帰郷(後編)  作・鰊かずの

 

<1>

 ステラは走っていた。

 買い物の途中、黒服の男達を乗せた蒸気自動車が家の方へ向かっていくのを見かけた。ただそれだけだったが、ステラは胸の奥にざわつく何かを感じて家路へと急いだ。
 数日前から、彼女の家――リヒテンクライト孤児院の周りを、黒服の男達が歩き回っていたのは知っていた。妹や弟達とも気味が悪いね、と話をしていたのが、ここにきて鮮明に思い出された。

 嫌な予感がする。

 自分は、あの孤児院の中では最年長で、いちばんのお姉さんなんだから、みんなを守らなければならなかった。特に、一ヶ月前に川で拾った新入りのクリスは危なっかしくて見ていられない。最初はちっとも笑わなかったけど、最近ようやく笑えるようになってきたところだ。相変わらず自分の事は何一つ語ろうとはしないが、いつかは話してくれるはずだ。
 今日は院長先生も副院長先生も夜までは帰らない。大人のいない孤児院に何かあったら、対応しきれないだろう。自分がみんなを守らなきゃ。
 買い物かごを手に下げて、少女はただ家路を急いだ。


 悲鳴が聞こえて、大きな音が通りまで響いた。
 ぼんやりとした視界が徐々に鮮明さを増し、クリスに辺りの状況を認識させた。
 古い教会を改築した古ぼけた家の片隅で、怯えた子供たちがこちらを見ていた。黒服の男に跳ね飛ばされて気を失っていた少年も、意識を取り戻している。クリスはほっと安堵の笑みをもらした。
 自分を受け入れてくれた人達。優しい笑顔と、気遣う言葉。温かいベッドと静かな空間。クリスが心から望んでいた物を、無条件でくれた人達。裏から手を回して、ここにレ二も連れてこよう。そう思った矢先だった。
 愛した人達の恐怖と嫌悪に彩られた視線を感じ、クリスは困惑した。
 どうしたんだろう。いつもよりも視点がずいぶん高い。それにみんな、どうしてそんな目で自分を見るのか、理解できなかった。
 一歩踏み出すと、何か柔らかい物を踏んだ。
 足元には、血まみれの黒服の男達が、無言のまま倒れていた。息をしている様子のない姿に、クリスの脳裏に過去の記憶が鮮明に蘇った。
 今まで、忘れようとしてきた記憶。大きな物音と、悲鳴。そして横たわる、死体――。
 ふいに物音がした。反射的に振り返ると、そこには買い物かごを取り落としたステラが、恐怖の目でクリスを見ていた。
 その視線に、クリスは首を激しく振った。ステラにそんな顔をされるのは、辛い。

 違うの。この男達が私を連れていこうとしたから、セディにひどい事をしたから、だから……。

 そう言ったつもりだったが、声になったのは低い獣の咆哮だけだった。
 その声に誰よりも驚いたクリスに、ステラは震える手で足元に落ちていた石を投げつけた。
『あっ……あっち行きなさい、化け物! みんなに、ひどい事をしたら許さないからね!』
 その言葉に、クリスは改めて自分の体を見た。そこに見なれた姿はなく、革のような質感がグロテスクな、白い化け物の姿があった。

 そんな! 私は……。

 叫んだ声はやはり獣の咆哮で、自分に良くしてくれた子供達をなおいっそう怯えさせた。
 クリスはステラに近寄った。不器用な自分を理解(わか)ってくれたステラに、今度も分かって欲しかった。
 だが、ステラはなおいっそうの恐怖に顔を引きつらせると、また小石を掴んだ。
『嫌! 来ないで、化け物!』
 叫んだステラの声に反応するように、景色が白黒反転した。思わず辺りを見まわしたクリスは、異変が起きたのは景色だけではない事に気付いた。
いつのまにか子供達の姿は花組に変わり、今まで一度も見せた事のない、ひどく冷たい目でクリスを見ていた。
『化け物。人殺しの化け物』
 何よりも冷たいその声に、クリスは必死に頭を振った。

 違う! 私は人間だ! もう降魔は祓われて、本当に人間なんだ!

 そう叫んだつもりだったが、その声を裏切るように獣の咆哮が辺りに響いた。
『化け物』
『化け物』
『化け物』

 違う! 

 そう叫んで振り返ると、ステラがいたはずの場所には、レ二が氷のような目でこちらを見ていた。
『化け物』

 違う! 私の名は……。

「クリスさん!」
 白い線画の黒い世界に響いた声に、クリスは助けを求めた。

 

<2>

「クリスさん! 起きてください、クリスさん!」
 体を強く揺すられて、クリスは目を覚ました。
 にじんださくらの顔を確認すると、クリスは勢い良く上体を起こして、自分の手と体を改めた。
 そこにはいつもと変わらない体があり、クリスは心から安堵すると小柄を掴むかのように両手で空を掴んで胸元に抱え込んだ。
 べったりと寝汗をかいた顔を膝にうずめると、クリスは荒い息を整えようとした。喉を突いて出るはずの叫び声を、必死に膝頭に飲み込ませていた。
 そんなクリスの肩を掴んで、さくらは優しく語りかけた。
「大丈夫ですよ、クリスさん。怖い事なんて、何もありません。全ては夢なんですから」
「夢……」
 クリスは顔を上げた。そこにある心配そうな顔に大きく息を吐くと、額に手を当てた。べったりとした脂汗の感触に、クリスは苦笑いをこぼした。
「夢……。そうだな。あれは夢だ。夢なんだ」
「ええ、そうです。だから安心してください」
 力強く励ますさくらの言葉に、クリスは大きく息を吐くと、頬を濡らした涙を拭いた。
 一人膝を抱えるクリスの鼻孔を、やわらかいお茶の香りがくすぐった。顔を上げると、心配そうな顔の若菜がお茶を差し出していた。
「どうぞ、クリスさん。……怖い夢を、見たんですか?」
「ああ。……あ、りがとう」
 震える手を何とか叱咤して、クリスはお茶を受け取った。温かい液体が喉の奥に優しく染み渡り、まだ居残っていた体の震えを鎮めていった。
 ようやく落ちついたクリスに安堵の笑みを浮かべたさくらは、優しく声を掛けた。
「落ちつきましたか?」
「ああ。何とか、な。起こしてしまって済まなかった」
「そんな事はいいんです。朝が来たから、もう大丈夫ですよ」
 さくらの言葉に、クリスは障子を見た。そこから漏れ来る日差しは確かに朝の物だった。
「さあ、クリスさん。少し、お風呂で汗を洗い流していらっしゃいな。汗を流せば、気分も変わりますよ」
 若菜は手ぬぐいを差し出すと、にっこりと微笑んだ。悪夢の内容も、うなされた理由も何も聞かずに優しくしてくれる手に、クリスはやっと少し微笑んだ。
「ああ。……ありがとう」


 体にはりついた汗を流すと、心の奥に残っていた悪夢のかけらも洗い流されたようで、クリスはようやく朝を迎えた気になった。
 怖い夢だった。本当に怖い。自分が一番触れられたくない時代の夢をありありと思い出して、クリスは頭を振った。
 みんなのお陰で、精神的にようやくここまで復活したんだ。あんな夢、もう思い出すのも苦痛だ。
 湯殿からの帰り道、ふとどこからか軽快な音が聞こえてきた。
 トントンと規則正しい音が響き、ふと好奇心と懐かしさを覚えたクリスは、音の発生源へと無意識に足を進めた。
 音をなぞって辿りついた厨房では、若菜がネギを刻んでいた。緑色のすっと伸びたネギは、若菜が包丁を動かす度に同じ大きさに綺麗に揃えられていっていた。
 厨房に立つその後ろ姿に懐かしい気配を感じ、クリスは思わず語りかけた。
「……母さん?」
 クリスの声に気付いて振り返ると、若菜はにっこりと笑った。
「あら、クリスさんおはようございます。気分はいかがですか?」
「ああ。おかげさまでもうすっかりいいよ」
 そう言うと、クリスは若菜に近づくと、まな板の上のネギに驚いた。ネギはほぼ同じ大きさに切り揃えられ、まな板の上に緑の小花を咲かせていた。
「見事だな」
「そんな。慣れているだけですよ。……そうだ。良かったらクリスさんも手伝ってもらえないかしら? そこのカボチャを銀杏切りにしてくださる?」
「イチョウ……ギリ?」
 若菜はネギを切る手を休めて、脇のざるに洗って種を除いた四分の一のカボチャを取り出した。旬から外れたカボチャは小ぶりだったが、それでも味噌汁の具にするには十分すぎるほどの大きさはあった。
 丸くて小さいカボチャを左手に、四角くて大きい菜切り包丁を右手に握り締めてクリスは困惑した。日本語には多少の自信はあったが、イチョウギリという言葉はクリスの辞書にはない。不思議そうに首をかしげるクリスに、若菜は少し微笑んでカボチャの一部を指差した。
「まずは、こことここを切ってください。その後は……」
「ここか?」
 若菜の説明を最後まで聞かず、クリスは指示された場所に包丁を刺した。
 浅く沈んだ切っ先はカボチャの半分にも届かず、クリスは少しむきになって力を加えたが、力のかけ方がおかしいのか、刃は半分までは進んだものの、それ以降にっちもさっちもいかなくなった。
「あらあら」
 少しおかしそうに若菜は笑った。慣れない手つきで包丁を握り、少しむっとした様子のクリスは、いつも難なく野菜を切り揃える若菜の目に微笑ましく映った。
 クリスは包丁を持ち上げた。カボチャが食い込んだ包丁を目の高さまで持ち上げると、まじまじと見つめた。

