親愛なるきみへ(第四話)  作・鰊かずの

<1>

 怖い。


 足元に広がった光景に、思わずきつく目を閉じた。
 ――白い闇が渦巻く空間に、声が響いた。


 いやだ、怖い。


 足元が震える。目が回る。手がかじかむ。膝が萎える。
 ――その声の発生源はどこなのか、全神経を研ぎ澄まして探ったけど、特定する事はできなかった。


 帰ろうよ。


 どうしてこんな所に来てしまったんだろう。
 どうして誘いの手を取ったんだろう。
 ――白い闇の中、不安定な不安だけが広がっていた。


 嫌だ。だって、高いよ。


 目が開けられない。しがみついた腕を離せない。体が硬直して動かない。
 ――例え高所でも、落下し、障害物に激突しなければ問題はない。それが分からないのだろうか?


 ねえ、早く帰ろう。


 歌声だ。
 ――音源確認。左五十センチ。推定年齢十才前後の女児のものと思われるが、そこに人物らしい存在を確認する事はできない。



 秋は……て 暮れ……く空
 ……しき…… 黄金に染……て
 朱に ……に 紺に 黒……
 ……がて 闇へ……』


 単調なメロディに乗った歌に、少し目を開いた。
 ――霞の向こうに光源を確認。あれは……


 きれい……


 
 かすかに見える山々と、その間から見える金色の強い光。
 ――あの光は。


 夕焼けだ。


 木の上から見た金色の美しい光に照らされて、二つの人影はゆっくりと伸びていった。
 ――視界が悪くなる。意識が……保てない。


『いつか、一緒に見ようね』


 その声を最後に、意識は完全に混沌に飲まれた。

<2>

 翌朝。銀座の空は相変わらず晴れ渡り、雲一つない青空が嫌味なほど美しく広がっていた。大神は自室でその空を見上げると、新たなる決意を持って屋根裏部屋へ向かった。
 これ以上クリスの事を黙認できない以上、何としてでも対話を持たなければ、彼女の立場の方が危うい。
「クリスくん、起きているかい?」
 見なれたドアをノックしたが返事はなく、それどころか不自然なくらい人の気配がなかった。ドアノブを回したが、やはりカギがかかっている。
 大神は少しむきになってもう一度ノックしたが、ドアは沈黙で答えた。
「クリスくん。少し話がしたいんだ。食堂にいるから、降りたら声をかけてくれないか?」
 やはり答えない屋根裏にため息をついて、大神は食堂へと向かった。

