──レ二=ミルヒシュトラーセ』
読み進むに従って、クリスの目からみるみる涙が溢れてきた。
自分は、家族に愛されていたのだ。誰よりも最初に愛されたかった人達に、愛されていたのだ。その確信が、クリスの心に広がって溢れ出していた。
「あの日、ボクたちはあの奥の部屋でクリスの誕生パーティを開くつもりだったんだ。内緒にして驚かせようとしていたけど、それが足かせになっていたなんて思いもしなかった。――お誕生日おめでとう、クリス……姉さん」
病室にクリスの号泣が響いた。それは八年ぶりに流された、押し殺さない涙だった。
「レ二……レ二! 私は、生きたい。いきたいよ。レ二」
「うん。クリスが生きていてくれたら、ボクも嬉しい」
子供のように泣くクリスの背中をなでながら、眩しい光に目を細めた。帝都のビルの間から金色の光があふれ出し、夜の闇を切り裂いて薄暗い病室を薙いだ。
レ二は朱金の輝きを眩しそうに見つめた。視線の先には、生まれたての朝日を背にして立っている二人の人影があった。
医務室前で会った時には誰だか分からなかった。自室に現れた時には不思議な既視感しかなかった。だけど、今ははっきりと分かる。
レ二の父さんと母さんだ。
言いたい事はたくさんあった。ヴァックストゥームの時も、記憶が戻った後も。でも、いざとなると言葉は思いを素通りし、ただ一言だけが言葉になった。
「……ありがとう」
二人は微笑むと、レ二を抱きしめた。やがてゆっくりと消えていく姿に小さく手を振って、レ二はつぶやいた。
「……さようなら」
<7>
数日後、クリスは無事に退院し、帝劇へと戻ってきた。
帝劇のみんなはクリスの退院を心から喜び、退院祝いが賑やかに開かれた。
特に、米田支配人は踊り出しそうなくらい喜んでいだ。
退院祝いパーティが終わり、先の戦闘の報告書を持ってきたかえでに、米田は杯を渡した。
「支配人、まだ昼間ですよ」
「固ぇ事言うなよ。今日はめでてえ日なんだ。シュトックハウゼンの降魔が倒されて、レ二もクリスももう心配する事ぁねえ。……さつきくんも一馬も、喜んでるだろうよ」
かえではほほえんで、杯を受け取った。
「そうですね。私はあの二人をブルーメンブラッド事件の頃から知っていますが、あの子たちはよく頑張りました。……クリスに、横浜港で開口一番に降魔の事を口止めされた時にはどうしようかとも思いましたが、本当に良かったです」
杯になみなみと満たした酒を一気にあおって、米田は感慨深げに言った。
「俺ぁ口止めされたからこそ、あいつは大丈夫だって思ったぜ。花組の奴らにゃあ嫌われたくねえって事だからよ」
そう言うと米田はふと真面目な顔になった。
「あいつに初めて会った時、この子は本当にさつきくんの娘かと目を疑ったぜ。やせっぽちで、青白い顔をして、目だけは異様に輝いてよ。だが、それも無理もねぇ。あの薄暗ぇシュトックハウゼン本家で、たった十三かそこらの子供がよぅ、一人肩肘張って精一杯背伸びして、周りは腹黒い大人たちばかりで、侮られねぇように男言葉使ってよぅ。見ていて痛々しかったぜ。……さつきくんは『幸せになる』って言ってたが、あの子はとてもじゃねぇが幸せそうには
見えなかった」
米田の思い出話を、かえでは黙って聞いていた。
「その時に帝都の話をしたんだ。そしたら、子供みてぇに目をきらきらさせてな。行ってみてぇって言いながら、泣くんだ。レ二を一人にはしておけねぇから、自分は行けねぇとよ」
「だから、あんなに肩入れしていたんですね」
「ああ。あいつを帝撃に迎え入れるのは一つの賭けだった。もしも黒鬼会にあいつが攫われたりでもしたら、もしも賢人機関の懸念通り、呪術で帝撃を破壊でもしたら、全部が終わったぜ。それでも、帝都へ行きてぇっていうあいつの希望を叶えてやりたかったんだ。……俺ぁ、甘ぇな」