 

<3>

 クリスが湯殿へ去った後、さくらは部屋を片付けて身支度を整えた。
 明け方、うなされる声に目を覚ましたさくらは、その尋常ではないうなされ方に驚いた。急いで起こしたのだが、なかなか目を覚まさなかった。途切れ途切れに聞こえる声は決して平和な単語ではなく、昔の夢を見ているのだろうと推測がついた。
「クリスさん、大丈夫でしょうか? ずっと帝劇にいられたら良かったんですけど……」
 さくらはため息をついた。クリスが帝劇にいられる時間は限られている。今は自分も支えてあげられるし、花組のみんなもクリスを傷つけるような事は絶対にしないだろう。だが、独逸は違うのだ。独逸には彼女の叔父がいて、過去の記憶に繋がる沢山の場所がある。またその場所へ戻り、同じ轍を踏むのではないか、というクリスの恐れが少しだけ理解できたような気がした。
 だが、いつまでもここで気をもんでいても仕方がない。帝劇に帰ったら、大神達にも相談しよう。それまでは自分に何ができるのかを考えてみる事にした。
 さくらは顔を上げると、客間を出て中庭に面した長い廊下に出た。
 その時。
 ふいに、だむ、と大きな音が神社に響き渡った。驚いて音のする方を見ると、朝早くから何やら忙しそうに働いていた数人の神主も、驚いて音のする方を見ていた。
「な、何の音だ!?」
「厨房の方からのようだが……」
 その会話に、さくらの背中に嫌な予感が走った。客間と湯殿の間には、確か厨房があった。厨房とクリスの相性が最悪なのは、おむすびの腕前が証明していた。だがしかし、若菜がそれを知るはずもない。
「まさか!」
 だむ、だむという怪音が響く中、さくらはただ厨房へと急いだ。


「クリスさん、何をしてるんですか!?」
 駆けこんできたさくらの声に、クリスは腕を振り上げたまま振り返った。まな板の上には無残な姿をさらしたカボチャが、大小様々な大きさにばらされていた。あっけにとられるその様子には頓着せず、クリスは笑顔であいさつをした。
「おはよう、さくら。今カボチャを切っていたんだ。だが、難しいな。目標地点に刃が落ちなくて。カボチャも丸くて動くしな。あんなに揃えて切れる若菜さんはすごいよ。尊敬に値する」
 そう言うと、包丁をまな板の上のカボチャに叩きつけた。
 だむ、だむという豪快な音を立てる毎にまな板の上のカボチャは大雑把に刻まれて、更に大小様々な大きさや形になっていった。その包丁の扱い方は包丁というよりも鉈に近く、半分刃に食い込ませたカボチャを振り上げては、まな板の上に散乱する他の破片の上に叩きつけていた。そうすると、まな板の上の破片も一緒に切れるという事を学んだらしい。
 クリスは半ば以上むきになって踊るカボチャと格闘していた。
「お前達動くな! ……そうか。動くなら動かないように押さえればいいんだ。だがそれは相当なリスクを伴うな。……仕方ない。目的の為には多少の犠牲は付き物だ」
 クリスは一層の決意を込めて、大きなカボチャの切れっ端に指を伸ばした左手を添えると、右手の包丁を振り上げ、振り下ろした。
 だむ、と大きな音を立てて、包丁の刃がカボチャを真っ二つに叩き割った。比較的正確に切れたカボチャに気を良くしたのか、左手の指先ぎりぎりの所を通過した刃をまた振り上げた。
 さくらはクリスの右手を握ると、そのあまりにも豪快で危険な包丁さばきを止めた。
「だめです! クリスさんそれはあんまりです! お母様も何を見てるんですか! 一緒に止めてください!」
「あ、そ、そうね」
 微笑んだままの状態で行動停止していた若菜は、ようやく我に返ってクリスの手から包丁を取ろうと手を伸ばした。
 カボチャと格闘する事に夢中になっていたクリスは、二人掛かりの制止に苛立ったように抵抗した。
「止めるな、さくら! まだカボチャは全部切れてはいない!」
「切り方が違うんです! 包丁はそんなに振り上げなくても切れます!」
「だが最初に切った時は切れなかったんだ。切れない物を切るには、位置エネルギーを加えるのが効果的だ」
「そんな事をしなくても、普通に力を加えれば切れます!」
「切れなかったからやってるんじゃないか!」
 もみ合っているうちに、クリスの手から包丁が滑り落ち、三人の鼻先をかすめて落下した。切っ先を下にした菜切り包丁は、重力に従って位置エネルギーを運動エネルギーに変えながら厨房の床に突き刺さった。
 三人の間に沈黙が流れた。やがて若菜が包丁を床から引きぬくと、若干刃こぼれしたそれを目の高さまで上げてにっこりした。
「クリスさん。ここはいいですから、お茶碗の方を準備してくださいますか?」
「あ、ああ」
「あ、あたしも手伝いますね、クリスさん」
 普段温厚な若菜が浮かべた怒りのオーラを纏った微笑みに、クリスとさくらはそそくさと厨房を立ち去った。

 

