帰郷(前編)  作・鰊かずの

 

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予告

本家を飛び出し、日本を離れて長い月日が経ちました。
私は自分の道を後悔しませんが、
あなた方と仲違いしたままなのが心残りでなりません。

次回 親愛なるきみへ 外伝
___________帰郷     前編

太正桜に浪漫の嵐!

こんな私を、許してくださいますか?

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<1>

 クリスは走っていた。

 夕暮れ迫る土手の上を、あてもなくただ駆け抜けていた。
 呼吸は荒く、顔色も悪い。足も速いとは言い難い。
 頬を伝うのは、汗なのか、それとも涙なのか。それすらも判別できないままに。
 どこから来たのか。どこへ行くのかも分からないまま。何かに追われるように。何かから逃げるように。

 もう嫌だ。

 脇腹はきりきりと痛み、喉の奥が焼けつくような熱さに苛まれていたが、クリスは足を止めなかった。
 体中が悲鳴を上げていたが、クリスはそんな事に構う様子もなく走っていた。心の悲鳴にかき消されるように、だんだん何も感じなくなった。
 足元がふらついて、目の前が真っ白になって、天地が逆さまになっても、足を止めようとはしなかった。
 地面の感触を全身に感じ、草の匂いが途切れて冷たい衝撃がきて息苦しくなった時、初めてクリスは足を止めた。
 体中が悲鳴を上げていた。


『ねえ、だいじょうぶ? しっかりしてよ!』
 強く肩を揺さぶられ、クリスは目を覚ました。見ると、そこには十五才程の少女と中年の男性が、全身ずぶ濡れのまま心配そうに自分を見下ろしていた。
 目を覚ましたクリスにほっと安堵の息をつくと、二人は目を見合わせた。
『とりあえず、うちへ連れていこうか』
 そう言うと、中年の男性はクリスを抱きかかえた。
『うん。……きみ、大丈夫? 家はどこ? 誰かに迎えに来てもらう?』
 少女は問い掛けたが、クリスはぷいと横を向くと、ぽつりと答えた。
『……あそこに帰るくらいなら、死んだほうがまし』
 その様子に、二人は顔を見合わせた。少女が駆けている時から見ていたが、その尋常ではない雰囲気はただものではなく、本当に精一杯な事は遠目でもよく分かった。
 何があったのかは知らない。だが、このまま『あそこ』に返してしまう事はできない。そんな事ができるような二人ではなかった。
『じゃあ、うちへおいでよ。リヒテンクライトへ。いいでしょう? 院長先生』
『ああ。もちろんだとも。きみの御両親が迎えに来るまで、うちにいるといい。ステラ、この子の面倒を見てやってくれな』
『はーい!』
 優しい微笑みに、クリスはため息をこぼした。それは、助かった事に対する安堵なのか失望なのか、自分でも判別つけがたかった。
 クリスは最後まで手放さなかった小柄とファイルを抱きしめると、そのまま意識を失った。

 

<2>

 車窓から見える景色は緑色に流れ、山々の合間を縫うように走る列車は順調に目的地へと向かっていった。夏が過ぎ、秋も深まりつつあるとはいえ、紅葉前線はまだ沿線の山々を染めるには至らず、気の早い枝がぽつりぽつりと鮮やかな色に染まりかけているだけだった。
 そんな景色には目もくれずに厚い書籍に視線を落としていたクリスは、最後の一ページを見つめると軽くため息をついて本を閉じた。
 ぽむ、と軽い音を立てて閉じた本の気配に気付いたように、向かいでうたたねをしていたさくらがふと顔を上げた。
「あ、クリスさん。お仕事は終わったんですか? さっきからずいぶん熱心に本を読んでましたけど」
「ああ、さくら。済まない。起こしてしまったか。……まあ、終わったというか、なんというか」
 そう言って隣の席に本を置くと、クリスは車窓の景色に目をやった。手を伸ばせば届きそうなくらい近くに見える緑の木々は、旅慣れないクリスの目にはひどく珍しく見えた。
「仙台は遠いんだな。朝早くに上野駅を出たのにまだ着かない」
「もうすぐ着きますよ。昨日電報を打っておきましたから、おばあ様もお母様も権爺も、きっとみんな待ってると思います」
「だといいな」
 それ以上は何も言わず、会話を途切れさせたクリスに、さくらは少し不安を覚えた。
 今朝上野駅を出てから、クリスとはあまり話をしていない。朝早かったせいか、汽車に乗ってすぐに眠ってしまい、目覚めてからは「仕事が残っている」と言っては持ち込んだ書籍を読み漁っていた。
 ハードカバーの専門書を黙々と読み漁るクリスに声を掛けるのはなんだか憚られ、結局仙台駅も近づいた今になってようやく会話が成立していた。
 思えば、クリスは昨日まで入院していたのだ。別に完治した訳ではなく、病院でこれ以上の事は何もできないから退院したというのが本当だった。また研究所へ行き始めるまでの二、三日は帝劇でゆっくりしていてもいいようなものだが、昨日昼過ぎに見舞いに行った時突然「明日退院だから仙台へ行きたい」と言ってきたのだ。
 入院中も紅蘭に持ってきてもらった専門書を読み漁るばかりで、見舞いに来た花組のみんなとは軽く話をするだけだった。
 彼女の身に取りついていた降魔は祓われ、レ二や花組とも和解した今、何をそんなに焦っているのか、聞いても生返事を返すばかりだった。
「クリスさん、お疲れじゃないですか? 昨日まで入院していたのに、また仙台までの長旅なんて。それにずっと本ばかり読んでいましたよね? そんなにお仕事の方が大変なんですか?」
「ああ、まあな。降魔の騒動のせいでずいぶん遅れてしまっている。本当ならばすぐに研究を再開したいところだが……」
 クリスはあいまいに笑うと、隣の席に積まれた書籍に目をやった。旅行だと言うのに持ち込んだ分厚いハードカバーの本は、紅蘭が霊子力学研究所から借りてきた物だ。もっとも、その内の一冊は和独辞書で、それはクリスの本棚にあったものだったが。
「その前に、やりたい事があってな。それに、一度研究室に戻るとそうそう休みもとれないだろうし。あの騒動で、滞在期間を少し延ばしてもらえたとはいえ、日本(ここ)にいられる時間はあまりないんだ。無駄にはしたくない」
 そう言うと、クリスは軽く伸びをして改めて車窓へ目をやった。トンネルに入った列車の窓は鏡のように自分の顔を映しだし、そこにいる仏頂面にクリスは思わずため息をついた。
 アルバムでしか知らない父も、こんな顔をしている事が多かった。唯一笑った顔の写真は、今レ二の手元にある。
 あの写真の父と自分は、我ながらとてもよく似ている。淡い金の髪といい、整った目鼻立ちといい、顔のパーツはそっくりだ。今では歳もそう変わらない。
「なあ、さくら。昨日突然仙台に行きたい、なんてわがままを言ってしまったが、大丈夫か? 迷惑に、ならないだろうか?」
「迷惑だなんて、そんな事ありませんよ。そりゃ、急だったから手紙ではなく電報でしか連絡を入れられませんでしたけど、……あたしは、嬉しいです。こうしてクリスさんを、仙台に連れていく事ができて」
「さくら……」
 さくらはにっこりと微笑むと、カバンから小さな白い包みを取り出した。それをそっと胸に抱きしめると、目を伏せて心から言った。
「これが……これが、クリスさんの遺髪にならなくて、本当によかったです」
 心から安堵した様子のさくらを、クリスは何とも言えない表情で見守っていた。

 