自嘲気味に笑う米田に酌をして、かえでは微笑んだ。
「ええ。甘いですね。……でも、その甘さにみんなついていくんだと思います」
かえでの言葉に一瞬面食らうと、米田はにっと笑った。
「へっ……照れるじゃねぇかよ。ほら、かえでくんも飲め。今日はめでてぇ日なんだからよ!」
「はい」
かえでは杯を干すと、支配人室から見える帝都の風景に目をやった。
木枯らしの吹く季節がやってくるけれど、あたたかい笑顔がある限り、どんな北風も心を冷たくする事はできないだろう。クリスも、かえで自身も。
ようやく重荷が一つ降りた気がした。
時は静かに過ぎ、神崎重工での連動試験もその日が最終日だった。
クリスの退院後、天武の連動は滞りなく行われ、試験は予想以上の成果をあげた。
神崎重工を辞する前に、クリスは神崎重工側の責任者である宇川に挨拶をしにいった。
紅蘭と一緒に応接室に入ると、そこに宇川と瀬潟が待っていた。
一通り挨拶が終わりソファーに座ると、宇川がクリスに深く一礼した。
思わず面食らっていると、宇川は頭を上げてクリスの手を取った。
「シュトックハウゼン博士。今日までありがとうございました。……正直に言って、私達はあなたを歓迎しなかった。天武の連動瑕疵は私達だけでも解決できると、いきなり横合いからしゃしゃり出て勝手に指示を出したりしないでほしいと思いました。ところが、あなたのお陰で予想以上の結果を残す事ができました。ありがとうございます」
真っすぐな言葉に、クリスは言葉を失った。自分が相手に不快感を与えている事は分かっていたので、こんな風に褒められるのはなんだか少しくすぐったいような気がした。
「いや。私の方こそありがとう。あなたたちと研究できて、自分とは全く違うアプローチをする霊子機関に触れられてとても楽しかった。紅蘭の工学的見地からのアドバイスもとても面白かったし。……あなたたちなら霊子機関を任せられるな」
「任せられる、だって? 冗談じゃねぇ。そんな志の低い事を言わないでもらいたいぜ」
「瀬潟!」
宇川は若いエンジニアをたしなめた。瀬潟はクリスをしっかりと見つめた。
「俺はいつかあんたを追い越す。Y型並列霊子機関以上の霊子機関を確立させて、あんたと対等以上の立場を手に入れてやる。その時追い越したのが過去の理論でした、なんてそんな情けない事は嫌なんだよ! 俺は、あんたが出す新しい理論や霊子機関を追い越したい。それでこそ本当に追い越したって言えるんだ。だから、その……」
瀬潟は、じっと見つめ返すクリスの顔を見ていられないように、急に頬を赤くしてそっぽを向いた。
「研究、やめるなんて言うなよな。学会に発表できねえのは仕方ねえけど、いつか帰って来た時のために、続けろよ。でないと、俺はすぐにでもあんたを追い越すぜ」
「ほー、言いますなぁ、瀬潟はん。まるで愛の告白みたいに聞こえんでぇ」
紅蘭はからかうように瀬潟をつついた。瀬潟は耳まで真っ赤にして反抗した。
「そ、そんなんじゃねえよ! 紅蘭だって、俺の霊子機関を受け止めるだけの光武を作らねぇと、釣り合わねえって言われても知らねぇからな!」
「言いますなー。光武の事はうちにまーかしとき! 瀬潟はん達の霊子機関をバッチリ受け止める光武を作ったんでー!」
紅蘭は胸をどーんと叩いた。そんな二人の様子を聞いていたクリスは、声をあげて笑った。
「ありがとう。ようやく決心がついたよ。欧州に帰ったら巴里に行く。以前から誘われていたんだ。独逸の方は、全部にきりを付けて整理してあるから問題はないだろう。……そう簡単には追い越させないからな」
いたずらっ子のように微笑むと、クリスは宇川に薄いファイルを差し出した。
「これは?」