<4>

「今日の味噌汁は豪快だね」
 お椀の中から小さな六面体のカボチャのかけらをつまみあげて、桂はしみじみと言った。
 朝食の席には鉄馬と翠は姿を現さず、食卓には真宮寺家の女性のみが揃っていた。
 その後、さくらから口頭で包丁の正しい扱い方を聞いたクリスは、少し恥ずかしそうに三角形のカボチャを口に運んだ。
 結局若菜はカボチャを切り直す事はしなかった。一つとして同じ形の物はないカボチャは味噌汁にそのまま入れられ、見事に大きさの揃った玉ねぎと一緒に花を添えていた。
「包丁なんて使ったのは初めてなんだ。厨房には一切立ち入らなかったし、その必要もなかったし……」
 言い訳めいた言葉の最後は、ごにょごにょとつぶやくように消えた。
「クリスさんは、お母様からお料理を習わなかったんですか?」
 何気ない若菜の問いに、クリスは苦笑いをこぼした。
「何回か機会はあったんだがな。……自慢じゃないが、私は集中力には自信があるんだ。一度シチューを温めながら本を読んでいたら、読書の方に夢中になって。気がついたらシチューは炭になっているわ黒い煙が立ち昇っているわ。しかも布巾に引火して小火(ぼや)騒ぎになってな。リーリエさんが気付かなかったら家が全焼してたかもな」
 ははは、と乾いた笑い声を上げるクリスに、一同思わず味噌汁椀をまじまじと見た。包丁の刃は欠け、まな板にも傷がついていたが、その程度で済んだのはひょっとしたら幸運な事なのかも知れない。
「叱られませんでした?」
「いや、泣かれた。無事で良かったって」
 クリスはシニカルな笑みを浮かべると、五角形のカボチャの切れ端をつまみあげた。
「代わりに母さん達がこっぴどく叱られた。子供の監督不行き届きだと言って、隣人や消防の人から散々言われていたのを聞いた」
 いびつな五角形のカボチャを口に運び、お茶を一口飲んだ。食べ合わせが良くなかったのか少し眉をひそめると、軽くため息をついた。
「それ以来、私は厨房に立ち入らなくなった。母さんも、敢えて無理にやらせよう、とは思わなかったみたいだし。実際、料理のスキルなんて役に立った試しがない。……それにしても、切り直せば良かったのに。こんな不揃いで食べにくい形のかぼちゃなんて」
 まあ、と言うと、若菜は微笑んだ。
「せっかくクリスさんが切ってくださったんですもの。捨てるなんて事はしません。それに、いいじゃないですか。不揃いでばらばらでも、個性的で。味噌汁に入れる野菜の切り方に、決まり事なんてありませんよ。……まあ、包丁の使い方には決まり事はありますけど」
「そうかなあ……」
 不安げな声を上げると、クリスは箸を置いた。
 若菜はそれ以上その話題には触れず、さっき引っかかった言葉を質問した。
「クリスさんは先ほど母さん「達」っておっしゃいましたけど、お母様が二人いらっしゃるんですか?」
 若菜の問いに、クリスはぱっと顔を輝かせて頷いた。
「ああ。私には両親が二人ずついるんだ。正確には両親と父方の叔母夫婦だが、私は本当の両親だと思っているし、その二人の娘は妹だと思っている。……いろいろ、本当にいろいろあったけど、和解できて嬉しい。両親は四人とも亡くなってしまったけど、妹は生きて、今帝都にいる。いつか、紹介できたらいいな」
 にこにこと嬉しそうな顔のクリスに微笑みかけて、若菜は頷いた。妹、というのはさくらから話を聞いたレ二という少女の事だろう。またもや地雷を踏んでしまったかと思ったが、この様子だと本当に和解しているようだ。さくらの仲間としてではなく、クリスの妹として一度会ってみたい。若菜はそう思った。
「ぜひ、紹介してくださいな」
 微笑む若菜に微笑みを返して、クリスは頷いた。
 こうして、真宮寺家の食卓は幕を降ろしたのだった。

 

<5>

 朝食の後、桂はクリスを改めて呼んだ。何事かと思い思わず正座して待つクリスに、桂は小柄を差し出した。
「桂さん、これは……」
 昨日還したはずの物を差し出されて困惑するクリスに、桂は小声で囁いた。それを聞き取った若菜は、軽く頷くとクリスを見た。
「小柄の霊力は今、失われています。刃が欠けた訳ではありませんが、このままにしておく訳にも参りません。小柄の霊力を復活させるために、力をお貸し願いますか、とお義母さまは申しております」
「小柄の霊力を? そんな事ができるのか?」
 思わず身を乗り出したクリスに、桂は頷いた。また何事か言うと、若菜はクリスに向かって言った。
「できます。クリスさんの霊力を回復する事はできませんが、小柄の霊力が戻れば、その霊力を借りる事ができるでしょう、とお義母さまは申しております」
「おばあ様!」
 さくらは明るい声を上げた。もしもそれが叶うのならば、クリスの悩みにも解決の糸口が与えられる。それも最高の形で。
 それを一番望んでいたはずのクリスはしかし、少し考えると首を横に振った。
「クリスさん? どうしてですか? あんなに霊力を欲しがっていたじゃないですか」
「お申し出は在り難いですが、それは、やめた方がいい」
「何故ですか?」
「私は、小柄の主として……真宮寺の人間としてふさわしくない。私がそれを持っていたら、この先きっと迷惑を掛ける。今回お返ししに来たのは、その意味もあります。だから、せっかくのお申し出ですがお受けできません」
「迷惑だなんて、そんな……」
「怖いのですか?」
 若菜の問いにクリスは軽く目を見開くと、静かに頷いた。
「はい。私は、自分がどんな人間かよく知っています。それに、霊子力学はもうやめる事に決めました。霊子力学をしないのであれば、霊力は必要ありません。小柄は、真宮寺御一門の誰かに受け継がせてください」
「それで、クリスさんはこの先納得のいく人生を歩めるのですか?」
 厳しい口調で若菜が言った。少し怒ったようなその視線に困ったように微笑むと、クリスは軽くため息をついた。
「分かりません。ですが、それは霊子力学をやろうがやるまいが同じです。同じでしたら、真宮寺家に迷惑を掛けたくはないのです」
「掛けてください、迷惑」
 隣で聞いていたさくらは、きっぱりと言った。さくらはクリスの目を覗き込むと、強い意思で言った。
「水臭いですよ、クリスさん。あたし達は、そんなに頼りになりませんか? クリスさんに困った事があったら、どんどん頼ってください。一人で悩んで一人で泣いているクリスさんを見るのは、あたしが嫌なんです。どうか、クリスさんの荷物を、あたしにも分けてください」
 にっこり笑ったさくらの顔を、クリスは照れたような感激したような、何とも言えない顔で見返した。
「ありがとう、さくら。でも……」
 そんなやりとりを見ていた桂は、また何か若菜に囁いた。
「さくらさんの言う通りです。迷惑かどうかは、私達が決める事です。そして、クリスさんに小柄の主たる資格があるかどうか、見極めるのは小柄自身です。あなたが決める事ではありません、とお義母さまは申しております」
「小柄が?」
 若菜は頷いた。
「小柄の霊力を復活させるためには、クリスさんに試練を受けていただかなければなりません。それは、辛く厳しいものになるでしょう。ですが、それを乗り越えられた時、胸を張って小柄の主を名乗れるはずです。もしも駄目でしたら、その時は小柄は真宮寺一門の誰かに受け継がせる事になります。クリスさん。可能性がわずかでもあるのでしたら、それに賭けてみてはいかがでしょうか?」
 クリスは三人を見た。しばらく迷ったようだったが、やがてその視線に頷いた。
「……分かりました。その試練、受けてみます。どうぞよろしくお願いします」
 頭を下げるクリスに、桂は力強く頷いた。

 

