親愛なるきみへ(第十話)  作・鰊かずの

<1>

 押さえつける力が弱まり、降魔はゆっくりと目を覚ました。
 人間に召喚されて、人間に取り憑くようになって百年。シュトックハウゼン家の霊力を常に食らっていなければ、一塊の瘴気となって消えてしまう呪いをかけられ、降魔の妖力は当初徐々に中和されていったが、霊力を妖力に反転させる方法を覚えた後は、逆に力を蓄えていった。
 最初はすぐにでも呪いを食い破って外へ出て行こうと思ったが、何代か時を重ねる毎に気が変わった。
 宿主たちは、自分が取り憑く度に面白いほど恐怖と絶望の力を降魔に与えた。
 その周囲にいる人間達が悪あがきをするのを見るのも楽しかったし、自分を狩りに来たやくたいもない霊力者達を嬲るのもいい娯楽だった。
 ここにいる限り、霊力は狩りたい放題だった。その見かえりに少しちょっかいをかけてやるだけで、人間どもはすぐに闇の力を降魔に与えた。おろおろと動き回る姿を見るのも滑稽でおかしかった。
 自由と引き換えに人間どもをからかうのにも飽きてきた頃、宿主に選んだ小娘は降魔を強烈に縛った。
 それは、最初に人間の体内に封じられた時と同じか、それ以上の苦痛だった。
 長い時間をかけて馴れていった力とは全く違う破邪の霊力を感じ、降魔は自分の人選の誤りを自覚した。
 最初、降魔は動くに動けなかった。自分を封じようとする力は強烈で、降魔は短い眠りについた。
 早急に負の霊力を補給しなければ、今まで蓄えてきた力が大幅に削がれてしまうのは確実だった。
 降魔は怒りを覚えた。今まで自分は好き勝手にやってきたのに、ここにきて破邪の力で束縛されるのは物凄く不愉快だった。
 降魔はプライドが傷つけられるのを感じた。今まで宿主どもはいい奴隷だったが、窮鼠が猫を噛んできた。この宿主だけは闇に屈服させてやる。そう思った。 
 降魔は宿主の心の闇を刺激して、恐怖と絶望を味あわせてやろうと目論んだ。愛情とやらはたやすく闇に反転する。降魔はそう学んでいた。
 そして、目論みは見事成功した。宿主は心の闇に身を委ね、降魔を縛る鎖を一時断ち切った。
 後はこの闇を皮切りに、宿主の心を蝕んでいくだけだ。造作もない。
 だが、そこで降魔の計算が狂った。
 小娘を一人しとめ損ねた。宿主の持っていた小柄は、呼び出した同胞を消し去ってしまった。その後、小娘の霊力に押さえられ、宿主に乗り移る前に現れた女の付けた傷が開いて、降魔は再び眠りについた。
 それから先も、小柄は事ある毎に降魔の邪魔をした。降魔は苛立ったが、宿主の苦悩や絶望、悪あがきはなかなかの見物だった。
 降魔を縛る霊力は徐々に失われ、少しずつ自由に動ける回数も増えてきた。その度に小柄は邪魔をしたが、最近次代の小娘に会った時はおかしかった。
 宿主は小娘を見た時、喜びと共に嫉妬の感情も抱いた。最近では感情の起伏自体が希薄になって退屈していただけに、周囲に対する嫉妬や羨望は久々に楽しませてもらった。
 油断させておいて不意打ちに自由になった時は、今までで一番深い悲しみや絶望が表れて愉快だった。
 それでこそ、八年間もつきあってやったかいがあるというものだ。
 だが、それもそろそろ終わらせる。この不自由な体を出て、次の宿主へと移る時期が来た。次代に移るのを頑なに拒んでいた今の宿主が、次代の小娘に乗り移った後どんな表情を見せるのか今から楽しみだった。
 そして、新しい宿主は一体どんな感情で降魔を楽しませてくれるだろうか?
 おあつらえ向きに、目の前に小娘が無防備で立っている。宿主も諦めたようだ。ほとんど抵抗がない。
 まったく、人間は自分を飽きさせない玩具だ。
 降魔は、次の宿主へと向かっていった。

<2>

 クリスから抜け出した降魔は、レ二の方へ一直線に向かっていった。
 膨れ上がった降魔の妖力はレ二を包み込み、体内へともぐり込んだ。
 その時だった。
 夢組の祝詞が響き、魔方陣が降魔の足元に現れてその動きを封じた。
 降魔が動きを止めた瞬間クリスは呪文を唱え、かえでの手元に残った最後の「緑の薔薇(グリューネローゼ)」により増幅された霊力のありったけを使って、研究していた呪術――「五峰星封魔法」を降魔にかけた。
 封印されていく感覚に驚いて、降魔は同化されていく宿主を改めて見て驚愕した。
 宿主に選んだレ二の霊力は消え、後には霊力を立体映像化する紅蘭の発明品「れいばいくん改」があるばかりだった。
 降魔はほえた。「五峰星封魔法」により、そこから出る事は叶わなくなった。しかも術者はシュトックハウゼン家の霊力をもって術を発動させた。これが解かれない限り、降魔はひとかたまりの瘴気に変わる事はない。
 降魔はクリスへ向かった。呪術をかけた人間なら、解く事もできるはずだ。その後改めて新しい宿主へと移ってやる。
 降魔が突き出した腕はしかし、クリスに届く事はなかった。
 クリスは夢組により張られた結界に守られ、れいばいくん改と、アイリスがレ二に渡した花冠を巻き込んで半透明の実体を顕にした降魔をじっと凝視していた。
「そこまでだ!」
 どこからともなくレ二の声が響いた。
 降魔は声の主を探して辺りを見まわした。やがて土煙が上がり、翔鯨丸より降下された九体の光武改が現れた。
「帝国華撃団、参上!」
 呼び声も勇ましく現れた光武改の中に、次の宿主の気配を感じ取り、降魔はレ二機へ襲いかかった。
 降魔の爪はしかし、光武改を包む薄いバリアーに弾かれた。
「ウチが発明した「まもるくん」で、撤退せえへん限り降魔に憑かれる事はないで! 思う存分戦ってや! みんな!」
 紅蘭の声が響いた。
「おう! この間のお返しだ!」
 カンナ機は降魔に拳を連続して叩き込むと、降魔を吹き飛ばした。
 その隙に大神機が降魔とクリスのいる結界との間に割り込み、防御を固めた。
「ここは通さない! クリスくんは必ず守ってみせる!」
 大神の声に反応したように、降魔は咆哮をあげた。別の降魔が数体呼び出され、混戦が始まった。
 クリスはただ、結界の内側から花組の戦いをじっと見ていた。