 食堂へ降りると、花組のみんなが揃っていた。一ヶ所に集まってなにやら話をしている中には珍しくかえでがいた。ここのところ帝劇にいる事が少なく、何をしているのかとても忙しそうだった。だが、私服で花組のみんなと話をする後ろ姿は元気そうで、大神は安心した。
「おはようございます、かえでさん」
 かえでは大神の声に振りかえって笑顔を見せた。
「おはよう、大神くん。今までの事、みんなに聞いたわよ。大変だったみたいね」
「いえ、大した事ありませんよ」
 大神の強がりにかえでは頷くと、隣に座るよう促した。大神が席に着くと、かえでは切り出した。
「それで、大神くん。クリスが帝劇に来て七日経ったけど、大神くんは彼女の事をどう思ったのか聞かせてもらえるかしら?」
 率直なかえでの問いにどう答えるべきか、大神は少し考えた。
「そうですね……。正直に言うと分かりません。冷たい人のように思えますが、それだけでもないようですし。例え何も話さなくても、せめて食事の席にでも顔を出してくれると俺としても理解する糸口を見出せるんですが……」
 大神の言葉に、かえでは渋い顔をした。
「そうね。せめて食事だけでも摂ってもらわないと、体が保たないわ。本当に仕方のない子」
「いや、まあそれもそうなんですが……」
 あきれたようにため息をつくかえでに、大神は返す言葉が見当たらなかった。
 どこか論点のずれたその言葉に、紅蘭が不安げに尋ねた。『けいそくくん』のゆらぎや幽霊騒動がある今、かえではのんきに構えすぎのように思えた。
「かえではん、『けいそくくん』の事やけど、ホンマに大丈夫なんか?」
「大丈夫よ。クリスはそんな事しないわ」
 妙に自信満々なかえでに、マリアは不安そうに尋ねた。
「そんなに信頼してもいいんですか? ……言いにくいことですが、私にはかえでさんほど、彼女の事を信頼できません。信頼するに足るだけの情報がありませんから」
「そうだな。あたいは七日前の朝メシの時以来顔も見てねえし」
 マリアとカンナの言葉に、かえでは額を押さえて、仕方ないという風に頭を振った。
「そうね。……大神くん。今夜にでも、クリスの私室を訪ねるといいわ。何をしているのか、自分の目で見ていらっしゃいな」
「はい。俺としてもそうするつもりでしたし。でも、会ってくれるでしょうか? 今朝もまだ降りて来てないみたいですし……」
 少し不安げな大神に、かえでは毅然とした態度で答えた。
「もし、どうしても面会を拒否するようなら、私の部屋へいらっしゃい。屋根裏部屋のカギを渡すわ」
「いいっ!? そんな押し入るような事をしていいんですか?」
「ここまで拒否するクリスが悪いもの、私が許すわ。……それにしても、あの子にも困ったものね。約束した事忘れたのかしら?」
「約束って何ですか?」
 大神は首をかしげた。そういえば、歓迎会の前にかえでとクリスは何か話していたのを思い出した。その事だろうか?
「私は、クリスに帝劇にとけこんでもらいたいの。せっかく帝都に来れたのに、仕事だけして帰るのはもったいないわ。だから、なるべく彼女の方からも打ち解けるように念を押したんだけど……」
 かえではため息をついた。忙しくて帝劇へいられなかった間に、事態は予想以上に深刻化していたのがいたたまれないようだった。
「そういえば、最近かえでさんと支配人はお忙しそうですけど、どうかなさったんですの?」
 心配そうなすみれに、かえでは笑顔で答えた。
「ええ。……陸軍大臣と海軍大臣が揃って視察に出てしまってね。その間の軍の仕事や、賢人機関との折衝なんかで、少しね。でも、もうピークを過ぎたから、そろそろ落ち着くはずよ」
 賢人機関とは、全世界に広がる謎の秘密結社である。
その影響力はすさまじく、各国の首脳部にも絶大な発言力を持っていた。それほど大きな結社であるにも関わらず、その存在を知る者自体まれで、全体像を知る者はいないとさえ言われていた。
 その主な仕事には「高霊力者の保護・監視」も含まれており、帝国華撃団が創設される際、織姫とレ二を除く六人を見出したのも賢人機関である。日本において政府、陸軍、海軍、警察のいずれの勢力にも属さない帝国華撃団もその影響は強く受けていた。
 クリスもまた霊力者で、しかも霊子力学者という事は帝都へ来る際に賢人機関が関わってきている、というのは想像にた易かった。
 その手の話が関わっているのなら、みんなに話せない事もあるだろう。大神はそれ以上聞かずに話題を変えた。
「そういえば、由里くんが言ってたけどアイリスは幽霊を見たんだって?」
 突然話を振られて、アイリスは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔で頷いた。
「うん。見たよ」
「それにしては、怖がってないね」
「だってアイリス、こわくなかったんだもん」
 そう言うと、一昨日の出来事を話した。
「あのね、おとといアイリスがお風呂からあがったら、白いふくをきた知らないおんなの人がいたの。アイリスびっくりして大声を出そうとしたら、その人が笑ったの。それでアイリスの頭をなでてね、こうしたの」
 アイリスは人差し指を口元に持ってきた。ちょうど、「秘密」や「内緒」を示すジェスチャーである。
「それで、ろうかを横切って消えたの。アイリスびっくりしたけど、こわくなかったからへいきだよ。そのあと、おにいちゃんのおへやに行ったけど、いなかったからいいやって思ったんだ」
「そうか……」
 その鮮明な様子に、大神は驚いた。てっきり白い影が遠くで横切った程度だと思っていたが、そこまではっきりとした意思を感じるのなら生霊にしろ死霊にしろ、何者かの霊であると見て間違いないだろう。アイリスが敵意も害意も感じなかったという事は、当面害はないかも知れなかったが、判断の材料が少なすぎた。
「その人は、どんな人だった? もう少し詳しく教えてくれないかい?」
「うーんとね……ぜんぜんいじわるそうな人じゃなかったよ。かみのけは……よこを残してあやめお姉ちゃんみたいにくくってた。おはなのかたちの髪飾りをしてたよ。その人のかおを見たんだけど、暗くてよくわかんなかったんだ」
「そうか。ありがとう、アイリス。もしももう一度見たら、すぐに知らせてくれるかい?」
「うん。やくそくするね」
 アイリスはにっこり微笑んだ。
「それにしても、クリスはん遅いなぁ。そろそろ行かへんと、間に合わへんで」
 紅蘭が心配そうに蒸気壁掛け時計を見た。いつのまにか時刻は八時を回り、迎えの蒸気自動車がすでに帝劇前に待機していた。
 いつも神崎重工にだけはきちんと顔を出していたのに、その日は降りて来る気配さえ感じられなかった。
「そうだね。さっき声をかけた時も、部屋の中に人の気配はなかったし……」
 大神の言葉に、すみれは嫌な予感がした。昨夜、クリスがいつ来てもいいように部屋のカギを開けて休んだが、結局現れなかった。あのあと目覚めて自室へ帰ったのならいいが、もしそうでなかったらまだ医務室にいる可能性は高かった。
「まさかとは思いますが……」
 すみれはみんなに昨夜の一部始終を話した。

