「ごめんなさい……! 私にはできない。私には、みんなと肩を並べて戦うコトなんてできっこないんだわっっ!」
耳の奥に、まだ自分自身の叫んだ言葉がこびりつくように残っている。
降りしきる雨が石畳に叩きつけるその音。それが、恵里にはあんな言葉を仲間たちに言い放ったことを後悔させ、責めたてる声のようにも聞こえていた。
帝国華撃團・雪組はまだ発足間もない部隊である。
いやむしろ、発足を間近に控えた――と言う表現の方がぴったり来るかもしれない。
隊員の頭数もまだ完全には揃っておらず、正式な活動開始に向けて訓練に精を出している真っ最中なのである。
雪組隊員として集められた少女たちは、皆、選りすぐりの霊力の持ち主だったが、集結してからの日の浅さだけはどうにもならない。日々の訓練の中でも足並みの揃わないことが度々起こった。逸る気持ちとは裏腹に、もどかしい試行錯誤を積み重ね、仲間たちの結束をより強いものにして行かなければならない辛い時期でもあった。
田中恵里は、その中でももっとも新しい隊員だった。
雪組配属から二ヶ月――。
ふとした折りに、仲間たちの呼吸を乱すこともまだ多い。そんな毎日にすっかり自信をなくし、気分が沈みがちになっていたところに、今日の訓練でも大失敗をやらかしまった。
仲間たちは誰も恵里を責めたりはしなかった。
むしろ、彼女のいたらなさを必死にカバーしようと懸命だった。
だがその仲間たちの思いが、かえって恵里の気持ちを追いつめる結果となってしまったのだ。
(私……みんなの重荷になっている……)
これまで堪えてきた気持ちを一気に爆発させて、恵里はついに飛び出してしまった。
こういう時、不運は重なるものだ。
朝から薄曇りだった空からは、待っていましたと言わんばかりに大粒の雨までが降り出してくる始末だ。
初夏とは名ばかりの……まだ肌寒い陽気。
冷たい雨に叩きつけられて走るうちに、恵里は自分の気持ちがどんどん暗く沈み込んで行くのを感じていた。
何処へ行こう、とか、何かをしようとか、飛び出したときにはそんなあてなどなかったはずなのに、次第に恵里の足はある場所をめざし始めている。
(もうダメ。私、みんなに迷惑をかけるばっかりだわ。このまま何も言わずにいなくなってしまった方がいいのよ。例え一時的には混乱しても、その方がきっとみんなだって……)
髪を伝って滴る雨と瞳からこぼれ落ちる涙とが混ざりあい、同じ筋となって頬を流れ落ちていく。
その涙を拭って、恵里は顔を上げた。
恵里がたどり着いた場所……それは二ヶ月前、帝撃に入るため上京した恵里が、幼なじみの青年と別れた桜の大木の下だった。
帝国歌劇団に入ってきっとスタアになるわ。
彼にはそう言って別れた。
恵里は笑顔を浮かべていたが、彼は終始眉を寄せた苦い表情のままだった。
「恵里にはもっと別の生き方の方が似合うと思うよ。来月もその次の月も今日と同じ三日の日は君のために開けておくよ。僕はここで君を待っている。君と一緒に帰ることのできる日を待っている」
別れ際、彼はそんな言葉を呟いて恵里の手をとった。
口数の少ない青年――であったわけではないのだが、そんな告白めいた言葉を彼が恵里に投げかけたのは初めてのことだった。
それが嬉しかったからなのか……。
或いは、自分の知らぬ場所へ行こうとする恵里の心情を理解できない彼の頑なな重いが哀しかったからなのか……。
そのどちらもがない交ぜになった心地で、恵里はあの時、幼なじみ――その淡い感情に終止符が打たれたのを感じていた。
あの時だって、彼が来月の三日にここで本当に待っていてくれる、と思ったわけではない。恵里にとっても、そして多分彼にとっても、兄弟のように育ったというだけで将来の約束をしたというような仲ではなかったのだ。ただ彼はーーひょっとしたら歌劇団に入る、としか言わなかった恵里の言葉の裏にあった本当の決意を見抜いていたのかも知れない。そして恵里の心のどこかにあった躊躇――華撃團という未知の場所に抱く不安が、きっと彼にそんな言葉を言わせたに違いない。
だがもう、あの時には恵里の気持ちは決まっていた。
例えもっと別の言葉で引き留められたとしても、頷くことなどあり得なかっただろう。