<3>

 雑魚の降魔は倒され、白い降魔もそれなりに手傷を負っていた。
 戦闘は思ったよりも長期化し、結界を張っていた夢組に疲労の色が浮かんだ。
 白い降魔はそれを見逃さなかった。白い降魔は糸を吐き出すと、花組全機の動きを止めた。
「しまった!」
 大神はもがいたが、白い糸をほどく事はできなかった。
 白い降魔は結界へ駆け寄ると、鋭い爪をつき立てて力任せにこじあけた。結界はまるでシャボン玉がはじけるように空気中に霧散した。
「クリスくん!」
 白い降魔は爪を振り上げ、クリスに迫った。
 迫りくる降魔の爪を見据えて、クリスは思いがけない行動に出た。
 今まで自分を苦しめてきた降魔に、ふかぶかと頭を下げたのだ。
「……今まで、どうもありがとう」
 恐怖でも怒りでも、まして憎しみでもない感情にあてられ、降魔の動きが止まった。
まるで縫い付けられたようにその場を動けない降魔をまっすぐに見返し、クリスは続けた。
「私は今までずっとお前が憎かった。お前を恨み、蔑み、憎み続けることで辛い現在からーー過去から目を逸らした。お前がいなければ、八年前のあの日の思い出に耐え切れずに、自らの命を断っていた。私がいまこうしていられるのも、お前のお陰だ」
 降魔は動揺したようにあとずさった。クリスの憎しみこそ、恨みこそ降魔の生きる糧であり、降魔とクリスをつなぐ一種の絆だった。それが断ち切られようとしていた。
 クリスは降魔を見据えたまま続けた。その言葉のどこにも、負の感情が入り込むすきはなかった。
「お前を恨み、蔑み、憎み続けるのと同じ大きさで、私は彼らを愛し、尊び、慈しんできた。私よりも。私の人生よりも。でも、それは違う。彼らは、そんな事を望まない。誰よりも幸せになろうと、誓い合ったんだから。だから、もう終わりにする」
『終わるものか。犯した罪は消えることはない。お前は永遠に憎まれるんだ』
 降魔はうめくように言った。ここでクリスに魔術を解かせないと、降魔はこのまま倒されるかもしれない。怒りや憎しみの感情があれば、そこをつつくのは造作もない事だが、今やクリスを包む静かな霊力は、降魔の動きを止めるのに十分な輝きを放っていた。
 その言葉にも、クリスは静かに答えた。
「そう。消えることはない。私のことを信じて、愛してくれた家族をこの手で葬り去ってしまった。ヴァックストゥームでは、「研究」の名の許に何の罪もない、何の関わり合いもないたくさんくの子供達を犠牲にした。……レ二に笑って欲しかったのに、私を差し置いて幸せになるなんて許さない。そう思った。永遠に憎まれ続けても仕方がない。二度と笑い合えないって、私は許されざる罪人(つみびと)だと思っていた。……でもね、降魔」
 クリスは微笑んだ。自然にこぼれたその笑みは、愛と喜びに満ち溢れていた。
「レ二が私を許してくれたんだ。今が幸せだから、今の幸せの布石のために辛い過去があるんだったら、その全てを受け入れるって。……嬉しかったよ。レ二は、自分はもう幸せなんだって言った。あんな事があったのに、幸せになれたんだ。なら、私も幸せになれるんじゃないか。父さんと母さんのもう一つの遺志を継ぐ事だってできるんじゃないか。……花組のみんなは、それに気付かせてくれた」
 クリスは静かに戦場へと向かった。降魔も、光武も誰も動けない中静かに花組の前に立つと、深く頭を下げた。
「ありがとう。レ二と、仲間と笑える日が来るなんて、思ってもみなかった」
 クリスはくるりと振り返り、降魔に向かい合った。その場に縫いとめられたように動かない降魔の背中に、彼女はきっぱりと宣言した。
「過去は苦しい事ばかりだった。現在もとても辛い。だから、これから幸せになろうと思う。母さんのためでも、ミルヒシュトラーセ夫妻のためでも、レ二のためでもない。自分自身のために生きようと思う。そうすれば、あの日の自分もいつかきっと許せる。未来へ向かって歩いていくことさえ、できそうな気がする。だから、さようなら。私はもう、お前を求めない。お前の力なしで歩いて行くよ。その証に、今、これを返そう」
 クリスは懐から小柄を取り出すと、ゆっくりと投げ捨てた。
 小柄は白い霊力に包まれると、導かれるように花組の自由を奪っていた降魔の触手の根元を引き裂き、地面に深く突き刺さった。
『ぎゃアアアアアアアアアア!』
 触手を断ち切られて叫び声を上げて暴れる降魔に対して、自由を取り戻した華撃団の行動は素早かった。
 加山が立ち尽くすクリスを目にも止まらぬ早業で元いた場所へと避難させると、交代した夢組が新しい結界を張った。
「大神! やれ! 降魔を倒せ!」
「おう!」
 大神はそれを確認すると、降魔の間に割り込み、攻撃と共に戦場の中央へと叩きこんだ。
『おのれ、おのれおのれおのれおのれ! あと一歩だったというのに!』
 膝をつく降魔の前に、レ二が立ちふさがった。目の前にいるのは、敵。全ての元凶となった、本当に憎むべき両親の仇だった。
『小娘! 貴様の体をよこせ! このまま滅びてなるものか!』
「消えろ」
 レ二の目に、怒りの色が射した。
「ボクはお前を許さない。絶対に。父さんと母さん、さつきさん、お前のせいで犠牲になった全てのもの、そしてクリスの八年間の敵だ! ダス・ラインゴルト!」
 レ二の必殺技が降魔を捕らえ、降魔を粉々に引き裂いた。白い光が辺りを包み、断末魔と共に爆発して消えた。
 百年間、シュトックハウゼン一族を縛っていた呪いが、本当の意味で解けた瞬間だった。