<3>

 そのまさかだった。
 全員で医務室へ向かうと、そこにはマグロのように眠ったクリスがいた。どんな夢を見ているのか、幸せそうな笑顔を浮かべて眠るクリスには、さすがにいつものとげとげしさはなかった。
 髪はしめったまま枕の上でとぐろを巻き、くしゃくしゃになった私服が布団の端から見え隠れしている姿に、レ二は新鮮な驚きを隠せなかった。
 レ二の中のクリスは「いつも冷たく自信に満ち、常に取り巻きを従えた暴君」で、こんなに無防備なクリスを見たのは初めてだった。
 昨夜布団をかけてあげたそのままの姿に、すみれは少し微笑んだ。
「昨夜は結局、部屋には戻らなかったのですわね」
「それにしても、よく寝てるよなぁ」
 カンナが感心したように言った。枕もとに十人いるにも関わらず、目を覚ます気配は一切なかった。クリスは周囲に気付く事もなく、完全な爆睡モードに突入していた。
「かわいそうやけど、そろそろ起こさなな」
 布団に手を掛けかけた紅蘭を、かえでは止めた。かえでの口元には、少し安心したような笑みが浮かんでいた。
「いいわよ。寝かせてあげなさいな。きっと疲れが出たのよ。欧州からの一ヵ月の長旅の後、連日横浜との往復だもの」
「せやな。たまには休まんと保たへんわな」
 かえでと紅蘭の会話を聞いて、大神は改めてクリスがハードワークをこなしていたという事に気付いた。環境が変化して心身ともに大変だっただろうに、そんな事はおくびにも出さなかったクリスの意地っ張りに感心し、少しも気付いてやれなかった自分を恥じた。
「そうだね。気付かなかったよ」
「気付かせる余地を一切与えなかったクリスが悪い。……隊長は悪くない」
「レ二……」
 気遣うようなレ二の言葉に、大神は笑顔で応えた。相変わらず、レ二はクリスに対する評価が辛い。まあ、それも仕方のない事だったが。
「ほな、うちは神崎重工に行って来るわ。これ以上運転手はん待たせんのも気ぃひけるし。宇川はん達には、うちが話しとくわな」
「紅蘭。私が先に連絡を入れておくわ。心配しないで行ってらっしゃい」
 かえでの言葉に、紅蘭はほっとしたように微笑んだ。
「おおきに、かえではん。ほなな」
「さ、みんなも出ましょう。これ以上寝顔を見てるのもかわいそうだわ」
 かえでの言葉で、全員医務室を出た。
 

<4>

 十二時を回り、四時になってもクリスが起きてくる気配はなかった。
 レ二はその日、午後から地下の作戦司令室で帝都の地理を確認していた。
 今は黒鬼会の動きも沈静化しているが、いつ侵攻してくるか分からない。戦場へ出る前に少しでも帝都の地理と轟雷号の射出ポイント、戦闘に有利な地形やその時に有効であろう作戦をシミュレーションしておくのは悪くなかった。こういう地道な努力のの積み重ねが、自分と花組を勝利へと導くのだ。
 一通り確認を終えて地上への階段を上がろうとしたレ二の視界の端を、ふと白い影がよぎった。今朝アイリスが言っていた、白い服の女の幽霊だ。レ二は警戒しながら廊下へ視線をやった。女は少し離れた場所で佇み、レ二を待っているようだった。アイリスの言う通り、女は鼻から上がぼやけて消えていて、その顔を伺い知る事はできなかった。
 レ二は注意深く女を観察した。骨格その他から推察するに年齢は二十代後半で、中肉中背。ブラウスの上からベストを着て、膝丈のスカートをはいている。長い髪はやわらかなウエーブを描いて背中に流れていた。
 アイリスの見たという女とは違う。姿が違うだけなのか、それとも幽霊はニ体以上いるのか、今のレ二には判断するだけの材料がなかった。
「だれ?」
 警戒も顕に話しかけたが返事はなく、ただ口元が寂しそうにゆがむと、くるりと背を向けた。女の幽霊はすっと医務室前まで移動すると、ドアの中へと消えていった。
 アイリスの話にあった幽霊と同じく、確かに害意は感じられなかった。だからといって確認しない訳にはいかない。レ二は辺りを注意深く探りながら医務室へと向かった。


 医務室に入ると、そこに幽霊の姿はなかった。医務室の端のベッドで未だに眠りこけるクリスをあきれて見やったが、霊的な気配は感じられず、手がかりになりそうな物はなかった。レ二はため息をつくと、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。その時。
「母さん!?」
 いきなり声がして振りかえると、クリスが目を覚まして上体を起こしていた。
 クリスはきょろきょろと辺りを見まわすと、手を額にあてて一息ついた。
「夢か……」
 そんな様子をなんとなく見ていたレ二の視線に気付いたクリスは、寝ぼけ眼のまま話しかけた。
「おはよう、レ二」
「お、おはようクリス」
 レ二は思わずしどろもどろに答えた。寝起きのクリスはいつものとげとげしい気配がなく、普通の人間に見えた。
 十六時間以上眠ったのにまだ眠り足りないのか、大あくびをして背筋を伸ばすと緩慢な動きで枕もとにあったヘアブラシを取って、おっくうそうに髪をとかし始めた。濡れたままの髪はまだしめっていて、ところどころダンゴになっていたが、それらを器用にとかす様子をレ二は何も言えずに見守っていた。
「夢を見ていたよ。昔の夢。楽しかったな。……未練がましくもある」
 独り言のようにぶつぶつと何事かつぶやいていたが、髪が整うに従ってだんだん目が覚めたようだった。徐々に目にいつもの光が戻り、行動に鋭角さが戻っていった。
「……レ二」
 ブラシを置いて立ちあがったクリスはすでにいつものクリスで、声からも態度からもさっきまでの柔軟さは綺麗に消え失せていた。
「今何時だ?」
「一七一五」
「何故起こさなかった!? 馬鹿者が! 一七一五だと!? 気が利かないにも程がある!」
 クリスは心底苛立ったように怒鳴りつけた。レ二にそれを言うのは八つ当りというものだが、そんな事に彼女は頓着しなかった。
 急いで衣服を整えると、きびきびと指示を出した。
「蒸気自動車を手配しろ。今から神崎重工へ向かう。李博士は既に向かっただろうから、キネマトロンで連絡を取ってくれ。道中打ち合わせをする。ファイルと筆記具を……」
「必要ない。……かえでさんが神崎重工に連絡済だ。今日はゆっくり休むようにと命令が出ている」
「藤枝副司令が?」
 怪訝そうな顔のクリスを無視して、レ二はサイドテーブルに向かった。昼過ぎにかえでが置いて行った手紙を手渡すと、クリスはそれをひったくるようにもぎ取った。封筒を開ける手ももどかしく、折り畳まれた紙に目を通した。一枚の紙の表面を視線が忙しく泳ぐと、クリスは力尽きたようにベッドに座りこんだ。
「……最悪」
 クリスの手から落ちた手紙を拾い上げて読むと、大した事は書かれていなかった。ただ今日はもう神崎重工へ行かなくていいという事と、あまり根詰め過ぎるなという事が、かえでらしい端正な字で書かれていた。
「これが、どうかしたの?」
「お前には関係のない事だ。口を挟むな。迷惑だ」
 クリスはそう言うと、苛立ったように立ち上がって早足で医務室を出た。ため息をついて後を追おうとしたが、ふと、レ二は視線に気付いた。
医務室入り口から見て右端の角に、誰かがいる。幽霊を見た直後なだけに、それは幽霊の視線かとも思ったが、霊的な物とは違ういわば物理的な視線だった。天井には何もなかったが、そこに確かな視線だけが感じられ、レ二は静かに視線を合わせた。しばらくにらみ合っていたが、やがて天井裏の視線が消えた。レ二は何も言わずに医務室を出た。