<3>

 約十日前。
 さつきの降霊術の後、さくらは一人テラスで帝都の街並みを見ていたクリスの背中に声を掛けた。
 テラスの手すりにもたれかかって、こちらに背を向けている姿は、とても寂しそうに見えた。
「クリスさん……」
 その声に振り返ると、クリスは少し笑った。
「何だ? さくら。母が不肖の娘を元気付けてやってくれとでも頼んだか?」
 銀座の街明かりに照らされて、クリスは光と影の中でただ一人佇んでいた。さくらは何も言わずにそっと近づくと、クリスの隣で一緒に帝都の町並みを見下ろした。街の明かりが華やかな通りを照らし出して、夜道を行く人々の姿を鮮やかに映し出していた。
「クリスさん。仙台の真宮寺本家には、不思議な部屋があるんです。南向きで、庭に面していて、とても気持ちのいい部屋で、あたしはそこが大好きだったんです。一度、おばあさまにその部屋をあたしに使わせて欲しいって頼んだんですけど、そこだけはいけないって言われました」
 クリスはさくらを見た。さくらは仙台の情景を思い出しているのか、少し懐かしそうな顔になった。
「その部屋には誰もいませんでした。でも、タンスや鏡台は全部揃ってて、毎日お掃除されていました。お天気のいい日にはお布団を干したりもしていました。あたしはとても不思議でしたけど、どうしてなのか誰に聞いても教えてくれないまま帝都へ出て来たんです」
 さくらはクリスを見て微笑んだ。
「今日やっと分かりました。あそこは、さつきさんの部屋だったんですね。おばあ様はさつきさんの事を聞くと、ひどく怒りました。でも、あの部屋はさつきさんがいつ帰って来てもいいように、毎日お掃除されていたんです。きっと今日も」
「さくら……」
「どんな事情があったのか、あたしはよく知りません。でも、おばあ様はきっとさつきさんの事を愛していたんだと思います。……もし、時間が許すようでしたら、一緒に仙台へ行きましょう。そして、おばあ様にさつきさんの事を話してあげてください」
 クリスは少し困惑したようにうつむいた。視線を逸らしたその先には、帝都の夜景が広がっていた。
「……それは、無理だ。許されるはずがない」
「そんな事ありませんよ」
 力説するさくらにクリスは少し寂しそうに微笑むと、ポケットから小柄を取り出し、鞘から抜き放った。帝都の明かりに照らされた切っ先が鈍く光り、白い刀身がクリスの手の中でひらめいた。
「母の遺品はこれだけしかない。でも、これを渡す訳にはいかないから……」
 そう言うと、クリスはおもむろに髪をひと房手に取ると、刃を滑らせた。手で握り損ねた髪が、帝都の風に舞って夜の中へと消えていった。
「クリスさん!」
「これを。今度帰省した時でいいから、真宮寺家にあるという代々の墓に納めてはもらえないか? 私の体の半分は母から貰ったものだから。……もっとも、半分は母を奪った憎き男の物だから、いい顔はしないと思うがな」
 さくらはそっと髪を受け取った。まるで遺髪を受け取るようで少し心がざわついた。
「クリスさん! 一緒に……一緒に仙台へ行きましょう! お仕事にきりがついたらでいいです。おばあ様も……お父様もずっと心配していたと思うんです。仙台の、真宮寺家のお墓に一緒にお参りしましょう」
 むきになっているさくらの肩を叩くと、クリスは少しだけ微笑んで、何も言わずに立ち去った。

 

<4>

 仙台駅に着くと、白装束の一行が二人を出迎えた。田舎の事とはいえ、いきなり現れた白装束の御一行に通りを歩く人はぎょっとした目で見ていたが、そんな事は気にも止めずに、一人の若い男が一歩前へ出た。
 さくらと大して年齢の変わらない男は、軽く一礼するとさくらに話しかけた。
「お久しぶりです、さくら様。お迎えに上がりました。そして……」
 男はクリスを見た。無表情を通すクリスをちらりと見ると、軽く会釈した。
「こちらが、クリス様ですね? お話は父から伺っております。どうぞこちらへ。桂様をはじめ御一門の方々がお待ちです」
「た、卓馬さん。どうしてここに? それに皆さんが待ってるって……」
 さくらは困惑した。てっきり権爺が迎えに来てくれるものだとばかり思っていたが、この物々しい出迎えは、一年前さくらが荒鷹を刃こぼれさせて帰郷した時と同じものだった。
 クリスは無表情のまま、さくらに聞いた。
「さくら。どういう電報を打ったんだ?」
「『さつきさんの娘を連れて明日帰省します』ですけど……」
クリスは軽くため息をついた。
「そうか。じゃあ私が『クリス』として会いに来たのか『シュトックハウゼン家当主』として会いに来たのか分からない訳だな?」
 さくらは思わずきょとんとした。この場合、別にシュトックハウゼン家は関係ないだろうし、何も知らないであろう桂達にクリスの名を出しても伝わらないかも知れないからああいう書き方をしたのだが、どうやらまずかったらしい。
「そんな。だってシュトックハウゼン家は関係ないじゃないですか」
「さくらが思っている以上に、私は悪名高いんだ。それに……」
 クリスは軽く苦笑した。
「知ってるか? 二十二年前にも同じような電報一つで帰省した娘がいたんだってな」
 唖然としたさくらの視線を背に、クリスは迎えの蒸気自動車に向かって歩き出した。

 

<5>

 真宮寺本家へ着くと、二人は控えの間に通された。
 すぐにでも会えるものだと思っていたさくらは少々困惑していたが、クリスは一言「二十年以上も前の事なんだから多目に見ればいいのに」と言ったきり口を閉ざし、何を話しかけても会話に応じようとはしなかった。
 お手洗いに立ったさくらは、その帰り道、卓馬に声を掛けられた。
 真宮寺家の有力な分家である広瀬真宮寺家の当主、真宮寺鉄馬の一人息子である。
 さくらの父、真宮司一馬と卓馬の父、真宮寺鉄馬は従兄弟同士であり、一馬亡き後、鉄馬がさくらの剣の師匠であった。
 鉄馬は以前荒鷹が刃こぼれした時に、その復活に力を尽してくれた人で、広瀬真宮寺家はそういう役割を担う家だった。そんな広瀬真宮寺家の跡とり息子である卓馬とは、歳も近く幼馴染みのような間柄だった。
「お久しぶりですね、さくらさん」
 親愛に満ちた笑顔を浮かべた卓馬は、きちんとした紋付の正装をしていた。
「卓馬さん。お久しぶりです。……鉄馬おじさまはどうなさったんですか?」
「父は所用で出掛けております。今日は父の名代として参加させていただきます」
 その言葉に、さくらは少し眉をひそめた。
「あの、卓馬さん。あたしはおばあ様とお母様に会えればそれで良かったんですけど、どうして一門の皆様まで……」
 少し抗議の色を含んださくらの言葉に、卓馬は声色を変えた。
「当然です。あの人はさつきさんの……一馬様の妹君の娘御である前に、シュトックハウゼン家の当主です。桂様は八年前、さつきさんの居所が判明してからずっと、あらゆる情報網を駆使してさつきさんとクリスさんの情報を集めておられました。……さつきさんが亡くなった後のクリスさんの事も、桂様を始め御一門の主だった方々は皆様御存知です。僕も、父から昨夜蒸気電話で知らされました」
 さくらは納得した。クリスの来歴を知っている、という事はヴァックストゥームの事や呪殺疑惑の事も知っているのだろう。それらは全てレ二を守るためにやった事だが、それを知らなければ確かにあまりにもきな臭い。事実、さくらも大神がいなければ偏見の入った目でクリスを見てしまっていた事だろう。
「でも、それは……」
 言い募ろうとするさくらを押し留めて、卓馬はきっぱりと言った。
「これは当主同士の公式な会見なんです。離れて暮らしていた祖母と孫娘の再会。そんな美談では済まされません。車中の様子からすると、クリスさんも承知しているでしょう」
「まあ、な。私も別に感動して抱き合うようなシーンは期待していない。用事を済ませに来ただけだから、そう睨むな」
「クリスさん!」
 振りかえるとそこには、少し困ったように立つクリスがいた。卓馬はクリスを見ると、軽く会釈した。
「立ち聞きとはいい趣味ですね。いつからそこにいらしたんですか?」
「あの方はさつきさんの娘である前に、からかな?」
「あ、あのクリスさん、さっきの話は……」
 フォローを入れようとするさくらを片手で押し留めて、クリスは淡々と語った。
「うん。いいよ。大丈夫だから。……確かに、私は許されない事をした。沢山の罪を重ねてきた。それは事実だ。でも、私は後悔なんてしていない。その事で当主が私を認めない、というのだったら、好きにするがいいさ。私も、好きにさせてもらう」
 切り捨てるような言葉に、二人は思わず押し黙った。しばらく沈黙が続いたが、それを破ったのはクリスだった。
「……お手洗いはどこかな?」
「あ、そこの角を右に曲がった突き当たりです」
 ありがとう、と言って立ち去るクリスの背中を見送って、さくらは少し困惑して立ちすくんだ。
 降魔が祓われ、レ二や花組と和解して、心の闇に光が差して、もう大丈夫だと思っていた。だが、さくらには想像もつかないような闇がクリスの中には、まだわだかまっているのかもしれない。さくらはそう思った。