 降魔が発した光に包まれ、クリスは思わず目を閉じた。
 まぶたの向こう側から感じるまばゆい光は視界を真っ白に染め上げて、涙がこぼれた。
 光の中、ゆっくりと目を開くと、そこにさつきの姿があった。
 サロンで呼び出した時の姿がそこにあり、さつきはただ微笑んでクリスを見詰めていた。
「ようやく終わったよ……母さん」
 さつきはゆっくりとクリスを抱きしめた。クリスはゆっくりとその背中に腕を回した。何の感触もしないけれど、確かにそこに母はいた。
『ありがとう』
 ただそれだけ言うと、さつきは光の中へ溶けて消えた。

<4>

「クリス!」
 アイゼンクライトを降りて駆け寄るレ二は、涙を見て驚いた。
「どこか痛いの?」
「いや。ただ白い光が眩しくて」
 クリスは涙を拭くと、微笑んだ。そんなクリスを見て、織姫は高らかに言った。
「それじゃ、いつものアレやりますか?」
「いつものアレ?」
「花組では、戦いの後勝利のポーズを決めるんです」
 さも当然の事のように言うさくらに、クリスは少し面食らった。戦闘開始直前といい、戦場に現れる時といい、本当に格好をつけるのが好きなんだなと思った。
「勝利の……ポーズ? また妙な習慣だな」
「これがなければ終わった気がしませんから。そうだ。今回はクリスさんが掛け声をかけてください」
「私が?」
「ええ」
 真面目に頷くさくらに、クリスは照れたように頭をかいた。何だか照れくさくて恥ずかしかったが、不思議と誇らしくもあった。
「そ、それじゃ……せーの」
「勝利のポーズ……決め!」
 全員の笑顔が鮮やかに沈みゆく夕焼け空に弾けた。


「さあ、帰ろう。帝劇へ」
 大神はクリスに手を差し出した。クリスは少しはにかんで手を取り、一歩足を踏み出したが、急に足元がふらついてその場にしゃがみ込んだ。ひどいめまいがして、とても立っていられなかった。
「クリス! どうしたの?」
 レ二がクリスに駆けよった。クリスは心配そうにのぞき込むレ二の顔に頑張って笑いかけたが、真っ青な顔色は彼女の努力を裏切っていた。
「心配……ない。少しめまいがしただけ」
「めまい?」
 クリスは大神の手に縋ってゆっくり立ち上がり、更に一歩踏み込んだがそこが限界だった。
 そのまま倒れるクリスを大神が受け止めて抱き上げた。身長の割には驚くほど軽い体重が、腕の中で身じろぎした。
「だい、丈夫だよ」
「もういい! もういいから頑張るな。今は少し休むんだ」
「……」
 クリスは何か言いたそうに唇を動かしたが、そのまま意識を失った。

<5>

 陸軍省の病院へ運ばれたクリスは、すぐに大石医師の手当てを受けた。
 大石医師は治療を終えて診察室から外へ出ると、少し難しい顔をしていた。しばらく考え込むような素振りを見せていたが、やがて顔を上げると着替えて駆けつけた花組を見渡した。
「クリスさんの、身内の方は?」
「ボクです」
 迷いなく一歩出たレ二の後ろに目をやって、医師は尋ねた。
「後ろの方々もですか?」
 レ二が振り向くと、そこでみんなも一歩前に出ていた。
「そうです」
「レ二の身内なら、あたしたちの身内も同然です」
「みんな……」
 レ二はうなずいて、医師に向き合った。
「状況を」
 大石医師はカルテに目を落とすと更に難しい顔をした。
「急激な霊力の出入りがあった事によるショック症状と、急性「緑の薔薇(グリューネローゼ)」中毒です。今は何とか小康状態を保っています。これから長期的な治療が必要ですね」
「そうですか……」
 レ二は、大石医師に質問した。
「先生。ボクは、クリスに何をすればいいんでしょうか?」
 真剣なレ二に、医師はカルテから目を離して微笑んだ。
「今まで、長い間医者をやってきましたが、絶望的な病に冒された人間が立ち直って元気になる例もたくさん見てきました。その人達は、みな一様に「生きよう」という意思が強かったように思います。ですから、みなさんはクリスさんを励まして、生きる意欲を与えて
あげてください」
 そう言うと、医師は立ち去った。
「生きようとする、意欲……」
 レ二ははっとした。あれならば、きっとクリスにも気持ちが伝わるはずだ。急に駆け出したレ二を、大神は呼びとめた。
「どこへ行くんだい、レ二!」
「少し帝劇へ戻る」


 自室に駆け込んだレ二は、隅のほうに無造作に積まれたわずかな雑貨の中から、古ぼけた包みを取り出した。
 それは、八年前からずっと持っている、自分の唯一の私物だった。
 全くの無用の長物で、処分しようと何度も思った。でもどうしても捨てられず、いつしか存在さえ忘れてしまった包み。
 でも、今のレ二にはそれが何で、どうして捨てられなかったのかが分かった。
 レ二は茶色く変色したピンク色の包装紙をそっと抱きしめた。
「クリス……。今度こそ、渡すよ」
 レ二は包みを持って、病院へと向かった。

