第二話「指揮官」(その2)

 照和十七年四月十四日 第一航空艦隊旗艦・空母「飛龍」。
 新たに編成された空母中心のこの艦隊の首脳部が一同に会していた。
 艦隊司令官・小沢治三郎中将。
 海軍部内において、山本五十六に次ぐ人望を集めている。海軍きっての航空論者であり、空母機動部隊指揮官にはこの男をおいていまい。
 そして、彼を支える参謀長には、草鹿任一大佐。
 海軍兵学校を首席で卒業した秀才であるが、この艦隊ではまとめ役に徹しており、小沢とのコンビは長く続くことになる。
 さらに、小沢のもう一つの知恵袋が航空参謀の源田実大佐だ。
 かつて源田サーカスと呼ばれた小隊を率いた腕利きのパイロットであり、後にジェット機の世界最年長操縦記録をうちたてる。その強引な個性から、敵は多いが、誰しも手腕は認めている“豪腕”参謀長だ。

「聯合艦隊より命令が出た。上陸部隊を伴う米機動部隊が接近中だ。これを迎撃し、上陸を阻止するのが任務だ」

 草鹿参謀長が説明した。

「今までに集められている情報からすると、敵空母は二乃至三だ」

 どうやら全力ではないらしい。
 当初、所有する全空母を太平洋に集結させ、トラック基地を叩いた米軍だったが、参戦すれば、欧州戦線も放っておくわけにはいかない。空母「ワスプ」「サラトガ」の二隻を大西洋に派遣し、太平洋は空母四隻態勢となっていた。
 それでも、勢いにのる米軍をとめることはできず、日本が実効支配していたマリアナ、マーシャル方面の島々や、英領ボルネオなどは次々と占領されていった。

「問題は、どこを目標としているかだ」

 草鹿は、候補として四個所をあげた。
 すなわち、本土、小笠原、沖縄、台湾である。
 太平洋の過半が彼らの手中におちたことで、第二段階の作戦――日本そのものを降伏に追い込むためのアプローチがはじまったのだ。

「さて、どこにくるかを判断しなくてはならない」

 さっそく、意見交換がはじまる。
 本土を狙うには、時期も尚早であるし、規模も小さいとしてこれは早々に候補から外された。
 しかし、残り三個所の、どこかについては決め手がない。
 そんな中で、沖縄を強力に主張したのが、第五航空戦隊司令、大神一郎少将であった。

「敵の目標は沖縄以外にありえません」

 あまりにも断定的なその口調に反論がおこる。だが、大神は自説を曲げない。

「台湾上空の制空権は我が軍が握っています」

 台湾はフィリピンを睨む最前線である。大艦隊が停泊できるような港に適するような地こそなかったが、代わりに航空基地が整備されていた。中でも台南空(台南航空隊)戦闘機隊は、フィリピンへの渡洋攻撃を行い、全く敵をよせつけない精強ぶりを発揮している。

「いくら空母があるといっても、これだけ強力な航空部隊のある場所に正面から上陸はしてこないでしょう。少なくとも、まず最初に航空撃滅戦を挑んでくるはずです」

 空母の数が全力でないことが、台湾という可能性を捨てさせているというのだ。いくら米軍といえど、総力をあげねば台湾は攻略できまい。

「むしろ、間接アプローチによる台湾の攻略、すなわち、沖縄の占領により、台湾への補給線を遮断することが狙いと見て間違いないでしょう」

 もちろん、台湾のみならず、仏本国崩壊後、仏亡命政府(ド・ゴール首班)の要請により進駐した仏領インドシナや、今や日本からの補給でもっている英領マレー・シンガポールとの補給も遮断され、東南アジアにおける連合国の勢力は一気に弱体化する。

「小笠原では、これに匹敵するような効果は得られません」

 あくまで理詰めで大神は分析した。
 これに賛同したのが、意外にも源田大佐である。

「なるほど、わかった。私も沖縄案に賛成だ」

 源田は、大神とあまりそりがあわない。
 日の当たらない時代から航空畑を歩んできた源田は、航空畑でありながらエリートとして注目されてきた大神のことを面白く思っていないのだ。
 だが、やはり実戦。面子にはこだわっていられない。