 

<5>

 真宮寺一門が見守る中、クリスはその視線を受け止めて堂々と頭を下げた。
「初めまして。クリス・シュトックハウゼンです。お噂はかねがねさくら……さんからお聞きしています。とても怖い方だとか」
「ク、クリスさん」
 さくらは焦ってクリスを見た。クリスは頬が微妙にひきつっている。会った最初の頃ならば見逃していただろう変化だが、最近は慣れてきたのか緊張しているのがよく分かった。
 その言葉に、桂の脳裏に色鮮やかにかつての光景が蘇った。稲妻のような衝撃が背筋を走り、目の前の光景にニ十数年前の光景が重なって見えた。
 突然現れた男は、桂の元からさつきを奪い、二度とこの家に還さなかったのだ。

 許せるものか。

 桂は目を見開くと、強い口調で何か言った。その声は小さくて聞き取れなかったが、『さつき』という単語はわずかに聞き取れた。
「お義母さま、それはどういう……」
 若菜は思わず聞き返したが、桂は口を真一文字に結んだまま答えようとはしなかった。
「お母様、おばあ様は何と?」
 さくらの問いに、若菜は困惑した様子で答えた。
「お義母様は『今更何をしに来たのか』とおっしゃっています。……『さつきだけでは飽き足らず、今度はさくらまで連れて行くつもりか』と……」
「おばあ様!」
 さくらは驚きの声を上げた。桂がさつきの事を話題にしたのは本当にまれだったが、厳しい言葉の裏には確かに娘を思いやる気持ちが感じられていた。だから、きっと一門の前でもさつきの事を認めてくれるはずだと思っていたのだが、実際に出てきた冷たい言葉にさくらは思わずクリスを見た。
 クリスは軽く目を見開いて、桂の顔をじっと凝視していた。深い皺の刻まれた桂の顔から表情を読み取る事はできず、若菜の通訳を介しているため口調を推し量る事もできなかった。
 桂はまた何か小声で言うと、若菜はいっそう困惑したように言った。
「真宮寺家に、さつきという娘はいません。クリスさんが真宮寺家の墓所へ立ち入る事も許さないと、お義母さまは申しております」
「よくおっしゃいました、桂様」
 一門の中でも上座に座った老人が、力強く頷いた。白髪頭の頑固そうな老人はクリスを見た。その視線に気付いたのか、クリスは老人を横目でちらりと見たが、すぐにまた視線を戻した。
「さつきさんは、一馬さんに次ぐ高い霊力を持っていた。一馬さんが帝都を防衛している間、この仙台の護りの要として重要な役割を果たすはずだった。そしてゆくゆくは分家の者と縁を結び、この日本の護りを固める次代の霊力者の母となるべき人だった。その責務を放棄して独逸へ渡ったのですから、もう真宮寺の者ではありませんぞ」
「おじさま!」
「さくらさんは黙っていなさい。真宮寺の者として生まれたからには、望もうが望むまいが、責務がつきまとうのだ。それを……」
 よほど長い間言いたい事がたまっていたのだろう。なお何か言おうとする老人をさえぎって、桂から言伝を受けた若菜は強い口調で留めた。
「厳蔵さんの言う事にも一理あります。ですが、それはさつきさんと私たち本家の問題で、娘であるクリスさんには関係のない事です」
 きっぱりと言いきった若菜の言葉に、厳蔵は押されたように黙った。しばらく口の中で何か言っていたが、やがてまた口を開いた。
「しかし、墓参りを認める訳には参りませんぞ、当主。さつきさんの娘だからと言って、この人は……」
「禁を冒して呪術に手を染めた霊子力学者。そんな人間を改めて真宮寺の者として認められない。だろう? 真宮寺家の墓所の場所を知り、墓荒らしでもされたらたまったものじゃないものな」
 クリスは挑戦的に厳蔵を見た。図星を指されたように一瞬黙った厳蔵を鼻で笑うと、改めて桂を見た。
 桂は相変わらずよく分からない表情で、何も言わずにクリスを見つめていた。その視線に応えるように、クリスは笑顔を浮かべた。
 さっきまでの緊張が解け、完璧な営業スマイルを浮かべると、クリスは静かに言い放った。
「失礼しました。私はドイツのシュトックハウゼン家当主、クリスといいます。御挨拶に言葉が足りず、桂様にも御一門の方々にも不快な思いをさせてしまった事、心よりお詫び申し上げます」
「クリスさん……」
 クリスはまるで用意してあった原稿を読み上げるように、流れる口調で言った。礼儀に叶った言葉だったが、それが逆に二人の溝を象徴していた。
 二人の間にある畳の縁が、初めて会う祖母と孫の間を分けていた。
「今日は我がシュトックハウゼン家でお借りしていた物をお返ししに参りました。長い間お借りしてしまいましたが、ようやくお返しする事ができて故人も喜んでいる事でしょう」
 そう言うと、クリスは懐から小柄を取り出すと、畳の縁の向こうに押しやった。小柄を見て少しざわついた一門の者を尻目に、静かに言った。
「私にはもう、必要のない物です。どうぞお納めください」
 クリスは改めて、こちらをじっと見ている一門の人間を見た。そこに居並んだお歴々の顔をざっと見ると、言葉を繋いだ。
「それでは、失礼します。御当主も御一門の方々もどうぞ御自愛ください」
 それだけ言うと一礼し、立ち上がった。
「待ってください、クリスさん!」
 さくらは制止したが、その声には答えずにそのまま黙って立ち去った。
 腰を浮かせて追うべきか迷っているさくらを、若菜が後押しした。
「追いかけてあげて、さくらさん。ここはわたくしが」
「はい!」
 さくらは一礼すると、クリスの後を追いかけた。

 

<6>

 クリスとさくらが去り、その場は解散となった。別室へ移り、桂と二人だけになると若菜は桂に話しかけた。その声には若干非難の色が浮かんでいた。
「お義母様。どうしてあんな事を言ったんですか? さくらさんの電報を受け取った時にはあんなに嬉しそうだったじゃないですか」
 若菜の言葉に、桂の脳裏にはまた、かつての光景が浮かび上がった。似たような文面の電報の翌日連れてこられた、クリスと同じ顔、同じ背格好。年齢も大して変わらない、真宮寺家からーー桂からさつきを奪っていった男は、クリスと同じ事を言ったのだ。
「『初めまして。ハインツ・シュトックハウゼンです。お噂はかねがねさつきさんからうかがっています。とても、怖い方だとか』あの男は、私に向かってそう言ったんだ。……今でもはっきり覚えているよ」
 そう言うと、桂は小柄を手に取った。二十数年ぶりに手元に帰ってきたそれは、かつての輝きを失い、宿されていた破邪の霊力の大半を喪失していた。荒鷹同様小柄にも高い霊力が込められていたのだが、今のそれはただの小刀と言って差し支えなかった。
 鞘から抜くと、白い刀身が姿を現した。鈍く輝く切っ先は、霊力を失いながらも鋭利な光を失ってはいなかった。
 桂は、その小柄をじっと見つめていた。

