長、兼、大道具係の中嶋です。こちらの軍人さんは、どういった方で?」
「月組の新隊員で、事務局に配属になる坂東好少尉というんだ。光武についていろいろ聞きたいそうだ」
「坂東好です。よろしくお願いします、中嶋班長」
「ああ、こりゃどうも。あっしのことは『親方』でいいですよ」
 好と親方は、大神を通じて初対面の挨拶を交わしてから、光武についてしばらく語り合った。
 好は光武についてだけでなく、劇場の仕事についても話を聞き、劇場で働く全員が、華撃団においてもそれぞれに持ち場があることを知った。親方から聞く光武や劇場の話は、好には新鮮で、知的好奇心を大いにそそられるものであった。
「親方、俺たちはもう行くよ。邪魔してすまなかったね」
 切りのいいところでいとまを告げた大神に従い、好も親方に一礼して格納庫を出た。

 その後、好は大神と一緒に鍛錬室やプールや射撃場、作戦指令室や医務室など、主に華撃団としての設備を見学した。

 そうして最後に連れて来られたのが、薄暗い倉庫だった。大道具の残骸やら備蓄の物資やらがひしめき、雑然とした場所である。
 こんな場所に何があるのだろうかと見回していると、奥の方に、戦艦の隔壁を思わせる重厚な作りの扉があった。ただの倉庫にはおおよそ似つかわしくない物々しさだ。
「大神さん、あれ……」
 好が指差すと、大神が苦りきった笑みを浮かべた。
「うん……君は陸軍将校だから、紹介しないわけにはいかないと思うんだけど――」
 大神は何やら気の進まない様子だった。
「ここを見ても、できればこの劇場に愛想をつかさないでほしい」
 大神の態度に妙な含みを感じ、好は警戒しつつうなずいた。
 大神は、覚悟を決めたかのように、その扉を開けた。
 その瞬間、好の目に飛び込んできたのは、どぎついピンク色の背景とカーキ色の巨大な動体だった。それが自分たちにまっすぐ向かってくるのに気付いて、好は動線から半身をかわしてよけた。だが大神は、それをよけることすらせず、部屋の奥からすっ飛んできたカーキ色の動体を全身で受け止めている。
「いっちろおちゃあぁ〜ん! 来てくれて嬉しいわあぁぁん!」
 発せられた野太いだみ声によって、好はやっと、それがカーキ色の服を着た人間なのだと認識した。
 陸軍の軍服を着た巨体の男が大神に飛びつき、その頬や唇に仮借なくキスの嵐を見舞っている。分厚い、明太子のような唇で何度も何度も。大神はそれに抵抗して男を引き離そうとしているが、男の腕力の方が勝っているらしく、結果としてなすがままになっている。
 それを止めたのは、バリトンの鋭い声だった。
「やめなさい、斧彦。お客さんの前でしょう?」
 斧彦と呼ばれたカーキ色の巨漢は、それで動きを止めた。
「周りをよく見て下さいよ。好さんが怖がってるじゃないですか」
 穏やかに諭す別の男の声に、好は聞き覚えがあった。
 だが、声のした方にいたのは、見たこともない女性将校だった。幼げな顔立ちに、黒い髪は襟足の辺りですっきりと切り揃えられ、唇にはご丁寧に薄く紅まで引かれている。その下には、女性用の略式軍衣。
 自分よりも背が低いことも相まって、たいした違和感もなく女性のように見えるが、好は彼女(?)の正体に気付いた。
「丘……?」
 好が力なく問うと、その女性将校(?)は柔らかい笑みを返した。
「はい。お久しぶりですね、好さん」
「やっぱり……」
 その声で完全に好は悟ってしまった。やはり彼女(?)は、好の士官学校時代の同期だった丘菊之丞に間違いない。といっても、好は彼と特に親しかったわけではなく、変わった名前の、ぱっとしない同期という印象しかなかったが。
 もちろんそのときは女装なんかしていなかったので、今目の前にいる菊之丞はまるで別人のように見える。だが当の本人が、それが本来の姿だと言わんばかりの自然体なので、疑問を差し挟むこともためらわれる。
「あの……あなたたちはいったい……? どうしてそんな格好を?」
 それでも好の中に残る常識が問いを発すると、重く甘ったるい溜め息が返ってきた。
 溜め息の主は、暗褐色の長髪に銀縁の眼鏡をかけた男だった。鼻が高く彫りの深い顔立ちで、美男子と言えないこともない。だが、顔の横で大きくカールした長髪や、フリルを多用した装飾的な服装からは、強く異文化を感じさせる。どうやら彼がこの面々のリーダー格のようだ。
「あーあ、見た目も野暮なら言うことも野暮。がっかりだわ」
 彼は好を頭のてっぺんからつま先まで目で値踏みした。
「軍服はしょうがないとして、挨拶代わりのお世辞も言えないの?」
「でも琴さま、この子はその野暮ったいところが可愛いんじゃなぁい?」
「そうですよ、琴音さん。好さんは磨けば光ると思います」
 三人とも、好の質問には答えず、好き勝手に寸評を述べている。菊之丞の「磨けば光る」発言がきっかけとなって、話題はその具体的方法へと移ったようだ。今度は化粧品を取り出しては、被験者たる好のことはおかまいなしにあれこれと話に花を咲かせている。
 そのおしゃべりは、見かねた大神が声をかけるまで続いた。
「あのー、みなさん。華撃団の新隊員を紹介したいんですけど――」
 大神の声にいち早く反応したのは、先ほど彼にキスの嵐を見舞った巨漢だった。振り返ってしなを作り、媚を含んだ視線を送る。
「あぁら、ごめんなさい。お話の途中だったわね」
「好さんがそうなんですね。嬉しい」
 と言いながら、菊之丞は好ではなく大神をうっとりと見つめている。
 大神に促され、好は自己紹介した。
「本日付けで月組に配属となりました、坂東好少尉です。よろしくお願いします」
 好が敬礼すると、長髪の男が余裕のある返礼で応じた。
「初めまして、坂東少尉。私たちは愛と美の秘密部隊、帝国華撃団・薔薇組――隊長の清流院琴音よ。向こうでは憲兵大尉をやってたの」
「憲兵大尉!?」
 好は陸軍の上官に対し、失礼極まりない態度で驚いてしまった。
「そうよ。何か問題でも?」
 問題大ありである。憲兵といえば、軍人の行状を取り締まる軍の警察官というべき存在で、どこよりも風紀にうるさい。私服での隠密捜査を行うこともあるため、もともと軍人らしい短髪とは縁遠い兵科だが、それでもこんな派手な出で立ちでは、目立ちすぎて任務どころではあるまい。
 そう口にするわけにもいかず、好は無言で首を振った。
「私も憲兵志望なんです。自己紹介はもういいですよね」
 そう言う菊之丞も、男の身で女性用の軍服を着用――つまり女装している。今のところは確か、弾薬や食料の運搬に携わる輜重兵だったか。憲兵将校には他の兵科の佐尉官からの転科でなるものだから、彼の志望はもっともなものだ。だが、不人気の兵科を半ば押し付けられるように輜重兵になった経緯を知っている上、士官学校での不遇ぶりと今の姿を考えると、「大丈夫かな」と心配になってしまう。
「あたしは太田斧彦歩兵軍曹よん。斧彦って呼んでね」
 三人の中では唯一まともな軍装をしている斧彦だが、首から上は角刈りにド派手な化粧。カツラをかぶる前の役者の舞台メイクのようで不気味である。ことに、分厚い唇を強調するような毒々しい色の口紅が、いやでも目を引いてしまう。
「あぁ、そうそう。なんで私たちがここにいるかって話だったわね」
 琴音は眼鏡の縁を持ち上げ、そう前置きして話し始めた。
 それによると、彼らは米田中将に呼ばれて、ここで地下の警備をしているという。それが、彼ら薔薇組が帝劇に呼ばれた理由だが、それとは別に米田の要請や諜報部隊たる月組のサポートなどで、諜報活動にも携わっているそうだ。現在の身分は好と同じで出向扱いということらしい。
「せっかく外に出てこられたんだから、その間だけでも好みの環境で働きたいじゃない? この服は、そういうことよ」
 琴音が羽の扇を取り出して顔の前で打ち扇ぐと、その風に乗って、甘く強い薔薇の香りが立ちこめた。周囲を見てみると、壁紙にも絨毯にも彼らが腰掛けているカウチにも、豪奢な薔薇の模様があしらわれている。好はその様子を眩しく見つめた。
 好に退出を促しながら、大神が頭を下げた。
「好くんは事務局に配属になるそうです。皆さん、よろしくお願いしますよ」
「これからお世話になります。どうぞよろしくお願いします」
 好も大神にならって頭を下げると、琴音が優雅に微笑んだ。
「いつでも遊びにいらっしゃいな。菊之丞の同期なら、妹も同然だわ」
「あ、はい。どうも……」
 どうやら仲間と認定されたらしい。地下の奇天烈な部屋の奇天烈な住人が、好が帝劇で初めて得た仲間であった。

 薔薇組の三人に別れを告げ、好と大神は地上に続く階段を上っていった。
「いきなりびっくりしたよね? 悪い人たちじゃないんだけど――」
 気遣う大神に、好は笑って、きっぱりと言い切った。
「分かっています」
 たぶん、彼らも好と同じなのだろう。軍隊という鋳型に自分の大部分は収められても、ほんの一部分が、うまくはまらないと感じている。些細な違和感を感じながらもそこに居続け、異動のたびに納まりどころを夢見てきた。そして彼らは、おそらく帝国華撃団にそれを見いだしたのだ。

(もしかしたら、私も――)

 わき上がりかけた淡い期待を、好は微苦笑で振り払った。余計な期待は、まだしない方がいい。

 一通り見学を終えて事務室に戻ると、二人の女性がお茶を飲みながら談笑していた。
 大神が二人に親しげに声をかける。
「二人とも、いつ帰ってきてたんだい?」
「もう、大神さんおっそーい。何やってたんですか」
 赤い洋服を着た女性が、不満そうに口を尖らせた。大きくカールさせた短い髪と胸元の大きく開いた服が、活発で大胆な印象を与えている。
「ごめんごめん、好くんを案内してたら親方と話し込んじゃって」
「そちらが坂東少尉ですね? ……ごめんなさい、男性だと思ってました」
 と小首をかしげたのは、藤色の着物姿の女性だった。低い位置で束ねた長い髪が、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「ああ。彼女が事務局の新人の、坂東好少尉だ。かすみくん、由里くん、明日からよろしく頼むよ」
 大神が好を紹介すると、二人は自己紹介した。
「藤井かすみです。劇場で事務を取り仕切っています」
「榊原由里です。同じく事務員をしています。よろしくね、好さん」
 着物を着ていた方がかすみで、洋服を着ていた方が由里だった。
 好は少し迷って、軍隊式の敬礼はせずに会釈をした。
「坂東好です。明日からよろしくお願いします」
 明日から彼女たちについて働くのだと、口にすると実感した。
 それにしても、今日一日で、いったい何人と初対面の挨拶をしたことだろう。大神に米田に花組の八人、厨房に各種裏方に整備班、薔薇組の三人に事務の二人。記憶力に多少の自信がある好でも、全員の顔と名前を覚えきれそうになかった。
 だが、まだこれで全員ではないらしい。
「かえでさんは?」
 大神の問いに答えたのはかすみだった。
「支配人室に報告に行かれましたけど、もうお部屋にお戻りだと思いますよ」
 かえでって誰だったっけ――そういえば、米田中将がその名を口にしていなかったかと思い出しかけたところで、少し焦った様子の女の声がした。
「遅くなってごめんなさい。ああ、ここにいたのね」
 振り返った視界の端にカーキ色と金色の目立つ階級章を認め、好は姿勢を正して敬礼した。女性用の略式軍衣の肩にあるのは中尉の階級章、まぎれもなく上官のものである。
 中尉は目礼を返すと、好に命じた。
「坂東少尉。今から十分後に、荷物を持って私の部屋に出頭しなさい。階段を上がってすぐ右の部屋よ」
「了解しました」
「よろしい」
 きびきびとした命令に復唱する暇も与えず、中尉はそれだけ言うと去っていった。
 好はその後ろ姿にぼうっと見とれた。この劇場――帝国華撃団の本部に来て、初めて軍人らしい軍人を見た気がした。それも、坂東好少尉の憧れを凝縮したような、さっそうとした女性将校の姿に、胸が高鳴る。
「今の方が……かえでさん?」
「ええそうよ。帝劇の副支配人で帝撃の副司令だけど――」
「今まで何やってたのかしら? ただの報告にしては長かったわね」
 好の問いにかすみが答えて、由里が疑問を付け加えた。
「何か問題が発生したのかもしれないな」
 大神が眉を顰めると、かすみも由里も心得たように、だが厳しい面持ちでうなずいた。
 好だけが話についていけず、張りつめた空気に居心地の悪さを感じていた。


