築地
 築地はサクラ大戦では脇役的な場所です。しかし、銀座からは徒歩圏内。
 今回は直接ゲームになった場所というよりも、その周辺世界を拾ってみました。


雷門  勝鬨橋は銀座と晴海埠頭を結ぶ橋として昭和15年に完成します。
 名前の由来は架橋地点に日露戦争の勝利を記念した「勝鬨の渡し」があり、それを引き継いだことと、日支事変中の完成であったため、その戦勝も祈念したものです。
 隅田川最下流の橋で、大型船舶の通航も多いことから、中央部がハの字型に開く跳開橋として設計され、往時には1日5回の開閉を行ったといいます。しかし、交通量の激増から、昭和45年を最後に開閉を停止しました。


仲見世  勝鬨橋から見た隅田川。第2話戦闘マップ付近にあたります。
 現在では埋立てられてしまいましたが、戦前の築地は細かい掘割でわかれており、戦闘マップのような「小島」になっていました。
 というのも、
 築地一帯は江戸時代初期からの埋立により形成されていたからです。築地の埋め立てが終了したのが明治10年代、月島、勝鬨にいたっては明治後期に埋め立てが完成しているのです。
 江戸時代には築地浜と呼ばれ、築地本願寺の他に武家屋敷などがありました。

境内  現在、国立がんセンターの立っている場所は、海軍兵学寮の跡地です。
 この海軍兵学寮は、1857(安政4)年、幕府が海軍伝習所の一部を長崎から築地南小田原町にあった講武所内に移転させ、海軍教授所(後、御軍艦操練所に改称)を設けたことに起源をもちます。それが、明治政府に引き継がれ、明治5年、海軍省は浴恩園(松平定信別邸)を中心とする8万余坪を軍用地として、て、海軍省、海軍兵学寮、海軍造兵厰(後の海軍技術研究所)、海軍水路部(後述)を設置したのです。まさに 築地は近代海軍発祥の地といえるでしょう。
 ただ、海軍兵学寮自体は、明治14年に広島県江田島に移転。海軍兵学校(ゲーム中では海軍士官学校)となり、大神や加山が学ぶこととなります

 そして、移転後には、成績優秀な士官のみを集め、将来の高級幹部尾育成する海軍大学校が設置されます。
 大神と加山はここには入学できたのでしょうか?(笑)

六区  明治21年に芝から海軍会計学舎が移転してきます。後に海軍経理学校となり、主計科で経理業務を行う海軍士官がここで学びました。それを記念する「海軍経理学校之碑」です。
 意外に思えるかもしれませんが、軍隊といえども国家公務員。「予算」や「会計」なくしては運営できないのは、一般の組織と何らかわりがないのです。大神や加山が主計科を選んでいたら、ここにすすんでいたかもしれないですね。
 なお、他にも海軍軍医学校、同附属病院、海軍経理学校、海軍軍楽隊、海軍参考館、水交社(海軍関係者の倶楽部)といった施設もつくられ、前述した海軍省や海軍大学などとあわせ、築地は海軍の中枢地となるのです。

 
花やしき  現在は単なる官庁然としたこの建物は海上保安庁水路部です。
 海軍で最も古い機関の一つであった海軍水路部の後身になります。
 海軍水路部とは、水路を調査するための組織で、海図の作成などを行っていました。海軍がなくなったとはいえ、海運がなくなるわけはなく、戦後、その業務は海上保安庁に引き継がれたのです。
 海軍水路部の当時から同じ敷地にあり、同じ業務を行っている。海軍の組織が継続して、ほぼそのままの形で残っているほとんど唯一の例でしょう。

 ちなみに、現在、築地といえば思い出さされるのが、場外市場も含めた魚市場というイメージでしょう。
中央卸売市場でしょう。これは、関東大震災後、大正12年に日本橋から魚市場などが移転して出来たものです。
 ですから、サクラ1の時代には存在せず、サクラ2以降の時代じゃないと出てこないということです。でも、帝劇に誓いのですから、カンナあたりは買出しにいったかもしれませんね?



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