 憤りのオーラを漂わせながら廊下をまっすぐ玄関に向かってのし歩くクリスの背中を、さくらは追いかけた。
「待ってください、クリスさん! もう一度お話を……」
「嫌だ」
 クリスはさくらの言葉を一言できっぱりと切り捨てた。取りつく暇のない言葉に、さくらは少しため息をついた。
 クリスの気持ちも分かる。母の実家に受け入れられたい、という期待はもちろんクリスにもあっただろう。その期待を粉々に打ち砕かれたのだ。本家にいたくない、というのも分かる気がした。
 だが、さくらも引き下がる訳にはいかない。ここで帰ってしまったら、二度とその溝は埋まる事はないだろう。それだけはさせたくなかった。
クリスは廊下の角を曲がると、急に立ち止まった。その背中に思わずぶつかったさくらは、クリスの視線の先を見た。
玄関へと続く長い廊下の真ん中には、小柄な老人がいた。腰は曲がり、顔には深いしわが刻まれていたが、柔和そうな表情やその目はまるで小動物のようで、見る人に安心感を与えた。
 さくらはそこに現れた老人の顔を見てぱっと笑った。
「権爺!」
 権爺と呼ばれた老人は、さくらの顔を見るとますます笑って会釈した。
 岩井権太郎――それが彼のフルネームだった。彼は長い間真宮寺家の雑務を取り仕切る、いわば執事のような存在だった。桂や若菜の信頼も篤く、さくらにとっては祖父のような存在だった。
「さくらお嬢様。お久しぶりです。お元気そうで何よりですじゃ。この権爺……」
「どいてくれないかな、御老人」
 苛立ちも顕に、クリスは権爺を睨んだ。睨むその視線をまっすぐに受けとめて、権爺はクリスに微笑みかけた。小柄な老人の割には、足腰はしっかりしていて、ボケた様子は微塵も感じさせない。それどころか、その目は真宮寺家に仇なすものの存在を見逃さないように、くまなく四方に行き届いていた。
 そんな彼の目は、少し微笑んでクリスを見た。
「どこへおいでですかな? クリス様」
「帰るんだが?」
「じきに陽も落ちます。今からでは蒸気鉄道もございませんし、市内まで歩かれるのはお薦めしません」
「じゃあ蒸気自動車(くるま)を出してくれ。市内に宿を取って、明日帰る」
「かしこまりました」
「権爺!」
 さくらは焦って権爺を見た。権爺は少し笑うと、心配するなというように軽く頷いた。
「ですが、御一門の皆様方をお送りするのに蒸気自動車はみな出払っております。戻ってくるまで、しばらくこちらの部屋でお待ちいただけますかな?」
 権爺は笑ってクリスを見た。クリスは少し苦笑いをこぼすと、改めて権爺と呼ばれた老人の顔を見た。有無を言わさぬ強い意思で笑っている。
 相手に確認を求めてはいるが、実はそれ以外の選択肢を封じている。案外やり手だ、この爺さん。クリスはそんな事を思うと、腕を組んで権爺を見た。
「……なるべく早く手配してくれ」
「かしこまりました。どうぞ、こちらへ」
 そう言うと、権爺は今来た廊下を逆に辿り始めた。
 権爺の案内に従って、二人は歩き始めた。
 

<7>

 権爺に先導されて辿りついた場所は、南向きの気持ちのいい部屋だった。家具が一そろい揃えられ、きちんと掃除された部屋には綿ぼこり一つ落ちていない。長く人がいなかったため、生活感がまるで感じられないのは仕方がなかったが、手入れされたその部屋は確かに「居心地のいい部屋」だった。
 間違いなく、そこはさつきの部屋だった。
 クリスは少し意外そうに部屋を見渡すと、障子を開けた。障子の向こうには、やはり美しく整えられた日本庭園が広がり、丁度よい位置に植えられた梅の木が見事な枝振りを披露していた。
「本当にあったんだ……」
「もちろんですじゃ。ここは、さつき様の部屋です。真宮寺家に滞在する間は自由に使ってください」
「ああ」
 それだけ言うと、クリスは辺りを見回した。日当たりのよい縁側に面したその部屋は、秋の光を取り入れて浅い金色に輝いていた。
「それでは、お茶をお持ちしますので、お待ちください」
 そう言って立ち去った権爺の背中を見送ると、クリスはその場にすとんと座った。
 糸が切れたように座り込むクリスの隣に腰を下ろすと、さくらは微笑んだ。
「クリスさん。お疲れ様でした」
 その言葉に、クリスは少し苦笑いをこぼすと、柱に背中を預けた。もう傾く準備に入っている秋の光に照らされた風景は金色に輝いていて、とても美しく心に響いた。
「ああ。……さすがに、少し疲れたよ」
「今から仙台市内に戻ってもいいですが、良かったら泊まって行ってください。この部屋を使うといいですよ」
「いいのか? そんな事を勝手に決めて」
 少し首を傾げたクリスに、さくらは握りこぶしを作って力強く言った。
「もちろんです! もしおばあ様が分からない事を言うようでしたら、二人でここに立てこもりましょう。天の岩戸です!」
 本気でストライキを起こしそうなさくらに、クリスは少し微笑んだ。自分の為に精一杯力になってくれている。それはとても嬉しい事だった。
「そうだな。あのタンスなんかバリケードになりそうじゃないか?」
「いいですね。じゃあそれを縁側に持ってきて、西側には鏡台なんかいいんじゃないですか?」
 それからしばらく、二人はくだらない話をした。どうやって足止めをするか、若菜が説得に来たらどういう風に答えようか。まるでいたずらを企てる子供のように話は弾んだ。
 一通り作戦が立てられて、少しだけ機嫌を直したようなクリスに、さくらは訊ねた。
「クリスさん。小柄を渡してしまって良かったんですか?」
「いいんだ。……母の遺品は、本当にあれだけしか残っていない。他の物は全部、失われてしまった。私があの人達に返せるのはあれしかないからな」
 そう言うと、クリスは天井を見上げた。蒸気照明の脇にある木目が目のように見えて、こちらをぎょろっと睨んでいた。鏡台の上には螺鈿を施された漆塗りの化粧箱。箪笥の上には片方草履の脱げた人形。縁側の柱に掛けられた一輪挿し。その全てが母から聞いた仙台の実家の風景にあてはまっていた。
「本当にいい部屋だな」
 それだけ言うと、クリスはふと寂しそうな笑顔を洩らして膝を抱え込んだ。さくらはそんなクリスの隣に座り、壁にかかった椿の絵を見ながらそっと言った。
「クリスさん……。悩みがあるんだったら、言ってくださいね。そりゃ、あたし一人の力なんて大してありません。ですが、一人で抱え込むよりもずっとましです」
「さくら……」
「言ってください。おばあ様への愚痴でも、真宮寺家への不満でも、何でも聞きますから」
 真剣なさくらの問いに、クリスは一つ息を吐いた。今まで悩みを抱えていても、側近中の側近であるステラやエセルバート、それに数名の人間以外には気付かせない自信があった。それなのに、さくらには気付かれてしまった。ずいぶんとポーカーフェイスが下手になったもんだと、自嘲の笑みがこぼれた。
「……真宮寺家の人達は、みんな優しいな。母がいなくなってもう二十年以上経つというのに、未だに帰郷を待っていたんだ。普通できる事じゃない。だけど」
 クリスは迷ったように口を閉ざした。自分の心の内を語る事に慣れていないせいか、語尾が若干震えた。
「あんな風にはっきりと言われるのは、予想以上にさみしいもんだな」
 軽くうつむきながら、ぽつりとつぶやいた。予想はしていたし、覚悟もできていたつもりだった。さくらは和解できると太鼓判を押したし、さくらを産んでさくらを育てたさくらの実家がさつきを許さないはずがない、と自分を納得させていた。
 だが、現実は予想を裏切っていた。ただそれだけの話だ。
「まあ、小柄を受け取ってもらえたし、それだけで良しとするさ」
 自分に言い聞かせるようにつぶやくと、クリスは一瞬何かを握るような素振りを見せた。クリスは手を開くと、ばつの悪そうに手を下ろした。
 今までは小柄にたくさん助けられてきた。どんな時でも、あれを握っていると心が落ち着いた。まるで子守唄を歌ってくれているような、そんな霊力が流れてきて、弱い自分の心を助けてくれていた。
 だが、これからは違う。さつきの悲願は果たされ、小柄もその霊力を失った。これからは自分の力だけで歩まなければならない。例えそれが、どんな道程であろうとも。
 ふいにうつむいて黙り込んだクリスを見て、さくらはすっと立ち上がると廊下へ向かった。
「どこへ行くんだ?」
「あたし、おばあさまに直談判してきます!」
「無駄だよ」
 さらりと言ってのけるクリスの涼しげな横顔に、さくらは苛立ちを隠せなかった。いつもそうだ。クリスは多くを望まない。こと人間関係において、一度受け入れられないと感じたらそれ以上の努力は無駄だと思う節がある。さくらにはよく分からない分野だが、研究に関しては一度や二度の失敗で諦めたりはしないだろう。それはつまり、人間よりも研究の方が大切だ、と言われているような気がして我慢ならなかった。
「クリスさんは諦めが早すぎるんです! それに、おばあ様と和解できないなんて、クリスさんが良くてもあたしが嫌なんです! 待っていてください。今おばあ様を引っ張り出して……」
「さくら! ……やめてくれ。せっかく決心できたんだ。それを揺るがすような事はやめてくれ」
 クリスはさくらの目を見て訴えたが、すぐに視線を逸らした。そんな態度に少し苛立ったように、さくらは訊ねた。
「決心って何ですか?」
「何でもないよ」
「何でもない訳がないじゃないですか! またずっと一人で抱え込んで、自分で完結させて! クリスさんの悪い癖です! おばあ様との話の他に、何を抱えているんですか!?」
「別に……」
 さくらはクリスの肩を掴むと、半ば強引に視線を合わせた。その目からははっきりと苛立ちと怒りの気配をさせていた。
「クリスさん、あたしの目を見てください! あたしの目を見て、それから言ってください!」
「霊力線が見えないんだ!」
 クリスは叫んだ。今まで言えなかった思いは、一度堰を切ったら止まらなかった。さくらの目を見つめて、病室で目覚めて以来ずっと抱えてきた思いを、さくらに叩きつけるように吐き出した。
「今までは何もしていなくても、みんなの周りに淡い膜のような霊力が見えていたんだ。さくらは淡いピンク色の、レ二は濃い青の霊力が見えたんだ! それが今は何も見えない! 降魔が祓われて、霊力が落ちた。予想はしていたけど、いざ見えなくなると怖いよ! そして思ってしまうんだ。霊力(ちから)が欲しい。研究を続けられるだけの霊力(ちから)が。そのためにはどんな事だってする。……ヴァックストゥームの時とどう違う? あんな思いはもうごめんなのに、このままでは同じ道に踏み込んでしまう。今度は自分の意思で。自分のためだけに!」
「そんな事ありません! クリスさんは今までずっと正義を守ってきたじゃないですか! クリスさんはそんな人じゃありません!」
 力づけるように力説するさくらを、クリスは傷ついたような目で見た。何かを握り締めるような素振りをすると、少し興奮気味に首を振った。
「いいや。私は、そんな人間だよ。……ヴァックストゥーム、楽しかったんだ。今まで不満だったデータ不足が解消されて、実験の『サンプル』はいくらでもあった。好奇心の赴くまま研究して、それがそのまま評価されて……。どれだけの血が流されたって、どれだけ涙が流されたって、関係なかった。興味なかった。当然だって、思った。ヴァックストゥームの中で、レ二は霊力が高い希少な存在だったから、『サンプル』になる(殺される)事はなかった。だから私は……」
「もういいです! クリスさん! もう、それ以上はいいです!」
 さくらはクリスを抱きしめた。意外と力のある腕に抱かれて、クリスはその肩に目頭を預けた。泣いているつもりなんてなかったのに、さくらの着物に大きな染みを作っていた。首筋から伝わってくる鼓動が、荒れた心の琴線を落ち着かせた。
「ごめん。言えなかったんだ。こんな事、誰にも知られたくない。帝劇にいたくない。研究所にも行きたくない。自分にはもう霊力がないと、はっきりと分かってしまえばしまうほど、過ちを犯してしまいそうで……」
 さくらはクリスから離れると、少し照れたように笑った。
 その笑みにつられたようにクリスも笑うと、その顔がおかしかったのか、さくらは更に笑った。
 いつも静かなさつきの部屋に、二人の笑い声が響いた。
「ありがとう、さくら。聞いてもらったら何だかすっきりした」
「いいえ。あたしの方こそ、辛い事をしゃべらせちゃいましたね。……でも、良かったら帝劇に帰った時、みんなにその事を話してくれませんか? クリスさんの様子がおかしいって、みんな心配していましたから」
「そうだな。もしも私が道を踏み外すような事があったら、みんなには止めてもらわないと」
 さらっと言うクリスに笑いかけて、さくらは頷いた。
「ええ。その時は力いっぱい止めますから、安心してくださいね、クリスさん」
「期待しているよ」
 クリスはようやく微笑んだ。