「外部連動系統の疲労に対する霊子反応構成図と連動対応設計指図書の概要だ。もうこちらでも対応策が検討されていたから破棄しようかと思ったが、もしも気が向いたら検討してみてくれ。これの原本は今帝劇にあるから、使うようなら後程送らせよう」
宇川は書類を受け取ると、ページをめくった。ものすごいスピードでページを繰ると、宇川はうなった。
「シュトックハウゼン博士。これは一体いつ書かれたんですか?」
「最初に大神機の霊子機関をのぞいた時から十日くらいで、かな。最初に見た時にどうすればいいのか直感的に脳裏に浮かんだから、後はそれを整理しながらまとめただけだよ。特に新しい理論って訳でもないし。……あの時は現実逃避したくて、ずいぶん無茶をしたけど役に立ったんならいい」
「クリスはん!」
紅蘭は目を輝かせて喜んだ。紅蘭の向かいで、宇川から受け取ったファイルを見ていた瀬潟が急に立ちあがった。
「瀬潟、どうした?」
「帝劇へ行って、この原本を貰ってきます! 悔しいが、一見の価値があるぜ、これはよ!」
鼻息も荒くドアを開けると、振り返ってクリスに宣言した。
「いいか! 俺は、絶対にあんたを追い越してやるからな!」
「ああ、その意気だ。いつでも受けて立ってやるから、かかってこい」
廊下をずんずんと歩く瀬潟の足音を聞いて、クリスは自然と笑みがこぼれた。
捨てようとしてどうしても捨てられなかったファイルが、こうして役に立った。クリスはかつての自分の思い切りのなさに感謝した。
おもしろいライバルも現れたし、これから楽しくなりそうだった。
「これはうかうかしていられないな」
ぽつりとこぼしたクリスに、宇川も同意した。
「ええ。私もです」
「うちも、もっとええ光武を開発せん事には、置いてかれてまうな」
明るい日差しが差し込む応接室で、明るい笑いがこぼれた。
<8>
クリスが帝都を離れる前日、送別会の前に約束していたセッションが開かれる事になった。音楽室に全員集まり、そこで身内だけのミニライブが始まると、みんなの間から拍手喝采が湧き上がった。
歌や踊りにはうるさい花組のメンバーにとっても、そのセッションは身びいきなしに素晴らしいものだった。
歌い、踊り、奏でる時間はあっという間に過ぎ去り、最後の歌の最後のフレーズが静かに終わった。
三人は一礼すると、音楽室が割れんばかりの拍手が巻き起こった。拍手が収まるのを待って、織姫とレ二は視線を交わした。
ピアノの音が流れると、レ二が歌い始めた。
「
鈍く輝く鉄色と
かすかに香る 緑の薔薇
冷たい夜 独り膝を抱えて 見上げた星に
手を伸ばして 掴めない光たち 見送るたびに
うつむいて見下ろした 道になみだが落ちて
振り返ればいつもそこに にじむ足跡続く」
クリスの知らない歌だった。切ないバラードに乗ったレ二の声が、静かな音楽室に響き渡った。
「
暗闇を 杖もなくただ一人 歩き続けた
染まりゆく 紅の地平線に 背中を向けた
立ち尽して 息してた 背中 押してくれた
救いの手が あるという 遥か夜明けの国へ」
花組が全員立ちあがると、見事な合唱を響かせた。ピアノで伴奏する織姫も歌い、素晴らしい歌が音楽室に溢れた。悲しいバラードは徐々に明るさを増していった。
「
だから 独りで泣かないで
自由は その手の中に
憎しみも 悲しみ怒りさえ 乗せたこの地で
憎しみも 悲しみ怒りさえ 笑顔に変えた
そんな日々もいつでも あなたがいてくれた
迷い道も 荒れた道も 行く手示してくれた」
クリスの脳裏に今までの出来事が走馬灯のように駆け巡り、それら全てが花組の歌声によって浄化されていった。辛かった事。悲しかった事。怖かった事。楽しかった事。嬉しかった事。優しかった事。クリスは感極まって、ただただ涙を流した。
「
無限大の青と 白い羽根 輝く翼
私にもきっと この空を飛べるはず
無限大の日々と 青い羽根 青い希望