<6>

「なあ、さくら。「試練」ってどんな事をするのか、知っているか?」
 森の中の小道を歩きながら、クリスはさくらに問いかけた。
 昨夜から鉄馬や翠、神社の者たちが慌しく動き回っていた。
彼らが小柄の霊力復活に向けて準備をしている間、さくらはクリスを連れて墓所へと行く事にした。「行く資格がない」と言って駄々をこねるクリスを半ば強引に引っ張ってここまで来たのだ。
 引っ張られたクリスにしてみれば、棚からぼた餅ひょうたんから駒、という心境で、こんなに良くしてもらっていいのかという妙な疑問が頭をもたげたらしいが、敢えて何も聞かなかった。
「あたしも、一度受けた事があります。荒鷹の刃を欠けさせてしまった時に」
「どうだった?」
 さくらは少し考えた。
「一言で言えば……心を試されます」
「心?」
「はい。己の心と向かい合い、己の心を見せるのです。……着きましたよ、クリスさん。ここが真宮寺家の墓所です」
 ふと顔を上げたクリスは、木漏れ日の中に佇む神聖な墓所の気配に息を飲んだ。
 久しぶりに立ち入ったその墓所を前に、さくらの胸に苦い物が去来した。
 七年前、降魔戦争で心身ともに深手を負ったさくらの父は、この墓所で最期を迎えた。さくらはまだ小さかったが、この宮に入ったらもう二度と父には会えない、という事は理解していた。
 大好きな父が姿を消し、鈴の音が聞こえなくなって、初めて「人の死」というものを実感したのがこの墓所だった。あれから何度も墓参りに来たが、この胸に染み渡る氷のような感覚は、何度味わっても嫌なものだった。
 久しぶりに味わう胸の痛みに思わず黙り込んださくらの耳に、言葉が響いた。
「すごいな……」
 ぽつりともらしたその言葉に、しばらく感傷に浸っていたさくらはクリスを見た。
クリスは目を輝かせていた。
まるで新しいおもちゃをもらった子供のように目を輝かせると、墓の周りをくるりと一周した。時々ふと足を止めては手をかざしたりまじまじと見つめたりしながら、嬉々として歩いていた。
「ク、クリスさん?」
 唖然として問いかけるさくらの声を無視して、クリスは墓石から少し離れると外観を見渡した。
「ここは特別に結界を張った場所なんだ。私の残り少ない霊力でも分かるよ。要所要所に配置された石を媒体にして、墓の一つ一つを取り囲むように霊力線が張り巡らされている。ああ、もっと霊力があったらもっとはっきりと分かるんだが。惜しいな。そう、ここは立地条件もいいんだ。その証拠に西側に……」
「クリスさん!」
 大声で呼ばれて、クリスはようやく我に返ったように振り返った。呆れたようなさくらの顔をばつの悪そうに見て、クリスは頭を掻いた。
「ああ、済まない。つい己の欲求に正直になってしまった」
「……そんなに、楽しい所でしたか?」
「ああ、まあ、な。楽しいというか、何というか」
 クリスは軽くため息をつくと、改めて墓所の見た。中央にある黒い墓石に刻まれた墓碑銘に、クリスは己を恥じてうつむいた。
 そこには、「真宮寺一馬之墓」と刻まれていた。
 クリスにとっては会った事のない伯父だったが、さくらの唯一の父で、母の唯一の兄である人物の墓前でなんという事をしてしまったのだろうか。
 急にうなだれてしまったクリスに、さくらは慌てて手を振った。
「ど、どうしたんですか? 急に」
「済まない。私はまた、そこにある意味を考えずに己の欲求のまま動いてしまった」
「いいんですよ。ちゃんと謝ってくれたじゃないですか」
 さくらはそう言うと、手に持っていた桶の水で墓石を清めた。墓石はほとんど清める必要がないくらい綺麗だったが、さくらは手を抜かずに掃き清め、洗い清めた。
 まるで亡き父と対話しているようなさくらを、少し離れた場所に佇んだクリスはただ見つめていた。
 やがて清め終わり、さくらは振り返った。何やら複雑な顔のままずっと立ち尽くすクリスに笑いかけ、その手を取った。
「さあ、クリスさん。お父様に挨拶してやってください」
「あ、ああ……」
 そう答えたが、クリスはその場を動こうとはしなかった。まるで墓所と自分の立っている場所の間に深い谷でもあるかのようにためらうクリスに、さくらは首を傾げた。
「クリスさん?」
「やっぱり……私は、ここに来てはいけなかったのかな?」
「そんな事……」
「だって、私はここを墓地だと知っていた。さくらの大切な人が眠る場所だって知っていたのに、私にとってそうじゃないという理由だけで、私はここを「面白い霊力結界の張り方をした場所」としか考えなかった。私が母の墓前でそんな事をされたら、ひっぱたいてやるのに。そういう「人の悲しみ」は誰だって同じなのに。……試練、きっと無理だ。私はしょせん、そういう人間でしかないんだから」
 どーんと落ち込んでしまったクリスに、さくらは微笑んだ。最初はどうしようかと思ってしまったが、クリスはそれを自覚した。そして本当に済まないと思ってくれている。それだけで良かった。
 さくらは手荷物の中から白い包み紙を取り出した。クリスの髪が入った包みを渡すと、うつむいたままのクリスに語りかけた。
「クリスさんは優しい人です。今だって、きちんと自分で気付いて謝ってくれたじゃないですか。本当に冷たい人は、自分が傷つけた事にさえ気付かないものです。あたしは、そんなクリスさんが大好きです。もっと自分に自信を持ってください」
「さくら……」
「さあ、クリスさん」
 促すさくらにぎこちなく頷いて、クリスは墓前に立った。

 

<7>

 墓参りから帰る間も、試練のために身を清める間も、クリスは終始無言だった。
 長い階段の中腹、何の変哲もない石灯篭の前に立つクリスに、さくらはそっと声を掛けた。
「クリスさん、大丈夫ですか? 顔色があまり良くありませんよ」
 問いかける声に振り返り、クリスはぎこちなく笑った。
「ああ、大丈夫。大丈夫だが……試練、失望させる結果に終わるかも知れない。そうなったら、ごめんな?」
 クリスの二の腕を、さくらは勇気付けるように掴んだ。意思の強い、はっきりとした目で見ると、きっぱりと言った。
「クリスさん。……荒鷹だって、人に向けて切りつければ凶器になります。でも、あたしはこの力をみんなの笑顔を守るために使います。どんな力も、使い方次第なんじゃないでしょうか?」
「さくらの言う通りじゃ」
 案外力強い声が響いた。桂は一歩前へ出ると、クリスを見上げた。
「クリスさん。何も難しく考える事はない。お前さんはお前さんであればいい」
「桂さん、さくら……。ありがとう。できる限り頑張ってみるよ」
 クリスは顔を上げると、さっきよりも明るい顔でそっと石灯籠に触れた。
 石灯籠は重い音を立ててずれると、地下へと続く石の階段を現した。かすかにかび臭い空気に少しだけ顔をしかめると、クリスは振り返らずに石の階段に足を進めた。
 だんだん小さくなる背中を見送り、桂はぽつりとつぶやいた。
「この試練……。かつてない辛いものになるやも知れん。あの子が無事、乗り越えられれば良いが……」
 その言葉を聞き取ったさくらは、少し微笑んだ。
「大丈夫です。クリスさんはきっと乗り越えられます。あたしはそう信じています」
「そうじゃな。私らは信じて祈る事しかできん」
 やがて石灯籠は音を立てて閉まった。それを見送る二人の許へ、権爺が意外な人物の来訪を告げた。

 

<8>

 長い階段を最下層まで降り、それに続く回廊を、クリスはただ一人歩いていた。
 完全な闇を覚悟していたクリスだが、一体何が光っているのかぼんやりとした青白い光が回廊全体を照らし出し、足元を見失うという事はなかった。
 やがて、広い空間に行き当たった。神社の本堂ほどの広さの空間の片隅には闇がわだかまり、実際よりも広く感じられた。
 そこへ入ると、後ろで大きな音を立てて扉が閉まった。思わず振り返った時にはすでに八割以上が閉じていて、クリスは軽くため息をつくと改めて広間を見た。どうやらここが終着点らしい。
 何が起こるのか注意深く神経を研ぎ澄ましていると、やがて暗い中にぼんやりと人影が浮かび上がった。青白い鬼火のような光はやがて明確な輪郭を浮かび上がらせ、クリスは思わず動揺した。
 そこに現れた人影は、何でもないような顔をしてファイルに目を落としていた。
『……B―二三一、一〇二五(ヒトマルニイゴ)精神錯乱のため拘束。C―二三二、C―二〇三、一〇三七(ヒトマルサンナナ)状態黒。案外保たなかったわね』
「お前は!」
 クリスは声を張り上げた。張り上げたつもりだったが、喉の奥がからからにひからびてかすれた声しか出てこなかった。
 かつてのクリスだった。白衣に身を包み、ファイルから目を逸らさずに一人で考え事をする姿が、暗い石造りの広い部屋の中央で鮮やかに再現されていた。
 幻影の『クリス』は少し考え込むと、独り言のようにぶつぶつ言いながら手もとの書類に数値を書き込んだ。
『……うん。次はPKDを十五分間で四.七五まで上昇。霊子圧が二五〇〇を突破するまでの時間を計測してみよう』
「やめろ! そんな事をしたら、間違いなく……!」
 クリスは『クリス』の腕を掴んだ。幻影の『クリス』はまるで実体があるかのような手応えを返した。
 『クリス』は振り返った。肩のラインで切り揃えられた金の髪が揺れて、不思議そうにこちらを見返した。
『……何故止めるの?』
「やめろ! そんな事をしたら、みんな死んでしまう! 今すぐ実験を中止するんだ!」
 『クリス』はきょとんとすると、リスのように首を傾げた。まるで蚊を殺そうとした手を止められたのが理解できない、というような表情をしていたが、やがて納得したように頷いた。
『死ぬ……? ああ。状態黒の事ね。だって仕方ないじゃない? 試験をするにも搭乗するにも、こと霊子機関開発には霊力者が不可欠。なのにその霊力者が少ないんだもの。少ないのなら、作ればいい。そう思わない?』
 クリスは何も言えなかった。何も言えず、全身に走った怒りとも取れる憎しみに、ただ手を握った。
 『クリス』は小さく肩をすくめると、少しだけ生意気な口調で言った。
『私だって霊子学の全てを理解している訳じゃないわ。だから実験に失敗は付き物よ。失敗を重ねて、成功が導き出される。それがこの世の真理じゃない? それにこの結果を今日中に叔父さんへ報告しなければならないの。邪魔しないで』
 その罪悪感のなさに、クリスは背筋に嫌悪感が走った。
 だが、それは確かに自分自身。好奇心に身を委ね、辛い事から目を逸らすために研究を続けていたかつての自分だった。
「やめろと言っている!」
 怒鳴りつけるクリスに、幻は苛立ったようにまくしたてた。
『邪魔しないで、って言ったのが聞こえなかった?』
 『クリス』は指を鳴らすと、奥から数人の男が出てきてクリスの両脇を抱えた。
 顔も分からない、人の形をした黒い影に両脇を掴まれて、少女が少しずつ遠くなっていった。少女は白い人影に命令を出すと、ちらりとこちらを見た。
 その目に浮かんだ一瞬の寂しげな色を最後に、ふいに視界が暗転した。