<6>

 クリスはなかなか目を覚まさず、レ二は一人クリスの看病をしていた。
 様子を見に来た大神は、午後九時を回っても帰る気配のないレ二に声をかけた。
「レ二。まだついているのかい?」
「隊長」
「心配なのは分かるけど、少しは休んだ方がいい」
「ボクは大丈夫。任務に支障はない」
 レ二はクリスを見た。大石医師の適切な治療の結果、最初は土気色だったクリスの顔色も少しずつ血の気が戻り、今は安らかな寝息を立てていた。
 そんな姿を見守るレ二は、クリスの容態が安定しているにも関わらず不安そうだった。
「レ二。何を焦っているんだい?」
「焦る……?」
「今のレ二は、そんな風に見えるよ」
 大神の言葉に、レ二はため息をついた。大神には全てを見透かされているような気すらした。
「ボクは……今まで誰かをこんな風に見守る事なんかなかった。誰かが苦しい目にあっているのに、ボクには何もできない。それがこんなにも辛い事だったなんて、知らなかった」
「レ二……」
 レ二の目から涙が溢れた。
「こんな思いを、クリスは八年も一人で抱いてきたんだ。その時の事を思うと、冷静では、いられない。どんなに辛かったか、その事を思うと……」
「レ二……」
 大神は、一人涙をこぼすレ二の肩を叩いた。自分のためではない、誰かの痛みを思って流される涙を、尊いものだと思った。
「レ二は、優しいな。他人の事を思いやって、その痛みに涙する事ができるんだから。……俺たちは、クリスくんの八年間に対して何もしてあげる事なんてできない。だけど、これからは違う。辛いとき、悲しいときには支え手になってあげることができる。全てはこれから、だろう?」
「うん……」
 レ二は顔を上げて、包みをなでた。この包みの中の尊いものは、クリスにこそふさわしかった。
「クリスはボクに、八年間のたくさんの思い出をくれた。だから、ボクはクリスがもっていない思い出を、返そうと思う」
「それがいいよ」


 大神が帝劇へ帰り、レ二は医者の許可を得て一人病室に残った。時間は少しずつ進み、東の空が白みかけた頃、クリスがゆっくりと目をあけた。
 レ二はクリスをのぞきこんだ。クリスはしばらく目の焦点が合っていないようにぼんやりとしていたが、やがてレ二の姿を認めると小さくつぶやいた。
「……レ二?」
「気がついた?」
 クリスは光が眩しそうに目を細めた。窓の外に目をやると、朱に染まりかけた空がカーテンの隙間から漏れていた。筆で描いたような雲が、青でも赤でもない不思議な色の空になびいていた。
 最後の記憶が夕方だった。ずいぶん長い間眠っていた事になるが、そこにレ二がいてくれた事が嬉しかった。
「ひょっとして、ずっとついていてくれたのか?」
「うん」
「ありがとう。気分は悪くはないよ。ただなんというか、心にぽっかり穴があいたみたいな変な気分だ」
 そう言うと、クリスはゆっくりと上体を起こした。枕をクッション代わりに腰に当てると、ベッドの背もたれにもたれかかった。
「クリスの悩み、隊長から聞いた。……クリスがこれからどうしたらいいのか、ボクには分からない。だけど、償いとかはもういい。ボク達はこれ以上望まない。クリスに罪があったとしても、もう十分に償われたはずだから」
「レ二……」
「ボクはあなたに渡したいものがある」
 そう言うと、サイドテーブルに置かれた古い包みを手渡した。
 クリスは少し不審そうに包みを受け取った。それは、八年前のあの日レ二が抱いていた包みによく似ていた。
「これは?」
「ボクからの、誕生日のプレゼント。……本当は、八年前に渡さなきゃいけないものだったんだけど」
 クリスは包みを開いた。そこから出てきた物に、思わず手を止めた。
 二枚の薄いガラス板で写真を挟んで、ニスで仕上げた木の枠が縁取っている写真立ての中には、見た事のない写真があった。
 そこには笑顔があった。
 それは、さつきが亡くなる直前、レ二がベルリンバレエコンクール十歳以下の部で優勝した時の写真だった。
 会場にいた写真家に撮ってもらったのだろう、クリスとさつき、レ二とミルヒシュトラーセ夫妻が最高の笑顔を浮かべていた。
 クリスは、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。この写真は、唯一クリスが見た事のないものだった。
「レ二、これは……」
「裏を見て」
 レ二に促されて裏返した。そこには、寄せ書きがあった。
 懐かしい筆跡で書かれたそれは、確かにみんなの直筆だった。
 色あせる事のない、はっきりとしたインクで書かれた文章に、クリスは目を見張った。

『お誕生日おめでとう、クリス。今日は新しい家族の誕生日であるめでたい日だ。これからの君に、幸多からんことを祈るよ。

──ジェイコブ=ミルヒシュトラーセ』


『お誕生日おめでとう。どこにいたって、あなたは私たちの大切な
娘だよ。新しい家族の許に行っても私たちの事を忘れないでね。そ
して、時々は遊びに来てほしいな。
──リーリエ=ミルヒシュトラーセ』