彼のことを忘れていたつもりはない。だが、先月――五月三日のことを振り返ってみても、ぽっかりと穴があいたようにそのことを考えることなく過ごしていたように思えて鳴らない。
それなのに……。
(今日が六月三日だから……だから私、飛び出したりしたのかも……。あの人が迎えに来てくれているから……だから逃げ出して楽になろうとしている……)
そんな罪悪感も抱いていた。
こんな時だけ、逃げ場を探して幼なじみの優しさに縋ろうとする自分が、情けない。
二ヶ月前、桜は満開の花に彩られて遠くからも花霞が目を惹くほど鮮やかだった。しかし今は桜の大木は濃い緑に彩られ、周囲の光景に溶け込むように佇んでいる。
彼がいるわけはない。
もしいたからと言って、本当に華撃團から逃げ出してどこかへ行くことなんかできるわけはない。
そう思いながらも強い雨に煙る視界に人影を見たとき、恵里は胸の鼓動が痛いほどに強まるのを感じた。
「あ……」
一瞬、声がもれた。
桜の木の下に立っていた男も、その声にふと顔を上げる。
恵里の視線と、その男の鋭い視線とが、ぶつかり合うように交錯した。
それは恵里の幼なじみの青年ではなかった。そして……日本人でもなかった。大柄な金髪の外国人が、いぶかしむような目で恵里を見つめている。
(雨宿り……という風情ではないな……)
もの凄い形相で走ってきた少女が自分の立っているのと同じ桜の幹にもたれ掛かって長い嘆息をついたのを横目に、その男・ハインリヒ・フォン・マイヤーは僅かにその強ばった表情を和らげた。
今更雨宿りと言っても、彼女は頭のてっぺんから爪先まですでにずぶぬれである。
(俺と同じに、来ると期待できない相手を待つために来たというところか……)
マイヤーは苦笑した。
日本に来てまだ数日だが、どこの国であろうと年頃の娘が髪を振り乱して走る理由なんてそうはないはずだ。
逃げ出したい。
でも逃げ出すなんて……できない。
その少女の、悲痛とも言える思いが、全身からにじみ出ていた。
まだ本当の挫折を知らない幼さの残る顔立ち。一途でひたむきであるからこそ、大人の目から見れば些末とも思えることに一喜一憂する。
そんな気持ちを……マイヤー自身はもう失って久しかった。
故国を離れ、流れ流れて来たその課程で、マイヤーは幾度も泥を嘗め、砂を噛む思いを味わってきたのだ。
だが今、涙を堪えている少女を前に、その青さを笑う心地にはなれなかった。
何故かは分からない。だが、自分でも驚くほど……優しい気持ちになっていた。
「使うかね、そう、きれいな代物じゃないが……」
そう言って、マイヤーは少女・恵里に差し出してやろうとコートのポケットからハンカチを取り出した。ポケットに突っ込んだままになっていた品物が、その拍子に、雨に濡れる地面に音を立てて落ちた。
「あ……!」
弾かれたように手を伸ばしたのは恵里の方だった。
騎士十字章――マイヤーがかつて故国で手にした輝かしい勲章。それが泥を跳ね上げる激しい雨の中で鈍く光っている。
「汚れてしまったわ。大事なものなのに……」
勲章についた泥を指先で払う。
うらぶれたように見えるこの男が、遠い異国でも手放さずにいる品。この小さな勲章に込めた彼の思いが恵里には見えたような気がした。
(この人も、何かから逃れようとしている)
そう、悟るように気づいたのだ。
「構うことはない」
すまなそうな表情の恵里に、だが、マイヤーはぶっきらぼうに言い放った。
彼女の手から奪うように勲章を取ると、無造作にポケットに戻す。そして泥のついた彼女の指先を、取り出したハンカチでそっと拭いてやる。
「すみません。私……私こそ構わないんです、これくらい。どうせもう……ずぶぬれですから……」
「……」
マイヤーは押し黙った。
そして恵里もまた、続いて口にしようとした言葉を飲み込むように息を詰めた。
雨の中に佇むふたりの間に、再び沈黙が生まれた。
だがそれは交わす言葉を失ったせい――ただ同じ桜の下で雨宿りをしただけの他人に戻ったから――ではない。
マイヤーも、そして恵里も……。
視界が白く煙るほど激しい雨の向こうに、ただならぬ気配を感じたためだった。