3

 好は、指定された時間きっちりに、藤枝かえで副司令の部屋に出頭した。
「坂東好少尉であります」
「入りなさい」
 許可を得て入室すると、白いスーツに身を包んだ華やかな女性の姿があった。襟なしのジャケットにフレアスカート、パンプスまでが白く、インナーの緑色と鮮やかな対照をなしている。顎のラインで切り揃えられた明るい茶色の髪も象牙色の肌も、きめ細やかな手入れによって磨き上げられていることが一目瞭然だった。
 同じ女性将校とはいえ、髪は実用性のみを重視して極限まで短く、肌は日焼けして荒れるに任せきりの己と比較して、好はいたたまれない気持ちになった。
「……ドア、閉めてくれない?」
「失礼しました!」
 かえでに注意され、好はドアを閉めることも忘れて彼女を凝視していたことに気付いた。ドアを閉め、改めて姿勢を正す。
「私が華撃団副司令で劇場副支配人の藤枝かえでです。よろしくね」
「坂東好少尉であります。よろしくお願いいたします!」
 好が机の前に着席したままのかえでに向かって敬礼すると、かえでは笑ってそれをたしなめた。
「軍人言葉は駄目だって、支配人に言われなかったの?」
「言われました……」
 確かに米田にはそう言われていたし、海軍少尉である大神も、陸軍軍人である薔薇組の三人も、普通の言葉遣いかどうかはともかくも、軍人言葉を使っていなかった。
「まぁ、これから気をつけてくれればいいわ。それで、このあとのことだけど」
 かえでは風呂敷を好に差し出した。
「衝立の奥に着替えがあるからそれに着替えて、軍衣はこの風呂敷に包んでしまいなさい。長靴と指揮刀も、とりあえずはこの部屋に置いておきましょうか」
 衝立の奥、ベッドの上には洋服がきれいに畳んで置かれていた。広げてみると、ゆったりしたシルエットの真っ白な袖なしワンピースと、水色の丈の短いジャケットとの一揃いだった。ベッドの下には、華奢な銀色のサンダルが、きちんと揃えて置かれている。
「うっ……」
 好は思わず呻いて後じさった。こんなに可愛らしい服は、彼女の選択肢の範囲外だ。命令がなければ、手に取ることもできなかっただろう。
「着替えながらでいいから聞いてちょうだい」
 軍衣のボタンに指をかけた好に、かえでが声をかけた。
「これから近くのデパートであなたの服を買って、それに着替えて月組の本部に向かいます。それからは月組隊長の指示に従って」
 明日以降、帝劇職員として勤務するときのことも同時に伝えられた。勤務時間や業務内容に就業規則、そういったあれやこれや。好は重要な語句を小声で復唱しながらそれを記憶していった。
 そうやって苦労して着替えをすませ、風呂敷に包んだ軍衣を持ってかえでの前に現れると、かえでは口元を押さえてきょとんと目を見開いた。
「あら、かわいいじゃない」
 かえでの賛辞に、好は内心で反発した。
 全然かわいくない。すごく変だ。この服にこの頭では、明らかに浮いてしまう。それにピンヒールのサンダルの、頼りなくて歩きにくいことといったら、とても外を歩ける気がしない。そこはかとなく、みじめな気分にもなる。
 好の内心など知る由もなく、かえでは笑顔で続けた。
「劇場職員としては今言った通りだけど、月組については何か聞いた?」
「断片的には。諜報活動に関わる部署のようですが」
 好は、大神と帝劇を見学していた時に現場で交わした会話を思い出しながら答えた。
「そうね。月組の正式名称は、帝国華撃団隠密行動部隊・月組。警察業務のない憲兵みたいなものよ。諜報活動、防諜活動、花組隊員や華撃団関係の要人の警護、霊的拠点の監視――憲兵と同じで、任務の範囲が多岐にわたるから、一言では説明できないわ」
「はあ、すごいんですね」
 好は他人事のように感想を述べた。何やらすごそうな任務だが、これまでの閑職と差がありすぎて自分のものという気がしない。
「まあでも、帝劇組の仕事は地味よ? 劇場での裏方仕事がメインで、交代で帝劇の警備、花組が出動した時には全員でそれにあたるって感じかしら」
「は」
 好は納得すると同時に、将校らしい仕事への未練がまだあったことに気付いて恥じ入った。
「それじゃ、お買い物に行きましょうか」
 かえでの明るい声が、好の気分をいっそうみじめにさせた。

 好はかえでに連れられて、帝劇の目と鼻の先にある松屋デパートにやってきた。
 歩いてもたかだか三分ほどの距離だったが、好はそれだけでひどく気疲れした。思い過ごしだろうとは思うのだが、道ゆく人々が皆自分を見ている気がしてならなかった。そんなことはないと分かっていても、視線を感じて首筋がむずむずする。デパートに入ってもそれは同じで、あまりにもいたたまれなくて、穴があったら入りたい気分だった。
 デパートに入るのも初めてなら、そこで買い物をするのも初めてだったので、買い物はかえでに任せきりだった。好はかえでが見立てて差し出す服を試着して、サイズが合うかどうかを確かめるだけだ。かえでの見立ては的確で、たくさんある服の中から、好の体にぴったり合う服を探し出してくる。
 好が何着か試着して見せて、最終的にかえでが選んだのは、テーラーカラーのジャケットと膝下丈のタイトスカートからなる、ワインレッドの秋物のスーツに白いシンプルなブラウス、紺色のネクタイと黒いローヒールのパンプスだった。
 その服は好も気に入った。先ほどまで着せられていたワンピースは短髪が浮いていかにも痛々しかったが、かちっとしたシルエットのスーツにネクタイという、どこか男性的な組み合わせは、短髪でもさまになった。
 その他、小さなショルダーバッグと着替え用に似たようなデザインのブラウスを何枚か買った。
 どう考えても手持ちの金では支払えない額になって青くなった好に、かえでが一枚の紙を見せて笑った。
「代金は給料から少しずつ天引きしておくわ」
 好の名で切られた領収証に書かれた金額は、陸軍少尉のひと月分の俸給に相当した。毎月どのくらい天引きされるのだろうかと、彼女は寒気を覚えた。
「じゃあ私は戻るわね。これが月組本部までの地図だから」
 デパートを出てすぐ、かえでが好の手に地図を持たせた。地図を見ると、こ近辺の地図が略図で書かれていて、目的地を記した場所には「二階:帝都芸能出版社」とある。

 デパートを出てから小一時間ほどで、好は神田の裏寂れた通り沿いにある、小さなビルの前までたどり着いた。六階建てのビルのうち、一階部分が「ニコニコランドリー」という洗濯屋で、二階から上が事務所のようになっていた。階数と入居者を示す案内板には、二階から六階まですべて「帝都芸能出版社」とあった。
 好は二階へと続く階段を見上げた。階段は狭く急で、まだ夕方前だというのに薄暗かった。
(ここが、月組の本部。月組の隊長はどんな人物なのだろう?)
 意気込んで階段を上っていた好は、前方が急に明るくなったことに、一瞬、注意が遅れた。
「がっ」
 鉄板を殴りつけたような音とともに顔面に衝撃を感じ、目の前に火花が散った。好は何かに押された弾みでたたらを踏んだ。
 鼻を押さえて見上げると、内側から鉄製のドアが開いて、黒いスーツ姿の男が出てきた。
「あー、すみません! 大丈夫ですか?」
 男はそう言って、好に手を差し出した。
 好は手だけでそれを謝絶し、姿勢を立て直した。鼻を押さえた手を見ると、血がついていた。
「わあっ、鼻血が出てます! これで押さえて、俯いてて下さい」
 男は好にハンカチを持たせると、ドアの奥に向かって冷静に指示を飛ばした。
「椅子と洗面器を持ってきて下さい。お客さんが鼻血を出しました」
「綿球はいりますか? 探してきますよ」
「氷嚢もいるでしょう? 作ってくるわ」
 そんなやり取りの後、好は中に通された。広いオフィスの隅で事務用の椅子に座らされ、金物の洗面器が差し出された。
「鼻をぎゅっとつまんでて。口の中の血は、ここに出して下さい」
 男に言われ、好は右手で鼻をつまみ、左手で洗面器を支えた。
 好は男の言葉に含まれる奇妙な訛りがふと気になり、上目遣いに男の顔を見た。首の後で一つに結われた髪は黒かったが、彫りの深い顔立ちに薄い灰色の目が、明らかに日本人のものではなかった。

(外国人……?)

 だが今は、口の中にたまった血を吐き出すので精一杯で、話すことができなかった。
 ほどなくして、橙色のスーツを着た女が、氷嚢を手にやってきた。
「これで鼻を冷やして。洗面器はクラレンスが支えてなさい」
 女が好の手から洗面器を取り上げ、氷嚢を好の鼻に当てた。外を歩いて火照っていた顔が急激に冷やされ、鼻の奥が痛くなった。
 その氷嚢より冷たく感じられたのが、同僚を責める女の声だった。
「それで? クラレンス。坂東少尉が鼻血を出してあなたに介抱されているのはどういうわけかしら」
「僕が急いでドアを開けたら、その裏に彼女がいたんです」
「時間に余裕を持って出かけないからそういうことになるのでしょう? ここはもういいから、あなたはもう行きなさい」
 女にたしなめられ、クラレンスと呼ばれた男は首をすくめて出て行った。去り際、彼は好に向かって小さく手を振った。
「じゃあね、好さん」
 好はその姿を微笑ましく見送った。 
 女はクラレンスと入れ換わりに洗面器を手に取り、膝の前にかがみ込んで好を見上げた。眼鏡のレンズ越しに透けて見える瞳の色は薄く、ひっつめ髪のお堅い印象と相まって冷たく見えた。
「初めまして、坂東少尉。副社長の鈴木レイです。先ほどは伊藤が失礼をしました」
「伊藤?」
「ああ、今出て行った彼、クラレンス・伊藤です。『月刊帝都芸能』の編集長なんですが」
 好は話を聞きながら、鈴木の支える洗面器の中に唾を吐いた。出血がようやく止まったらしく、血は混ざっていなかった。
「それでは行きましょうか」
「行くって、どこに?」
「社長室です。先ほどから社長がお待ちです」
 いよいよ月組の隊長に会うことになるのだろうか。
 好はそう察し、立ち上がって姿勢を正した。
 帝国華撃団の本部が大帝国劇場に擬装されているのなら、月組の拠点だって出版社か何かに擬装されていてもおかしくない。
「こちらへ」
 言葉少なについてくるよう促す鈴木について、好も歩き始めた。
 好より頭半分背が高く、細身の体をタイトなデザインのスーツに包んだ鈴木の後ろ姿は、金色の刃物をまっすぐ立てた様子を連想させる。かなりの早足なのに揺れを感じさせない歩き方は、訓練された兵士を通り越して機械のように見えた。

 社長室は、好が入った帝都芸能出版社の入り口から四階分の階段を上がった最上階、六階の奥にあった。
 鈴木がドアをノックして来意を告げると、中から間延びした男の声でいらえがあった。
「おーう、入れ」
「失礼します」
 鈴木と好が揃って部屋に入ると、白いスーツを着た男が、大きな机の上に足を投げ出して座っているのが見えた。
 社長は若い男だった。歳の頃は二十代の前半か半ばと言ったところか。日焼けした肌にオールバックの茶色い髪、真っ白なスーツに真っ赤なシャツといった出で立ちは、出版社の社長というより繁華街のチンピラという感じだ。椅子にだらしなくもたれかかり、机の上に足を投げ出す行儀の悪い姿勢が、その印象をより際立たせていた。
 鈴木がそれを見て溜め息をついた。
 社長はそれを気にしたふうもなく、鷹揚に名乗った。
「俺が月組隊長の加山雄一だ。外では『社長』もしくは『会長』と呼ぶようにしてくれ」
「坂東好です。よろしくお願いします」
「さあーて、主役が来たところでブリーフィングといくかぁ」
 机の上に出していた足を引っ込め、食事に誘うような調子で、加山が口を開いた。
「帝国華撃団の機密情報が、外部に流出しているらしい。内通者もしくはスパイがいるのではないかということで、月組が調査を開始した。容疑者はすぐに浮上したが、ちょっと問題があってな」
 その問題とは、状況証拠が複数集まっているが、決定的なものがないということだった。それに加え、容疑者は追及の手を逃れるように帝劇を離れ、ますます動きがつかみにくくなっている。加山はその事態に突破口を開くべく、陸軍の若手将校を月組に配属させるよう、米田に進言した。
「それが、私……」
 好の口から、うわごとのようにつぶやきが漏れた。
 今朝方陸軍省で聞いた、謎の言葉が思い出される。
『君の存在そのものが、事態を動かす鍵になる』
 三隅大佐はそう言っていなかったか。
 好の内心の問いに答えたかのように、加山が首肯した。
「そうだ」
「では、私の任務は、容疑者を見つけて捕まえること……?」
 加山は、期待をこめた好の問いをへらりと一蹴した。
「いやあ、士官学校出の軍属にそこまでやらせるのも酷だろ」
 士官学校を出た者は将校になる。民間人のまま軍に雇われる軍属とは、身分も立場もまるで違う。『士官学校出の軍属』はありえない表現だが、好の置かれた状況を正確に表していた。だからこそ、その言葉は彼女の将校としての矜持を傷つけるに十分であった。
 だが好は、こみ上げる怒りが表情に出るのを無理矢理ねじ伏せて微笑んだ。
「それもそうですね」
 それを見た加山が片眉を上げる。
「第一、尾行に気付けないような素人に、そんな危険な任務を任せられるわけがないだろう?」
「えっ」
 好は絶句した。怒りをねじ伏せた笑みは一瞬でほどけた。
 尾行になど気付きもしなかったし、自分が尾行される可能性すら念頭になかった。
「一五一五、お前は副司令と一緒に帝劇を出て松屋デパートに向かった。そのときの服装は……」
 加山が好の行動記録を淡々と語り始めた。その克明さは、ブラフではないかと疑う余地を、ことごとくつぶしてゆく。
 ぐうの音も出ないとはこのことだ。どんな意図があってかは知らないが、加山は帝劇を出てからこのビルにたどり着くまで尾行を続けたようだ。その事実は、彼の諜報員としての能力を好に実感させる結果となった。
 行動記録の報告は、好が帝都芸能出版社の入り口でドアに顔面をぶつけたところまで続き、話題が元に戻された。
「まあ早い話、特別にやってもらうことは何もない。劇場の事務員として普通に勤めろ。普通にな」
 重要なのは、現役の陸軍将校が月組隊員として帝劇に配属されたという事実だ。それを知った容疑者が警戒し、焦ってしっぽを出したところを捕まえられれば最上、その場で捕まえられなくても確実なクロとしてマークできればよしという算段らしい。
「つまり私は、寄せ餌というわけですか。釣り針についた餌ですらない」
「そうだ。寄せ餌はうまそうな匂いを放つだけでいい。くれぐれも、余計な動きはするなよ」
 加山は顔の前で手をひらひらと泳がせ、水中に放たれた寄せ餌を表現してみせた。そうしてふと、何かを思い出したかのように手の動きを止めた。
「……余計な動きといえば、もう一つあったな。帝劇職員心得だ。一応頭の片隅にとどめておけ」
 曰く、『帝劇職員は己の職分をわきまえ、公私においてそれを越えることを厳に慎むべし』。
 それを聞いて、好は首をひねった。
 もっともらしい標語だが、具体的に何を慎まねばならないのかが分からない。公において己の職分を忠実に守ることは当然だが、私においてまでそうしなければならないとは、どういうことなのだろうか。
 好が聞き返すより早く、加山がごく簡単な言葉で言い直した。
「要するに、花組とは距離を置けってことだ。特に大神とは」
「それはかまいませんが……」
「が、何だ」
「いえ」
 加山が渋い顔で、好の鼻先を指差した。
「あの花園は遠くから眺めるだけにしとけ。自分もその一員になりたいなんて思うなよ」
 花園とは、大神を含めた花組のことだろうか。
 舞台女優である隊員と美男子の隊長は、確かに花園にたとえられる華やかさだが、自分もその一員になれると思うほど自惚れてはいない。それ以前に、霊力がなくて光武を動かせない以上、好は花組の隊員にはなれない。はなから住む世界が違うのだ。それなのに、加山がなぜことさらにその心得を強調するのかが解せなかった。
 加山は話の終わりを告げるように手を挙げた。
「俺からは以上だ。鈴木」
「はい」
 加山が呼ぶと、低い女の声とともに人の気配が立ち上った。好が振り返ると、彼女をこの部屋まで案内してきた鈴木レイが、直立不動でそこにいた。
「坂東を銀座経由で長屋まで案内してやれ」
「かしこまりました」
 鈴木に無言で促され、好は社長室を出た。加山が笑い含みにこちらを見ていたのが苛立たしくてならなかった。