『お誕生日おめでとう、おねえちゃん。いつもありがとう。大好き
だよ。

──レ二=ミルヒシュトラーセ』

 読み進むに従って、クリスの目からみるみる涙が溢れてきた。
 自分は、家族に愛されていたのだ。誰よりも最初に愛されたかった人達に、愛されていたのだ。その確信が、クリスの心に広がって溢れ出していた。
「あの日、ボクたちはあの奥の部屋でクリスの誕生パーティを開くつもりだったんだ。内緒にして驚かせようとしていたけど、それが足かせになっていたなんて思いもしなかった。――お誕生日おめでとう、クリス……姉さん」
 病室にクリスの号泣が響いた。それは八年ぶりに流された、押し殺さない涙だった。
「レ二……レ二! 私は、生きたい。いきたいよ。レ二」
「うん。クリスが生きていてくれたら、ボクも嬉しい」
 子供のように泣くクリスの背中をなでながら、眩しい光に目を細めた。帝都のビルの間から金色の光があふれ出し、夜の闇を切り裂いて薄暗い病室を薙いだ。
 レ二は朱金の輝きを眩しそうに見つめた。視線の先には、生まれたての朝日を背にして立っている二人の人影があった。
 医務室前で会った時には誰だか分からなかった。自室に現れた時には不思議な既視感しかなかった。だけど、今ははっきりと分かる。
 レ二の父さんと母さんだ。
 言いたい事はたくさんあった。ヴァックストゥームの時も、記憶が戻った後も。でも、いざとなると言葉は思いを素通りし、ただ一言だけが言葉になった。
「……ありがとう」
 二人は微笑むと、レ二を抱きしめた。やがてゆっくりと消えていく姿に小さく手を振って、レ二はつぶやいた。
「……さようなら」

<7>

 数日後、クリスは無事に退院し、帝劇へと戻ってきた。
 帝劇のみんなはクリスの退院を心から喜び、退院祝いが賑やかに開かれた。
 特に、米田支配人は踊り出しそうなくらい喜んでいだ。
 退院祝いパーティが終わり、先の戦闘の報告書を持ってきたかえでに、米田は杯を渡した。
「支配人、まだ昼間ですよ」
「固ぇ事言うなよ。今日はめでてえ日なんだ。シュトックハウゼンの降魔が倒されて、レ二もクリスももう心配する事ぁねえ。……さつきくんも一馬も、喜んでるだろうよ」
 かえではほほえんで、杯を受け取った。
「そうですね。私はあの二人をブルーメンブラッド事件の頃から知っていますが、あの子たちはよく頑張りました。……クリスに、横浜港で開口一番に降魔の事を口止めされた時にはどうしようかとも思いましたが、本当に良かったです」
 杯になみなみと満たした酒を一気にあおって、米田は感慨深げに言った。
「俺ぁ口止めされたからこそ、あいつは大丈夫だって思ったぜ。花組の奴らにゃあ嫌われたくねえって事だからよ」
 そう言うと米田はふと真面目な顔になった。
「あいつに初めて会った時、この子は本当にさつきくんの娘かと目を疑ったぜ。やせっぽちで、青白い顔をして、目だけは異様に輝いてよ。だが、それも無理もねぇ。あの薄暗ぇシュトックハウゼン本家で、たった十三かそこらの子供がよぅ、一人肩肘張って精一杯背伸びして、周りは腹黒い大人たちばかりで、侮られねぇように男言葉使ってよぅ。見ていて痛々しかったぜ。……さつきくんは『幸せになる』って言ってたが、あの子はとてもじゃねぇが幸せそうには
見えなかった」
 米田の思い出話を、かえでは黙って聞いていた。
「その時に帝都の話をしたんだ。そしたら、子供みてぇに目をきらきらさせてな。行ってみてぇって言いながら、泣くんだ。レ二を一人にはしておけねぇから、自分は行けねぇとよ」
「だから、あんなに肩入れしていたんですね」
「ああ。あいつを帝撃に迎え入れるのは一つの賭けだった。もしも黒鬼会にあいつが攫われたりでもしたら、もしも賢人機関の懸念通り、呪術で帝撃を破壊でもしたら、全部が終わったぜ。それでも、帝都へ行きてぇっていうあいつの希望を叶えてやりたかったんだ。……俺ぁ、甘ぇな」
 自嘲気味に笑う米田に酌をして、かえでは微笑んだ。
「ええ。甘いですね。……でも、その甘さにみんなついていくんだと思います」
 かえでの言葉に一瞬面食らうと、米田はにっと笑った。
「へっ……照れるじゃねぇかよ。ほら、かえでくんも飲め。今日はめでてぇ日なんだからよ!」
「はい」
 かえでは杯を干すと、支配人室から見える帝都の風景に目をやった。
 木枯らしの吹く季節がやってくるけれど、あたたかい笑顔がある限り、どんな北風も心を冷たくする事はできないだろう。クリスも、かえで自身も。
ようやく重荷が一つ降りた気がした。