<5>

 医務室を出て地下の廊下をのし歩くクリスは、ひどい自己嫌悪に陥っていた。
 昨夜は神崎さんにのぼせたところを助けられ、ほんの小一時間休憩しようと思っていた医務室で気がつけば午後五時過ぎまで眠っていたなんて、大失態もいいところだ。寝起きをレ二に見られたというのもいただけない。
 しかも神崎重工へ行かなくてもいい、というのが信じられなかった。霊子核機関の連動瑕疵は、改善されつつあるとはいえいまだ存在し続けている。こんな事をしている暇があればすぐにでも駆けつけたいが、蒸気自動車が手配できない以上それは無理な話だ。何より自分がいなくても研究に支障はないのだという事は、認める訳にはいかない。まあ、物は考えようだ。自分がいなければ研究は進まないのだという事を思い知ればいい。
 一通り腹の中で毒づいて地上に出ると、そこは明るい日差しで満ちていた。
 すぐに屋根裏の自室へ帰ろうとしていたクリスだったが、初めて見る陽光の下の帝劇に、ささくれだった気持ちが少しだけ癒されるのを感じた。
 廊下は左右に伸び、左の廊下はすぐに右に折れている。あの先には楽屋があるのだろう。「青い鳥」千秋楽の日に行った覚えがあった。廊下の左側は音楽室だ。右の廊下は真っ直ぐに伸び、厨房に突き当たると左に折れ、食堂とロビーへと続く。右手には支配人室、事務室、来賓用玄関があり、それぞれ一度ずつ入室した事があった。
 クリスは、右の廊下の左側を見た。今までそこに何があるかなんて興味すらなかったために何となく廊下の壁があるんじゃないかと思っていたが、どうやら違うらしい。壁は一部切れていて、中庭らしい空間に続いている。小さく水の音も聞こえるし、どうせ今日は少し時間的に余裕もある。好奇心に動かされるように、クリスは中庭へと向かった。

***

 初めて入った中庭は、思っていたよりも広くてよく整備されていた。秋の夕暮れは早い。すでにセピア色に染まりかけている帝劇は、いがいがしていた心をまた少しほぐしてくれた。
 私はそんな自分の心の変化をいまいましく思い、少しでもこの劇場に好奇心を持った事を後悔した。帝劇に情を移しちゃいけない。花組に受け入れられてはいけない。別れの辛さは身に染みて知っているじゃないか。
 ここにいるのはやめよう。これ以上心を乱される前に早く屋根裏に行こう。そう思った時、足首にふわふわの毛並みを感じた。
 心底驚いて、思わず足を振り上げた。何か分からない物は怖い。蹴飛ばそうとして見下ろすと、茶色の目が私を見上げていた。
 真っ白な毛並みの子犬。少し高い鳴き声。
 尻尾を振ってなついてくるその姿に、私は既視感(デジャ・ビュー)を覚えた。

**

 別にクリスの後を追った訳じゃない。これ以上地下にいても無益なだけだから、ボクは地上へ上がった。
 地下の人工の照明に馴れた目には、夕暮れ時の日差しは少し眩しく感じられた。
どうせクリスはもう屋根裏へ帰っただろう。あの人が何をしていても別に今更どうという事もないけど、あの人も寝ぼける事があるんだと思うと少しだけおかしかった。
 秋の日は短い。
 今日は夕日が綺麗だ。こんな日の中庭はとても居心地がいい事をボクは最近知った。
 中庭に目をやると、フントがクリスになついているのが見えた。
 以前クリスの足元へなついていった犬は、容赦なく蹴飛ばされていた。その時のあの人の笑みを思い出して、ボクは思わずぞっとした。
 考えるより早く、ボクはフントの元へと駆け寄った。