 徒歩で銀座に戻り、そこから地下鉄で浅草に向かうというのが、好の通勤経路確認を兼ねた長屋への道程であった。だがその間、あまりにも気まずくて息が詰まりそうだった。鈴木が必要なこと以外言葉を発しないからだ。
 好は、重苦しい空気を払拭すべく、対話を試みた。
「あの、鈴木さん」
「レイでいいわ。私もあなたのことは好と呼ぶから。で、何?」
 下の名前で呼び合うのは互いの親密さの現れだろうに、鈴木の声音からは親密さのかけらも感じられなかった。
 好は気圧されながらも尋ねてみた。
「加山社長は、いったいどういう方なのでしょう。ずいぶんと型破りな人だとお見受けしましたが」
「その通りね」
 好が控えめに表現した加山への苦い印象を、鈴木はこともなげに肯定した。
「その……大丈夫なんでしょうか、あんな人が隊長で」
 好は呟きながら、胸の内に乾いた足音を聞く。そちらに意識を集中して思い出すまいとしても、自分のことを『士官学校出の軍属』と揶揄した加山の声が頭から離れない。
「あの人は、確かに型破りだわ。でも――いえ、だからこそ信頼できるのよ」
「私には分かりません」
「そう? 社長は間違ったことは言わないし、部下に無茶はさせない。それは確かよ」
 好は肯定も否定もできずに押し黙った。
 加山の言い分が正しかったことは、好にも分かる。
事実、彼女は『士官学校出の軍属』と言われても仕方のないダメ将校で、軍人としての実績も皆無だ。その証拠に、自分につけられた尾行に気付くこともできなかった者に、重要な任務など任せられるはずがない。自分の無能さをはっきりと突きつけられた以上、囮役にしかなれないことにも納得せざるを得ない。そして、それを行動で思い知らせた加山の有能さにも。
 だからといって、加山を上官として信頼できるかはまた別だ。理屈では加山を評価すべき理由を挙げることができるが、感情がそれをはねつける。

(士官学校出の軍属だと? 私は将校だ)

 心の底にわき上がってきた言葉に気付き、好はあわててあたりを見渡した。
 一瞬の疾しさが彼女の背中を冷たくこわばらせた。
「どうしたの?」
 鈴木が怪訝そうにこちらを見ている。好は生返事をして手を振った。

(確かに、こんなことでは軍人精神が邪魔になるな)

 好は、大神の言葉を、彼に初めて名前で呼ばれた衝撃と共に思い出していた。
 大神は「軍人精神」とぼかして表現したが、それが指し示すものは将校としてのエリート意識、もっと言ってしまえば驕りだ。そうしたありようを疑う余地のない環境で、四年以上の長い時間をかけ、それは醸成されてゆく。ゆえに、払拭しようとするなら並大抵のことではすむまい。
 だが、それが任務の邪魔になるのなら、誰かが憎まれ役を買ってでも天狗の鼻をへし折ってやる必要があるのだろう。
 好は苦笑とともに背中の力を緩めた。
「そう……そうですね。レイさんの言う通りかもしれません」
 悔しいけれど、認めないわけにはいかなかった。
「型破りは、型を知って、それを自分のものにしてからでなければできませんから」
 加山がいかなる素性の人間か、好は知らない。だが、その実力――そしておそらくその器量も――が上官として敬意を払うに値することは確かなようだ。

(やり方は悪趣味だと思うけど)

 好は内心でそう付け加えた。


 鈴木と好が浅草の長屋にたどり着いたのは月組本部を出てから二時間弱、すっかり日が暮れて宵の口にさしかかった頃だった。
 そこは花やしき遊園地の北側にある長屋街で、長屋の建物が十ばかり建ち並んでいた。建物の数の割には人の気配が薄いのが、好には奇妙に思われた。
「疲れた……」
 好は新しい住居となった六畳間に入るなり、ちゃぶ台に突っ伏した。
 部屋にはかえでの部屋に置いていた好の軍装が届けられていたほか、ちゃぶ台に箪笥、食器や台所用品等々、生活に必要なものがあらかた揃っていた。新しい住人を迎えたばかりとは思えないほど物が多いのは、急な引っ越しで来ることの多い新住人のために、代々の住人が家財道具を少しずつ残していくからだ。それが、帝国華撃団隊員宿舎である、この長屋での不文律だという。

(私がこの部屋を去るときには、何を残していけるんだろうか)

 好はちゃぶ台に突っ伏したまま、ぼんやりと考えた。
 好が月組隊員として迎える初めての夜は、こうして更けていった。


4

 翌朝。好は定時の一時間前に帝劇に出勤した。月組副隊長で帝劇警備責任者でもある斎藤泰生(やすお)から、装備の支給があると聞かされていたからだ。
 斎藤が待つ衣装部屋のドアを開けると、正面に真っ白な人影が見えて、好は一瞬足を止めた。
 月組隊長の加山雄一が、こちらに向けた椅子の背に両肘を載せる形で座っていて、二メートルほどの長さの金属の棒を斜めに抱えている。先端部分が黒い革製の鞘に覆われたその姿は、好には馴染み深い物であった。
(槍……?)
「いよう、坂東。おはようさん。ちゃんと眠れたか?」
 加山が行儀の悪い姿勢のまま、上目遣いに好を見た。
「あ、おはようございます。おかげさまでよく眠れました」
 加山の質問に答えながら、好は加山の脇に潜むように控えている斎藤の姿に目を留めた。昨日の着物姿とは打って変わって、忍者を思わせる黒装束に身を固めている。その足元には、新聞紙一面程度の大きさで、高さが三十センチ弱の籐製のつづらがあった。
 斎藤がそのつづらの蓋を取ってみせる。脇差しほどの短い刀が置かれている下には黒い布や皮の塊が見えるばかりで、それらが何なのかは判然としなかった。
「そこにあるのを装備したのが今のあたしの姿ですんで、一つ一つ確認してって下さい」
 斎藤に言われ、好はつづらの前に歩み寄って装備の一つを手にとった。
 まずは、一番上に置かれた短い刀。刃渡りが二尺(約六十センチ)あるかないかの直刀で、角張った鍔はそれに似合わないほど大きくて重厚なものだった。
 刀をためつすがめつしている好に、加山が笑った。
「忍者刀を見るのは初めてか」
「ああ、忍者刀だったんですね。見るのは初めてです」
「ただの忍者刀じゃない。刀身をよく見てみろ」
 刀身の角度を変えてよく見てみると、輝きのむらがすぐに分かった。無色の塗料で文様か何かが描かれているような――そういう違和感がそこにはあった。指でなぞってみたところで分かりはしないのだけれども。
「それは呪紋と呼ばれている。意味や力については後で学ぶ機会もあるだろうから、とりあえずは忘れてもかまわん」
 好は刀身を鞘に納め、他の装備を確認し始めた。
 衣服と呼べるものは、木綿の長袖のアンダーシャツ数枚と、作務衣に似た形の装束が一式。それ以外には、肩から胸部を覆う樹脂製のプロテクターや革製の手甲と脚絆。応急手当のキット。小型の無線通信機。地下足袋。忍者刀を吊るための剣帯。拳銃とそれを吊るためのショルダーホルスター。
「あとはこの安全靴で全てです。五分以内に着装完了できるよう、練習しておいて下さい」
 斎藤が足元に黒いブーツを置いた。くるぶしのところまである編み上げのそれは、軍装の一部であった長靴や半長靴よりも頑丈そうな形をしていた。つま先部分を指で叩いてみると、中に鉄板が入っているのだろう、硬い音がする。
好がすべてを確認し終わるのを見届けて、加山が槍を鞘ごと突き出した。
「久しく使っていないだろうから、ちゃんと思い出しておけよ」
 その声音には、何もかも見通した色があった。
 受け取った槍は、見た目から想像するよりはかなり軽かった。好が実家の道場で修行をしていた時に使っていた、木製の槍と同じくらいの重さだ。まっすぐに立ててみて、長さもそれと寸分違わぬことに気付いた。
「知ってたんですか、私が槍を使うことを」
 好の口から感嘆とも呻きともつかない声が漏れた。
 好の実家・坂東家は、坂東武神流兵法を家伝として伝えていた。坂東武神流は、表業である剣術と裏業である柔術を中心として、槍、長刀、杖、短刀、鎖鎌なども総合的に修める流派である。その宗家嫡流たる彼女も、七歳のときから祖父と父に師事して剣術と柔術、その他の武術を修行していた。その中でもっとも得意としていたのが槍術だった。
 とはいえ、士官学校には槍を持ち込めなかったし、一分一秒を争う、忙しくて騒々しい集団生活の中では、稽古をしようと思い立つことすらなかった。だから特に隠していたわけではないが、好が槍の使い手であることを知る者は陸軍にもほとんどいないはずだ。
「でも、どこでそれを――」
 好の驚き含みの声に、加山は不本意そうな苦笑いを浮かべた。
「部下の能力を正確に把握するのは、隊長として当然だろうが。それともあれか? 俺ってそこまで信用なかった?」
「いえ、そんなことは……」
 ない、とははっきり言い切れなかった。加山の優秀さは認められるが、彼に対する屈託はまだ拭いきれていない。
「ま、信頼されなくても命令に従ってくれればいいさ」
 好の屈託を吹き飛ばすように、加山が低く笑った。
「射撃場も道場も地下にあるから、時間見つけてちゃんとやっとけよ」
 最後にそう念を押して、加山は部屋を出て行った。
「汚れて手入れしたいときや弾を補充したいときは、あたしのところまで来て下さい」
 斎藤が、装備一式を入れたつづらの上に安全靴を載せて好に渡した。抱えて歩くには少々厄介な大きさと重さだった。
「……ありがとうございます」
 好はつづらを抱えて脇の下に槍をはさむという、極めて不安定な姿勢で衣装室を辞した。

 その極めて不安定な姿勢のまま事務室に入ると、かすみと由里がすでに出勤していて、それぞれの作業を始めていた。
「おはようございます……」
「おはよう、好さん。すごい重装備ね」
 由里が興味津々といった様子で近づいてきて、好の脇から槍を抜き取り、物珍しそうに見回した。
「へー、これも月組の装備なんだ。着てない状態で見るのは初めてね」
 由里は好に断りもなく、つづらの上から安全靴を取り上げてはその重さを確かめたりした。
 見かねたかすみが、丁寧な動作で作業を中断させ、由里の頭をこつんと小突いた。
「由里。勝手に触っちゃだめじゃないの。そんなに見せてもらいたいんなら、休憩室でやりなさい」
「え、いいの?」
「休憩室?」
 由里と好が尋ねたのは同時だった。かすみはその両方に答える。
「荷物の置き場所とか教えないといけないでしょう? 見せてもらうなら、好さんに許可をもらってほどほどにね」
 由里が「やったぁ」と小躍りし、好がやや事態を飲み込めないまま、連れ立って事務室を出た。

 そのたった数十分後。好はどっと気疲れして事務室に戻った。
 支配人室の奥にある女子職員休憩室のロッカーに装備を収納し、休憩室を使うときの決まりを教わる。
 用件は言ってしまえばそれだけなのだが、その合間に由里が機関銃のごとく質問をぶつけてきた。曰く、趣味は何か、血液型は何型か、陸軍では何をしていたのか、月組の隊長はどんな人か、エトセトラ、エトセトラ。むしろ、質問の合間に必要事項の説明を受けていたような気さえする。

(この先輩とうまくやっていくのは骨かもしれないなあ……)

 好は由里の横顔をちらりと見てそう思った。

 そのことを除けば、好が劇場事務員としての仕事に慣れるのに時間はかからなかった。
 なにせ、作業内容そのものは、宇都宮の連隊でやっていた仕事とほとんど変わらない。従業員の勤怠管理、伝票整理に許可申請の書類作成。書式が少し違うだけで馴染みの作業ばかりだった。
 慣れるのに時間を要したのは、同僚との付き合いの方だった。もともとの理屈っぽい男性的な性格に加え、多感な少女時代を男ばかりの軍隊で過ごしてきたおかげで、好は自身が女性であるのに女性との付き合い方をほとんど知らなかった。ときどき事務の仕事を手伝いにくる大神の方が、彼女に比べれば、まだましなくらいだ。
 中でも、噂好きの由里との付き合いは、好に経験したことのない種類の疲れを感じさせた。かすみや大神は作業中余計なことを話さないのでペースを乱されることが少ないが、由里のおしゃべりは作業中にもペースダウンすることがない。それにつられれば手は止まるし、先輩だから返事を疎かにするわけにもいかない。
 だが、そんな由里のおしゃべりのおかげで、誰がどこで働いていて、どんな仕事をしているか、そこでの人間関係はどうなっているかといった、職場にとけ込むために不可欠な情報を労せず手に入れられたのは事実だ。長く勤めている由里にしてみれば言わずもがなのことをずっと語っていたのも、案外、好に早くとけ込んでもらいたいという親切心の現れなのかもしれない。
 好は、由里のおしゃべりに少し辟易しながらも、その点には感謝した。


 着任して一週間もたつと、新しい生活のスケジュールにすっかり馴染んだ。
 午前八時、定時の一時間前に出勤して地下の射撃場で射撃の訓練。午前九時から正午まで事務。一時間の食事休憩をはさんで、午後一時から適宜小休止をとりながら午後五時まで事務。退勤後は地下の道場で槍の稽古をし、浴場で汗を流してから帰途につく。
 花組のことは事務を手伝いにくる大神から、それ以外の月組・風組のことは、道場で槍の稽古に付き合ってくれる裏方たちから話を聞けた。内容はありふれた世間話であったり職場の愚痴だったりと他愛のないものだったが、話を聞くにあたって、好の意識から一つの問いが離れたことはなかった。

 最近になって、帝劇から足が遠のいた者はいないか?