 時は静かに過ぎ、神崎重工での連動試験もその日が最終日だった。
 クリスの退院後、天武の連動は滞りなく行われ、試験は予想以上の成果をあげた。
 神崎重工を辞する前に、クリスは神崎重工側の責任者である宇川に挨拶をしにいった。
 紅蘭と一緒に応接室に入ると、そこに宇川と瀬潟が待っていた。
 一通り挨拶が終わりソファーに座ると、宇川がクリスに深く一礼した。
 思わず面食らっていると、宇川は頭を上げてクリスの手を取った。
「シュトックハウゼン博士。今日までありがとうございました。……正直に言って、私達はあなたを歓迎しなかった。天武の連動瑕疵は私達だけでも解決できると、いきなり横合いからしゃしゃり出て勝手に指示を出したりしないでほしいと思いました。ところが、あなたのお陰で予想以上の結果を残す事ができました。ありがとうございます」
 真っすぐな言葉に、クリスは言葉を失った。自分が相手に不快感を与えている事は分かっていたので、こんな風に褒められるのはなんだか少しくすぐったいような気がした。
「いや。私の方こそありがとう。あなたたちと研究できて、自分とは全く違うアプローチをする霊子機関に触れられてとても楽しかった。紅蘭の工学的見地からのアドバイスもとても面白かったし。……あなたたちなら霊子機関を任せられるな」
「任せられる、だって? 冗談じゃねぇ。そんな志の低い事を言わないでもらいたいぜ」
「瀬潟!」
 宇川は若いエンジニアをたしなめた。瀬潟はクリスをしっかりと見つめた。
「俺はいつかあんたを追い越す。Y型並列霊子機関以上の霊子機関を確立させて、あんたと対等以上の立場を手に入れてやる。その時追い越したのが過去の理論でした、なんてそんな情けない事は嫌なんだよ! 俺は、あんたが出す新しい理論や霊子機関を追い越したい。それでこそ本当に追い越したって言えるんだ。だから、その……」
 瀬潟は、じっと見つめ返すクリスの顔を見ていられないように、急に頬を赤くしてそっぽを向いた。
「研究、やめるなんて言うなよな。学会に発表できねえのは仕方ねえけど、いつか帰って来た時のために、続けろよ。でないと、俺はすぐにでもあんたを追い越すぜ」
「ほー、言いますなぁ、瀬潟はん。まるで愛の告白みたいに聞こえんでぇ」
 紅蘭はからかうように瀬潟をつついた。瀬潟は耳まで真っ赤にして反抗した。
「そ、そんなんじゃねえよ! 紅蘭だって、俺の霊子機関を受け止めるだけの光武を作らねぇと、釣り合わねえって言われても知らねぇからな!」
「言いますなー。光武の事はうちにまーかしとき! 瀬潟はん達の霊子機関をバッチリ受け止める光武を作ったんでー!」
 紅蘭は胸をどーんと叩いた。そんな二人の様子を聞いていたクリスは、声をあげて笑った。
「ありがとう。ようやく決心がついたよ。欧州に帰ったら巴里に行く。以前から誘われていたんだ。独逸の方は、全部にきりを付けて整理してあるから問題はないだろう。……そう簡単には追い越させないからな」
 いたずらっ子のように微笑むと、クリスは宇川に薄いファイルを差し出した。
「これは?」
「外部連動系統の疲労に対する霊子反応構成図と連動対応設計指図書の概要だ。もうこちらでも対応策が検討されていたから破棄しようかと思ったが、もしも気が向いたら検討してみてくれ。これの原本は今帝劇にあるから、使うようなら後程送らせよう」
 宇川は書類を受け取ると、ページをめくった。ものすごいスピードでページを繰ると、宇川はうなった。
「シュトックハウゼン博士。これは一体いつ書かれたんですか?」
「最初に大神機の霊子機関をのぞいた時から十日くらいで、かな。最初に見た時にどうすればいいのか直感的に脳裏に浮かんだから、後はそれを整理しながらまとめただけだよ。特に新しい理論って訳でもないし。……あの時は現実逃避したくて、ずいぶん無茶をしたけど役に立ったんならいい」
「クリスはん!」
 紅蘭は目を輝かせて喜んだ。紅蘭の向かいで、宇川から受け取ったファイルを見ていた瀬潟が急に立ちあがった。
「瀬潟、どうした?」
「帝劇へ行って、この原本を貰ってきます! 悔しいが、一見の価値があるぜ、これはよ!」
 鼻息も荒くドアを開けると、振り返ってクリスに宣言した。
「いいか! 俺は、絶対にあんたを追い越してやるからな!」
「ああ、その意気だ。いつでも受けて立ってやるから、かかってこい」
 廊下をずんずんと歩く瀬潟の足音を聞いて、クリスは自然と笑みがこぼれた。
 捨てようとしてどうしても捨てられなかったファイルが、こうして役に立った。クリスはかつての自分の思い切りのなさに感謝した。
 おもしろいライバルも現れたし、これから楽しくなりそうだった。
「これはうかうかしていられないな」
 ぽつりとこぼしたクリスに、宇川も同意した。
「ええ。私もです」
「うちも、もっとええ光武を開発せん事には、置いてかれてまうな」
 明るい日差しが差し込む応接室で、明るい笑いがこぼれた。

<8>

 クリスが帝都を離れる前日、送別会の前に約束していたセッションが開かれる事になった。音楽室に全員集まり、そこで身内だけのミニライブが始まると、みんなの間から拍手喝采が湧き上がった。
 歌や踊りにはうるさい花組のメンバーにとっても、そのセッションは身びいきなしに素晴らしいものだった。
 歌い、踊り、奏でる時間はあっという間に過ぎ去り、最後の歌の最後のフレーズが静かに終わった。
 三人は一礼すると、音楽室が割れんばかりの拍手が巻き起こった。拍手が収まるのを待って、織姫とレ二は視線を交わした。
 ピアノの音が流れると、レ二が歌い始めた。


鈍く輝く鉄色と
かすかに香る 緑の薔薇

冷たい夜 独り膝を抱えて 見上げた星に
手を伸ばして 掴めない光たち 見送るたびに

うつむいて見下ろした 道になみだが落ちて
振り返ればいつもそこに にじむ足跡続く」

 クリスの知らない歌だった。切ないバラードに乗ったレ二の声が、静かな音楽室に響き渡った。


暗闇を 杖もなくただ一人 歩き続けた
染まりゆく 紅の地平線に 背中を向けた

立ち尽して 息してた 背中 押してくれた
救いの手が あるという 遥か夜明けの国へ」

 花組が全員立ちあがると、見事な合唱を響かせた。ピアノで伴奏する織姫も歌い、素晴らしい歌が音楽室に溢れた。悲しいバラードは徐々に明るさを増していった。


だから 独りで泣かないで
自由は その手の中に

憎しみも 悲しみ怒りさえ 乗せたこの地で
憎しみも 悲しみ怒りさえ 笑顔に変えた

そんな日々もいつでも あなたがいてくれた
迷い道も 荒れた道も 行く手示してくれた」

 クリスの脳裏に今までの出来事が走馬灯のように駆け巡り、それら全てが花組の歌声によって浄化されていった。辛かった事。悲しかった事。怖かった事。楽しかった事。嬉しかった事。優しかった事。クリスは感極まって、ただただ涙を流した。