あなたにもきっと この空を飛べるはず
旅立ちを迎え はるか光の空へ
闇に出遭う日も この手の光は永遠(とわ)に
大地蹴り行こう はるか彼方の空へ
過去も現在(いま)も全て 抱きしめて翔び立とう」
みんながクリスを思いやる気持ちが歌に乗り、クリスの心を明るく照らしていった。
闇に支配されそうな時もあった。辛くて何度も投げ出しそうになった。そんな思いがひとつひとつ浮かんでは消えていった。
「
この青はいつも 私たちと共にある
あなたが生きる あの空と同じ色」
歌が終わり、拍手が鳴り響いた後もクリスだけは嬉しくて泣き崩れていた。
そんなクリスに、レ二は微笑みかけた。
「クリスは本当に、泣き虫だ」
レ二は、彼女が以前は本当によく泣いていた事を思い出した。嬉しければ泣き、悲しければ泣く。クリスにとって泣くのは愛情表現の一つだった。
いろいろな道程を経て、改めて泣き虫が戻って来たのならばそれもいい。レ二はそう思った。
ようやく涙をおさめると、クリスは息を整えた。
涙で顔は赤くなっていたが、何とか平常心を取り戻したクリスは舞台の上で一礼すると、一人無伴奏で歌い始めた。
「 Amazing grace, how sweet the sound
アメージング・グレース_その素晴らしい響き
That saved a wreck like me
私のような者にまで_救いの手を差し伸べる
I once was lost but now I'm found
罪深き迷い子だった私は_今はおそばに
Was blind but now I see
盲いていた目は_今や見える様に
'Twas grace that taught my heart to fear
大いなる愛が______畏れ敬う事を悟し
And grace my fears relieved
また無益な恐れから解き放ってくれた
How precious did that grace appear
信じる事を__始めたその瞬間に
The hour I first believed
尊い愛は_私を包み込んでくれた」
クリスの声が、音楽室いっぱいに響き渡った。高く澄んだ声に乗せられたたくさんの想いが、「歌」という媒体を通じて心の奥底まで染み渡った。
百万の言葉よりも饒舌な歌声が、音楽室に響き渡っていた。
アメージング・グレース。イギリスで作詞・作曲された賛美歌で鎮魂歌(レクイエム)だった。
「Through many dangers, toils and snares
数多くの危難や____苦しみ 誘惑から
I have already come
この愛が私をここまで導き
'Tis grace have brought me safe thus far
_そうして________その愛の力で
And grace will lead me home
私を家へと帰り着かせ給う」
音楽室に大きな拍手と歓声が響いた。
<9>
翌日の朝、朝食の後クリスは中庭に立ち寄った。今日の昼過ぎの
船に乗って欧州へ帰るために、あと少ししか帝劇にいる事ができな
い。横浜港へ向かう前に、どうしてもやっておきたい事があった。
中庭へ足を踏み入れると、白い犬が尻尾を振って駆けよってきた。
クリスは微笑んでその犬の背中をなでていると、後ろからポロロ
ロ〜ンというギターの音がした。そこに現れたのは、案の定加山だ
った。
「平和はいいなあ。……いよう、海ぃ」
「わん!」
「そうかそうか。それは良かった」
「わんわん!」
出てくるなり犬と会話する加山を、クリスは半ばあきれて見やっ
た。
「……何が良かったんだ?」
「いやぁ、それは男同士の秘密ってもんだ。なあ、海」
「わんわんわん!」