 その答えの意味は、改めて説明するまでもなくスパイの容疑者であり、それに対する消極的挑発が、好に与えられた本来の任務だ。それを命じた加山には、余計な動きをするな、普通に勤めるだけでいいと言われていたが、考えるなとは言われなかった。

 好の聞いた限りでは、条件に当てはまる人物が三人いた。

 一人は、売店の売り子で風組所属の高村椿。九月の頭から華撃団の他の支部に出張で、しばらく帰って来ないらしい。
 帝劇に顔を出すことも、連絡もなかったので、好にはどんな人物か直接確かめる術がなかった。

 もう一人は、医務室の医師で月組所属の玉川佑菜。医務室の医師ということだが、常駐はしていない。
 接触の機会は、好が着任してから三日目の朝に、向こうから飛び込んできた。
「おはよーございまーす。好ちゃん、いるー?」
 緊張感のかけらもない声に、好は脱力のあまりずっこけそうになった。
「は、はい……私ですが……」
 返事をして振り返った先には、見た感じ好と同い年くらいの、ふわふわの髪をした少女がいて、小さく手招きをしていた。
 呼ばれてそばに行くと、彼女は小首をかしげて自己紹介した。
「帝国華撃団・月組、玉川佑菜です。よろしくね、好ちゃん」
 好は大人げなくも、返事よりも先に抗議を口にした。
「あの、ちゃん付けはやめてくれませんか。同年代の人に子供扱いされるのはちょっと……」
「子供だよ。わたしは二十八歳だもの。ねー、かすみちゃん?」
 彼女の同意を求める声に、かすみがくすくすと笑った。
「玉川先生も相変わらずですね。言わなければ分かってもらえないから、しょうがないですけど」
「ちょっとだけ好ちゃんを借りてっていい?」
「ええ。でも、なるべく早めに返して下さいね」
 目が驚きで点になっている間に、好は医務室まで連れて来られた。そこにきてやっと、彼女が医師であると分かったのだった。
 「人は見かけによらぬもの」という格言を帝劇に来てから何度も思い出すが、玉川先生はその中でも極めつけの存在だった。
 好よりやや低い身長で、童顔の甘い顔立ち。豊かな黒髪も淡い色合いの服もふわふわとした質感で、医者と言うよりは、清純派の新人女優とでも言われた方が納得いく。外見にまして医者らしくないのが、鈴を転がしたような声と頼りなげな話し方だった。
「改めまして、初めまして。わたしは玉川佑菜。浅草第一病院の内科医です」
「帝劇医務室の医師ではなく?」
「表向きはそう名乗ることになってるの。ちゃんと籍もあって診察もやってるけど、メインはこっち。ここと、神楽坂。華撃団専用の医療施設だよ」
「……そうだったんですか。これは失礼しました」
「いーよいーよ。わたしもちょっとは狙ってやってることだし」
「それで、私をここに連れてきたのは?」
「一応、健康状態を把握するための問診。必要ありそうだったら検査。尿検査や血液検査は時間がかかるから、できればなしですませたいね」
 とまあ万事この調子で、どこまでが冗談でどこからが真面目な話なのか判然としない。悪意もそれを隠している気配も感じられないので、素でふわふわした性格なのかもしれないと思う一方で、言っている内容は真面目だったり鋭かったりするので調子を狂わされる。月組隊長の加山とはまた違った意味でつかみ所のない印象だった。
 身の上話を交えた少し長めの問診を終えて、玉川先生が二本の瓶を机の上に出した。無色透明のガラス瓶の片方にはやや黄みを帯びた透明の液体が、もう片方には白い液体が入っている。
「で、本題はこっち。かえでさんに頼まれて、好ちゃんの肌質に合わせて作ったの。化粧水と、乳液。顔を洗ったら、化粧水、乳液の順につけるのよ」
「はあ、ありがとうございます」
 と言って瓶を手に取ってはみたものの、自分が使うもののような気があまりしなかった。
「どうしたの?」
 瓶をじっと見つめていると、玉川先生がぐっと身を乗り出してきた。
「もー、好ちゃんだって女の子なんだから、これくらいしなきゃダメよ。せっかく可愛いのに、もったいないじゃない」
 女の子? 可愛い?
 言われた言葉のあまりの縁遠さに、好は目を瞬かせた。
「残念ながら、そのままでもってわけにはいかないけどね。ちょっと気をつけたら見違えるよ」
 好は顔の真ん前でぱたぱたと手を振った。
「そういうのは、他の人に任せますよ。私の仕事じゃありませんから」
 玉川先生は、お見通しだと言わんばかりに長い溜め息をついた。
「ま、そう言うと思ってたよ。その気になったときに使ってくれればいいから。わたしの話はそれだけ」
 バイバイ、と可愛らしく手を振る玉川先生に一礼し、好は医務室を辞した。 

 最後の一人は、米田一基司令の秘書・影山サキだ。
 陸軍の推薦で現職に就き、今は武装飛行船・翔鯨丸の操縦訓練のため花やしき支部で研修中だという。
 好がサキに出会ったのは地下の道場で、退勤後の日課にしている、槍の稽古をしようと降りてきたときだった。
 マイクロミニのスカートにジャケットを合わせた黒いスーツ姿は、道場内で明らかに浮いていた。美しい黒髪に切れ長の目とつややかな唇を持つその顔は、美人の部類に入ると思われたが、どこか人工的な印象を感じさせた。
 道場の壁を背に、誰かを待っているといった風情で立つサキにかける言葉を探しあぐね、好は彼女に一礼した。
「こんにちは。あなたが坂東少尉ネ?」
 サキは好の姿を認めると、蠱惑的な笑みを浮かべてそう言った。
「はい。九月二日付けで、月組に配属になりました」
「その前はどちらにいらしたの?」
「宇都宮です。騎兵第十八連隊に所属していました」
 サキは、一瞬意外なことを聞いたような表情を見せ、鼻に笑いを引っ掛けた。
「騎兵? 何かの皮肉かしら、これは」
 図星ではあるが、今さらな指摘だ。好は片頬だけで笑った。
「まったくです。『士官学校出の軍属』なんて揶揄する人もいますから」
 好の自嘲に、サキは予想外の反応を返した。
「……分からないならいいワ」
 物わかりの悪い子供を憐れむような目が、好の心をぞろりとざわつかせた。「槍のお手並みを見せてもらおうかと思ったけど、また今度にしましょう。そのうちに機会もあるでしょうから」
 サキはそう言って、後ろ手に手を振りながら道場を出て行った。
 実のところ、彼女が影山サキで、現在花やしきで研修中の総司令秘書だと知ったのは、その翌日に事務室でこの一件を話してのことだ。その当時の好の心には、妙なざらつきを残しただけだった。

 そんな好とサキのやり取りを、頭上から見ている者があった。
 好が帝劇に着任してからこのかた、彼らは頭上で好を監視しながらこのときを待っていた。
 スパイの最有力容疑者である影山サキが、寄せ餌に引かれて帝劇に戻ってくるのを。それが思いもかけず、彼女自身が言ったように、「釣り針についた餌」にもなってくれた。これは上出来だ。
 彼は道場の天井裏から、キネマトロンで上官に報告した。
 花組の李紅蘭が開発したキネマトロンは、小型トランクほどの蒸気通信機で、映像と音声を送受信することができる。花組隊員各員と花組以外の部隊の支部ごとに支給されているが、月組仕様のそれは、着信通知機能を名刺ケース大のバイブレーターに外部化し、本体にはイヤホンを接続可能にすることにより、音を出さずに通信できるようになっていた。
 彼はキネマトロンのカメラに向かって、声を出さずにゆっくりと口を開いた。
(ターゲットがトラップに接触しました)
 イヤホンからは、月組隊長である加山雄一の声が聞こえる。
『ターゲットは何か言っていたか?』
(いえ、特には。トラップの素性を確かめただけのようです。不自然なところは別段――あ、いや)
 彼はそこで口を噤み、数分前の記憶の糸をたぐり寄せた。
(トラップについて「騎兵? 何かの皮肉か」と言っていたんですが、彼女が騎兵であること、というより、騎兵が帝撃に配属されたことが皮肉だというニュアンスを感じました。それくらいですね。これだけでは何とも)
『分かった。俺が帝劇入りしてターゲットを追うから、お前らは今まで通りトラップの監視を続けてくれ。懐柔される恐れがあるからな』
(了解。さりげなく釘を刺しておきましょうか?)
『いや、それはいい。腐っても将校だ。そこまでバカじゃないだろう。もしも懐柔されたら、それまでのことだ』
(ですね)
 その言葉を最後に、彼は通信を切断した。


5

 それから数日後。
 その日は、帝都に大型の台風が近づき、午後から雲行きが怪しくなった。
 しかし、それ以上の嵐が、朝から帝劇にやってきていた。
 ことの発端は、大神が午前中から疲れた表情で一人の少女を事務室に連れてきたことに始まる。
「乙女学園から派遣されてきました、野々村つぼみです。スマイル、スマイルがモットーです。よろしくお願いします!」
 見たところ十四、五歳の少女はそう名乗ると、勢いよくお辞儀をして、その反動で少しよろけた。カラフルな飴玉のような髪飾りが、頭の両側で弾む。
 その時には、好も(大丈夫かな?)と他人事のように思っただけだった。
「つぼみちゃんは、乙女学園の特待生として帝劇で研修することになったんだ。支配人からは、売店を任せるように言われてるんだけど……」
「ええ、話は聞いています。この機会ですから、好さんにも売店の仕事を覚えてもらいますね」
 大神の言葉に、いつものようにそつなく答えたのはかすみだった。
 その段になって、好は頭の中で警報が鳴るのを遠くに感じた。

 かくして、好とつぼみの二人は、かすみから売店の仕事を教わることになった。
 好もつぼみも客と直に接する仕事を教わるのは初めてのことで、否が応にも気合いが入る。少し緊張しているだけの好はまだしも、つぼみはその気合いが思いっきり空回りしている様子だった。
「まずは、基本中の基本、接客七大用語です。言葉とそれに合わせた角度のお辞儀がいつでもできるよう、しっかり覚えて下さいね」
 と、かすみが接客の基本の説明を始めた。言葉とお辞儀の角度を覚えること自体は難しくないが、体に覚え込ませないととっさにできないという。
 大帝国劇場で採用されている接客七大用語とお辞儀の角度は、以下の通りである。

 いらっしゃいませ(30゜)
 かしこまりました(15゜)
 恐れ入りますが(15゜)
 少々お待ち下さいませ(15゜)
 お待たせ致しました(15゜)
 申し訳ございません(45゜)
 ありがとうございました。またお越し下さいませ(30゜)

 初めは言葉だけを何度も暗唱し、次に、お辞儀と共に練習する。
 ここにつぼみが引っかかった。
 かすみが何度やらせてみても、つぼみは舞台上の演技さながらに声を張り上げ、全ての言葉で最敬礼の角度でお辞儀をするのだ。あまり大きな声ではお客様が驚くし、そぐわない場面での最敬礼はかえってお客様を威圧してしまうと教えても、次の次の回からそれを忘れてしまう。何事にも全力を尽くすと言えば聞こえはいいが、どう見ても無駄な力の入り過ぎなのだった。
 普通の研修では接客七大用語の練習が十分ですむところを、つぼみのおかげで、その段階だけで一時間を要した。無論、好もそれに付き合わされた。

 こんな調子で、好とつぼみが一通りの接客を覚えた頃にはくたくたに疲れ果て、昼食の時間もとうに過ぎていた。
 普段なら三時のお茶という名の小休止を取る時間になって、かすみ・由里・好・つぼみの四人は、食堂で遅めの昼食をとることにした。
 いつもは由里がおしゃべりの中心になるのだが、この日、由里に倍する勢いでしゃべり続けたのはつぼみだった。
「――それで、本物の大神さんに会ったらきゃーってなっちゃって。思わず握手してもらっちゃいました。海軍さんで花組の隊長だっていうだけでかっこいいじゃないですか。それだけじゃなくって、本当にハンサムで、うわあーって……」
 「きゃー」だの「うわあー」だの、擬音語と身振り手振りが多く交じるつぼみの話から情報だけを抽出すると、このような内容だった。
 つぼみの所属する乙女学園は、米田が理事長となって建てた、全寮制の帝国華撃団隊員養成機関である。特に有望な生徒には、特待生として大帝国劇場で研修する制度があり、彼女はそれで帝劇にやってきた。帝国「華撃団」の活躍も、乙女学園の生徒にはよく伝わっていて、最前線を担う花組、特に大神一郎隊長の人気は凄まじく、「歌劇団」で男役トップを張るマリア・タチバナをもしのぐ勢いだそうだ。
 つぼみがあまりにも無邪気に大神への憧れを語るので、好は(いいのかな)と傍らの二人を横目で見た。
 花組と、特に大神とは距離を置けと意訳される「帝劇職員心得」を言い渡されたことは記憶に新しい。
 案の定、かすみも由里も、苦笑しながら互いを見合わせていた。

 寮の門限があるつぼみは、食事が終わった後、すぐに帰っていった。それでもまだ、好の頭の中では警報が鳴り続けていた。

「あ、雨……」
 つぼみが帰ってからの事務室。由里が何気なく呟いた声で、好はやっと外の天気に気付いた。大粒の雨が、床に小豆をまき散らすような音を立てて、窓ガラスを叩いている。窓越しに見る風景は一面灰色に塗り込められ、見ているだけで気が滅入りそうだった。
「台風が近づいてるんですね」
「今日は帰れないかもしれないわね」
 かすみが硬い表情で窓の外を見やった。
「え? 確かに雨は強くなってますけど、本格的な上陸は夜中でしょう? 五時すぐに帰れば大丈夫ですよ」
 かすみと由里が、退勤後に自分同様自主訓練をしていることをふまえて好が言うと、かすみは首を横に振った。
「こういう日は、何かが起こる予感がして。勘、と言ってしまえばそれまでなのだけれど」
「何か――」
「マリアさんが帝劇を飛び出したのも、こんな感じの日だったのよね」
 由里が二年前の事件を述懐する。
 二年前、大神が花組の隊長に着任した年のこと。築地で戦った敵幹部・青き刹那が、卑劣な手段でマリアを挑発し、それに乗ったマリアが単身築地に出撃して刹那に捕まった。大神と花組がマリアを救出したが、大神はその時刹那に肩口を斬られ、そのときの傷が今も残っているという。
「……って。由里さん、見たんですか?」
 好が泡を食って尋ねると、由里はぺろりと舌を出した。
「さすがに直では見てないわよ。でも傷が残ってるのはホント。玉川先生に聞いたんだから」
「それだけじゃなくて、帝劇が襲撃を受けた日も、最近だと織姫さんが着任した次の日も、何か予感めいたものが――」
 かすみの言うことは、好にも分かる気がした。
 現場に長くいることによって感じ取れるようになるものが、確かにある。複雑に絡み合って言語化できない情報を、そのままで知覚し理解できる者は、「勢い」「流れ」とそれを称する。その情報をもとに五感と経験を総動員して行われる、言語を越えた瞬時の判断が「勘」と呼ばれるものだ。
 好は神妙な面持ちでうなずいた。張りつめた空気が事務室に流れる。
 その空気は、情けない男の声で散らされた。
「はああ……ひどい雨だね。傘も役に立たなかったよ」
 声をした方を振り返ると、大神が紙袋と領収証を手に事務室に入ってきたところだった。この雨の中買い出しに出かけたのだろう、ずぶぬれでいつものツンツンした髪が見る影もなく下がっており、一瞬彼だと分からなかった。
「買い出しお疲れさまです。――あら?」
 領収証を受け取ったかすみが、大神の顔をのぞき込んだ。
「……どうしたんだい、かすみくん?」
 聞き返す大神の声は、心なしかぎこちなかった。
「大神さん、悩みがあるって顔してますから。何かあったんですか?」
 大神は数瞬目を泳がせてから白状した。
「レニが、稽古の途中で抜け出してさ。心ここにあらずって感じだったんだ」   
 それはこの時に始まったことではなく、ここ最近の出動のときからそうだったらしい。戦うことをためらうような気配が、動きに現れていたそうだ。
「悩みがあるなら聞かせてくれないかと言って、話してくれるような子じゃないしなあ……」
 大神の話を聞いて好は、レニの静かすぎるたたずまいと、怖いほどに澄んだ目を思い出していた。好には、持ち主の心を映し出さないがゆえに、その目は鏡となって見る者の心を映し出すように思えた。
 由里がしみじみとためを作って、大神を褒め讃える。
「大神さんって、なんだかんだ言って、やっぱり花組の隊長さんなんですね。戦闘での動きから、そこまでレニのことを分かってあげられるんですもん」
「い、いやー……、それは、かえでさんに言われて気付いたんだけどね……」
 黙っていれば気配りある隊長で通ったものを。正直すぎる発言に、全員が失笑した。
「な、何だよ。レニが女の子だったことにも気付かなかった俺に、そこまで細かいことが分かるわけないじゃないか」
 大神が子供のようにふてくされるので、また全員で笑った。
「でも、分からないからこそ、話すことが必要なのでしょう? 一度、ちゃんと話し合ってみたらいかがですか」
「……それもそうだね」
 大神はじゃあ行ってくるよ、と事務室を出て行った。