 やがて鬼火は再び形を作り、もう一度少女の姿をそこに映し出した。
 その姿はとても健康的な少女のものとは言いがたかった。その体からは女性特有の丸みは排除され、背中まで伸びた髪は透き通るような金色をしていた。白衣に包まれたそのラインはとても細く、頼りなく見えた。
 何がおかしいのか、少女は笑っていた。楽しくて笑っているのではない。何かを容赦なくあざ笑っているのだ。
『あなた、そんな事も分からないの?』
 『クリス』はようやく笑いを納めると、邪悪な目をしてこちらを睨んだ。
『医学と違って、霊子学はラットから採取したデータじゃ役に立たないの。あなたは自分の霊力がネズミと同じだとでもいうの? もしもそうなら、ぜひデータを取らせて頂戴。大変おもしろい事例だから』
 クリスは何も言えなかった。何も言えずにただ手を握り締めて、少女の暴言を聞いていた。
 そんなクリスにあきれたのか、座っていた椅子から立ち上がるとクリスの方へと近寄った。
『人は誰でも死ぬの。どんなに元気で、明るく笑ってても、次の瞬間には真っ赤な肉隗になるの。それが遅いか、早いかの差しかないわ。……どうせ死ぬのなら、せいぜい役に立ってから死になさい。『緑の薔薇(グリューネローゼ)』の用意を。濃度は一〇〇から開始して一五〇まで上昇。いい結果が出れば、叔父さんも喜んでくれるわ。初実験なんだから、くれぐれも失敗のないようにね』
 その酷薄な笑みに、クリスは思わず呆然となった。
 自分はこんなにも病んでいたのか? この少女は人の命を何とも思っていない。数字の上でしか、人を判断しないのだ。
「レ二……。レ二は、どうするんだ?」
 クリスは絞り出すような声で聞いた。その問いに、『クリス』は弾かれたように顔を上げた。
『レ二はこの実験に関わらせないで!』
 今までにないきっぱりとした声で、『クリス』は叫んだ。その目からは酷薄な色は薄れ、少しは人間らしい感情を浮かべていた。
 必死なのだ。
『レ二は潜在霊力が高い事が今までの試験で実証済みよ。それなのにこれ以上霊力を上げるために危ない橋を渡る事はないわ。レ二の存在は貴重なの。これは命令よ、レ二を関わらせないで!』
 一瞬やってきた感情の波はすぐに去った。周囲の驚いたような視線に表情を納めると、『クリス』は無表情のまま命じた。
『カエデ。潜在霊力レベルB以下のサンプルを第二実験室へ。一四〇〇(ヒトヨンマルマル)より試験を開始します』
 くるりと向けた冷たい背中を見据えて、クリスは手を握り締めた。
 止めなければ。今、最大の罪に向かって歩き出そうとしている。あの実験の結果、何人の子供達が犠牲になった事か。考えるだけで背筋が凍った。
 何よりも許せないのは、自分はこの試験の危険性を十分に理解している。理解しながらも、実行に移そうとしているのだ。
 これ以上、生かしておいてはいけない。この実験を止めるには、もうただ一つしか方法はない。実験の詳細なデータを握るのは、この子供だけなのだから。
 握り締めた手の中に、ふいに硬い手応えを感じた。クリスは直感的にそれが何かを悟った。

 抜き身の小柄だ。

 手の中に感じた小柄。例え霊力を宿さなくても、その切れ味は保証済みだ。これを使えば間違いなく過ちを正す事ができる。今ならまだ間に合う。止めなければ。私さえいなければ、大勢の子供達が命を失う事はないのだ。やめるんだ。やめさせるんだ。私の手で!
クリスは逆手に持ったそれを振り上げると、今まさに指示を出そうとしている『クリス』の背中に狙いを定めた。
その時。

『いけません!』

 手首に握り締める感触を感じ、今まさに振り下ろそうとした手を止めた。
 聞き覚えのある声がした。見ると、淡い桃色の人影がさくらの声で、クリスの右手を掴んでいた。
「止めるな! 今あれを止めなければ、私は……!」
 その声に弾かれたように影は消え、クリスと『クリス』の間に新しい人影が割って入った。

『思い出して、みんなを!』

 そう言うと、青白い人影は消えた。
 レ二のように見えた人影が残したその言葉は、荒れたクリスの心の奥に、乱反射した光のような走馬灯を走らせた。
 帝都に来て出会った沢山の人々。いろいろな出来事。心に輝く思い出達を作れたのは、今までの自分があったからだ。だから全てを許すと言ってくれた被害者を、クリスは思い出した。
 瞳の奥に浮かんだレ二の笑顔。もう二度と笑い合う事はないと思っていた。許される日は永遠に来ないと思っていたのに、きみは笑っていた。許してくれた。

『クリスさん。……荒鷹だって、人に向けて切りつければ凶器になります。でも、あたしはこの力をみんなの笑顔を守るために使います。どんな力も、使い方次第なんじゃないでしょうか?』

 ここに来る直前のさくらの言葉が、心に鮮明に響いた。

 ああ。そうだな。
 その通りかも知れない。

 クリスはゆっくりと握った手を開いた。

 