無限大の青と 白い羽根 輝く翼
私にもきっと この空を飛べるはず
無限大の日々と 青い羽根 青い希望
あなたにもきっと この空を飛べるはず

旅立ちを迎え はるか光の空へ
闇に出遭う日も この手の光は永遠(とわ)に
大地蹴り行こう はるか彼方の空へ
過去も現在(いま)も全て 抱きしめて翔び立とう」

 みんながクリスを思いやる気持ちが歌に乗り、クリスの心を明るく照らしていった。
 闇に支配されそうな時もあった。辛くて何度も投げ出しそうになった。そんな思いがひとつひとつ浮かんでは消えていった。


この青はいつも 私たちと共にある
あなたが生きる あの空と同じ色」

 歌が終わり、拍手が鳴り響いた後もクリスだけは嬉しくて泣き崩れていた。
 そんなクリスに、レ二は微笑みかけた。
「クリスは本当に、泣き虫だ」
 レ二は、彼女が以前は本当によく泣いていた事を思い出した。嬉しければ泣き、悲しければ泣く。クリスにとって泣くのは愛情表現の一つだった。
 いろいろな道程を経て、改めて泣き虫が戻って来たのならばそれもいい。レ二はそう思った。


 ようやく涙をおさめると、クリスは息を整えた。
 涙で顔は赤くなっていたが、何とか平常心を取り戻したクリスは舞台の上で一礼すると、一人無伴奏で歌い始めた。

「 Amazing grace, how sweet the sound
 アメージング・グレース_その素晴らしい響き

That saved a wreck like me
私のような者にまで_救いの手を差し伸べる

I once was lost but now I'm found
罪深き迷い子だった私は_今はおそばに

Was blind but now I see
盲いていた目は_今や見える様に

'Twas grace that taught my heart to fear
大いなる愛が______畏れ敬う事を悟し

And grace my fears relieved
また無益な恐れから解き放ってくれた

How precious did that grace appear
信じる事を__始めたその瞬間に

The hour I first believed
尊い愛は_私を包み込んでくれた」


 クリスの声が、音楽室いっぱいに響き渡った。高く澄んだ声に乗せられたたくさんの想いが、「歌」という媒体を通じて心の奥底まで染み渡った。
 百万の言葉よりも饒舌な歌声が、音楽室に響き渡っていた。
 アメージング・グレース。イギリスで作詞・作曲された賛美歌で鎮魂歌(レクイエム)だった。

「Through many dangers, toils and snares
 数多くの危難や____苦しみ 誘惑から

I have already come
この愛が私をここまで導き

'Tis grace have brought me safe thus far
_そうして________その愛の力で

And grace will lead me home
私を家へと帰り着かせ給う」

 音楽室に大きな拍手と歓声が響いた。

<9>

翌日の朝、朝食の後クリスは中庭に立ち寄った。今日の昼過ぎの
船に乗って欧州へ帰るために、あと少ししか帝劇にいる事ができな
い。横浜港へ向かう前に、どうしてもやっておきたい事があった。
中庭へ足を踏み入れると、白い犬が尻尾を振って駆けよってきた。
クリスは微笑んでその犬の背中をなでていると、後ろからポロロ
ロ〜ンというギターの音がした。そこに現れたのは、案の定加山だ
った。
「平和はいいなあ。……いよう、海ぃ」
「わん!」
「そうかそうか。それは良かった」
「わんわん!」
 出てくるなり犬と会話する加山を、クリスは半ばあきれて見やっ
た。
「……何が良かったんだ?」
「いやぁ、それは男同士の秘密ってもんだ。なあ、海」
「わんわんわん!」
「まあ、いいか。それより、会えて良かった」
 クリスは立ちあがり、加山に頭を下げた。
「ありがとう、加山さん」
「ク、クリスさん! やめてくださいよ」
 珍しくうろたえる加山に、クリスは真剣に語った。
「加山さん、あなたは私を守ってくれていたんだろう?」
 加山はばつの悪そうに頭をかいた。
「いやぁ、俺の任務はあなたの監視でもあったんだ。礼を言われる
事じゃないですよ」
 クリスは頭を振った。自分にかけられていた疑惑――呪殺幇助の
事を考えると、この帝劇で最大限の自由を与えてもらえたのは、彼
らが「クリスは何もしていない」という事を証明してくれていたか
らに他ならなかった。
「私の状況や、帝撃の今を考えれば、四六時中誰かが張りついてい
るか、もっと悪くすれば神崎重工で厳重な監視体制のもと、研究し
なければならなかったかもしれない。むしろそっちの方が自然なの
に、あなたたちは私を『人間』として扱ってくれた。本当に、感謝
の言葉もない」
「それを言うなら、米田支配人に言ってくださいよ。俺はただ月組
を動かしただけですから」
「私が監視されている事に気付いたのは、レ二とマリアくらいなも
のだろう。他のみんなに気付かせなかったのは凄いよ。――監視に
気付いたら、みんな気分悪いだろう?」
 クリスはくすりと笑った。
「特に、カンナは烈火のごとく怒り出しそうだ」
「そうですね」
 二人は笑った。明るい日差しの中に笑い声が響いて、秋の風に乗
っていった。
「これからも、みんなの事を守ってほしい。私はもうここにはいら
れないが、欧州でも最大限の事はさせてもらうつもりだ」
 クリスは優しい笑顔を浮かべた。
「加山さんも、自分を大切にな。私は、あなたの事も大好きなんだ」
「俺もですよ。……俺は愛していますからね、帝劇の……」
そこまで言うと、加山はふと振りかえった。その視線の先には、
大神が何とも言い難い顔で立っていた。
「いよう、大神ぃ。どうした? 変な顔をして」
「さっきの話、聞いたぞ」
「いいっ!? ま、まさか……」
 大神の言葉に、加山は少しぎょっとした。大神は珍しくうろたえ
る友人の顔を真剣に見た。さっきまでの会話は、到底聞き流せるも
のじゃなかった。
「加山、お前……」
 そんな大神に、観念したように加山は手を軽く上げた。
「まいったな。もう少し秘密にしておくはずだったんだが、仕方な
い。そう、俺は帝国華撃団・月組隊長……」
「クリスくんの事が好きなんだな!?」
 大神は指をびしっと加山に突きつけた。まるで犯人を追いつめる
名探偵のような口調に、加山葉思わず間抜けな返答をした。
「……は?」
 思わず間抜けな顔で聞き返す加山には気付かない様子で、大神は
今まで温めてきた推理を披露した。
「お前、クリスくんが大変な時には必ず側にいたし、わざわざ浅草
にまでついてきたがっただろう? この間の戦闘だってクリスくん
を守ってくれたし。……由里くんに相談したらそれは好きだからじ
ゃないかって言ってたけど、本当みたいだな。でも、クリスくんは
もう結婚しているし、それにいくら心配だからって戦場に出てきた
ら危ない……」
「ぶわっはっはっはっはっはっはっは!」
 大神の言葉に、加山は我慢しきれないように腹を抱えて笑い出し
た。クリスも口を押さえて必死に笑いをこらえていたが、やがて声
を出して笑い始めた。
「か、加山!? それにクリスくんまでどうしたんだ!?」
「い、いや、いいんだ、なんでも。お、お前はその……わっはっは
っははは!」
「何なんだ? 一体」
 何故笑われているのか分からない大神は、釈然としない顔で加山
に詰め寄った。加山はそれに答えず、ただひたすら腹を抱えて笑い
転げた。
「大神少尉。大神少尉はそのままでいればいい。そういうことだろ
う?」
「そ、その通りです、クリスさん。じ、じゃあな、大神。ア、アデ
ィオース」
 笑いの発作がおさまらないまま去っていく加山を、訳もわからず
に笑い飛ばされた大神はただ見送った。
「一体なんなんだ? お前は!」
 その言葉にも、クリスはただ笑い転げるばかりだった。