 

<8>

 若菜に呼ばれて席を外したさくらを見送り、誰もいなくなった部屋をクリスは改めて見渡した。テラスでさくらが言っていたように、その部屋は隅々まできれいに掃除されていた。何年も手を加えなかったところに突然大掃除をしたのではない。真宮寺家の当主としては、一門の前ではああいう言い方しかできないだろうが、真宮寺桂は母の事を忘れないでいてくれた。それがとても嬉しかった。
 母はここにあまりいなかったという。それなのに、帝都の話と同じくらい仙台の事も話題に上った。日本の事を話すことはまれだったが、せがんで聞かせてもらった話の中には、この家のーーこの部屋の風景が鮮やかに息づいていたのだ。
 帝都へ……日本へ帰れば、最後にはみんな許してくれただろう。会った事もない祖父や伯父も、きっと。
「あと八年早く、花組が結成されていれば、……私さえいなければ、あなたはここに戻ってこれたのにね、母さん」
 クリスはぽつりとつぶやいた。何となく天井の目玉とにらめっこしていると、ふいに物音がしてクリスは視線と下へと落とした。
 猫だった。
 いつのまにいたのだろう。茶寅の毛並みの美しい猫が、ちょこんと縁側に座ってじっとクリスを見つめていた。クリスは何気なくその緑の目を見つめた。しばらく見詰め合っていたが、やがて猫は一言「なあ」と鳴くと、くるりと背中を向けて縁側から飛び降りた。
 クリスは思わず猫の背中を追った。猫は庭の真ん中でクリスを待っているようにじっとこちらを見ていたが、また庭の奥へと歩き出した。
「待て、猫!」
 その背中に導かれるように、クリスは思わず猫を追いかけた。


 置いてあった草履を拝借して、見失った猫を探して庭の端まで行くと、さっきの猫がきちんと座ってクリスを待っていた。
 白壁の一箇所が切れ、扉になっている。その脇には小さな社が建てられ、中を覗くと人の形に折られた人形が入っていた。

『……庭の片隅には小さな小さな家があってね、そこに紙でできたお人形があるの。それは真宮寺家の門番でね、その門からいやなモノが入らないように見張っているの。その門を通る時はいつも手を合わせて、通らせてくださいって挨拶をするの』

 ふいに、母の声が耳に蘇った。小さな社に小さな紙の人形。その脇の扉。クリスは社の前にしゃがみ込むと、人形に向かって手を合わせた。
「……とりあえず、こんにちは。ここ、通らせてもらってもいいかな?」
 何気なく社に向かって語りかけたが、勿論紙の人形は何も答えてはくれなかった。
 そんなクリスを確認して、猫は立ち上がるとまた「なあ」と鳴いて扉をかりかりと引っかいた。
 木でできた古い扉は難なく開き、その向こう側には雑木林が広がっていた。日が傾きかけているせいか、うっそうと茂った木々の間からこぼれる木漏れ日は淡い金色に染まり、林の間に作られた細い一本道を照らし出した。
 誰かが整備したのだろう。生い茂る雑草が取り払われ、少しでも歩きやすいように踏み固められたその道は、整備された林道のようだった。

『……扉を抜けると、そこは雑木林。いつも薄暗くて、最初は少し怖かったわ。でも、その先でお兄様と鉄兄様が待っていてくれたから、私は歩き出したの』

 クリスはまた一歩踏み出した。草履越しに感じられる土の感触がとても新鮮で、何故か懐かしく感じられた。

『しばらく行くと、大きな樫の木の根っこがあってね。ごつごつとした根っこが階段みたいになっていて。着物の端をちょっとだけはしょって、地面に手をついて越えたの。着物を汚すとお母様はいい顔をなさらなかったけど、私はその樫の木が大好きだったわ』

 樹齢何百年だろうか。大きな根っこが小道を横切り、やがて地下へと潜っていった。他の木とは明らかに違う、雑木林の主のような風格さえ漂うその木は、ただ静かに足元を通る猫と人間を見守っていた。

『もう少し行くとね、ぱっと視界が開けるの。そこはお山の湧き水が小さな川になって流れているの。石から石へと飛び跳ねて渡るんだけど、雨の次の日は危ないからってお兄様に手を取ってもらって渡ったわ。足首にかかった水の冷たさや、岩場を泳ぐ魚の背中を今でも覚えている』

 小さなくぼ地にはごつごつとした岩が顔を出し、その脇を冷たそうな済んだ水が清い音を立てていた。輝く水面に躊躇したクリスをせかすように、先を行く猫が「なあ」と鳴いた。思いきって踏み込んだ川の水は足首までを濡らしたが、冷たい水がとても気持ち良かった。

『その先は少し入り組んだ岩場になっていてね。いつも歩く道は階段になっているんだけど、そこを少し外れるとちょっとしたくぼみや岩の陰ができるの。小さい頃、お兄様たちと隠れ鬼をした時にそこに隠れたら、誰も見つけられなくて大騒ぎになったわ。私も入る事はできても出る事はできなくてね。日が暮れて心細くて、岩場で泣いていたら鉄兄様が見つけてくれたの。その後、みんなにすごく叱られてね。岩場は立ち入り禁止になったの』