「まあ、いいか。それより、会えて良かった」
クリスは立ちあがり、加山に頭を下げた。
「ありがとう、加山さん」
「ク、クリスさん! やめてくださいよ」
珍しくうろたえる加山に、クリスは真剣に語った。
「加山さん、あなたは私を守ってくれていたんだろう?」
加山はばつの悪そうに頭をかいた。
「いやぁ、俺の任務はあなたの監視でもあったんだ。礼を言われる
事じゃないですよ」
クリスは頭を振った。自分にかけられていた疑惑――呪殺幇助の
事を考えると、この帝劇で最大限の自由を与えてもらえたのは、彼
らが「クリスは何もしていない」という事を証明してくれていたか
らに他ならなかった。
「私の状況や、帝撃の今を考えれば、四六時中誰かが張りついてい
るか、もっと悪くすれば神崎重工で厳重な監視体制のもと、研究し
なければならなかったかもしれない。むしろそっちの方が自然なの
に、あなたたちは私を『人間』として扱ってくれた。本当に、感謝
の言葉もない」
「それを言うなら、米田支配人に言ってくださいよ。俺はただ月組
を動かしただけですから」
「私が監視されている事に気付いたのは、レ二とマリアくらいなも
のだろう。他のみんなに気付かせなかったのは凄いよ。――監視に
気付いたら、みんな気分悪いだろう?」
クリスはくすりと笑った。
「特に、カンナは烈火のごとく怒り出しそうだ」
「そうですね」
二人は笑った。明るい日差しの中に笑い声が響いて、秋の風に乗
っていった。
「これからも、みんなの事を守ってほしい。私はもうここにはいら
れないが、欧州でも最大限の事はさせてもらうつもりだ」
クリスは優しい笑顔を浮かべた。
「加山さんも、自分を大切にな。私は、あなたの事も大好きなんだ」
「俺もですよ。……俺は愛していますからね、帝劇の……」
そこまで言うと、加山はふと振りかえった。その視線の先には、
大神が何とも言い難い顔で立っていた。
「いよう、大神ぃ。どうした? 変な顔をして」
「さっきの話、聞いたぞ」
「いいっ!? ま、まさか……」
大神の言葉に、加山は少しぎょっとした。大神は珍しくうろたえ
る友人の顔を真剣に見た。さっきまでの会話は、到底聞き流せるも
のじゃなかった。
「加山、お前……」
そんな大神に、観念したように加山は手を軽く上げた。
「まいったな。もう少し秘密にしておくはずだったんだが、仕方な
い。そう、俺は帝国華撃団・月組隊長……」
「クリスくんの事が好きなんだな!?」
大神は指をびしっと加山に突きつけた。まるで犯人を追いつめる
名探偵のような口調に、加山葉思わず間抜けな返答をした。
「……は?」
思わず間抜けな顔で聞き返す加山には気付かない様子で、大神は
今まで温めてきた推理を披露した。
「お前、クリスくんが大変な時には必ず側にいたし、わざわざ浅草
にまでついてきたがっただろう? この間の戦闘だってクリスくん
を守ってくれたし。……由里くんに相談したらそれは好きだからじ
ゃないかって言ってたけど、本当みたいだな。でも、クリスくんは
もう結婚しているし、それにいくら心配だからって戦場に出てきた
ら危ない……」
「ぶわっはっはっはっはっはっはっは!」
大神の言葉に、加山は我慢しきれないように腹を抱えて笑い出し
た。クリスも口を押さえて必死に笑いをこらえていたが、やがて声
を出して笑い始めた。
「か、加山!? それにクリスくんまでどうしたんだ!?」
「い、いや、いいんだ、なんでも。お、お前はその……わっはっは
っははは!」
「何なんだ? 一体」
何故笑われているのか分からない大神は、釈然としない顔で加山
に詰め寄った。加山はそれに答えず、ただひたすら腹を抱えて笑い
転げた。
「大神少尉。大神少尉はそのままでいればいい。そういうことだろ
う?」