 昼過ぎからずっとかかっていた書類整理がようやく終わって、俺はほっと一息ついた。
 『青い鳥』の公演中は事務所の二人も何やかやと駆り出されていて事務の仕事はかなり滞っていたから、遅かれ早かれ駆り出される事は承知していた。
 けど、こんなにため込まないで欲しかった。
 俺はいらなくなった紙の束を抱えて事務室を出た。これを燃やせば解放されるけど、かすみくん達はまだもう少しやっていくようだ。残業続きで体を壊さなければいいけれど。
 体を壊すといえば、クリスくんはまだ目を覚まさないのか、あれ以来一度も会っていない。もう目を覚まして屋根裏へ帰ったのかもしれないけど、どうせ紙を燃やしに地下へ降りる事だし一度様子を見に行こう。
 今日もいい天気だった。秋の日は短いというけど、外はまだまだ明るくて気持ちのいい風も吹いている。ずっと神崎重工へ行きっぱなしで、クリスくんはこんないい日も知らないんだろうな。
 そう思った時、階段を上がってきたレ二が凄い勢いで中庭へ駆け込んだ。
 何かあったんだろうか? 


 中庭は光で満ちていた。
 秋の夕暮れ間近の光を受けて、帝劇は金色に輝き、それとは対照的な青い空が、劇場の向こうで全てを受け止めるように広がっていた。
中庭に植えられた木々や草花が、秋風になびいてさわやかな音を立てて揺れていた。心地良い風が頬をなで、立ちつくす体の隅々まで新しい空気が満ちていくような錯覚を覚えた。
 建物の中からは人の気配がして、どこからか語り合う声がする。厨房からは夕食のいい匂いが漂ってきた。かすかに聞こえてきたピアノの音は織姫が弾いているのだろう。よどみない旋律が音楽室から流れた。
四方を走る銀座の大通りからする雑踏や蒸気自動車のエンジン音、帝鉄の警音も、この中には入ってこられない。クリスは中庭の中央で目を閉じて、深呼吸しながら金色の帝劇を肌で感じていた。
 レ二はそっと歩み寄った。クリスの隣に立つと、何も言わずに帝劇を見渡した。
 クリスはゆっくりと目を開いて、独り言のように言った。
「ここが……レ二の『家』なんだな」
「うん。大帝国劇場だよ」
 ただ一言だけ言葉を交わす二人の後ろ姿を、大神はただ微笑んで見守っていた。

<5>

 大神は廊下に紙の束を置くと、そっと中庭に入った。光の中で佇む二人の間には、今まであった冷たい距離感が少しだけ縮んでいるように見えた。
 しばらく帝劇を見ていたクリスは、やがて少しうつむくと、ぽつりと語り始めた。
「……本来、私はここにいるべき人間じゃない。いてはならない人間なんだ。秘密プロジェクトだって、私がいなくても神崎重工のあのチームなら遅かれ早かれ解決できた事だ。それなのに、私は来日した。最初から招かれざる客なんだ」
 独り言のようにつぶやくクリスを、大神とレ二はただ見つめた。今まで決して明かされなかったクリスの本心の一端が、彼女自身の言葉で語られようとしていた。
 大神とレ二の視線を気にする様子もなく、クリスは続けた。
「例えそうでも、ここで一ヶ月間邪魔をすると決めた以上、私は頑張らなければならない。『来てくれて本当にありがとう』と言われる結果を出さなければならない。そうでなければ、私を帝都へ呼び寄せるために力を尽くしてくれた米田司令の顔にドロを塗る事になる。……なのに、うまくいかないんだ」
 夕日は更に傾いて、三人の立つ場所はもうすでに建物の影に入り込んでいた。西側の空から真っ赤な夕日が帝劇を赤く染め上げるのを、クリスはただ見守っていた。
「私の理論は正しい。何を聞かれても答えられる自信はある。実際、どんな討論も私は負ける事はなかった。それなのに、思ったような結果は伴わない。意思の疎通もままならない。焦れば焦るほど結果が出ない。陰口なんて、しょせん負け犬の遠吠えなんだから気にする事はない。それなのに……」
 クリスは少し黙って振りかえると、困ったように大神を見た。
「大神少尉から李博士にひとこと言ってくれないか? 私が何を言われたってかばう必要はないって」
「クリスくん、そんなに何か言われているのかい?」
 聞きかえしながら、大神は初日の地下の様子を思い出した。あの調子で事を進めていたのなら、確かに孤立もするだろう。そんな彼女を、紅蘭が放っておけずにかばっていたのは想像に難くなかった。
 クリスは少し肩をすくめて、何でもない事のように言った。
「別に。陰口や誹謗中傷なんて、慣れているから平気だ。ただ、私の事で李博士まで悪く言われるのは忍びない。……私をかばう必要はないって何度も言っているのに、自分が大変な思いをするだけだって分かっているのに、どうして。これから先もずっと付き合うのなら分かる。でも、最長で一ヶ月しかいない人間の事をそんなに気に掛けるのは無駄な事じゃないのか?」
 淡々と語るクリスに表情はなく、それがかえってそれが本心である事を告げているように思えた。
 何故そこまで思いつめるのかは分からないが、「一ヶ月しかいない」というのは帝劇へ来た当初から言い続けていた事だった。大神にとって、一ヶ月も十年も変わりはない。
「いつまで一緒にいられるのかなんて、そんな事は関係ないよ。これから一生付き合う人も、明日には会えなくなる人も、少なくとも今は、同じ時間を共有する仲間だ。この瞬間は永遠に変えられないから、いがみ合うより信じ合いたい。……どれだけ一緒にいられるか、なんて誰にも分からないんだから」
 大神の脳裏に、あやめとサキの姿が浮かんだ。帝劇へ来て、仲間だと思っていたのに去っていった二人。彼女達に対して自分はもっと何かしてやれたんじゃないか。もっと別の判断を下していれば、結果は違ったんじゃないか。大神は何度も己にそう問いかけてきた。だが、そのたびに出る答えは同じなのだ。そんな思いをしたくないから、できる事は何でもしたかった。
 陽は完全に落ち、東の空が青から藍に変わっていった。帝劇の各所で明かりが灯されて、中庭を照らし出した。
「……あなたは馬鹿だ。大神少尉」
 クリスはそれだけ言うと、帝劇の中へと入っていった。レ二は無言で歩み去るその後ろ姿に声をかけた。
「クリス。夕食……食べに来て」
「……」
 クリスは一瞬立ち止まったが、振り返らずに立ち去った。