 ごつごつとした岩場を、迂回するようにつけられた階段を登りながら辺りを見渡す。大小さまざまな形の岩があり、小さな女の子ならすぐに姿を隠してしまえるだろう。
 岩場の陰から、ひょこっと犬が顔を出した。犬は突然の来訪者に驚いたように威嚇してきたが、猫は動じなかった。
 立ち止まって犬を見据えると、「なあ」と鳴いた。犬は少し困惑したように耳を伏せると、そのままどこかへ立ち去った。
「お前、すごいな」
 クリスは感心したように猫に話し掛けた。猫は少し自慢げに「なあ」と鳴くと、脇の砂利道へと足を進めた。

『岩場を通り抜けてしばらく行くとね、木でできた扉があるの。そこを通れば……』

 薄暗い林を抜けると、そこは広く開けた空間だった。

 

<9>

 眩しい光に一瞬目を奪われ、やがて目を開けると、そこには神社があった。
 神社の脇に出たのだろう。正面には長い年月風雪に耐えてきたであろう大きな建物が威風堂々とそびえていた。
 そこに人の気配はない。
 広い境内は森に囲まれていたが、ただ一箇所、鳥居の先だけは石畳と共に唐突に切れている。
 秋風がゆっくりと吹きぬける境内からは、流れるような霊力が循環しているのが分かった。
 目を閉じ、耳を澄ませば分かる。ここは霊的にも重要な役割を担う場所。おそらく真宮寺家を守ってきた場所なのだろう。
 おそらく真宮寺本家はもっと強い霊力を放っていたはずだが、クリスはそれに気付かなかった。いくら会見前に緊張していたとはいえ、気付かなかった自分に自然と自嘲の笑みがこぼれた。
 クリスは境内を歩きながら辺りを見まわした。猫を追いかけている間にずいぶんな場所に来てしまった。そういえばさくらにも何も言っていない。
 見失った猫を探して視線を泳がせると、ふいに「なあ」という声がした。
 振りかえると、縁側の端でさっきの猫がちょこんと座ってこちらを見上げていた。美しい毛並みの美しい猫。境内を包む霊力はこの猫の霊力ともよく似ている。
「お前、私をここに連れてきてくれたんだな?」
 クリスの問いかけに、猫は「なあ」と鳴いて答えた。クリスが近づいて縁側に腰を下ろすと、猫はゆっくりと立ち上がって膝の上にうずくまった。
 猫は眠そうにクリスを見上げると、また「なあ」と鳴いた。
「なんだお前、眠いのか?」
 猫は答えず、小さく喉を鳴らして何かを催促するような素振りを見せた。
 クリスは少し微笑むと、歌い始めた。


おかえり 光の御子よ
昼は過ぎ行きて
日向の 匂いと共に
母の 腕の 中へ」

 秋風がゆく。声が響く。


おやすみ 我が愛し子よ
母の腕の中
悲しき 夜の痛みも
抱いて 夢の 苑へ」

 草が凪ぐ。歌が流れる。


やがて夢が醒め
ひかり 輝いた
暁の 風をその背に
歩む その日まで

眠れ 眠れよ

 林を抜ける涼しい風が、歌うクリスを包み込み、透明な歌声を乗せて辺りに響いた。


 ふと見ると、いつのまにか一人の男性が息を切らせて立っていた。
 日に焼けた浅黒い肌をした中年の男性だった。旅行用のコートを身にまとい、大きなカバンを手に持っている。何か武道をやっているのか、肩幅は広く、背も高かった。がっしりとした男は歌声が広がる境内に立つと、そのまま立ち止まって息を整えた。
 クリスはちらりと男を見たが、そのまま視線を膝の上に落とした。
 眠る猫をなでながら歌うその姿に導かれるように男はクリスの前に立った。
 歌が終わり、男は早口に話しかけた。
「あなたは……」
 クリスは人指し指を唇に当てると、男の言葉を遮った。
「静かに。……今、眠ったところなんだ」
 膝の上で寝息を立てる猫の背中をなでてやりながら言った。そんなクリスを見て、男は少し微笑んだ。
「そうですか。……ここ、座ってもいいですか?」
 どうぞ、と答えるクリスを待って、男は腰を下ろした。
「ここへは、観光か何かで?」
「いいや。少し用事があったんだが、それも済んだ。今夜は泊めてもらって、予定を繰り上げて明日には帰ろうと思う。……あなたは、ここの人?」
「ええ、まあ。この家の端くれです」
 あいまいに答える男にそうか、と答えて、クリスは改めて会見の席を思い起こした。
 ずらりと居並んだ真宮寺の重鎮たちの中に、この男の姿はなかった。旅行帰りのような格好をしているし、自分で「端くれ」と言っている。それほど重要な役割についている訳ではないのだろう。
 クリスは少し安堵すると、猫の背中をなでた。膝の上の猫は、軽い寝息を立てながら気持ち良さそうに眠っていた。
「起こすのも忍びないから、しばらくここにいさせてもらってもいいかな?」
「ええ。都々路(つつじ)は、一度眠るとしばらくは起きません。そのまま膝を貸してあげてください」
「へえ。都々路っていうんだ、お前」
 クリスは眠った猫の背中をなでながら言った。猫はクリスの問いに答えるではなく、ただ静かな寝息を立てていた。
「それにしても、素晴らしい歌でしたね。声楽か何かをやっていらしたんですか?」
「ああ。小さい頃少し、な。それからも趣味程度には続けていた。それだけだから、褒められると少しくすぐったいな」
「声楽家にはおなりにならなかったんですか?」
 クリスはふと、広い境内を見つめた。どこか遠くを見つめるようにしばらくぼんやりとしていたが、また口を開いた。
「声楽を、続けられるような状況じゃなかったからな。本当はやめてしまおうと思っていたんだが、ある人が続けろ、と言ってな」
「その人のお陰で私はあの歌を聞けたんですね?」
「そうなるかな。……母さんが続けさせたかっただろう事は続けろと言われたんだ。最初は時間の無駄だとか思っていたが、今はそうは思わない」
 クリスは少し伸びをすると、改めて男の顔を見た。
涼しい風がなびく中、素直な気持ちになっている自分に少しだけ驚いた。
「歌はいいな。思い返せば、歌にはどれだけ助けられたか分からない」
「……さつきちゃんも、同じ事を言っていました。『寂しい時や辛い時、歌にどれだけ助けられたのか分からない』そう言って、いろいろな歌を歌っていましたよ」
「母さんを知っているのか?」
「ええ。よく知っています」
 そう言うと、男はクリスに微笑みかけた。その笑みに少し含み笑いをこぼすと、クリスは男の目を覗きこんだ。
「そうか。あなたが『鉄兄さま』か」
「おや? 私は名乗りましたか?」
 とぼける男を見て、クリスは自分の頬を指差した。
「笑うと、ここにえくぼができる」
「そんな事まで話していたんですね、さつきちゃんは」
「ありがとう」
 クリスは鉄馬の目を覗き込むと、頭を下げた。たじろぐ鉄馬に笑いかけ、かつて母が言っていた言葉を伝えた。
「とても世話になったと。親切にしてくれて嬉しかったと、自分にとっては二人目の兄のようだったと言っていた。……改めて、お礼とお詫びを」
 鉄馬は苦笑いをこぼすと、少しため息をついた。立ち去った従姉妹は、自分を忘れないでいてくれた。彼の事も大切だったのだと言っていた。
 そんな風に言ってくれたさつきと、それを素直に伝えられるクリスに、鉄馬は親愛の情を感じた。
「いいえ。――あなたの事も、さつきちゃんの事もある程度は知っています。ですが、ここできちんとお話できて良かったです。さつきちゃんの言葉を伝えてくれて、ありがとうございました」
 二人は辺りを見渡した。風が吹きぬける境内。三方を囲む森。正面に見えるトリイという門。母の語る神社の様子が、二十数年の時を経てクリスの目の前に広がっていた。
 母はここがとても好きだと言っていた。ここで二人の少年剣士が剣の稽古をしているのを見るのが好きだと。おそらくその片割れが、今隣にいるんだろう。
 黙って境内を見守る二人の間を、秋風が流れていった。

 

