第三話「転換点」(その7)

「あれが米軍ってやつかいな……」 

 空母『瑞鶴』戦闘機隊として攻撃隊に参加している紅雄は、はじめてみる敵艦隊の姿を呆然と見つめる。
 訓練で自軍の艦隊を上空から見たことはあったが、それとは異なる殺気と敵意に満ちていた。

「ト・ト・ト・ト・ト……」

 無線機が、編隊長・友永大尉機の発信したト連送――突撃命令を受信している。
 列機は次々と増槽を落下させ、速度を上げていく。紅雄も慌ててそれに追随していく。
 そして、中隊長機が大きくバンクをふった。敵の迎撃機を確認した合図だ。

「ど、どこ、どこやねん!?」

 紅雄には見えない。
 しかし、紅雄の所属小隊の小隊長機は、たちまち翼を翻して上昇に転じる。そして、二番機もそれに続く。紅雄は、それについていくだけでやっとだ。
 この当時、日本軍の航空隊は三機を一組にした小隊を最小単位として運用されていた。小隊長機を戦闘に、その後方左右に二番機・三番機をぶらさげていく形だ。この三機が一体となって連携をとり、敵と相対していく。
 三機ともなれば、立体的かつ死角のない相互援護が可能であり、強力なフォーメーションとなる。
 しかし、めまぐるしく三次元的に動き回る航空機を操縦しながら、敵と二機の味方の位置を把握した上で、最適のポジションへと移動するなどという芸当は、相当の練度を持たねばできることではない。
 開戦直前のレベルでならいざしらず、今の日本軍航空隊では、これを実践することは容易ではなかった。

「な、なんやねん、いったい!」

 紅雄も、二番機にただついていくだけでやっとだ。とても連携などできない。極端に狭まった視界には、その二番機しか見えないのだ。

「!!」

 突然、目前を火線が横切った。
 瞬間的に操縦杆を倒し、機体を捻る。進路を変更しなければ到達していた筈の地点を貫いた火線を追うようにして黒い影が横切っていく。

「グラマンか!」

 上空護衛のF4Fワイルドキャットだ。
 性能的には零戦に劣るとはいえ、パイロットの腕は紅雄よりも数段上だ。そして、それゆえに、紅雄が新米であることに気付いたのであろう。一度は離脱したかに見えた機体が、きびすをかえし、襲ってくる。

「うわ、畜生! こいつめ!」

 紅雄には、何機の敵に追われているかすらわからない。ただ闇雲に機体を動かし、敵から逃れようとするが、労力の割に効果はなかった。

「うわぁぁぁ!」

 機体にハンマーで殴られたかのような衝撃が加わる。F4Fの一二.七粍機銃弾が命中したのだ。
 パニックにおちいった紅雄は、抱えるようにして操縦桿をひきつける。なにかにしがみつきたいという衝動からだ。
 だが、それが幸いした。偶然にも九〇度バンク(水平面に対して機体が垂直に捻られている状態)に入っていたたため、垂直旋回を行うこととなったのである。これは、零戦が最も得意とする水平面の旋回機動だ。逆にF4Fは旋回性能がよくない。紅雄機の旋回についていけずに大きく飛び出したような格好になった。
 しかし、紅雄がそれに気付く筈もない。
 ただひたすらに急旋回を繰り返していく。

「うっ……くっ……」

 遠心力により発生したGが、全身の血を足元に集めていく。畢竟、頭に血が回らなくなり、あるいは腕も痺れてくる。
 その辛さに、ようやく紅雄は旋回を止めた。

「くそ、なんやっちゅーねん!」

 垂直旋回は旋回半径こそ小さくできるが、そのかわりに大きく高度を失う。紅雄機も
かなり高度を失っていた。
 それを確認した紅雄は四方に目をやれば、先程のF4Fは振り切ったものの、上空では空戦が続いている。

(攻撃隊を守らなくては!)

 攻撃隊に随伴する戦闘機隊の目的は、敵戦闘機の撃墜ではなく、味方攻撃機を敵戦闘機に攻撃させないことにある。
 その任務をあくまで果たすため、紅雄は機体を空中戦の真中にへ向けて上昇させていく。
 だが、彼は未だに冷静さを欠いていた。
 空中戦における大原則として、より高い位置にいる機が有利となる。敵機に向けてまともに上昇していく危険を忘れていたのだ。
 案の定、紅雄機に気付いたF4Fが向かってきた。

「!!」

 迫り来る敵の姿にようやく自分の機動の危険性に気付いた紅雄だったが、ここで旋回しては、それこそ相手に腹を曝して的になってしまう。

「わぁぁぁぁぁぁ!」

 叫びながら、機銃の発射釦を夢中で押す。
 零戦二一型に装備されている二〇粍機関砲二門と七.七粍機関銃ニ門が一斉に火を噴く。だが、余りに早すぎる。弾は相手にまで届かない。逆に十分にひきつけるまで待ったF4Fは数秒遅れてから。その一二.七粍機関砲六門が火をふいた。そして、一瞬にしてすれ違う。
 正面からの打ち合いは相対速度が余りにも速いことと、互いに「見えている」ことから、命中率はあまり高くない。むしろ、ここから先が問題となる。相手からの反撃をうけず、かつ敵を最も追尾しやすい上に相対速度を低くおさえることのできる場所、すなわち攻撃の最適位置である敵機後方に占位するための格闘戦がはじまったのだ。
 すれちがったため、一旦は高度差が入れ替わった二機だが、降下してきたF4Fは機速がついている。反転したF4Fはその速度を再び高度に変換していく。逆に上昇してきた紅雄機は速度が低く、思うような機動ができない。
 たちまちにF4Fは有利な位置に入ってくる。それを振り切ろうと紅雄も左右に機体をふった。
 旋回性能でいけば、零戦に分がある。この時期の米軍は大戦果に目を奪われ敵である日本軍の研究を怠っていたことが幸いし、紅雄は不充分な態勢ながら何度か敵機を照準に入れる。だが、弾は斜めに放物線を描き、まるで見当違いのところに流れていく。

「なんやねん。壊れとるんかい!」

 もちろん、そんなことはない。
 旋回をしている最中に弾を撃っても、弾自身に旋回中のGがかかっているため、慣性で斜めの方向にいってしまうのだ。それに気付かず、うちつつけているのだから、全てが無駄弾である。ついには、釦を押しても弾がでなくなった。

「しもた!」

 弾切である。
 それに動揺した紅雄の隙を見逃す敵ではなかった。
 F4Fは紅雄機の後方に張り付く。
 紅雄も懸命に振り切ろうとするが、F4Fは次第に間をつめてくる。
 そして、もはや必中距離と思われた時だ。

「!?」

 後方に閃光が出現した。
 振り替えれば、既に敵機の姿はなく、ただ黒煙と落下しゆく破片だけだ。
 そして、更に目をこらせば、見失っていた小隊長機の姿がある。小隊長は
脱落した紅雄を戦場から探し出し、助け出したのだ。
 そして、隊長機は紅雄機の横につけると、手でサインをおくってくる。

「先に帰れってことかいな……」

 実際、機体に傷を負い、弾もなくなっている。
 紅雄は機首を母艦の方角へと向けた。

「これが……実戦……」

 紅雄の機体は、母艦には辿り着いたものの、損傷が激しく再出撃は不可能として機体は「撃破」判定となった。
 後に『帝國海軍最強のエース』と呼ばれる男の、これが初陣だったのである。

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