 クリスの去った中庭には、大神とレ二だけが取り残された。彼女の後ろ姿を見守っていたレ二の肩を大神は叩いた。驚いて大神を見上げたレ二は、その微笑みに安堵した。
「よく頑張ったね、レ二」
「隊長……?」
「クリスくんが中庭にいる間中、ずっと緊張していただろう?」
 いたわるようなその言葉に、レ二は予想以上に肺にたまっていた空気を吐き出した。
「……うん。少しだけ」
 自分はもう、帝都で仲間を得た。過去の幻影(ヴァックストゥーム)は関係ない。あの組織は解散して、すでに跡形もない。分かっていても、現実の存在としてクリスがーー加害者がそこにいると、無意識のうちに拒絶反応を起こしてしまっていた。
それでも、帝都へ来るまでは平気だった。クリスに会おうと、彼女の叔父に会おうと、心が何かを感じることはなかった。それなのに、帝都でクリスに会ってからは彼女の一挙手一投足に不思議なくらい心が揺れた。
「でも、ボクはクリスに向かい合うよ。クリスに会うのは辛いけど、ここを乗り越えなければ一生あの影におびえて生きなければならなくなる。それは嫌なんだ」
 決意を告げるレ二に、大神は笑いかけた。辛い過去から逃げずに、立ち向かう事でそれを克服しようとするレ二の強さは尊いものだと思った。だがそれは、一人だけでできるものじゃない。
「わんわん!」
 励ますようにフントが鳴いた。大神は、元気づけるようにレ二を見上げるフントを抱き上げた。
「がんばれ、レ二。俺達はいつでもきみの味方だから」
「わん」
 大真面目な一人と一匹を見て、レ二は微笑んだ。そう。自分は一人じゃない。それがレ二に勇気を与えてくれた。
「うん。ありがとう」
 空は完全に闇に落ち、いくつかの星がきらめいている。明かりの灯った中庭に秋の風が吹きぬけて、二人の頬をなでていった。

<6>

 予想通りと言おうか、クリスは夕食の席に降りては来なかった。
 紅蘭も早い時間に帰ってきて、食堂には久しぶりに花組全員が揃った。ライスカレーを囲んで和気あいあいと食事が進む中、レ二は少し残念そうに誰もいない食卓を見ていた。
 夕食が済み、みんな思い思いの部屋へ帰っていった。クリスのために夜食を作るのだと言っていたさくらに、レ二は何やら話しかけていた。
 そんな二人を見送り、大神は自室へ帰ろうとする紅蘭を呼びとめた。
「紅蘭、少しいいかい?」
紅蘭は不思議そうに足を止めると大神に近寄った。
「なんや? どうしたんや大神はん」
「実は今日、クリスくんが……」
 大神は中庭の出来事を話した。神妙な顔つきで聞いていた紅蘭は、その話を聞いて少し微笑んだ。
「さよか。クリスはんがそないな事をなぁ。うちの事を気にかけてくれとったんやな。なんや嬉しいわ。……せやけどな、クリスはんの頼みは聞けへんで。うちが勝手にやってる事やし、何より孤立は辛いやろ。陰口を言われて平気な人間はおらんさかい」
「紅蘭、そんなに神崎重工でうまくいっていないのかい?」
 紅蘭は苦笑いをこぼした。
「まぁ、な。いろいろあんねん。クリスはんも頑固なお人やさかい、一度こうや言うたら退かへんし、瀬潟はん達は瀬潟はん達で今まで光武の霊子機関を預かってきたっちゅープライドがあるしな。言うとる事はどっちにも一理あんねん。まぁ、お互いにもう少し歩み寄ってくれたらうまくいくはずやとうちは思ってんねんけどな」
 紅蘭にここまで言わせるのだから、神崎重工の状況は推して知るべし、である。板ばさみになって苦労する紅蘭の姿がありありと想像できた。
「大変だったね、紅蘭」
「うちは平気や。それよりもクリスはんや。……中庭の様子やと、今やったら少しは話せるかも知れんな。少しでええから歩み寄ってくれへんかて、言いに行った方がええやろか?」
「そうだね。俺も付き合うよ」
 大神の言葉に安心したように、紅蘭は微笑んだ。
「おおきに、大神はん」