<9>

「クリス」
 小柄を握っていたその手の平を、呼ぶ声に振り返った『クリス』の頬へと振り下ろした。
 ぱん、と盛大な音がした。静かな岩室の隅々まで大きな音が響き、『クリス』はよろめいて座りこんだ。
「……人をひっぱたくと手の平も痛いな」
 右手をぷらぷらさせるクリスを、『クリス』は意外そうな、傷ついた目で見た。
 これは、あの実験の直後。満足のいく結果が得られた事をカエデに報告しに行った時だろう。そういえばこの時もかえでさんに叩かれた。クリスは少し含み笑いをこぼすと、座りこんだ少女を見た。
「やめろ、と言っても聞かないだろうな。お前は私だから」
『何をするの!』
「ひっぱたいたんだよ」
 座りこんだままこちらを見上げる『クリス』は、本当に意外そうな目をしていた。この時自分は、カエデも叔父と同じように褒めてくれるものとばかり思っていた。
「私はお前を許さない。絶対に。あの時、お前だって気付いていただろう? そんな事をすればどうなるか。叔父の言いなりになるな! 自分で考えて行動するんだ!」
 少女は叩かれた頬を手で押さえると、傷ついた目でクリスを見て叫んだ。
『あなたまで私を否定するの!? 嫌い、嫌い嫌い、大嫌い! あなたなんか……』
 それに続く言葉を、『クリス』は口を押さえて飲み込んだ。
 少女は目に大粒の涙を浮かべると、試験の詳細な資料の載ったファイルを抱いたまま、振り返って部屋を飛び出した。周りで何人かの大人が止めようとしたが、それらを器用に避けて大通りへと駆け出した。
 あの子はあのまま、土手で転ぶまで走り続けるだろう。とすると、次に出てくるシーンにも想像がつき、クリスは切ないため息をついた。
 背後に現れた鬼火の気配に振り返ると、案の定、そこには抜け殻のような姿があった。
 小柄を握り締めたまま、ただ座り込んでいる自分。ステラに言われた言葉がショックで、変化した姿を受け入れられなくて、全てを受け止められずにいた自分。
 だが、そんな時でも自分は一人ではなかった。
 幻影でも分かる。彼女が握り締めた小柄からは優しい霊力が溢れ出し、その力が『クリス』の精神の均衡をぎりぎりの所で保っていた。
 テラスで呼び出すまでは、本当に一度も見た事のなかった母さんの霊。だけど、その愛は自分をこんなにも守ってくれていたんだ。
 思い返せば、日本で出会った人達はみんな温かかった。朝切ったカボチャのように、不揃いで、ばらばらで、どうしようもない自分だけど、それでもいいと言ってくれた人達。そんな風に言ってくれた人は独逸にもたくさんいた事を、クリスは思い出した。
 そうでなければ、この八年間を乗り越える事なんて到底できなかったのだから。
 やがて『クリス』はゆらりと立ち上がると、ふらふらと歩き始めた。
「……どこへ行くんだ?」
『研究室。……試験の結果報告書と資料、あそこで燃やしちゃったから、また作らないと、叔父さんが……』
 クリスは歩き出したクリスの前へ立った。『クリス』は顔を上げると、涙で濡れた目でこちらを見上げた。
「お前は、何故研究を続けるんだ?」
 クリスの問いに、『クリス』は静かに答えた。その声に以前のような覇気はなく、ただ淡々と言葉を紡いだ。
『実験が成功すると、叔父さんが頭をなでてくれるの。『クリスはいい子だ』って言って、笑ってくれるの。実験が成功した日は、私の事を『降魔憑き』って言わないの。優しく、してくれるの……』
 クリスは少女を抱きしめた。意外そうに身じろぎする少女を構わず抱きしめると、優しく囁いた。
「お前の寂しさは分かる。だけど、叔父はお前の事を愛してなんかいない。金の卵を産むガチョウくらいにしか思っていない。いずれお前はそれを思い知る事になる」
 少女はクリスに目頭を預けると、静かに泣いた。泣き崩れる少女の涙を、クリスはただ受けとめていた。
 やがて腕の中の少女が消え、少し離れた場所にまた姿が浮かび上がった。ばっさりと切られたその髪は、その後一度もはさみを入れられる事はないだろう。痩せたその手には別のファイルが握られ、以前よりもはっきりとした光を浮かばせるその目には、確かな意思があった。
『ステラ。霊力反応融合体の共鳴状況の試験をする。第三研究室の用意を』
 ヴァックストゥームが終わり、組織が解体された後も、同じように研究を続ける自分の姿がそこにあった。人体実験に手を出す事こそなくなったが、目的の為には手段を選ばない、という姿勢は変わる事はなかった。
 ただ一つ違っていたのは、クリスの傍にはステラがーーたった一ヶ月間滞在した孤児院で出会った少女が、彼女の助手として研究や私生活におけるサポートをしてくれていた事だった。
 リヒテンクライト孤児院の院長先生に「面倒を見てやってくれ」と言われたからだ、と言って笑うステラの笑顔が、改めて思い出された。
「そして、お前は同じ事を繰り返すんだ。自分の犯した過ちに気付きながらも、結局霊子力学をやめる事なんてできなかった。どうせもう引き返す事のできない道ならば、最後まで行ってやろう。そうだな?」
 確認するように言われた『クリス』は、弾かれたように顔を上げた。クリスは、そんな子供の目の奥をじっと見つめながら続けた。
「お前がしてきた事は、許される事じゃない。お前は自分の為に、沢山の命をもてあそんできた。誰が許したって、私はおお前を許さない。許す事なんて、できないんだ。だから」
 クリスは少し微笑むと、ゆっくりと右手を差し出した。
「一緒に行こう。お前の技術は沢山の人達を不幸にした。沢山の涙を生み出す呪われた技術だ。だけど、そんな技術を使ったアイゼンクライトで、レ二や織姫は立派に帝都を守っている。浅草で出会った沢山の笑顔を守っているんだ。私の技術でみんなを笑顔にする事ができたなら、流された涙の分よりもっと多くの人を笑顔にする事ができるのならば、いつかは、自分を許せるんじゃないか。そのために私は研究を続けたい。そのために、お前の力が必要なんだ」
 少女は困惑したようにクリスを見つめるだけだった。
「お前の技術を発展・進化させて、魔の侵攻から人々を守る手伝いをして、やがて年老いて、母さん達の待つあの光の中へと一緒に行こう。その時、私は初めてお前を許す。お前が冒した過ちも、ちゃんと意味があるんだって、胸を張って言えるんだ。だから、一緒に行こう」
 少女はクリスを複雑な目で見上げると、その手をそっと取った。
 ふいに、岩室の壁が音を立てて開き、外の光が指し込んできた。
 眩しい光に目を細めると、手の中の人影が光に砕けるように消えていった。
 手の中に感じていた感触を確かめるように手を握ると、まぶしい光に目を閉じた。
「いつかきっと、一緒にいこう。光の中へ」
 閉じたまぶたの奥に残った少女の残像が、一瞬だけ微笑んだような気がした。

 岩室の外へ出ると、大勢の人達が待っていた。いつの間に移動したのか、桂と若菜、鉄馬や翠、そして真宮寺一門の人々が真宮寺本家側の出口で待っていた。
「真宮寺の試練、よくぞ乗り越えましたと、お義母さまは申しております」
 若菜の通訳に桂は頷くと、手に持っていた小柄をクリスに手渡した。
「さあ、クリスさん。お受け取りください」
 若菜の言葉に頷いて、クリスは小柄を受け取った。手の中に落とし込んだその輝きや感触は、それまでとは似て非なるものだった。鞘や柄の色や形は一切変わっていないのに、小柄は以前とは比べものにならないくらいの輝きを放ち、強い霊力をその身に宿していた。
「ありがとうございます。これからは、この小柄に恥じない自分でありたいと思います」
 その言葉を聞いた若菜と桂はくるりと振り返り、そこに居並んだ一門の者を見渡した。
 桂は何事か口の中でつぶやくと、若菜はそれを通訳した。
「これで、クリスさんは正式に真宮寺の者と認められました。誰にも否やは唱えさせませんと、お義母さまは申しております」
 若菜は厳蔵を見た。厳蔵はばつの悪そうな顔をしていたが、若菜の視線に押されたように頷いた。
 桂はそれを確認すると、また何かつぶやいた。
「クリスさん。あなたが日本に長く居られない事は知っています。あなたは真宮寺の者ですが、同時にシュトックハウゼン家の当主でもあります。小柄はどうか、あなたの一族で受け継がせてくださいと、お義母さまは申しております」
 この発言にはさすがに一門の者の驚愕の声が上がったが、若菜はきっぱりと言い切った。
「どこに行こうと、どんな姓を名乗ろうと、クリスさんは確かにお義母様の孫で、一馬さんの妹の娘で、さくらの従姉妹です。もちろん、私のかわいい姪っ子でもあります」
 若菜の言葉に、一門の者が黙ってクリスを見た。クリスはその視線を堂々と受けとめていた。桂はまた口の中で何事かつぶやくと、若菜がそれを通訳した。
「今までも、一門の皆様のお力添えのお陰で、小柄なしでもこの日本を守ってこられました。そしてこれからも、我らが結束を失わない限りそうあり続ける事はできるはずだと、お義母さまは申しております」
 その言葉に、一門の者は、深深と頭を下げた。

 