(なんだかちょっと可愛らしいな)
 
 大神の背中を見送る好の口元に、くすぐったい笑いがしのび上がった。
 

*    *    *

 大神はレニの部屋へと向かいながら、舞台袖で見た光景を思い出していた。

 それは、秋公演「青い鳥」の稽古中のことだった。
 場面はレニ扮するチルチルとアイリス扮するミチルの兄妹が森に迷い込み、マリア扮する森の王と対峙するところである。
「少年よ、お前は何のために戦うのだ?」
 森の王はチルチルにそう問いかける。
 台本ではこれに対し、「ぼくはミチルを守る! ミチルを守るために戦うんだ!」と答えることになっていた。
 しかし、レニはそれに答えられなかった。
 その光景が、「チルチルが」ではなく「レニが」答えに窮しているように大神に見えたのは、その直前にかえでからこんな言葉を聞かされていたからだった。
『ここ最近、戦闘中のレニの動きが緩慢になった気がするの。まるで……戦うことをためらってるみたいに』
 かえでの言葉を裏付けるように、何度やり直しても、レニは同じ箇所で稽古を中断させた。そしてとうとう、「少し一人にさせて」と、ややふらついた足取りで舞台を離れてしまったのだ。
 役者が演技に対して悩むことは珍しくない。プレッシャーに耐えかねて、稽古場から逃げ出したくなることだってあるだろう。
 しかし、レニがそうなることはありえないと、大神のみならず花組の皆がそう思っていた。常に冷静沈着、任務遂行に対して一切妥協しない姿が、彼らがこれまで見てきたレニだったからだ。
 だからあのとき、驚きのあまり誰も動くことができなかったのだった。

 それが二時間ばかり前のことだ。
 レニが任務――帝国歌劇団としての活動も、魔を鎮める神楽の意味合いを持つ重要な任務だ――を放棄するのがよほどのことだとは大神にも分かっていた。
 しかし、レニに個人的に話をしに行くにはかなりの勇気と心の準備を要した。用件として必要なこと以外で口を開かないレニと会話を成立させることそのものがまず困難であったし、それというのも、彼女が戦闘のこと以外にまったく関心を払わず、他者とのコミュニケーションを拒絶する傾向があったからだ。
「はぁ……」
 弱気が溜め息とともに出かけて、大神は足を止めた。

(隊長がこんなことでどうする)

 背筋を伸ばして視線を上げ、両手で頬を叩いて気合いを入れた。
 レニの部屋のドアをノックし、緊張が声に出ないよう注意して呼びかける。
「レニ、大神だけど……少し話がしたいんだ。開けてくれないか?」
 少し間があってドアが開いた。もとより椅子と小さなテーブル、身の回り品を入れた木の箱しかない部屋は、鎧戸が閉められて真っ暗で、殺風景なうえに痛ましい。それがレニの心の風景そのものにも見える。
 ドアを開けたレニは、のろのろと首を上げて大神を見た。その瞳はかすかに揺れていて、すがるような色をしている。戦場では「頼れるものは自分だけ」と言い切り、帝劇での生活においてもその姿勢を崩さない彼女がそんな目をするくらいだから、悩みの深さが伺える。
「……ごめんよ。突然押し掛けちゃって。ただ、さっきの稽古のことが気になったから――体調でも悪いのかい?」
 だが大神は、レニの悩みそのものにはあえて触れず、そう尋ねた。
 心の悩みは体調にも現れる。本人が悩みを自覚していなくても、「いつから」「どのような場面で」体調の変化があったかを手がかりに、その背景を探ることができる。
「……隊長……」
 出しかけた言葉を飲み込んで俯いたレニを、大神はじっと見守った。
「ボクは……ボクは……何のために戦っているの?」
 長くか細い呼吸とともに絞り出された声は、レニの喉の奥にある涙の塊の重さを想像させた。苦しそうに何度も息を吸っては吐いて、彼女は続ける。
「ボクは……自分が何のために戦ってるのか分からなくなった」
 レニはそこで言葉を切って大神を見上げた。その目に先ほどのすがるような色はない。代わりに、見る者に逸らすことを許さない切実さを湛えていた。
「隊長は、いったい何のために戦っているの?」
 あまりにも単刀直入な問いに、一瞬答えが遅れた。
「それは帝都を守るためだよ。俺たち帝国華撃団の任務だからね」
「帝都なんて……そんなのボクには関係ない!」
 先ほどまでの意気消沈したレニに比べれば、その激昂ぶりは爆発といっていい勢いだった。頬をわずかに紅潮させ、明白な怒りをこめて大神を睨みつけている。
『……出てって』
「……え?」
 ドイツ語で呟かれた言葉は、大神には聞き取れなかった。
 レニは苛立たしげに、一語ずつ区切って日本語で言い直した。
「いいから、帰って!」
 それでもレニの言葉をすぐに理解できなかった大神の目の前で、大きな音を立ててドアが閉められた。


*    *    *


「大神さん、大丈夫かしら」
 かすみの声で、伝票を数える好の手が止まった。公演が間近に迫り、劇場の各部署でこまごまとした買い物が増えたため、事務局に入って間もない彼女も、経理の仕事を手伝わされていた。
 好の手が止まったことをめざとく見つけた由里が、それを嬉しそうに指摘した。
「好さん、手が止まってる。もしかして大神さんのことが気になったりしちゃいます?」
「いや……どっちかというと、レニさんの方が――」
 好が言い終わるのを待たず、由里が目を光らせた。
「やだ、好さん。レニは女の子よ? あっ、でも、それはそれでいいかも。『大スクープ! 陸軍女性将校と男装の少女、禁断の愛』なーんて……」
 好はまたか、と辟易しつつ、迂闊な自分の口を手で塞いだ。
 「帝劇の事情通」を自称するだけあって、由里の観察眼は鋭い。傍から見ているだけではなかなか分かりにくい微妙な人間関係でも、彼女の洞察力をもってすれば細かくも見やすく書き込まれた相関図に落とし込まれる。
 ただ、何でもすぐに恋愛に結びつけたがるところがあり、そのフィルターを通せば、好が変わり果てたかつての士官学校同期・丘菊之丞を見て驚いたという事実も、「傷心の再会、あの頃の彼はどこに!?」などという見出し付の噂として流布する。おかげで好は、槍の稽古に付き合ってくれる裏方のおじさん連中に、ことあるごとにそのネタでからかわれたのだった。
 新たな噂が流布する前に訂正しておくことにした。
「知ってますよ。悩みがあるにしても、任務放棄とはただ事ではないと思っただけです」
 好はそう言って微笑んだ。帝劇に来てついぞ忘れていた、人の立ち入りを拒む盾の笑みだった。
 それからしばらくして、事務室に厨房の料理長がやってきた。
「みなさん、そろそろ夕食にしませんか」
 かすみがああ、と何かを思い出したような声を上げた。
「セットの建て込みが忙しいですもんね」
「すみません。早いとこ厨房を空けないといけないので」
「よかったら、あたしたちで厨房を片付けときますよ。座りっぱなしだったから、ちょっと気分転換したかったんです」
 由里も愛想よく料理長に答える。
「ええ、後のことは私たちにお任せ下さい」
 事情の分からない好も、分からないなりに請け負った。
 三人で食堂に行ってみると、すでに人でいっぱいだった。どうやら、帝劇の全職員が同時に夕食をとることになっているらしい。
 そのことをかすみに尋ねると、公演前の忙しい時期は、一斉に夕食をとることで厨房スタッフの仕事が早く終わるようにするのが慣例になっているのだという。そうして手の空いた厨房スタッフは、もちろん舞台に関する他の仕事に回される。
「今日のはそれだけじゃないんでしょうけど」
 食堂全体を見渡して、かすみが呟いた。
 「何か」が起こる――ここにいる全員、同じ匂いを感じての残業なのだろうか。好の脳内警報は、今や最大音量で危険を告げていた。
 とはいえ、食事の席では、誰もその話題を口にしなかった。大道具、衣装、演出、照明等々各部署に分かれ、世間話をしながら、和やかに食事をしている。
 その和やかな食事風景がどこか空々しく見えるのは、一人欠けた花組のテーブルでの会話に、皆が興味津々で耳をそばだてているからだった。好もつられて花組の会話に耳をそばだてた。

「レニ……どうしちゃったんでしょうね……」
 真宮寺さくらの声が、静まり返った食卓にこぼれ落ちた。これまでレニのことを話題にすることを避けていた花組の空気が、それを合図に動き始める。
 桐島カンナがレニの体を気遣う。
「メシも食えねえってのはよほどのことだよな。あいつ、ただでさえ食が細いのに、メシ抜きじゃ倒れっちまうよ」
「レニは誰かさんと違って繊細ですから、悩んで食事が喉を通らなくなることだってありましょうよ。まったくこれだからメシにしか興味のないゴリラ女は……」
 神崎すみれが皮肉を返すと、カンナは椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上った。
「んだとぉ」
「やりますの!?」
 それをのんびりとした関西弁でいなしたのは李紅蘭だった。
「二人とも、こんなときにまで張り合わんときぃな。今気になるんは、レニのことやろ?」
「カンナの心配も的外れとは言えないわ。いつでも出撃できるよう、体調管理を心がけるのも任務のうちでしょう?」
 花組のまとめ役らしく、マリア・タチバナが事態を収めようとするが、すみれは納得しかねる様子だった。
「それくらい、分かっております。わたくしが言いたいのは、わたくしたちがここで心配していても仕方がないということですわ! わたくしたちまで暗くなってしまっては、余計にレニを追いつめてしまうではありませんか」
「そーです。結局のところ、悩みは本人が自分で乗り越えるしかないんです。それに、レニが周りからあれこれ言われるのが嫌いなのは、もうみんなも知ってるでしょー?」
 ソレッタ・織姫も、すみれの意見に理解を示す。元星組の隊員で、花組ではレニとの付き合いがもっとも長い彼女の言葉には説得力があった。
「でも……悩んでるレニを見るのは、アイリス辛いよ……」
 アイリスが、スプーンを置いて呟いた。よほどレニのことが心配なのだろう、食事はほとんど手つかずの状態だった。
 アイリスは、隣に座っていた、花組隊長の大神一郎に助けを求めた。
「ねぇお兄ちゃん、レニのこと、何とか元気づけられない?」
 だが大神は、難しい表情で何かを考え込むばかりで、アイリスの呼びかけに答えなかった。
「……お兄ちゃん? お兄ちゃんってば」
「ん、ああ。なんだい、アイリス?」
「アイリス、レニを元気づけてあげたいの。一緒にレニのお部屋に行ってくれる?」
「ああ、いいよ。部屋に戻って、少し用事を片付けてからでいいかな?」
「うん。アイリスも準備があるから、できたらお兄ちゃんのお部屋に行くね」
 大神が硬い笑みで答えると、アイリスは椅子を降りてぱたぱたと食堂を出て行った。それに場の終わりを感じ取った他の花組メンバーも、軽い挨拶をしてそれぞれに食卓を離れていった。
 その様子を優しげに見ていた大神の目がふと陰った。ひどく陰鬱な声で、重苦しい呟きが漏れる。
「……あの子たちには、『帝都を守る』以外にも戦う理由が必要なのかもな」

 独り言のように呟かれたその言葉を、好は聞き流すことができなかった。胃を手で無造作に掴まれたような不快感に心が締め付けられ、彼女は動けなくなった。
 自分の住む街を、国を守るために戦うのが、好たち軍人の存在意義だ。おそらく大神は、食事の前にレニと話した時に、それを真っ向から否定されたのだろう。
 自ら志願して戦いに身を投じた職業軍人とて、元から人を殺しうる存在ではない。長い時間をかけてしかるべき教育を受け、死の恐怖と殺人を忌避する本能を理性で乗り越えてゆく。ましてや、本来戦いとは無縁であるはずの、多感な年頃の少女たちなら、なおさら動機づけは重要かつ困難であろう。
(何のために戦っているの?)
 好は、心の中でレニの問いかけを聞いた気がした。彼女のたたずまいそのままに、静かで端的な言葉は、氷の刃となって好の胸に鋭く突き刺さった。


*    *    *


 大神は、自室に戻っても身の置き所のないような思いに苛まれていた。いつも腰掛けている椅子が、まるでいつものそれと同じ気がしない。
 レニの問いかけは、大神の胸にも深く突き刺さっていた。
『隊長は、何のために戦っているの?』
 そうレニに問われたとき、胸が大きく波打つのを感じた。正直に言えば、予想外の死角から刃物を突きつけられたような恐怖を感じた。
 だからあのとき、一瞬答えが遅れた。
 感情表現に乏しいが、洞察力に長けた彼女のことだ。いつでも引っ張り出せるように用意された答えよりも、そこに至る間の方に大神の本音を読み取ったことだろう――そこまで深く考えたことはなかった、と。
 実際、そこまで深く考えなくとも、軍人も花組の隊長も勤まるのだ。単体では標語に過ぎない「お国のため」「帝都のため」も、唱え続けていれば本心のように思えてくるし、命令があれば感情を排してそれに従うことは、何年もかけて心身に刻み込んできた。

(でなければ、あのひとを撃てたりするものか)  