「しかし、沖縄とはアメリカにとって無謀すぎないか。上陸できたとしても、我が本土や台湾に近すぎる。保持しつづけられまい」

 草鹿参謀長が疑問を呈したが、大神はこれにも答えがあった。

「アメリカの物量を侮ってはいけません。我らが不十分な陣地しか構築していないのに対し、彼らは瞬く間に恒久陣地をつくりあげるでしょう。さらに、我が領土に近いというのなら、彼らの策源であるフィリピンにもまた近いのです。航空兵力をピストン輸送で強化すればそう易々とは奪回できなくなるでしょう」

 まして、米軍は、すぐに次の攻勢を行うつもりだろう。

「よかろう。我が機動部隊は沖縄侵攻を予想すると、聯合艦隊に具申しておこう」

 議論を静観していた小沢が断を下した。

「第一航空艦隊は全艦出撃準備せよ!」

 ランチ(連絡艇)で空母「瑞鶴」に戻った大神は、早速、出撃準備にとりかかった。
 といっても、戦時下のこと。臨戦準備は整っており、そうたいしたことがあるわけではない。やっておくことは、遺書を書き、陸に預けておくことくらいだ。

「おーい」

 遺書を書き上げた大神は当番兵を呼んだ。

「はい!」

 やたらに元気の良い声で、入ってくる。

「こいつを、他の連中のと一緒に……」

 いいかけて、大神の言葉が止まった。
 この当番兵の顔には見覚えがある。
 いや、見覚えがあるどこではない。

「周防か」
「はい。ご無沙汰しています。大神たい……いえ、少将」

 橘周防。
 その名字を、片仮名でタチバナと表記すればわかりやすいだろうが、マリアの息子である。
 太正十五年、ツクヨミとの戦いが終わってしばらくしてマリアは不意に帝劇から姿を消した。そして、昭和初年になって戻ってきた時、彼女は男女の双子の赤ん坊を抱いていたのだ。その一人がこの周防なのである。

「どうしてここに?」

 愚問だったとは思うが、つい口をついてしまった。

「はい。兵学校で前線勤務を志願したんです」

 トラック奇襲とそれに続く緒戦での敗退による損害で、帝國海軍はその人的資源が枯渇していた。
 海軍は、一兵に至るまで技術者集団であるといっても過言でないから、失われた人材を補充することは容易ではない。日露戦争まで一流の海軍国でありながら、この戦争で海軍軍人がほぼ全滅したロシア海軍が、一九七〇年代まで――その頃はソビエト海軍になっていたが――再建することができなかったのがその証左であろう。
 これに対応するため、帝國海軍は、予備役(といっても、陸軍に比べればその数は少ない)招集や短現士官(短期現役士官=商船学校出身者から成る)の活用などをはじめたのだ。その一環として、海軍兵学校在籍者の半分を前線に出すこととしたのである。
 将来の海軍を担う兵学校在籍者を(半分といえ)教育半ばにして戦地に送り出すなど、邪道もよいとこだ。だが、背に腹は変えられない。
 もっとも、親の心子知らずというか、兵学校生徒は全員が前線勤務を志願した。周防は運良く(あるいは運悪く)前線行きの希望がかなえられたのである。
 だから、今の周防の身分は、士官候補生ということだ。

「で、勤務はこの瑞鶴というわけか?」
「はい。大神閣下の従卒です」
「従卒?」

 帝國陸海軍には、従卒という制度はない。
 日本人にはいささか貴族じみたこの制度が性に合わないこともあるが、そこまで余裕がなかったというのも事実だろう。
 代わりに、兵士が順番に従卒役を務める当番兵という制度がある。
 海軍兵学校から急に前線に送りこんでも、大した働きができるわけではないとみた海軍省は、こうした人員を従卒に割り振り、代わりに兵を通常勤務に集中させることとしたのだ。

「ああ、そういえばそうだったな。で、俺の従卒を希望したのか?」
「いえ。偶然です。ですが、大神少将のお側で働けるのは光栄です!」

 マリアは誰とも結婚していない。父親が誰なのかは頑として口にしないし、子供たちにも教えていない(子供たちの顔つきなどから日本人らしいことまではわかるが)。ただ、長男の周防には、大神を手本としろといつも言って聞かせていた。だから、周防は、海軍兵学校にも入校したのだ。
 もっとも、大神の従卒になったのは、周防の言うように、単なる偶然であろう。

「わかった。知り合いとしての会話はここまでだ。今後も一切の特別扱いはしないから、そのつもりでな。橘士官候補生」
「はっ!」

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