序章
Prologue
一着の服が、ここ巴里にある劇場【テアトル・シャノワール】の倉庫にひっそりと眠っている。
その服は【テアトル・シャノワール】のチケット切り、いわゆるモギリのユニフォームである。
モギリの人間は何度か入れ替わっているのだが、このユニフォームは代わった人間に渡されること無く、他のユニフォームが渡されていることを知る者はごく一部の者しかいない。
倉庫らしく少々乱雑なその部屋に一人の女性がやってきた。歳は・・・40過ぎ、といったところか。
西洋の女性の年頃の体格になってはいるが、その顔立ちや佇まいから、若かりし頃はとても端正だったことが見て取れる。
彼女はこの【テアトル・シャノワール】のオーナーである、【グラン・マ】ことイザベラ・ライラック伯爵夫人である。
オーナー自身が倉庫に入るなど、あまり無いことなのだが。
グラン・マはモギリ服のそばに歩み寄る。そして、物思いに耽るかのように、あたかもその服と会話をしているかのように微笑む。
「ここに来た頃は、ほんと、ヒヨッコだったのにねぇ・・・」
懐かしさと親しみを込めて呟く。
彼女自身、その男を【真の紳士】に育てようとしていた。が、最後の最後でその男に教えられた。
真実のこもった言葉に勝るものは無い、ということを。人間、変わっていくものである、ということを。
「ムッシュのおかげであの子達は変わっていった……。ここに揃ったばかりの頃はてんでバラバラだったのに……」
ここのメイン・ダンサー五人は、このモギリ服を着ていた本人と関わった。秘書の二人もそうだし、グラン・マ自身も関わった。
いや、正確にはこの巴里全体が関わっていたのだ。
たった半年の間の事であったのだが、【彼】と関わった者は確実に変わっていった。
それも全てのベクトルを良い方向に向けて。
【彼】が成し遂げたことは、巴里の暗部に未来永劫伝えられるだろう事。決して口外されない事。
この【テアトル・シャノワール】全体が関わった事であり、メイン・ダンサー五人も深く関わっている。
【彼】は普通にこの巴里で生活を送り、この巴里を心から愛した。
その身は遥か東の小さな島国からやってきた異邦人であったにも関わらずだ。
好奇の目で見られたこともあっただろう。人種の違いで色々と辛いこともあっただろう。言葉も違えば、食文化も違う。
そんな環境の中、【彼】は常に全力で人間に接し、他人のことを第一に考え、この巴里の平穏のためにその持てる力を十二分に発揮した。
【彼】の本質を見極めることの出来た人は以外と数少ない。きっと、いつもはボーッとしていたからだろう。
それは【テアトル・シャノワール】の近所の市場の人達がそう言っていたから間違い無いだろう。
だが、その本質を見極めた五人のメインダンサーと二人の秘書は、【彼】に切ない想いを抱いていた。
いつか、その想いを【彼】に伝えることが出来ると思い・・・。
しかし、【彼】はもう、この巴里にはいない。遥か東方の島国、【彼】の故郷へ帰っていったからだ。
故郷が【彼】の力を必要としていたからである。彼女達には辛い別れであった。
どれくらい辛かったかというと、別れの日から数ヶ月は【テアトル・シャノワール】の人間全員が、まともに仕事が手につかない状態だった。
が、今はその想いを昇華させて素晴らしいダンサーと敏腕の秘書に成長し、この【テアトル・シャノワール】を支えている。
再び【彼】に会えることを心待ちにしながら、彼女達は毎日を充実させ、自身の人生の刹那を全力で生きる。
「……ふっ。ムッシュ、次にこの巴里に来た時は大変だよ……」
日々輝きを増していく彼女達を思い浮かべながら、グラン・マはモギリ服に対して暖かい微笑みを残して倉庫を出た。
【彼】こと東方からの一陣の穏やかなる風、大神一郎のことを思い出しつつ・・・。
次・回・予・告!!
自分自身が嫌いな彼女が出会った“Gentle Wind”は彼女の人生に
愛の御旗のもとに・・・ 「何だろう・・・この感覚・・・とても暖かい・・・」 |
では、また次回にお会いしましょう・・・