 大神は右手を固く握りしめた。その掌に、赤い月の夜に手にしていた小さな拳銃の、支えきれないほど重い感触が蘇った。
 どれくらいそうしていたのだろう、ドアをノックする音で大神は我に帰った。
「お・に・い・ちゃ〜ん、いる〜?」
 可愛らしい声で呼ぶのはアイリスだ。大神は食堂で交わしていた約束を思い出し、アイリスを招き入れた。
 だがアイリスは、ドアの前で足を止めて入って来ようとしない。アイリスの目にかすかな怯えを見て取った大神は、表情を和らげた。
「どうしたんだい?」
「あのね、お兄ちゃん。アイリス、レニのためにこれ作ったんだ」
 そう言ってアイリスが見せたのは、帝劇の中庭に咲く、色とりどりの花を編んで作った環だった。
「花飾り?」
「うん。だってレニ、なんだか元気ないんだもん。この花飾りをプレゼントすれば、きっとレニも元気になるよね」
「ああ……」
 アイリスの純粋な思いやりが、大神の心にも沁み入るような気がした。
 自分はレニの悩みには答えを出してあげられない。それでもいいではないか。レニは大切な仲間で、いつも見守り、必要な時には手を差し伸べたいと思っている。その気持ちに偽りはない。それだけでもいくらかはレニの助けになるはずだ。
 そのことを教えてくれたアイリスの手を、大神は感謝をこめて両手で包み込んだ。
「アイリスの気持ちがいっぱいつまった花飾りだ。きっと元気になるよ」
「うん! 行こう、お兄ちゃん」
 大神は、アイリスと手をつないで部屋を出た。
 レニの部屋の前まで来ると、大神と手をつなぐアイリスの手に力がこもった。
「レニ、花飾りを受け取ってくれるかなあ……」
「大丈夫。きっと受け取ってくれるさ」
 大神は、緊張で硬くなるアイリスの背中を軽く叩いて、ノックを促した。
 小さな手が、飾り気のないドアを叩く。
「はい、これ。アイリスからのプレゼント」
 ドアを開けるなり目に飛び込んできたカラフルな花飾りに、レニは驚いている様子だった。今まで見たことのない無防備な表情で、アイリスと大神を見比べている。
「……これは?」
「アイリスがレニのために作った花飾りだよ。ね、きれいでしょ?」
「……なぜボクに?」
「だって、レニはアイリスの大切なお友達だもん。お友達が元気がないときは、アイリスが元気にしてあげるんだもん」
「友達……ボクが……?」
 心細そうな声で尋ねるレニの表情は、喜びよりも戸惑いを多く含んでいた。
「レニ」
 大神は柔らかく呼びかけ、身をかがませてレニと視線の高さを同じくした。
「その花飾りにはアイリスの気持ちがいっぱいつまっている。君が今悩んでいることに、俺たちが結論を出してはあげられないけど、俺たち花組はいつも君の側にいて見守っている。この花飾りはその証だよ」
 言って大神は、アイリスに目配せをする。アイリスはレニに花飾りを差し出した。
「ねぇ、レニ……受け取ってくれるよね?」
 レニはやや危なっかしい手つきでそれを受け取った。それが何かを確かめるようにじっくりと眺めて、ふわりと呟いた。
「……ああ、ありがとう、アイリス……」
「わあ……」
 アイリスにベストの裾を引っ張られるまでもなく、大神もその瞬間をしっかり見ていた。
 レニが、射るような光を宿していた瞳を潤ませ、唇がためらいながらも笑みの形を作る瞬間を。頬はうっすらと粉を刷いたように、薄紅色に染まっていた。
「それじゃ、レニ。今日はもう遅いし、ゆっくりお休み」
「……はい。おやすみなさい」
 大神がいとまを告げると、レニは素直に頭を下げてドアを閉めた。

(貴重なものを見せてもらったな)

 大神は、レニの笑顔を瞼の裏で宝物のように慈しんだ。


*    *    *


 その頃、地下の作戦指令室では、作戦卓をはさんで二人の人物が対峙していた。
 月組隊長・加山雄一は、拳銃を構えて冷淡に告げた。
「動くな。両手を挙げてゆっくりとこちらを向け」
 黒いスーツに身を包んだ長髪の女が、加山の方にゆっくりと向き直る。
 米田一基司令の秘書・影山サキは、銃で狙われている状況にも関わらず、口元に余裕の笑みを浮かべていた。
 彼女の背後には、蒸気演算機のコンソールと大型のモニターがある。モニターにはたくさんの数字が、馴染みの単位とともに表示されている。その隣に簡単な線描で表示されているものに直接見覚えはないが、それが何であるかは加山にも見当がついた。
「新型霊子甲冑のデータ――花やしきに逃げたのはそれが目的だったのか、水狐」
 加山の質問を、影山サキ――否、黒鬼会五行衆・水狐は鼻で笑い飛ばした。
「で? だったらどうするつもりなの?」
「発見されたスパイの末路など、分かりきったことだろう」
「そうね。わたしは銃で狙われて手も足も出ないことだし」
 水狐は唇の笑みを引くことなく目を伏せ、小声で何事かを呟いた。
 加山は銃で水狐の頭をポイントしたまま、彼女を捕まえようと作戦卓の右側に回った。
 その瞬間。
「ぐあああああっ!」
 床からほとばしった電流のような衝撃に全身を貫かれ、加山は絶叫した。
 体中の液体という液体が足元に落ちていくような脱力感に見舞われる。それでも銃を構えたまま五秒を耐え、十秒を耐えたところで、足が支える力を失い、加山はその場に崩れ落ちた。
 なけなしの霊力を根こそぎ吸い取られ、加山は意識を失った。その目が最後に見たものは、遠目では気付かなかった、床に貼られた床と同色の紙だった。
「……どうやら潮時のようネ」
 床に貼られた紙――呪縛の封紙を剥がして、水狐は悠然と作戦指令室を出て行った。


「う……」
 意識を取り戻した加山は、呻きながらも頭を傾けて腕時計を見た。気を失っていた時間は約五分、思ったよりは短かったが、水狐が帝劇から逃げおおせるには十分な時間だった。
 全身が怠くて手足が鉛のように重い。手足の力で起き上がれないので、全身で転がる勢いを借りて身を起こした。壁に体重を預けて荒い息をつく。
 それから壁や作戦卓に捕まりながら時間をかけて立ち上がり、そのまま壁伝いに歩いた。
「副司令に……報告を……」
 食いしばった歯の隙間から息とともに声が漏れる。
 加山がひどく消耗した体力を振り絞って副司令・藤枝かえでの部屋にたどり着いた時には、赤いシャツがまだらになるほどに汗をかいていた。
 そのただならぬ様子にかえでが息を呑んだ。加山にそれを気遣う余裕はなく、肩で息をしながら報告する。
「……影山サキは、新型霊子甲冑の情報を盗もうとしていました。……研修と称して花やしきに逃げたのはそのためだったのでしょう。ですが……申し訳ありません……あと一歩のところで取り逃がしてしまいました――」
「……叱責はあとにしましょう。その他に、今の時点で分かったことは?」
「米田長官狙撃事件の犯人も……おそらく影山サキと見て間違いありません」
 四ヶ月前、陸軍省で米田一基司令が狙撃された事件は、月組にとっても難しいヤマとなっていた。その頃から帝国華撃団の情報が外部に漏れるようになり、月組は決して潤沢とはいえない人員を、二つの事件の捜査に割いていた。
 かえでが挑むような目で加山を見上げる。
「その根拠は?」
「当日陸軍省の警備に当たっていた兵と、狙撃に使われたと見られる建物付近の住民の目撃証言、蒸気演算機に残っていた通信のログです。……兵の証言と通信ログについては、実際に調査した清流院大尉の方が詳しいかと」
「そう……、他に盗まれた情報がないか、もう一度調べる必要がありそうね。この期に及んで水狐が手ぶらで逃げるとも思えないし」
 かえでの言う「この期」の意味は加山にも想像がついた。
 影山サキが黒鬼会五行衆・水狐であるとすれば、彼女は少なくとも二度、大きな失敗をしている。米田の暗殺に失敗した件がその一つだ。いま一つは、先月熱海に慰安旅行に行った花組を殲滅し損ねたことだ。休暇中の遠出で非武装のところを狙い、大神が連絡用に携行したキネマトロンを破壊してと周到な準備のもと作戦は進められたが、大神とマリアの機転によって援軍もろとも返り討ちになった。
 焦った水狐が黒鬼会からの処断を恐れて何らかの手土産を物色するだろうことは想像に難くない。だが、盗まれた情報がないか調べることはまだしも、まだ帝劇に潜伏しているかもしれない水狐をもう一度追うことは、今の加山では体力的にできそうもなかった。
「は……」
 加山の返事は呻くような調子になってしまった。
「それはいいわ。私がやるから」
 かえでは副司令としての厳しい表情を緩め、帝劇副支配人の顔になった。
「それより、あなたには、彼の親友として頼みがあるんだけど」
「大神がどうかしましたか?」
「レニがここ最近悩んでるみたいだったから……大神くん、相談に乗ろうとしてレニの悩みまで背負い込んじゃってるかもしれないわ。それとなく様子を見てきてあげて」
「……奴は幸せ者ですね。花組の思いを一身に受けて、副司令にもそんなに気遣ってもらえるんですから」
 加山は肩をすくめてみせた。
「あら、妬いてるの?」
「そりゃあ、まあ。同じ男として、大いにうらやましいですね。可愛い可愛い俺の部下まで持ってかれないかと心配なくらいです」
「好にそう言ってあげればいいのに」
 かえでがくすりと笑った。
「ご冗談を。真に受けられても面倒ですよ」
 加山は苦笑まじりに軽口を叩きつつ、やや苦労して天井裏へと登っていった。

 天井裏に隠していたギターを背負い、換気口を抜けて外壁の桟伝いに大神の部屋の外に出る。 
 窓からそっと覗くと、大神はベッドに腰掛けて床を睨みつけているところだった。
 加山は、大神の唇の動きから彼の独り言を読み取った。
『何のために戦う……か。レニにはああ言ったけど……』
 よく言えば部下思いの、悪く言えばおせっかいな大神のことだ。レニに「悩みがあるなら話してくれないか」とでも言ったのだろう。それで逆に「何のために戦うのか」と問われて答えに窮し、自分の悩みがつまったパンドラの箱をうっかり開けてしまったというところか。

(まったく……)

 加山は窓をノックする代わりにギターをかき鳴らした。
「大神……夜はいいなあ……」
 加山が歌うように言うと、大神は呆れた表情を見せながらも窓を開けた。
「加山か。とりあえず中に入れ」
 許可を得て部屋に入るなり、加山はギターを構えて大神を指差した。
「大神よ。お前は信念というものを持っているか?」
「な、何だよ、薮から棒に……」
 面食らう大神にはかまわず、加山はギターで重めのコードをがつがつと刻んだ。ハーモニカがあれば最高だが、それではしゃべることができない。叩き付けるようなコード進行に合わせて、ソウルフルに歌う。

「信念! 『苔の一念岩をも通す』と言うだろう?
 言葉で語るな、理屈で考えるな!
 そんなものは答えじゃない、そんな答えはほしくない
 分かるだろう、兄弟?
 迷うな、貫け、己の信念を!
 語るな、叫べ、真の心を!」
(『信念』 作詞・作曲 加山雄一)

 加山は激しくかき鳴らすギターに合わせてハーモニカを吹いている気分で首を動かし、ひとしきり演奏してから派手なモーションと共に弦から手を放した。
 それを見ていた大神はあっけにとられた様子であったが、やがて「ぷっ」と噴き出した。
「大事なのは言葉でも理屈でもなく真(まこと)の心……か」
「迷うなよ、大神。迷うと部下の信頼を損ねる」
「『指揮官先頭、率先垂範』だったな」
 大神は指揮官の心得を端的に表現した海軍の標語を引用して答えた。
「戦闘ではいつもやってるんだろう? 今も同じだ。考え過ぎで動けなくなっては、本末転倒もいいところだぞ」
「ああ、そうだった。……忠告感謝する」
 大神の顔に笑みが浮かぶのを見届けて、加山は大神の部屋をあとにした。


*    *    *

 一方、事務室では翌日以降の作業を前倒しにしてまで、無理な残業体制が続いていた。それに異論が出ないのは、かすみが残業を決定した理由である「何かが起こりそうな予感」が、残る二人にもそこまで差し迫ったものとして感じられたからだ。

(スパイがいつ動いてもおかしくない。椿さんか、玉川先生か、サキさんか……)

 もし好がスパイの立場だったら、今日のように悪天候や新人の配属など、周囲が複数の原因で浮き足立っているときに動くだろう。ことに、任務に支障を来すほどの不調を訴える隊員がいればそれだけ周囲の目を引きつけるから、隙をついて逃げるのは簡単だ。
 そのとき、自分には何ができるのだろう?
 好はジャケットの左胸の辺りを押さえた。その下には拳銃が差さっている。
 その場を発見したら射殺するか?

(いや、無理だ)

 好は自嘲気味に首を振った。
 残念ながら、好は射撃がそれほど得意ではない。止まっている的に狙い通り当てることはできるが、抜き撃ちで動く標的をしとめるなどという離れ業ができるわけではない。そして何より、好は本物の人間を撃ったことがない。敵を目の前にして冷静に引き金を引けるかどうかは、自分でも分からなかった。
 容疑者はいずれも好と同じくらいの体格の女性だから、後ろをとって拘束し、拳銃を突きつけて確保するくらいか。
 サキを仮想敵にその動きをシミュレーションしながら、好は少しだけネクタイを緩めた。このネクタイもファッションで結んでいるわけではなく、いざという時に賊を拘束するための装備だった。
「……?」
 好は由里の訝しげな視線に気付いて目を逸らした。
「……いや、窓を閉め切ったらさすがに蒸すなあ、と思って。ちょっと顔を洗ってきていいですか?」
「……ええ。いってらっしゃい」
 由里の返事に含まれた微妙な間に疑問を感じながらも、好は事務室を出た。
 もう消灯時間を過ぎたのか、廊下は照明が落とされて真っ暗だった。足元を照らす非常灯のわずかな明かりを頼りに、洗面所へと向かった。
 「顔を洗う」と言った手前本当に顔を洗い、洗面所を出たところで、好は風が窓ガラスを震わせる音に交じって、聞き慣れない音を聞いた。中庭の方から、大量の水が吸い込まれるような音が聞こえる。
 窓に駆け寄って見てみると、中庭中央にある噴水の水が抜かれ始めていた。水が完全に抜けた噴水池の底が二つに割れて黒々とした穴が空き、帝劇の建物全体をびりびりと震わせる重低音が響き渡る。
 ドシュウウウッ!
 腹の底まで響く射出音とともに、噴水池の穴から何かが勢いよく飛び出した。人よりも遥かに大きい、ブルーグレーの鉄の塊。
 好は思わず二、三歩後じさった。
「あれは……!」
「レニのアイゼンクライトよ!」
 鋭い声に振り返ると、由里が事務室ではなく反対の音楽室の方角から駆け寄ってきた。
「由里さん、どうしてそっちから……」
「ごめんなさい。あなたがスパイじゃないかってつけてたの。そんなことより」
 由里の声を引き継ぐように、帝国華撃団の出動を知らせる警報が鳴り響いた。


