第二話「指揮官」(その3)

 この頃に至って、本土のパニックはようやく沈静化しつつあった。これには、米軍がすぐにも侵攻してくることはないということがわかったからである。実際、本土周辺海域には濃密な哨戒網がひかれ、容易に接近することは不可能だった。
 しかし、逆に台湾や沖縄ではパニックがさらに増しつつある。

「米艦隊接近」

 その噂――結果として事実だった――が民心を動揺させていたのだ。

「師範、稽古なんてやってる場合じゃありません。逃げましょう!」
「逃げる? どこにだい?」
「え、それはそのぉ……とにかく、山の方にでも」
「馬鹿言え。こーんな狭い島の中でどこに行こうがかわんねぇよ、さ、練習するぞ!」

 師範と呼ばれた人間、桐島流空手正統継承者・桐島カンナはまるで動揺した様子がない。
 男は付き合いきれないといった感じで、その場を離れていく。

「ったく。肝っ魂の小せぇやつばっかりだぜ」

 長男の琢也も本土の陸軍幼年学校から陸軍士官学校へと進み、家にいない。幾らカンナといえど、素手で近代兵器を相手にできるわけないのだから、彼女とて動揺してもいい筈だ。だが、海軍には大神がいる。
 それが彼女の“自信”の根拠なのである。
 互いに離れてなお、信頼を勝ち得ている大神は、部下の掌握という点に関していうなら最高の指揮官だろう。

「頼むぜ、隊長!」

「利根4番機、射出されました」
「うむ」

 見張の報告に大神は軽く肯いた。
 艦隊に随伴している重巡「利根」「筑摩」は航空偵察能力を強化した設計になっており、水上偵察機(水偵)を六機搭載できる。この水偵が艦隊の目となり、敵艦隊を捜索するのだ。

「チャートを広げてくれ」
「はい」

 大神は索敵チャートに目を落とした。
 艦隊を中心に扇形に数本の線が広がっている。それが水偵の飛行予定路だ。

「大神閣下、搭乗員に待機を命じますか?」

 航空戦は先手必勝。
 敵を発見したら、すぐに出撃して攻撃しなくてはならない。

「いや、まだ早い。今から気張ったって疲れるだけだ」
「し、しかし……」
「大丈夫だ。まだ、敵はきもしなけりゃ、みつかりもしない」

 大東亜戦争突入直前、海軍の現役将校の中で本格的な実戦経験があったのは二人しかいない。聯合艦隊司令長官である山本五十六大将が日露戦争に少尉候補生として従軍したのと、大神が帝撃隊長として戦ったのとだ。
 その中で大神は、“戦場の匂い”をかぎわけられるようになっていた。こればかりは経験がなくてはどうにもならない。

「潜水艦にだけ気をつけろ。後は最低限の人数残して休んでろ。俺も昼寝しておく」

  無責任とも思えるこの行動に周囲は呆気にとられる。

「うちの司令、豪胆を通り越して、馬鹿なんじゃねぇのか?」

 そんな声すらもれてくる。
 だが、大神には計算があった。

(俺はまだ指揮官として信頼されていない)

 大神は異例の出世をとげてきている。
 そのベースになっているのは、帝國華撃團花組隊長としての戦歴だが、秘密部隊であったがゆえに、一般の将兵はそれを知らない。
 ともすれば、机上の勉強ができるだけの、山本五十六の腰巾着という言われかたをされる。
 これを覆し、部下の信頼を得なくては勝利はおぼつかない。
 花組の時は時間をかけることもできたが、今はいきなりの総力戦だ。その余裕がない。
 だから、大神は、いささか芝居がかった手を使うことにしたのである。

「敵艦隊発見!」

 その報告が届いたのは、大神も艦橋に戻っていた夕刻になってからである。

「司令。急いで出撃準備を!」

 未だ航空隊の出撃準備を整えていないことを、責めるような調子だ。
 だが、大神はおちついていた。

「焦るな。外をよく見ろ」

 天気は晴れているが、陽がおちかけている。

「今から出撃させたら着艦は夜だ」

 着艦誘導についても肉眼によるしかないこの時代、夜間着艦は非常に危険である。
 あるいは全員が教官クラスと言われた一航隊(第一航空戦隊=空母「赤城」「加賀」)の航空隊であるならば、夜間着艦も辞せず出撃させられたかもしれない。
 だが、一航戦はトラック奇襲で部隊としては潰滅し、生き残りも各部隊に分散して配備している。そして、大神が率いている五航戦(第五航空戦隊=空母「瑞鶴」「翔鶴」)などは新編部隊であり練度が高いとはいえない。
 戦力に余裕がない日本軍には直接の損害以上の損失を許容できるだけの余裕はない筈だ。

「司令部より信号!」

 無電を使っては敵に傍受されるおそれがある。艦隊内の通信は手旗や発光信号によるしかない。

「本日の出撃はなし。明日未明を期して攻撃を行う」

 小沢の考えも大神と同じであった。

「ほらな。焦ってもしょうがないんだよ」

 大神は当然というように言ってのけたのだった。

<<沖縄沖海戦 両軍編成>>

●大日本帝國海軍
第一航空艦隊(司令官:小沢治三郎中将)
  空襲部隊(小沢直率)
   第二航空戦隊
    空母「飛龍」「蒼龍」
   第五航空戦隊(大神一郎少将)
    空母「瑞鶴」「翔鶴」

  支援部隊(阿部弘毅少将)
   第三戦隊
    戦艦「金剛」「榛名」「比叡」「桐島」
   第八戦隊
    重巡「利根」「筑摩」

  警戒隊(木村進少将)
   軽巡2、駆逐艦12隻

●アメリカ合衆国海軍
太平洋艦隊司令長官:キンメル大将(在ハワイ)
 第17任務部隊(F・J・フレッチャー少将)
  空母「ヨークタウン」「レキシントン」
  重巡「ミネアポリス」「ニューオリンズ」「アストリア」
    「チェスター」「ポートランド」
  駆逐艦11、タンカー1

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