「クリスくん。話って何だい?」
 納得いかないような大神の声にようやく笑いを納めると、クリスは軽く手を振った。
「大神少尉。……この子に名前を付けたんだ。聞いて欲しい」
「へえ。何て名だい?」
「リヒト。独逸語で光だ」
「いい名前だね。お前もそう思うだろう? リヒト」
「わん!」
 リヒトは尻尾を振って喜んだ。どうやらこの名前が気に入ったらしい。クリスはリヒトの背中をなでながら、静かに語った。
「アルバムの思い出は、いつも白い光と共にあった。この八年間、セピア色に褪せる事がなかったんだ。だから、レ二の夢も白い色をしていたんだろう。物に想いは宿るから」
 クリスは顔を上げて大神を見た。
「あの日々……ベルリンの下町で過ごしたあの日々は、本当に幸せだった。幸せと共にあった白い光が、これから先の私の人生にもあるように。そんな願いを込めたんだ」
「クリスくんの白い光は必ずあるさ。……帝劇も白い光を放っているからね」
「ありがとう、大神少尉」
 クリスはふと真顔になると、大神を見つめた。
「私は、レ二が私と同じ思いをしてほしくなかった。その気持ちは今も変わらない。大切な人を理不尽に奪われる苦しみは一度で十分だ。だから、大神少尉。帝撃のみんなを誰一人として失わないでほしい。そのために私は全力を尽くす」
 真剣な視線を受け止めて、大神は頷いた。
「ああ。約束する。必ずみんなを守ってみせる」
「『みんな』の中に大神少尉自身も含まれている事を忘れるなよ。大神少尉は帝撃の核だ。失ったら帝撃は帝撃でいられなくなる。例え何を犠牲にしても、生きろ」
「ああ。クリスくんを悲しませるような事はしないよ」
 クリスは安心したように微笑むと、手を差し出した。
「約束だぞ」
 大神は返事の代わりに、その手を強く握った。

<10>

 横浜港で見送りに来た大神にクリスは改めて握手を求めた。
「今まで色々とありがとう。私が花組に受け入れられたのは、あなたが私を見捨てなかったからだと思う。迷惑をかけたけど、元気で」
「そんな事はないよ。……クリスくんこそ、体には気をつけてくれよ」
「ああ。せっかく拾った命だ。絶対に無駄にはしないよ」
 大神はクリスの手を握った。少し冷たいけれど、確かに体温の通った手だった。
 クリスは改めて花組を見渡した。
「みんなもありがとう。もしも、欧州に来る事があったら、連絡をくれ。何を差し置いても会いに行くから」
「はい。クリスさんもお元気で」
 さくらが微笑んだ。ひょっとしたら従姉妹として、もっと近くにいたかもしれないと思うと少し複雑な気もしたが、一生会えないと思っていた相手とこうして仲間になる事ができたのは本当に不思議な縁だった。
 クリスは最後にレ二に向き合った。改めて何か言おうとすると言葉につまってしまい、結局短い言葉だけを伝えた。
「レ二。……さようなら。元気で」
 レ二は微笑んだ。最初に言われた時は完全にすれ違っていた感情が、今はこうして分かり合える。それが嬉しかった。
「うん。クリスもね」
「そうだ、クリスくん。米田支配人がこれを渡してくれって言ってたけど……」
 大神は思い出したように白い封筒を手渡した。クリスは少し不審そうに封筒を受け取ると、目を見開いた。
「それは何?」
「遺書だよ」
 それだけ言うと、クリスはその封筒を破り、吹きつける海風の中に舞わせた。
 青い空に青い海。白く輝く風の中、かつて遺書と呼ばれた紙片が羽のように舞いあがった。
 紙の羽を背負ったクリスは、ただ笑顔で手を振っていた。



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次回予告

本家を飛び出し、日本を離れて長い月日が経ちました。
私は自分の道を後悔しませんが、
あなた方と仲違いしたままなのが心残りでなりません。

次回 「親愛なるきみへ 外伝
________________帰郷  前編」

太正櫻に浪漫の嵐!
こんな私を、許してくださいますか?

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