6

 好と由里は、そのまま女子職員休憩室へと駆け込んだ。そこでそれぞれ戦闘服に着替えて外に出る。純粋に身につけるパーツ数の差で、由里の方が先に出た。それに一分ほど遅れて好も外に出た。
「遅いぞ! 五分以内に着装できるよう練習しろと言っただろうが!」
「はいーっ!」
 出るなりドスの利いた男の声で怒鳴られ、好は反射的に直立不動になった。
 すでに黒装束に着替え終わった斉藤泰生が、腕組みをして立っていた。
「こっちだ。駆け足でついてこい」
 有無を言わさず、斎藤が階段を駆け下りてゆく。
「はっ」
 好も遅れずにそれについていった。初対面のときの柔らかな態度よりも、こちらの方が斎藤らしい気がする。大帝国劇場の華やかな空気よりも、帝国華撃団銀座本部の緊迫した空気の方が体に馴染む。
 斎藤が好の持ち場として指示したのは作戦指令室の真ん前だった。腰の後ろに差した忍者刀と、拳銃の残弾を確認して警備につく。
「そのままの姿勢で聞け。我々月組が追っていたスパイ――影山サキこと黒鬼会五行衆・水狐が、花組のミルヒシュトラーセ隊員と乗機のアイゼンクライト二号機を奪って逃走した――」
 斎藤が、好と同じく地下の警備についた隊員の間を歩きながら、状況の説明を始めた。


*    *    *

 好の背中側、扉一枚隔てた作戦指令室では、副司令の藤枝かえでが花組に対して同じ説明をしていた。
「レニをさらった犯人は、影山サキ。米田司令の狙撃犯であり、おそらく……黒鬼会の一員よ」
 まさか、信じられないという声が花組から一斉に上がる。
 大神は、信じられないと衝撃を受けながらも、これまでの謎――サキの不可解な行動や発言を思い出していた。
 銃で撃たれたとはいえ、玉川先生の見立てではそれほどの重傷でなかった米田の容態を、「意識を取り戻す可能性がほとんどない」と言ったこと。さくらが、陸軍大臣の京極慶吾に陸軍大佐だった父を愚弄されて激昂していることを知りながら、京極が深川の料亭に来ていると教えたこと。先月の熱海への慰安旅行についてきながら、花組と別行動をとりたがったこと。
 それらが花組に不和の種をまき、彼女たちを戦場におびき出すための行動だとしたら、すべてつじつまが合う。
 大神は今の今までそれを見抜けなかった己の落ち度を悔やんだ。
「……こうなった以上、急いでレニを追いましょう。大神くん、聞いておきたいことはない?」
 突然話を振られ、大神は少したじろいだ。
「……そうですね。ではまず、サキくんの情報はどこから手に入ったんですか?」
「月組に調査させていたの。薔薇組も調査に協力してくれたわ」
 月組と薔薇組と言われて、大神の頭に四人の陸軍軍人の、あまりにも個性的な顔が思い浮かぶ。
「月組――今月配属された好くんは、そのために?」
「ええ、そうよ。他には?」
「レニを探すと言っても、どこに行ったかまったく手がかりがありません。花組だけで探すのは難しくありませんか?」
「そうね」
 大神の指摘にかえでは動じなかった。むしろその質問を待っていたと言いたげな様子だった。
「月組から、もう一人応援を呼んであるの。……もう少しで来るわね。もう質問はない?」
「なぜサキくんはレニをさらっていったんでしょう?」
「それは……おそらくレニの過去に関係があると思うわ」
 かえではどこか痛みをこらえるような表情で語り始めた。

 欧州大戦末期、ドイツでは「ヴァックストゥーム計画」と呼ばれる研究が進められていた。それは、霊力の高い子供を、最強で完璧な霊的攻撃力を持った兵士にして霊子甲冑のパイロット――否、戦闘機械として育てるのが目的だった。
 そのために、物心つくかつかないかという年齢で家族と引き離し、戦闘に関する知識を徹底的に詰め込む一方で、人とのふれあいや愛情といった、人間らしく生きるために必要な心を不要なものとして排除した。また、肉体的には、大量の薬物を投与して成長期の体から限界を超えた筋力や瞬発力を引き出し、成人の歩兵と同じ訓練と懲罰を課した。その他、拷問への耐性をつけるためにと称して行われた虐待など、被験者の扱いは非道を極めた。
 その研究によって命を落とした子供は数知れず、レニ・ミルヒシュトラーセがただ一人の生き残りだと言われている。

「終戦後、レニを救出した時にはすでに遅かったわ。レニの心は……硬く氷のように閉ざされていた――」
 かえでが悲痛な表情で語る、あまりにも重いレニの過去の物語に、その場にいた誰もが言葉を失った。花組の中でレニを一番心配していたであろうアイリスは、目にうっすらと涙を浮かべている。
 そんな中、作戦指令室のドアが開き、甲高い男の声が沈んだ空気を打ち破った。
「ああ、遅くなりました。すみませんすみませんすみません!」
 黒いスーツを着た長身の若い男が、少し訛りのある口調でそう言った。よく見てみると、首の後で結われた髪は黒いが、彫りの深い顔と明るい灰色の目は白人のそれだった。
「僕の名前はクラレンス・伊藤、月組の隊員です」
 男はそう名乗り、よろしくお願いします、と深くお辞儀をした。
 その場にいた多くが見慣れない月組隊員の出現に戸惑っていたが、かえで以外にもう一人、彼を知っている者がいた。
「クラレンスったら、あーい変わらず空気が読めないんですからー」
 レニとは星組で一緒だった織姫が、どこか小馬鹿にしたような調子で言った。
「織姫くん、知り合いか?」
「ま、いちおー。元星組隊員でーす」
 星組といえば、帝国華撃団以前に実験的に編成されたエリート部隊である。感心したような声が一同から漏れた。
 すると、クラレンスは照れくさそうに頭をかいた。
「あー、星組と言っても、僕のいたUranus(天王星)は後方部隊です。織姫さんたちMars(火星)と違って、エリートではありません」
「……それはそうとクラレンス、君が手伝ってくれるのかい?」
 大神が話題を変えようとクラレンスの方に向き直ると、彼は目を輝かせて大神を見た。その目は率直に言わせてもらえば、少し怖かった。彼はきらきらと輝く目で誇らしげに請け負った。
「はい、そうです! お任せ下さい!」
 確かに彼はちょっと空気が読めない人なのかも……大神もそう思った。
 かえでが地図、コンパス、赤鉛筆といった道具を卓上に出してクラレンスをその前に座らせた。
「レニの『音色』は覚えているわね? だいたいの場所でいいから割り出してくれない?」
「はい」
 クラレンスは席について地図の上で手を組み、目を閉じて精神を集中させた。
 すると、部屋の気温がわずかに下がり、足元に霊力のさざ波が打ち寄せてくるのが大神にも分かった。さざ波は大神の足を軽く洗い、作戦指令室も帝劇の建物も越えて広がっていくように思われた。
「クラレンスは人の霊力を音として知覚できるの。指紋や声紋が人によって異なるように、霊力の『音色』も人によって異なるそうよ」
 かえでがクラレンスの能力を説明したところで、足元を漂っていた霊力の波が、急速に彼の元に引っ込められるのを感じた。
「……? おかしいですね……」
 クラレンスが集中を途切らせて顔を上げた。
「レニさんらしき『音』が……でも、これは違うと思います。風邪を引いて鼻声になってるような……それに弱ってる……?」
「レニ、風邪引いてるの?」
 アイリスが心配そうに尋ねた。
「ああ、今のはたとえです。でも霊力の質を変化させる何かがあったのかも知れません。レニさんがいなくなったときの状況を知りたいです。最後にレニさんを見た人は誰ですか?」
「……ウチや。格納庫で光武を整備しとったらレニがふらあ〜って来て、アイゼンクライトに乗ったと思ったら、止める間もなく出て行ってしもたんや。今にして思えば、なんか変な感じやったんやけど……」
 紅蘭が俯いたまま告白すると、カンナが憤慨した。
「なんでそのときに止めなかったんだよ」
「レニが格納庫に来るのはいつものことやったんや。自分でアイゼンクライトを整備するのもそうやし、ただコックピットに座りたなったみたいなときも……。レニにとっては、アイゼンクライトの中が一番落ち着くみたいやったから、ウチも邪魔したらあかんと思うて――」
「そうだったの……」
 マリアの声には、知らなかったことを悔いるような色があった。
「わたしも知りませんでしたー。わたし、今までレニの何を見てたんでしょー……」
 織姫の言葉は、花組全員の気持ちを代弁していた。花組も大神も、神妙な表情になった。
 そこに、のほほんとした声が割って入った。
「えーと、その前には?」
 織姫が(この空気読めないアンポンタンが……)とでも言いたげにクラレンスを睨みつけるが、彼はそれを意に介したふうもない。
 誰も発言しようとしないので、大神はアイリスと目を見合わせた。
「俺とアイリス……かな? 食事のちょっと後だから二〇時前だけど」
「そのときはレニ、落ち込んでたけど普通だったよね。花飾りあげたら笑ってくれたし……」
 アイリスは花飾りを取り出してクラレンスに見せた。出撃警報の直前、胸騒ぎを覚えて駆け込んだレニの部屋には、これが打ち捨てられるように残されていた。
「それは何ですか?」
「アイリスがレニのために作ったの。……レニ、これ捨てちゃったのかなあ」
 クラレンスは席を立つと、打ち捨てられた花飾りを不憫そうに見つめるアイリスの元に歩み寄った。その場にしゃがみ込んで、アイリスの目の高さより少し低い位置から語りかける。
「アイリスさん。その花飾りを僕に貸してください」
「え、なんで?」
「その花飾りが、レニさんがいなくなるまでのことを『知って』いるかもしれません。僕にはそれを読み取る力があります。……お願いします」
 アイリスはしばらく逡巡していたが、クラレンスの態度から信頼できる何かを感じ取ったのだろう、花飾りを彼に差し出した。
「月組のお兄ちゃん、お願い……レニを助けてあげて」
「はい、必ず。レニさんは僕にとっても大切な仲間ですから」
 クラレンスはアイリスから花飾りを受け取ると、立ち上がって両手で目の高さに掲げた。目を閉じて意識を集中させ、花飾りに残った記憶を読み取っていく。
 やがて、クラレンスの口から、別人のような口調で言葉が出た。
『これできっと……あの方もお喜びになるワ。帝国華撃団……あなたたちの仲間・レニは、影山サキが……いえ、この黒鬼会五行衆・水狐がいただいていくわ』
 言い終わって、クラレンスが小さく呻き、またサキ=水狐の口調になる。
『さあ、行きましょう。わたしと一緒に……あなたは戦うために生まれてきた機械……友達なんて必要ないワ』
『あ……っ』
 花飾りに残された記憶をそこまでたどって、クラレンスは目を開けた。
「レニさんは催眠術をかけられています。暗示の内容はおそらく……『術者と自分以外はすべて敵だ、殺せ』と。それで霊力の質も歪められてしまったのかも」
 クラレンスは礼を言ってアイリスに花飾りを返し、席に戻った。そして再び地図の前で霊力の波を広げ、レニの居場所を探る。
 赤鉛筆がふらふらと地図の上をさまよい、ある一点で止まる。そこからまたしばらく手探りのように赤鉛筆を動かし、クラレンスは確信を得て地図に赤い丸を書き込んだ。
 それを見た大神が、目指すべき地名を口にした。
「池袋……!」
「さあ、みんな。レニを手分けして探しましょう。二人一組になって、互いに連絡しあうのよ。大神くん、班の編制と出撃命令をお願い」
 かえでの命令を大神が歯切れよく下達する。
「帝国華撃団、出撃せよ! 目標は池袋。大神・アイリス、さくらくん・マリア、カンナ・織姫くん、すみれくん・紅蘭の四班に分かれてレニを捜索する。みんな、一刻も早くレニを見つけるぞ!」
『了解!』
 大神の出撃命令に、全員が敬礼で応じた。
 その中でも、アイリスがただならぬ決意を秘めた様子で、花飾りを握りしめていた。

「わっ」
 好は、背後から突然聞こえた「了解!」の斉唱に驚いて身を竦ませた。事態を把握するより先に作戦指令室の扉が開き、彼女は脇に飛び退いた。
 すると、中からそれぞれの乗機と同じ色の戦闘服を着た花組隊員が飛び出し、格納庫の方へと走っていった。廊下で警備に当たっていた月組隊員たちが挙手敬礼で花組を見送っていたので、好も慌ててそれにならった。
 花組が格納庫へと消えていっても、好をはじめとする月組隊員たちは、気もそぞろに花組が走っていった方向を見つめていた。
 そこに斎藤のどら声が響く。
「しゃきっとせんか、お前ら! 月組もこれからが本番だろうが!」
「はいーっ!」
 廊下のあちこちからそんな声が聞こえてきて、好は思わず噴き出しそうになってしまった。
 それからは、退屈な不動の時間が続く。歩哨は動かないのが基本だ。ときどき作戦指令室から漏れ聞こえる、風組オペレーターの報告や米田の声だけが、動きと呼べるもののすべてだった。
『大神機・アイリス機、レニ機を発見』
『見つかったか。敵はいるのか』
『長距離砲台が二門、脇侍――イ型乙五体、ロ型甲一体、ハ型甲二体が視認できます』
『二人で切り抜けるにはちと辛ぇなあ。由里、残りの連中に通信を回して合流させろ』
『了解』
 好は大神・アイリス・脇侍を歩兵に見立て、頭の中で戦場の様子をシミュレートし始めた。斎藤には悪いが、それぐらいしていないと、つぼみとの接客研修や長い残業の疲れであくびの一つも出てしまいそうだった。
『援軍、合流しました』
『よし。大神、アイリス、よく耐えた』
『大神機、レニ機正面に到達』
『いよいよか……頼むぞ、大神』
 米田の祈るような声が聞こえてきて、好は心臓がばくんと大きく打つのを感じた。