 早速屋根裏へ向かおうと厨房の前を通りかかると、レ二とさくらの声がした。のぞいて見ると、ごはんのおひつの前で話をしながら何やら作っていた。
「……わざわざおむすびにするの?」
「ええ。クリスさん、おかずは残されますけどおむすびはいつも全部食べてくださるんですよ」
「そうなんだ」
 ごはんを手に取ったレ二に、紅蘭は声をかけた。
「さくらはんにレ二やないか。何してるん?」
 紅蘭の声に振り向いたさくらは、嬉しそうに微笑んだ。
「あ、紅蘭。レ二が、クリスさんのお夜食を作るのを手伝いたいって」
「レ二が? 自分から?」
 大神は思わず声を上げた。その驚いた調子に、レ二は少しはにかんだように視線をそむけた。
「別に。大した事じゃない。ただ……」
 レ二はぎこちない手つきでおむすびに海苔を巻いた。
「……今日、クリスが初めて『人間』に見えた。苛立ったり、悩んだりできる人間なんだって思った。人間は体の構造上、定期的に栄養を摂取しなければ体の各所に異常をきたして、やがて行動不能に陥る。だから……」
 中庭ではそばにいるだけで緊張を免れなかったレ二にとって、これは相当勇気がいる行動だ。しかも、このままでは三食抜く事になるクリスの健康を思いやっている。
 誰に強制された訳じゃない。自分で考えて行動に移したレ二は、とても強いと思った。
「そうだね。俺達はこれから屋根裏へ行こうと思うんだけど、レ二も一緒にどうだい?」
「……うん。行くよ」
 どこかほっとしたようなレ二に、さくらは二個のおむすびと一杯の味噌汁の乗ったトレイをレ二に手渡した。
「じゃあレ二、クリスさんによろしく伝えてくださいね」
 にっこり微笑むさくらからトレイを受け取ると、レ二は小さく頷いた。
「……うん」

<7>

 三人で屋根裏部屋へと向かい、いつものドアをノックした。
「クリスくん、少しいいかい?」
 やはり返事はなく、大神はドアノブを回した。すると、予想に反してドアはすんなりと開いた。中に入ると、窓際の机に向かって座っているクリスの後ろ姿が見えた。
 大神達の気配に気付いているのかいないのか、クリスはついと手を伸ばすと昨日さくらが手渡したおいもの天ぷらを一切れつまんだ。
「クリスくん。夜食を持ってきたよ」
 蒸気照明に照らされて一心不乱に書き物をするクリスは、振り返りもせずに流暢な独逸語で言葉を返した。
「クリスはん?」
 何か言おうとする紅蘭を押し留めて、レ二は独逸語でなにやら返した。
 なんと言ったのかはよく分からないが、 普段のレ二の口調ではない男性的な声で二、三会話した後、クリスは膨大な独逸語を一方的に語り始めた。
 展開についていけず、紅蘭は大神に小声で話しかけた。
「クリスはん、どないしてんろ?」
 振り向きもせず、独り言のように一方的に語るクリスを見ると、どうも状況が分かっていないように見えた。
「どうやら、何か勘違いしているのかも知れないね」
「そんな事をしていたんだ」
 レ二が急に日本語で話しかけた。クリスは驚いたように振りかえり、うつろな目でトレイを持つレ二の姿を見て、辺りをぐるりと見渡して、最後に後ろにいる大神達の姿を確認して、ようやく自分の現状を把握してつぶやいた。
「レ二……なぜここに?」
「夜食」
 差し出されたトレイに乗ったおむすびとお味噌汁とお茶を見て、クリスはぽんと手を叩いた。
「そうか。ここは帝都だったな」
 至極当たり前の事を言うクリスに、大神と紅蘭は顔を見合わせた。


 まだ研究を続ける、というクリスをなだめすかして、しばらく休憩を取る事になった。
「まだ始めて三時間しか経っていないのに」
 椅子に座ったまま未練がましく机の上を見るクリスに、レ二は手に持っていたトレイを差し出した。
「二時間に一度は休憩を取った方が効率が上がる」
「集中できる時には集中した方がいいだろう? 糖分なら補給しているし」
 机の上には確かにチョコレートやキャンデーがあり、包み紙がいくつも床に落ちていた。
 ゴミ箱に入りそこなった色とりどりの包み紙を、大神は拾い上げた。ハーブキャンデーやフルーツのキャンデーの包みに混じって、何の包み紙かよく分からない白い紙も混じっていた。
「これは何の包みだい?」
「ああ。藤枝副支配人が届けてくれたんだ。藤枝家に伝わる栄養価の高い飴だって」
「かえでさんが……」
 大神はようやく納得した。かえでは何度か、夜中にでもここを訪ねたのだろう。屋根裏のカギを持っているのだからそれも可能だし、突然押しかけても大丈夫な事は実証済みだったのだ。
「まあ、何はともあれ夜食にしよか? うちもクリスはんと少し話をしたい思ってたさかい」
「そうだね。今日のおむすびはレ二が作ったんだ」
「レ二が?」
 クリスは驚いたようにレ二を見た。レ二は相変わらずの無表情でクリスを見た。
「同じ糖分でも、ショ糖とブドウ糖は違う。脳を活性化させるには、飴より米のほうが効果的だ」
「……ありがとう」
 椅子から立ち上がってトレイを受け取ると、クリスはテーブルについた。