<10>

 真宮寺本家へ帰りついたクリスを、意外な人物が待っていた。
 レ二と大神が、さくらと共に本家の玄関先で微笑みながら立っていた。
「レ二! それに大神少尉も! どうして、ここに……」
 心底驚いたクリスは、急いで二人に近寄った。
 元気そうなクリスの顔に安堵の笑みを浮かべて、大神は答えた。
「クリスくんの事が心配だから、仙台へ助太刀に行きたいってレ二が言ってね。俺はその付き添いだよ」
「助太刀? 何の?」
 クリスの質問には答えず、レ二は桂の前へ歩み寄ると、一礼した。
「初めまして。ボクはレ二・ミルヒシュトラーセ。クリスの妹です」
「レ二……」
 クリスは驚いてレ二を見た。その場にいる全員が見守る中、レ二は真顔で桂の目を見ていた。
 しばらく見詰め合っていた二人だが、ふと微笑むと口を開いた。
「クリスの事を認めてくれるように助太刀しに来たけど、その必要はなさそうだね」
 桂は頷くと、口の中でつぶやいた。
「お二人ともよくいらっしゃいました。歓迎しますとお義母さまは申しております」
「ありがとうございます」
 奇妙な友情めいたものが芽生えたらしい二人の間に、クリスが割って入った。
「レ二。お前そんな事のために仙台まで来たのか? もしも私が今朝帰っていたら、完全な行き違いじゃないか」
 レ二はくるりと振り返ると、少し怒ったような目でクリスを見た。
「そんな事はどうだっていいんだ。ボクがそうしたかっただけなんだから」
 レ二は少しすねたような口調になった。クリスが一度も帝劇に戻らないまま仙台へ行った事を聞かされて、レ二はひどく落ちつかなかった。また何か見落としたのではないかと言う背中を大神が押してくれて、米田支配人の許可を得てここまで来たのだ。
「クリスの悩み、さくらから聞いた。……クリスが何か悩んでいた事は知っていた。その原因が真宮寺本家にあるんだったら、ボクにも何かできるんじゃないかと思ったんだ」
「レ二……」
「今までは仕方がないと思う。隊長からクリスの悩みを聞いたのも許容範囲内だ。だけど、今回は違う。何度も機会はあった。クリスがさつきさんの写真を一枚もらいたいって言った時だって、おかしいと思った。だけど、ボクはクリスの悩みを聞き出せなかった。『心配性だ』と言って笑う声に、だまされてしまったんだ」
 レ二はきっぱりとクリスを見ると、はっきりと言った。
「また何もできないまま、何もさせてもらえないまま、どうしようもなくなってから聞かされるのは嫌なんだ! ボクの事も、頼ってほしい。……クリス? 聞いてる?」
 急に横をむいてしまったクリスに、レ二は怪訝そうに声を掛けた。口許に手を当てたクリスは、照れたような恥ずかしいような、複雑な顔をして笑っていた。
「いや。嬉しくて。……ありがとう。そんな風に言ってくれて、私は本当に嬉しいよ」
 クリスは心から笑った。こんな風に笑えたのは、退院してから初めてかもしれない。
 笑いを納めると、クリスはふとまじめな顔でレ二に語りかけた。
「今回の事は、レ二にだけは知られたくなかった。必然的にヴァックストゥーム当時の事を話さなければならなくなるから。……お互い、あの時の事を平気な顔で語り合うには、まだ時間が足りないだろう」
 レ二はそっと視線を逸らした。ヴァックストゥームの思い出は、あれだけじゃない。それから先の六年間も、お互い決して明るいものではない。
 だけど、みんながいる。みんなが傍にいてくれる限り、自分達はそれを乗り越えられるはずだ。いつかあの日の出来事を語り合える日が来る。そう信じてもいいはずだった。
「だけど、そうだな。私はもう逃げない。逃げないから、この先何か困った事になったら、みんなに相談する。もう一人で抱え込まないって約束するよ」
「うん」
 レ二はほっとしたように頷いた。
 そんな二人を微笑みながら見守っていた若菜は、思い出したように手を叩いた。
「大変。もうこんな時間。お夕飯の支度をしなくちゃ。さくらさん、手伝ってくださいな」
「はい、お母様」
「ボクも手伝うよ」
「俺も何か手伝えるかな?」
 口々に手伝いを申し出る二人に、クリスも負けじと軽く手を上げた。
「じゃあ、私も……」
「クリスさんは休んでいてください!」
 見事にハモったさくらと若菜の声に、明るい笑い声が響いた。

 

<11>

 夕暮れ迫る縁側で、クリスは一人ぽつねんと座って歌を口ずさんでいた。
 みんなは夕食の支度をしている。自分も手伝う、と言った時のあの焦ったような二人の姿を思い出し、クリスは一人くつくつと笑った。
 確かに、時間もかなり遅くなってしまっている。歓迎会めいた事をしてくれるようだから、まずは包丁の握り方から教えなければならないクリスは、足手まとい以外の何者でもない。それは自覚しているから、別に気を悪くするという事はない。
 もう解決したけれど、明日帝劇へ帰ったらみんなに悩んでいた事を話そう。特にレ二には知られたくなかった事だけど、今はもう大丈夫だ。きっと落ちついて話ができる。
そんな事を考えながら、クリスは一人縁側で風に当たっていた。
 手にした小柄からは強い力を感じている。閉じた目をゆっくりと開くと、昨日は見えなかった霊力線が、本家の建物を包み込むように走っているのが分かった。
 この家を包む、大きくて強い霊力。この力が帝都を、ひいては日本を守っている力の一つなのだ。
 一人感慨に耽っていると、隣に人の気配がした。隣を見ると、桂が座っていた。
「桂さん……」
「試練、よう乗り越えなさった」
 小さな声が聞こえて、クリスは軽く頭を振った。
「乗り越えられたのは、私の力じゃありません。あの時、さくらやレ二が助けてくれなかったら、私は自分を殺していた。そうしたら、小柄は決して私を認めてはくれなかったでしょう」
「そうじゃな。じゃが、さくら達はあんたを本当に助けようと思った。そうでなければ、試練の間の中に霊力を飛ばすなんていう事はできはせん。二人にそう思わせたのは、クリスさんの力じゃ。……さつきは、本当によい子を育てた」
 そう言うと、桂は懐から半分に切れた半紙を取り出してクリスに渡した。白い紙には墨で円が描かれ、ちょうど半分で途切れていた。
 その紙に、クリスは見覚えがあった。
「その紙は、母がお守り袋に入れて持ち歩いていた物と似ている。一度見せてもらったんだ。それには一体どういう意味があるんですか?」
「これは、『切り結び』といって、真宮寺家の結婚の儀式じゃ。嫁、あるいは婿に来た者、もしくは真宮寺の家から出た者は、実家との縁を断ち切り、新しい家との縁を結ぶのじゃ。一馬は、さつきにこの儀を行ったと言っていた。さつきは、正式に真宮寺を離れ、独逸へ渡ったのじゃ」
「そうですか……」
 母が帰りたがらなかった訳、そして桂が言った「真宮寺家にはさつきという娘はいない」という言葉の意味が、少しだけ理解できたような気がした。お互い、理由はそれだけではないだろうが、妙に意地っ張りな所は良く似ている。
「わがまま、だったんじゃよ」
 突然、桂がぽつりとつぶやいた。秋の風に吹かれながら遠い目をする桂の姿は、急に歳相応な老婆に見えた。
「それはどういう……」
 クリスが聞き返した時、後ろでさくらとレ二の賑やかな声が響き、障子が開いた。
「クリス、少し手伝ってもらえる? ……話中? だったら後でも……」
「よい。クリスさん、お行きなさい。仲間の所へ」
 桂の言葉に頷くと、クリスは立ちあがった。
「行ってきます、おばあ様」
「行っておいで」
 障子が閉まり、クリスはその場を立ち去った。語り合う声を背中に受ける桂はしかし、一人ではなかった。
 クリスがいたその場所には、さつきの姿があった。さつきはしばらく桂の顔をじっと見ていたが、やがて口を開いた。
『……ただいま帰りました、お母様』
「ようやく帰ったか、馬鹿娘が」
 桂は絞り出すような声で言った。言葉は少し乱暴だったが、そこには確かに長く離れていた娘への労わりの響きもあった。
『クリスに小柄を授けてくださり、ありがとうございました』
「いいや。クリスを認めたのは小柄じゃ。わしはその手助けをしたまで。……かわいい孫娘に、そのくらいの事はさせておくれ」
 二人の間に沈黙が流れた。傾きかけた秋の空を見上げて、二人は何も言わない。ただ黙って抜けるような青空を見上げていた。いつかも、こうして縁側で語り合った。最後はにらみ合って怒鳴り合って、さつきが本家を飛び出して、その後は二度と会う事は叶わなかった。
「……わがまま、だったんじゃよ。全てはわしの、な」
『お母様……』
「お前はわしが腹を痛めて産んだ子じゃ。それなのに、遠く離れて暮らさざるを得んかった。わしはお前に、母親らしい事は何一つしてやれんかった。じゃから、女学校を卒業して、誰ぞと縁を結ぶまではそばにいて欲しかった。お前に、母親らしい事をしてやりたかったんじゃ。それが突然、あの男に奪われて……。許せんかった。じゃが、その思いが、お前を苦しめてしもうたんじゃな」
 さつきは首を振った。いつも厳格な母から漏れた気持ちに、とても複雑な思いがした。だが、そんな言葉を聞きに来たのではない。
『いいえ。あなたは私の最高のお母様です。私の方こそ、わがままだったんですよ。降魔を祓えば、あなたに真宮寺家の娘として認めてもらえるんじゃないかって、お兄様や鉄兄様と対等になれるんじゃないかって、ハインツの事も、認めてもらえるんじゃないかって、思い込んで、意地になって……』
 二人の間にまた沈黙が流れた。何も言えずに、ただ風だけが流れていった。
「……結局、わしらは二十年以上も、お互いに意地を張り合っていたんじゃな」
『ええ。ええ、そうですね。ですが、私は後悔しません。後悔なんて、したくありません。ずいぶん遠回りをしてしまいましたが、こうしてお母様と分かり合えて嬉しいです。……今度生まれ変わったら、もう少し素直な親子でいましょう、お母様』
「ああ。……ああ、そうじゃな。その時は、わしより先に死ぬ、なんて親不孝な事をしてくれるなよ」
『はい、お母様』
 その言葉を最後に、さつきの姿は秋風に揺れ、消えていった。
 かすかに残った残像に手を伸ばした桂は、空を掴むと静かに語りかけた。
「おかえり、さつき。……いるべき場所へ」
 秋風は涙を乗せて、真宮寺本家を駆け抜けていった。