*    *    *

 広々とした高台の上で、白い光武とブルーグレーのアイゼンクライトが相対していた。強い風が水滴や塵を吹き散らし、シルスウス鋼の装甲に叩き付ける。
 大神は、こちらに向けてランスを構えるアイゼンクライトに、光武の機上から外部スピーカーで呼びかけた。
「レニ、俺だ、大神だ!」
 アイゼンクライトは何の反応も示さない。
「レニ……俺の話を聞いてくれ」
 微動だにしないアイゼンクライトに向かって、大神は切々と語りかけた。
 話したいことは山ほどある。
 レニの不安に気付いてやれなかったこと。レニが勇気を振り絞って悩みを打ち明けてくれたのに、それに答えてやれなかったこと。その奥にある、レニの孤独を分からなかったこと。それらが心底申し訳ない。
 あれから大神は考えた。考えて一つの答えを得た。
 それがレニの望む答えかどうかは分からないけど。
 でも今なら、ちゃんと言ってあげられる。
「レニ……!」
 大神の呼びかけに答えるように、カメラアイが光ってアイゼンクライトが起動した。
「何もしないなら、こっちからいくよ」
 光武のマイクが拾ったレニの声は、機械的に作られた合成音声のように抑揚がなかった。
 抑揚のない声同様、一切の予備動作を見せず、アイゼンクライトの右腕が無造作にランスを突き出した。
 大神は反射的に後ろに飛び退いたが、正面の装甲に穴が開いた。ランスの穂先が次々と繰り出され、彫刻でも作るかのように光武の装甲を削り取っていく。
 二本の刀で防御壁を作り、姿勢を低くしつつも大神は呼びかけ続ける。
「レニ! 俺が分からないのか!?」
「わかるよ。帝国華撃団花組隊長・大神一郎――」
 レニはそこで言葉を切った。空気を歪ませるほどの霊力の渦が、アイゼンクライトの周囲に集まる。そして、今度は拳で打ちかかる前のようにランスを引いた。
「ボクが倒すべき、敵だ!」
 ランスによる渾身の突きとともに、壁のような霊力の塊が、大神機に押し寄せる。大神は刀を折られぬよう切先を後に流し、自らの霊力で防御壁を張って耐えた。大神とレニの霊力がぶつかりあって干渉し、青白い火花が激しく散った。
 渾身の一撃をかわすこともなく受けきられ、レニに初めて動揺の色が見えた。大神機に向けられたランスの穂先が、わずかに下がっている。
「なんで……攻撃をしない……? お前は敵なのに……」
「レニ、俺は敵じゃない! 君の仲間だ!」
 アイゼンクライトに向かって必死に叫ぶ大神を、水狐がせせら笑う。
「はん、お前たちが勝手にそう思いこんでただけじゃないの。レニは仲間なんか必要としないわ。あなたたちと違って、完璧な戦闘機械だから」
「貴様……!」
 最後の一文を、強調するように一字一字区切って言う水狐に、大神は怒りをぶつけた。
『隊長』
 そこに秘話回線で冷静なアルトの声が割って入る。声の主は副隊長のマリアだった。
『水狐は私たちで何とかします。隊長はレニの説得に集中して下さい』
「ああ、すまない」
 マリアの言葉で大神は、アイゼンクライトのはるか後方で指示を出している女の姿を意識から追い出した。今まで以上に真摯にレニに向かい合う。
「お前が……敵でないなら……ボクは何だ?」
 わずかに下がっていたランスの穂先を震わせてレニが問う。
「レニ……君は、花組の隊員だ。俺たちと同じ……帝国華撃団・花組の隊員だ!」
 大神の断言を遮って水狐が絶叫する。
「レニ! だまされてはダメよ! あなたは戦闘機械、あなた以外の存在は敵よ!」
「違う! レニ、人は信じられる存在なんだ!!」
 大神はここで賭けに出た。
 レニが戦いをためらうようになった理由――人を殺すことへの忌避感が本物ならば、たとえ自分以外のすべてが敵だと暗示を受けても、生身の人間を攻撃することはできないはずだ。なぜなら、いかなる催眠術も、本人が心から拒むことを強制できないから。
 その可能性に賭けて、大神は光武を降りた。機体前面のハッチを開き、短刀一本持たぬ丸腰で機外に飛び降りた。
 大神以外の全機は、万が一に備えて身構えた。
「レニ……」
 大神が、外部スピーカーを通さずに肉声で告げた。
「君はもう忘れてしまったのか? 自分自身のこと、俺たち花組のこと。初めて出会ったときのこと。一緒に過ごした日々。君がどう思うかは知らないが、俺は鮮明に覚えているよ。新しい仲間を受け入れた日に、どうすれば君がみんなに受け入れられるだろうかと心を砕いたことを」
 大神の背後で、光武のハッチが開く音がした。アイリスが大神の側に駆け寄り、彼の手に花飾りを託す。
 それを受け取り、大神は機上のレニに見えるよう、アイゼンクライトの視界までそれを掲げてみせた。
「思い出してくれ、この花飾りいっぱいに込められたアイリスの心を……!」
 その効果は覿面だった。狙いをはずされ、震えながらもこちらに向けられていたランスが、はっきりとした意思をこめて地面に突き立てられた。
 大神は真摯にレニに語りかけた。
「俺は分かっていなかった。君の迷いも、不安も……そして孤独も。『何のために戦うのか』と、君は聞いたね。俺は、あのとき本当の意味で答えることができなかった。でも今ならはっきりと言える。俺たちは……自分が愛する大切な人たちを、守るために戦うんだと!」
 それは大神の本心だった。魔物と戦うことを宿命づけられる花組を率いながら、彼女たち自身には毛筋ほども傷ついてほしくない。おめでたい理想論を、などと笑われそうだが、彼は心の底からそう思い続けた。
 その心からの言葉の前に、水狐の怒号など虚しいばかりであった。聞く者を苛立たせることしかできない金切り声が、虚空に放たれる。
「レニ、そいつらを殺しなさい! これは命令よ!」
「戻ってこい、レニ! 俺たちのところに…仲間のところに…花組の、みんなのところに! 君は機械なんかじゃない。自分の意志で戦えばいいんだ! 君の大切なものを守るために……」
 どちらがレニの心に届くかは、彼女ならずとも明白なことだった。
 がこん、と重い音がしてアイゼンクライトのハッチが開いた。重厚な機体に比べればあまりにも儚く見える、白く細い体が、ためらいがちに吐き出される。
 レニが自らの意思で立ち上がったそのとき、足元から強い風が吹きつけて、彼女の髪を薙いだ。それを払った手の下から、意志の光を灯した瞳が現れた。
 と同時に、その瞳が恐怖に見開かれ、彼女はその場で立ちすくんだ。
「レニ!」
 大神はレニの元へと駆け寄って、くずおれそうな体を支えた。彼女の体の軽さと薄さ、そして温かさを初めて実感する。こんなに温かくていとけないものが、機械であるはずがない。胸の奥底から愛おしさがこみ上げてきて、彼はレニを胸の中に抱き入れた。
「隊長……ボクは……ボクは……」
 自分が先ほどまでしてきたことを、今認識してしまったのだろう。レニの声は泣きそうなほどに震えていた。
 大神はレニを抱く腕に、ほんの少しだけ力をこめた。
「……何も言わなくていいよ。お帰り、レニ」
「……ただいま、隊長……ただいま、アイリス……ただいま、ボクの仲間たち……」
 言葉とともに、レニの目から熱い涙がこぼれ落ちる。大神はしゃくり上げる彼女の背中をいたわるように撫でさすってやった。
 数回そうしたところで、腕の中にいたレニが、毅然と顔を上げた。大神から離れて後ろを向く。
 レニがなぜそうしたのか、大神にもすぐ分かった。アイゼンクライトのはるか後方にいた水狐が何事かをわめきたて、どす黒い瘴気をその身にまとわりつかせていた。
 その黒い塊に向かって、レニが静かに告げた。その立ち姿には、揺るぎない自信と強い意志の力がみなぎっている。
「ボクはもう迷わない。戦う理由はみんなが教えてくれた。ボクは、ボク自身のために……そして、みんなのために戦う」
 それは、レニが戦闘機械として育てられた過去と決別し、自分自身の足で人生を歩んでいくための、別れの言葉だった。
「よし! 行くぞ、みんな! 水狐を討つんだ」
『了解!』
 花組の士気は最高潮にまで高められた。触れれば火傷しそうなほどの霊力が、色のついた陽炎となってそれぞれの機体から放たれていた。


*    *    *

 それからの花組の華々しい戦いぶりは、作戦指令室の外で風組オペレーターの報告を聞いていただけの好にも、容易に想像がついた。
 それはさながら、大神とレニのペアがリンクの中心で舞う、フィギュアスケートのアイスダンスであった。二人寄り添いながら自由自在にリンクを駆け、妖力による分身の術などものともせず、正確に本体――水狐の乗機・宝形――を叩く。分身たちが二人を捕らえようと取り囲めば、共振させ、太い綱のように縒り合わされた霊力が爆発的に広がってそれらを沈黙させる。
 残る七人は、二人の動きを読みながら、絶妙な位置で援護する。
 演習でも簡単には見られないほどの完璧な連携のもと、花組は十分足らずで宝形を撃破した。
(すごい……)
 好は花組の圧倒的な勝利に、感動すら覚えた。自分がその戦場にいたかのように、興奮が胸を満たす。これほどの高揚感は、士官学校で騎馬での突撃をやって以来だった。
 そこに、スピーカーから米田の声が聞こえた。
「戦闘終了。これより花組が帰投する。全員、花組の帰投に備え」
 明るい調子の声に、地下の月組隊員たちがわっと沸き、みな一様に顔を輝かせる。
 何が起こるのだろう、と周りを見回していると、作戦指令室からクラレンスが出てきて好の隣に立った。
 好は彼に尋ねてみた。
「これから何が始まるんですか?」
「花組がここを出たとき、お見送りをしたでしょう? それと同じように、戦闘が終わって帰ってきたときはお出迎えをするんです」
 クラレンスはそう言って、祭りを心待ちにする子供のような表情をした。
「ああっ、僕、一度これをやってみたかったんですよ。楽しみだなあ」
 彼はすっかり自分もお出迎えに参加する気でいた。
 月組副隊長で帝劇の警備責任者である斉藤泰生も、持ち場の違う彼を咎めるでもなく苦笑しているだけだから、彼の飛び入りも容認されたらしい。
 しばらくして、格納庫から上がってきた大神が廊下に姿を現すなり、月組隊員は一斉に声を張り上げた。
『お疲れさんっした!』
 まるで出入りから戻ってきたやくざの親分を迎えるみたいな「お疲れ」の大合唱。好は一瞬面食らったが、すぐに大合唱に加わった。やってみれば確かに、彼らとも花組とも一体感を味わえる気がする。
 花組の面々は、月組の熱烈な出迎えに、はにかんだ笑みを見せながら、会釈したり手を振ったりして答えていた。
 それを眺めていた好の目は、大神と、彼の視線の先にいたレニのところで止まった。

(あれ……?)

 好は思わず目をしばたたいた。
 レニの姿が、初対面のときとは別人のように見えた。稽古着と戦闘服という単純な服装の違いではない。身にまとう気配と、目のあたりに見せる表情が全然違うのだ。今の彼女からは、初対面の好に見せた密やかな敵意も、目に映るものに対する殺伐とした無関心さもうかがえない。それどころか、心からの敬愛を眼差しにこめ、隣の大神を見つめている。歩く姿から受ける印象も、どこか柔らかかった。
 正直今の今まで、(自分のことは棚に上げて)今ひとつレニのことを女の子だと認識できない好だったが、今目の前を通り過ぎたレニは、間違いなく十五歳の愛らしい女の子に見えた。
 何とも微笑ましい、心温まる光景である。
 だというのに。
「あれ……?」
 好は異変に気付いて頬に手をやった。何をどうすればこんなになるのだろう、頬の筋肉はかちかちにこわばって押すと痛いくらいだった。見てはいけないものを見てしまったような気まずさが、胃のあたりにわだかまっている気がする。
 クラレンスが訝しげに好の顔をのぞき込んだ。
「ん? どうかしましたか?」
「いや、なんでもない……」
「レニさん、違う人みたいに可愛らしくなっていましたもんねー。びっくりするのも無理ないですよ」
 クラレンスの暢気な感想は、好の耳には半分も聞こえていなかった。


7

 それから数日後。レニとアイリスが主役を務める『青い鳥』は初日を迎えた。
 大神はモギリ、かすみと由里は列整理に場内アナウンス、好とつぼみは売店と、劇場スタッフもそれぞれの持ち場についた。
 そうして迎える開場の時間。支配人の米田がドアを開けると、劇場の外周を取り巻くほど列をなしていた人々が、どっと流れ込んでくる。人々の熱気が湯気になって目に見えないのが不思議なくらいで、外からの光に照らされたその姿は、後光が射しているように見えた。
(夢の世界が、今まさに始まるんだ!)
 好は売店からその光景を見て胸を熱くしたが、次の瞬間売店に殺到する人々と仕事の津波をまともにかぶった。
「いらっしゃいませ! パンフレットと、レニさんとアイリスさんのブロマイドですね。三円ちょうどになります」
「ありがとうございました。……あ、お客様、品物をお忘れですよ!」
「花組へのプレゼントはクローク隣の預かり所でお預かりしますので、そちらへお持ち下さい」
「紙袋が足りなくなる。取りにいくから、つぼみちゃん、その間ここを死守して!」
「好さん、戦争やってるんじゃないんですから……」
「平均すれば、待つ時間が長い分戦争の方がまだマシだよ!」
「理屈はいいですから、早く行って下さい〜」
 ……などと、とにかくしゃべりっぱなし、動きっぱなしだった。接客七大用語と共に覚えたはずのお辞儀の角度など、すっかり忘れていた。
 それでも開演前、休憩時間と二つのビッグウエーブを乗り切った。好とつぼみは、大神の勧めで、終盤の一部だけだが舞台を見ることができた。三人で、一階席の一番後ろから立って舞台を見る。

 舞台では、レニ演じるチルチルとアイリス演じるミチルの兄妹が、幸福の象徴である青い鳥を見つけて、幸せとは何かを悟る大詰めのシーンにさしかかっていた。
「チルチルお兄ちゃん、青い鳥は……わたしたちの部屋にいたんだね」
「……ああ、ミチル。幸せの青い鳥は、こんなに近くにいたんだ」
 二人は手にした鳥かごを、慈愛に満ちた目で見つめていた。青い鳥はその中にはいない。二人の心の中にいるのだ。
 そして、オーケストラが、華やかな音色で主題歌の前奏を奏で始める。

♪ここに生まれる幸せのかたち♪
♪それは確かに儚いが♪
♪ほんのひとときに♪
♪心をひとつに♪
♪みんなで紡いだ♪

 レニとアイリスが、時にはかけあい、時には声を合わせて希望を歌う。二人の、幼くも高く澄んだ声は、彼らの無限の未来を思わせた。
 その光景は、好が初めて帝劇に来た日に見せてもらった舞台稽古の何倍もの眩しさだった。丁寧に作り込まれたセットと計算された照明、きらびやかな素材で作られた愛らしい衣装が二人を彩る。だがそれらをかすませるほどに輝いていたのが、まさに愛を得て希望に満ちた目で客席を見渡す二人の目だった。幸せの青い鳥とは、二人の希望に輝く青い瞳のことなのかもしれない。

♪この場所に生きて はるか明日を見よう
 ぼくこそが希望 きっと未来への道♪

 チルチル役のレニが、高らかに歌い上げた。
 その声は好の心を強く打つと同時に、ひどく切なくもさせた。
 レニは、皆と深く心をつなぐことで、儚い夢のようであった自分の居場所を確固たるものとさせることができた。

(では、私は……?)

 好も、深く心をつなぐ仲間を見つけられれば、自分の居場所を作ることができるのだろうか。
 万雷の拍手と割れんばかりの歓声が、好の心の声をかき消した。舞台と客席の熱気が、彼女の皮膚にひりひりと焼き付くように感じられた。

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