<10>

 ふいに、都々路が顔を上げた。見つめる視線のその先には、少し息を切らしたさくらと若菜、そして桂が立っていた。
 都々路は立ちあがり、さくらの方へと駆け寄ると、その腕に飛び乗った。
 さくらは都々路を抱き上げたが、ふとこちらを見ると驚いた声を上げた。
「クリスさん! どうしてここにいるんですか?」
「さくら! ……ああ、済まない。何も言わずに出てきてしまったな。心配を掛けた」
 申し訳なさそうなクリスに、さくらは首を振った。祖母の桂に呼び出され、神社へ行くと言われてクリスを呼びに行ったが、そこに姿はなく、そのままこちらまで来たのだ。神社までの道を知っているはずがないと思っていたのだが、本当にいたクリスの姿に少なからず驚いた。
「いいえ。それはもういいんです。でも、ここにいるっていう事は、まさかあの階段を上ってきたんですか!?」
「階段? ……いいや。山間の小道を辿って来たんだが?」
「山間の小道?」
 その言葉に、鉄馬もきょとんとした。その場の雰囲気に、なんだかそこにいるのが当たり前、という気がしていたが、よく考えてみればそこにクリスが一人でいるのは不自然だった。
「そういえば、クリスさんはどうやってこの神社へ来たんですか? あの階段を登ってきたんだったら、途中ですれ違うはずですが……」
「あの階段?」
 クリスは立ち上がると、鳥居へと向かった。見るとそこには、気の遠くなるような長さの階段があった。石の灯篭が規則的に続き、一番下の段はかすんで見えそうなほど離れていた。
 ただでさえ体力や持久力に欠けるクリスが、そんな長い階段を上り切れる訳もなかった。
「こんな階段、登れる訳がないだろう? あの扉の向こうから、都々路に案内されて来たんだ」
 そう言うと、神社の境内の脇にある古い引き戸へと向かった。
 扉に手をかけて開けてみようとしたが、錆びた南京錠に阻まれて開ける事はできなかった。
「どういう事だ? さっきはすんなりと開いたのに……」
 困惑するクリスの言葉に、鉄馬は懐から鍵を取り出すと、南京錠に押し込んだ。少し力を込めて鍵を回すと、重い音を立てて錠が開いた。
 開かれたその向こうには、うっそうとした雑木林が広がっていた。ついさっき通ってきたはずの小道には雑草が生えていて、長い間人が通った形跡はなかった。
「だって、ここには道があっただろう!? 大きな樫の木があって、小川が流れてて、岩の脇には砂利道があったんだ。そうでなければ私はここにはこれなかった。あんな階段、登れるはずもない」
 桂はもごもごとつぶやくと、若菜が通訳した。
「きっと都々路が案内したのでしょう。あの子は二十一年前から真宮寺の守りを担ってきた霊猫だからと、お義母様は申しております」
「そうか……。ありがとう、都々路」
 クリスは都々路を見た。都々路は「なあ」と鳴くと、さくらの腕を飛び降りてゆっくりと歩み去った。
「さあ、皆さんこちらへ。冷えてまいりました。積もる話もあるでしょうから」
 そう言うと、鉄馬は一行を母屋へと案内した。

 

<11>

 通された応接間は、純和風の造りだった。畳の奥には床の間があり、水墨画の掛け軸の足元には萩の花が一輪飾ってあった。
 桂は一番上座へ座り、その両脇に若菜と鉄馬が席についた。その向かい側に正座しようとするクリスに、若菜は少し微笑んで声を掛けた。
「どうぞ楽にしてください、クリスさん。慣れない正座は足によくありません」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 そう言うと、クリスは足を崩して桂の前に座った。少し緊張している応接間にお茶が運ばれた。
 室内を物珍しげに見まわしていたクリスに、桂は声を掛けた。その声を聞き取り、若菜は通訳をしようとしたが、手を上げてそれを止めた。
「お義母様?」
「よい、若菜さん。……クリスさん。私の声が聞こえるかい?」
 静かな応接室に、初めて聞いた声が響いた。少ししわがれた声は小さくて、うっかりすると聞き逃してしまいそうだったが、その声は確かに桂が直接語る声だった。
「はい。確かに」
「歳のせいか声が小さくて申し訳ないが、あんたとは直接話をしたい」
「はい」
 答えながら、クリスは姿勢を正した。桂は小さな老婆だったが、そこから感じられる気配はただものではなく、長年『真宮寺』という大きな一族を率いてきた者の威厳が感じられた。
 思わず緊張するクリスに、桂は懐から小柄を取り出すと、つい、とクリスの前に差し出した。
 返したはずの小柄を出されて、クリスは少し困惑した。せっかく一大決心をして返したのに、もし受け取ってさえ貰えないのだとしたら、桂達に対する評価を大幅に変えざるを得ない。だができる事ならそれはしたくなかった。
「ご当主……」
 クリスは少し不安げな声を上げた。そんな声を遮るように、桂は労わるように声を掛けた。
「物を見れば、それが通ってきた道程が分かる。クリスさん。よく頑張りなさった」
 クリスは背筋を走った衝撃のような驚きに目を見開いた。まさか、労わりの言葉を掛けられるとは思ってもみなかった。
 自分の悪評を知りながら、それでも真実の自分を見てくれた。それがたまらなく嬉しかった。
率直に掛けられたその言葉をかみ締めるように目を閉じると、静かに答えた。
「……はい」
「我が真宮寺家にさつきという娘はいない。だが、クリスさん。あんたの母親には興味がある。……聞かせてはもらえないか? あんたと、あんたの母親の事を」
 桂は真摯な目でクリスを見た。その視線を受け止めて、クリスはゆっくり頷いた。
「私の知る母で良ければ」
 そう言って、クリスはゆっくり語り始めた。
 楽しかった事。辛かった事。嬉しかった事。悲しかった事。言葉はとめどなく溢れ、自分が見てきた母の姿をそのまま桂に伝えた。
 桂は、語られる言葉を一言も逃さないように聞き入り、時々頷いては先を促した。
 交わされる気持ちの交流を、若菜と鉄馬、そしてさくらはただ無言で見守っていた。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。クリスはようやく一二年分の思い出を語り終えると、静かに口を閉じた。
 桂は目を閉じてしばらく感慨深そうにしていたが、やがて口を開いた。
「……あの子は生まれつき体が弱くて、受け継いだ霊力に体がついていかなかった。そのせいで病床につく事も多かった。霊的に強い真宮寺本家の霊力に触れ続ける事は、あの子にとって大きな負担だった。だから小さな時から帝都で暮らし、帝都の女学校に通っていた。年に数回この本家へ帰って来ても、身の置き場所に困って部屋に閉じこもっている事が多い娘だった。一馬が神社へ連れ出す他は、どこにも行かず、どこにも行けずにあの部屋に一人でいたんだ。私も、あの子にどうやって接すればいいのか……」
 桂は一つため息をつくと、やるせないという風に首を振った。年に数度しか会えず、長く離れて暮らさざるを得なかった親子の間にどんな会話や感情の交流があったのか、今は推し量る事しかできない。しかし、そこにあったのは小さな誤解や感情の行き違いだったのだろう。シュトックハウゼン本家に残されていたさつきの手紙の中にも、「両親とどう接していいのか分からなかった」というような事が書かれていた。
「あの時、あの子はたった一六だった。ようやく体力が霊力に追いついて、これから全てが始まるという矢先だった。あの男と一緒になっても幸せにはなれない。あの家にある闇は相当深いものだ。そんな場所に関わらせたくなかった」
 ハインツが包み隠さず語った、シュトックハウゼン家の現状。それはとてつもなく深く、重いものだった。独逸は基督教国で、その中でずっと隠蔽され続けた「降魔憑き(アンチキリスト)」という家系。とても十六かそこらの娘が背負いきれるものではない。
「あの子は今まで大変な思いをした。ようやく健康になった今は、心安らかに幸せになれる道だってあったんだ。この家に帰り、写真でも何でも好きな事をして欲しかった。それなのに、苦労すると分かり切っている道を選ぶなんて、馬鹿な娘だよ」
「母さんが幸せだったかどうか、私には分かりません。ですが……」
 クリスはハンドバッグから写真を一枚取り出すと、桂に渡した。
 桂はそれを受け取ると、目を見開いた。そこには、在りし日のさつきの姿があった。
 さつきは、明るい日差しの差し込む窓辺で、椅子に座って半分眠りながら編物をしていた。
 こんなに落ちついて笑っているさつきの姿は、とても充実した幸せに溢れていた。
「私は、母さんの娘として生まれてきて幸せです。……もしこの次に生まれてきた時も、母さんの娘でありたい。そう思います」
写真の中で微笑んでいるさつきの頬に涙が落ちた。手放してしまった娘は遠い異国の空の下で幸せに生き、己の道を貫いて死んだのだ。その事実が、長年に渡り桂の心に重くのしかかっていた物を砕き、涙として溢れ出していた。
「ありがとう。……その言葉だけで、それだけで母としてのさつきが幸せだった事が分かる」
 桂は改めて、写真のさつきを見た。優しく微笑みながら編物をするその顔に触れ、桂はぽつりと洩らした。
「本当に、馬鹿な娘だ。そんな所は、私に似なくてもよかったものを……」
 静かな夜の一室に、静かな嗚咽だけが響いた。