「そ、その通りです、クリスさん。じ、じゃあな、大神。ア、アデ
ィオース」
笑いの発作がおさまらないまま去っていく加山を、訳もわからず
に笑い飛ばされた大神はただ見送った。
「一体なんなんだ? お前は!」
その言葉にも、クリスはただ笑い転げるばかりだった。
「クリスくん。話って何だい?」
納得いかないような大神の声にようやく笑いを納めると、クリスは軽く手を振った。
「大神少尉。……この子に名前を付けたんだ。聞いて欲しい」
「へえ。何て名だい?」
「リヒト。独逸語で光だ」
「いい名前だね。お前もそう思うだろう? リヒト」
「わん!」
リヒトは尻尾を振って喜んだ。どうやらこの名前が気に入ったらしい。クリスはリヒトの背中をなでながら、静かに語った。
「アルバムの思い出は、いつも白い光と共にあった。この八年間、セピア色に褪せる事がなかったんだ。だから、レ二の夢も白い色をしていたんだろう。物に想いは宿るから」
クリスは顔を上げて大神を見た。
「あの日々……ベルリンの下町で過ごしたあの日々は、本当に幸せだった。幸せと共にあった白い光が、これから先の私の人生にもあるように。そんな願いを込めたんだ」
「クリスくんの白い光は必ずあるさ。……帝劇も白い光を放っているからね」
「ありがとう、大神少尉」
クリスはふと真顔になると、大神を見つめた。
「私は、レ二が私と同じ思いをしてほしくなかった。その気持ちは今も変わらない。大切な人を理不尽に奪われる苦しみは一度で十分だ。だから、大神少尉。帝撃のみんなを誰一人として失わないでほしい。そのために私は全力を尽くす」
真剣な視線を受け止めて、大神は頷いた。
「ああ。約束する。必ずみんなを守ってみせる」
「『みんな』の中に大神少尉自身も含まれている事を忘れるなよ。大神少尉は帝撃の核だ。失ったら帝撃は帝撃でいられなくなる。例え何を犠牲にしても、生きろ」
「ああ。クリスくんを悲しませるような事はしないよ」
クリスは安心したように微笑むと、手を差し出した。
「約束だぞ」
大神は返事の代わりに、その手を強く握った。
<10>
横浜港で見送りに来た大神にクリスは改めて握手を求めた。
「今まで色々とありがとう。私が花組に受け入れられたのは、あなたが私を見捨てなかったからだと思う。迷惑をかけたけど、元気で」
「そんな事はないよ。……クリスくんこそ、体には気をつけてくれよ」
「ああ。せっかく拾った命だ。絶対に無駄にはしないよ」
大神はクリスの手を握った。少し冷たいけれど、確かに体温の通った手だった。
クリスは改めて花組を見渡した。
「みんなもありがとう。もしも、欧州に来る事があったら、連絡をくれ。何を差し置いても会いに行くから」
「はい。クリスさんもお元気で」
さくらが微笑んだ。ひょっとしたら従姉妹として、もっと近くにいたかもしれないと思うと少し複雑な気もしたが、一生会えないと思っていた相手とこうして仲間になる事ができたのは本当に不思議な縁だった。
クリスは最後にレ二に向き合った。改めて何か言おうとすると言葉につまってしまい、結局短い言葉だけを伝えた。
「レ二。……さようなら。元気で」
レ二は微笑んだ。最初に言われた時は完全にすれ違っていた感情が、今はこうして分かり合える。それが嬉しかった。
「うん。クリスもね」
「そうだ、クリスくん。米田支配人がこれを渡してくれって言ってたけど……」
大神は思い出したように白い封筒を手渡した。クリスは少し不審そうに封筒を受け取ると、目を見開いた。
「それは何?」
「遺書だよ」
それだけ言うと、クリスはその封筒を破り、吹きつける海風の中に舞わせた。
青い空に青い海。白く輝く風の中、かつて遺書と呼ばれた紙片が羽のように舞いあがった。
紙の羽を背負ったクリスは、ただ笑顔で手を振っていた。
完