 

<12>

 夜。夕食が終わり、大神は一人縁側で風に当たっていた。
 クリス達は今、厨房で料理教室をしている。
 夕食時、朝食のカボチャの切り方はあまりに非常識だ、という意見が出て、この際だから少しは練習しよう、という事になったのだ。
 若菜を講師に迎え、三人揃ってにぎやかに野菜を刻んでいるのを見かけた。話をもれ聞くところによると、一番スジがいいのはレ二のようで、少し意外でなかなか笑えた。
「ここ、いいかな」
 ふいに掛けられた声に振り向くと、クリスが少し疲れたような顔でこちらを見ていた。
 大神の返事を待たずに隣に腰を下ろしたクリスは、軽く伸びをするとため息をついた。
「やっぱり、私に料理は無理だな。教えてもらってもちっともできない」
 クリスはふと真剣な表情になった。どうしても解けない難問に突き当たったかのような表情をすると、厳かに言った。
「じゃがいもの皮をむくと直方体になるんだ。丸みにそって皮をむけって言われたからそうすると、今度は卵形になるんだ」
「そ、それは難儀だね」
 大神は苦笑するしかなかった。
「できる人ができる事をできるようにやればいい。そう言って抜け出して来た」
 クリスはそう言うと、夜空を見上げた。帝都より澄んだ空は星をたくさん浮かべ、地上で見上げるクリスをただ静かに見下ろしていた。
 今宵は三日月。これから徐々に大きくなる月を見上げて、クリスは不思議な感覚にとらわれた。こんな風に上弦の月を見上げる日が来るなんて、帝都へ来た時には想像もしなかった。真宮寺本家でこんな風に心安らいでいられるのも、みんながいてくれたからだった。
「今回、さくらにはたくさん世話になった。その礼を言ったら、礼なら大神少尉に言ってくれって言われたよ」
「お、俺に!? 今回俺はなにもしていないけど……」
「自分が仲間の事をこんな風に支えてあげられるようになったのは、大神少尉のお陰だって。大神少尉や花組のみんながいてくれたから、自分は成長できたんだって。レ二に聞いたら、レ二も同じような事を言っていた」
 クリスは大神を見た。神妙な顔で聞いている大神に微笑むと、また視線を空に戻した。
「大神少尉がさくらを助けて、さくらが私を助けてくれて……。そうやって連鎖が広がっていくんだな、って思った。私はあと少ししか帝都にいられない。だから、欧州でも帝都で得たみんなのような仲間を、作っていこうと思うんだ。私のせいで悪いように人生をねじ曲げられた人がいるのなら、私がいたから良い方に変わったと言ってくれる人がいてもいい。……そんな人間に、なれるかな?」
「なれるよ。クリスくんなら、きっと」
 自身に満ちた大神の視線を受け、クリスは少しはにかんだように笑った。
「ああ。――ありがとう」
 星降る夜の縁側で、二人はただ空を見上げていた。
 大神はふとクリスを見た。月明かりに照らされて、彼女の髪は青白い金色に輝いている。まっすぐな絹糸のような髪が秋風になびいて、それ自体が光を放っているようにも見えた。そんな横顔に、大神は思わずそっと手を伸ばした。
 その時。
「クリスさん、こんな所にいらしたんですね? さ、続きをしましょう。明日はきちんとしたお味噌汁を作れるように、今から特訓です!」
「さ、さくら!」
 驚いて見上げると、さくらが微妙に引きつった笑みを浮かべていた。そんなさくらの後ろからレ二が顔を出すと、真顔で言った。
「クリス。敵前逃亡は重罪だ」
「敵って何だよ、敵って! いいじゃないか、別に。料理ができなくても、死にはしない」
「それは努力を怠る言い訳に過ぎない」
 レ二の痛烈なツッコミに沈黙したクリスの腕を取って、さくらは立たせた。
「さあさあ、クリスさん。お母様が待っていますよ」
 しぶしぶ立ちあがったクリスの腕を取ったまま、さくらは大神を見た。逆さカマボコの視線を受けて、大神は行く先を失い浮いた手を慌てて引っ込めた。
「大神さんって、本当に隅に置けないんですね」
「い、いや、クリスくんの髪に糸くずがついていたから取ろうと思って……」
「この状況下で糸屑を見分けるのは非常に困難だ」
 苦し紛れの言い訳を、レ二が一言で撃ち落とした。
 大神の沈黙をどう受け取ったのか、クリスは軽く微笑むと大神に語りかけた。
「分かった分かった。じゃあな、大神少尉。何だかよく分からないが、レ二やさくらを泣かせたら承知しないからな。 その時は、覚悟しておけよ?」
「いいっ!? ク、クリスくんそれは……」
 本気で何をするか分からない視線で睨まれて、大神は腰を浮かせたが、そんな事には目もくれずに三人は和気あいあいと厨房へと去っていった。
 後にはただ一人、妙に釈然としない大神だけが縁側に残された。
「こ、今回俺はなにもしていないのに!」
 大神の心の叫びは、ただ秋風だけが聞いていた。

 

<11>

 翌日。帰りの汽車のプラットホームには、若菜と権爺が見送りに来ていた。
「いろいろ、世話になった。今度、機会があったらまた立ち寄らせてもらうよ」
「ええ。いつでもいらしてくださいね」
 名残惜しそうに見送る若菜を、クリスは少し上目遣いに見やった。
「……今度来た時には、今朝よりましなミソシルを作れるように、努力してみるよ」
 昨晩、長い時間と多大なジャガイモの犠牲を払ったかいあって、クリスは少しはましに包丁を扱えるようにはなっていた。
 ところが、さくらと若菜が手伝ったにも関わらず、どういう訳か翌朝の味噌汁に入れたジャガイモは全て煮溶けてしまい、味噌汁というよりは味噌味のポタージュと化していた。
 何か固形物があると思ってつまみあげるとそれは味噌の固まりで、限界まで味噌を入れた結果らしかった。
 味は推して知るべし、である。
「やっぱりあの時、クリスさんをお一人にするんじゃありませんでした」
 さくらは深いため息をついた。
「少し味が薄いなと思って入れたんだが、どうやらそれがまずかったらしい」
「クリス。最後に味見した?」
 冷静なレ二の声に、クリスは胸を張って答えた。
「そんな命知らずな真似、するはずがないだろう」
「してください!」
「まずいっていう自覚はあったんだ」
「基本ですよ、クリスさん」
「クリスくんらしいや」
「おいたわしや……」
 事前打ち合わせもなくその場にいた全員の声が重なり合い、辺りに笑い声が響いた。


 やがて汽車が到着し、車掌が発車までの時刻を継げた。
 一昨日には二人で降り立った汽車の車内には、今は四つの人影がある。
 列車の出発を待つ間、列車の窓から顔を出したさくらは、若菜に別れの言葉を告げた。
「いろいろありがとうございました、お母様」
「いいんですよ、さくらさん。帝都でも元気でいてくださいね」
「はい。……それと、お母様」
 さくらは照れたように口元を押さえたが、やがて小声でそっと告げた。
「あたしも、お母様の娘で幸せです。これからもずっと、例え生まれ変わっても、母娘でいましょうね?」
 若菜は頬を赤らめると、照れたように言った。
「そうね、さくらさん」
 その時、列車は出発の汽笛を鳴らし、ゆっくりと走り出した。
 だんだん小さくなる汽車の背中を、若菜と権爺はいつまでも見送っていた。





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