 日はとうに暮れ、その日は神社に泊まる事になった。
 応接間を辞した桂は、客間に着くと案内をした鉄馬に向かって語りかけた。
「……やってくれるかい? 鉄馬」
「はい。小柄の霊力を必ず復活させましょう」
 鉄馬は力強く頷いた。そんな鉄馬に、桂は少し意地悪そうに言った。
「いやに素直じゃないか。電話した時はあんなに渋っていたのに」
「クリスさんは、さつきちゃんの娘です。理由はそれだけで十分ですよ」
 その言葉に、桂は強く頷いた。さつきの血を受け継いだ娘は、例え闇の力を得ようともその志は真宮寺のものだった。それさえ確認できればそれでいい。桂にもそれだけで十分だった。
「頼んだよ。クリスは……私の孫娘は明後日の朝にはここを発つ」
 はい、とだけ言って、鉄馬はその場を立ち去った。

 

<12>

 桂達が客間へとさがった後、鉄馬は本堂へと向かった。
 古い飾り棚の一部を引っ張り、隠された引出しを開けると、そこには鍵束があった。鉄の輪に掛けられた多くの鍵は、この神社にかかる全ての鍵が納められ、その管理は代々広瀬真宮寺家の当主に任されていた。
そこにある鍵束をじっと見つめると、懐から古びた小さな鍵を取り出した。
 少年の頃から肌身離さず持っていた、雑木林への扉の鍵。さつきが本家にいる間も、十日前後滞在して帝都へ戻った後も、ずっと手放せなかった鍵だった。
 さつきが突然あの男を連れて帰郷して、大喧嘩して去っていった日には、止められなかった自分が悔しくて情けなくてやるせなかった。時が過ぎ、連絡も取れなかった時は不安で心配で仕方がなかった。ようやく居所が知れた時には、きっとまた会えるのだと心が踊った。
 訃報が舞い込み、さつきの娘のその後の情報を得るたびに、憤りが止まらなかった。さつきの顔に泥を塗るような行為を繰り返すクリスと、それをさせているであろうあの男の一族に、憎しみさえ感じていた。
 その間に自分も結婚し、子供も生まれ、責任のある立場にもなった。その隣にはさつきにいてもらいたかったが、実際にクリスとーーさつきの娘と会い、話をして、その口から両親の事を聞く度にわだかまりは少しずつとけていった。
「あなた、こんな所で何をしてらっしゃるんですか?」
 小さな鍵を手に思い出に浸る鉄馬に、声が掛けられた。
 振りかえると、着物をきちんと着こなした彼の妻が、少し不審そうに夫の背中を見ていた。
「翠か。……いや、鍵を束に戻そうと思っただけだよ」
 翠は何も言わずに、夫の隣へそっと立った。彼女が彼の許へ嫁いでもう十年以上が経つ。その間、その鍵を肌身はなさずに持っていた事は知っていた。
 その鍵に込められた意味や思いを、生前の一馬から聞き出して以来、複雑な思いをしていた。『初恋というのは尾を引くものです。多目に見てあげてください』という一馬の言葉に自分を納得させ続けていたが、まれに鍵を見つめる夫の姿を見かける度に嫌な思いをしてきたのも確かだった。
「よろしいんですか?」
「ああ。長い間連絡が取れずに心配していたが、もういいんだ。幸せでいてくれたなら、それだけでいい」
 鉄馬はふと微笑むと、数多くの鍵が掛かった鉄の輪に小さな鍵を納めた。いざ納めてみると、小さな鍵は他の多くの鍵達とすんなり溶け込み、最初からそこにあったかのような顔をして納まった。
 そんな鍵束を元あった場所に返すと、鉄馬は振りかえって微笑んだ。
 例えどこに行こうと、誰のものになろうと、幸せでいてくれたのならそれでいい。初めて直に会ったクリスはあの男にそっくりだったが、不器用なくらいまっすぐな目やその生き方は、確かにさつきの娘だった。
 あの人が残した忘れ形見の望みを叶えてやりたい。それだけが鉄馬がさつきにしてやれる事だった。
「例の手続きはどうだ?」
「順調です。ただ、明日は早くから支度にかかりますので、朝餉の支度は若菜様に頼みました」
「そう。分かった」
 そう言うと、鉄馬は引き出しを閉めた。
「明日はよろしく頼むよ、翠」
「はい」
 それだけ言葉を交わすと、二人は本堂を立ち去った。
 夜は更け、月の光はただ辺りを照らし出していた。

 

<13>

 夜も更け、与えられた客室で布団を敷いていたクリスは、シーツと格闘しながらも真剣な声で訊ねた。
「なあ、さくら。私はこれから何をしたらいいと思う?」
「クリスさん?」
「あれから考えたんだが、私はやっぱり霊子力学をやめようと思う。しがみついても仕方がないし、無様だ。それに、神崎重工のチームは優秀だから、任せても大丈夫だろう。……だがそうすると、私は一体何をしたらいいやら」
 シーツ敷きを手伝いながら、さくらは少し考えた。今のクリスの能力からすると、家庭的な事は無理だ。とすると一つしか考えられなかった。
「あたしには何とも言えませんが……歌はどうですか? クリスさんの歌は本当に綺麗ですから」
「歌?」
 クリスは乾いた笑い声を上げた。しばらく自嘲気味に笑っていたが、やがて顔を上げた。
「歌はなぁ。好きだけど、それを本業にしてしまうときっと嫌いになる。厳しいショウビジネスの世界で泳いでいく自信はないし」
 シーツ敷きをあきらめたクリスは、それをさくらに任せると枕を枕カバーに押し込んだ。
「それに、肌の露出は最小限に押さえないと」
「クリスさん……」
 さくらはクリスを思いやった。クリスは降魔を抑えるために様々な無茶を重ねてきた。顔だけでなく体の美しさも要求されるこの世界で、確かに不利な条件だった。
 クリスは一つため息をつくと、苦笑いをこぼした。
「やっぱりなあ。言っても仕方がないけれど、霊力が欲しいよ。花組ほど高くなくてもいい。せめて霊力線がはっきりと見えるくらいの力が欲しい」
 枕を置いたクリスの隣で、掛け布団のシーツをかけていたさくらが少し微笑んで言った。
「クリスさん。……あたしは、帝劇のみんなが大好きで、帝都の人達が大切です。大切な人達には笑顔でいて欲しいんです。そのためにあたしは戦います。例え、それが命を賭ける戦いであったとしても」
「さくら……」
「クリスさんは、どうして霊子力学を研究したいんですか?」
「それは……」
 クリスはたじろいだ。
今までは明確な目的があった。自分の居場所を手に入れるため、レ二を守るため、ひいては自分の心を守るために霊子力学をやってきた。だが、それも終わり、償いをする必要がなくなった今改めて聞かれると、何の為に霊子力学をやりたいのか、そこの所に納得のいく理由を自分でも明確に見出せなかった。
 答えられないクリスに、二人分の布団を敷き終わったさくらは諭すように言った。
「何のために霊力が欲しいのか、それをきちんと分かっていれば、きっと大丈夫ですよ。クリスさんは道を踏み外したりしません」
 さくらはにっこりと微笑んだ。

 その夜、暗い天井を見上げながら、クリスは小さくため息をついた。隣でさくらは軽い寝息を立てている。
「何の為に、か……」
 簡単で、でも究極的なその問いに、クリスは改めて自分の心を見つめなおしていた。


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次回予告

お互いもう二度と会う事が叶わない所まできてしまった。
過ぎた時間は取り戻せないけれど、
私達の志は娘たちが継いでいてくれる。

次回 親愛なるきみへ 外伝
___________帰郷     後編

太正桜に浪漫の嵐!

きみは今でも、私の大切な妹だよ

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