<9>

 四人がテーブルにつくと、クリスはおむすびをかじった。
「うち、独逸語はよう分からんのやけど、さっき二人で何を話してたん?」
 紅蘭の質問に、二口目を口いっぱいにほおばったクリスが答えるより早く、レ二はさっきの言葉を復唱してみせた。
「『光武改の霊子機関を見たときに、大神機の霊子系統に疲労が見られた。まだ今すぐどうにかなるような代物じゃないが、不安要素は排除するに越した事はない。それにしても強度計算的に早過ぎる。どういう事か過去のデータを見ると、協力攻撃なるものがあるそうじゃないか。独立した霊子機関同士を連動させて、通常以上の力を発揮する。……発想はいいが、そんなものを連発した日には最悪、暴走する。普段以上の負荷がかかるから。だから、それに対応する霊子反応構成図と連動対応設計指図書を書いているんだ。もうすぐ終わるから、エセルバートは資料をまとめておいて』……どう?」
 口いっぱいのごはんをお茶でどうにか流し込み、クリスは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「間違っちゃいないよ」
「それは、最初に格納庫で見つかった、あの不具合個所かい?」
「ああ」
 つまりこの一週間、クリスは神崎重工での仕事と平行して、発見された光武の不具合個所の解決方法を模索していたというのだ。
 首をかしげるレ二に格納庫での一部始終を話している間に、クリスはおむすびを一個平らげ二つ目に手を伸ばした。
 どうやら頭と体がようやく空腹を認めたらしく、かなりハイペースでおむすびを胃の中におさめていった。
「何とかの部品の交換じゃいけなかったのかい?」
「そんな単純なものだったら、あの整備班が気付いているだろう。激戦を潜り抜けた割には、その他にこれといった落ち度はなかった。これは凄い事だよ……このプラムすっぱい」
 二つ目のおむすびの梅干に顔をしかめながら言った。盛大にけなしていた相手を素直に認める発言に、大神は少なからず驚いた。
「でも、その事に関してクリスくんは手を出さないって言ってなかったかい?」
「まあな。頼まれた事じゃないから、これは破棄するつもりだし」
「なんやて?!」
 紅蘭は辺りを見まわした。
 初めて入った部屋の中は、積まれた書籍と散乱した紙でけっこう散らかっていた。
 クリスの机の脇には、山のような紙がファイルに綴じられていた。部屋の壁一面に貼りつけられたメモは、その一枚一枚にびっしりと文字や計算式が書き込まれていた。心なしか痩せたように見えるクリスを見ても分かる。ほとんど不眠不休で書き上げたのだろう研究成果をあっさりと捨てるというのは信じられなかった。
「そんなん、あかんて。こないに頑張りはった物を捨てるやなんて言わんとき。活用できひんか、宇川はんに聞いてみたるわ」
 クリスは、立ち上がった紅蘭の服の袖をあわてて掴んだ。二つ目のおむすびの最後の一口を口の中に放り込んで、クリスは大変嫌な顔をした。
「よしてくれ。私は手を出さないと言った。それに、この件に関しては既に神崎重工の研究グループが動き始めているだろう?……彼らなら、解決策を見出すのにそれほど時間はかからないはずだ。彼らの面子をつぶすような事はしないでくれ。大体、そんな事をした日には、瀬潟の怒りの顔が目に浮かぶ」
「せやけどなぁ」
 紅蘭は改めて立ちあがると、壁に貼られた紙の群れを見た。そのどれにも独逸語できっちりと計算式が書かれ、一つの式に一つの検算がなされていた。ざっと見ただけでも分かる。これだけの公式を手で計算するのだけでもずいぶんな労力を割いたはずだった。
「それやったら、どないしてこないな大変な事をしたんや? 米田はんに頼んで地下の蒸気演算機を使わせてもろたらもっと早くできたやろうし、うちらかていらん誤解をせんでも良かってんで?」
 紅蘭は真剣な顔で問い詰めた。その視線に押されるように、箸を器用に使って味噌汁を飲んでいたクリスは少しため息をついた。
「米田司令は不在だし、これ以上の迷惑はかけられない。だが、やるからには完璧を目指す。それに……何かに没頭していたいんだ。余分な事を考えたくない。余計な雑音を聞きたくない。あなたたちの仲良しこよしな会話も、立派な雑音だ」
「クリスはん。せやけどな……」
「そんなに欲しいなら」
 なおも言い募る紅蘭の言葉をさえぎって、クリスは味噌汁のお椀をテーブルに叩きつけるように置いた。かん高い音がして、少し残っていた味噌汁が跳ねた。
「強制執行でもなんでもすればいいさ。現在、私の生殺与奪の権利はあなたたちにあるのだから」
「クリスくん……」
 クリスは箸を投げ出すと、湯のみのお茶をすすった。それにしても、強制執行だの生殺与奪だの、平和的じゃない響きに実感がこもっていた。
 しばらく沈黙が降りた。静かに拒否するクリスにかける言葉も見当たらず、彼女はただ静かにお茶をすすっていた。
「雑音だから?」
 沈黙を破ってレ二が静かにクリスに聞いた。
「みんなの声は雑音だから、声をかけてくれるのに返事もしなかったの? やらなくていい事に没頭しないと、聞きたくない声が聞こえてくるの? ……何がそこまでクリスを追いつめるの?」
「……」
質問には答えず黙ってお茶を飲み干すと、湯のみ茶碗をトレイに戻した。
「ごちそうさま。おいしかったよ。あと一息書類を整理したいから、出ていってもらえるとありがたい」

<10>

 翌日もクリスの態度に変化はなく、相変わらず夕食を持って上がって一人で食べていた。
 昨夜の屋根裏部屋での出来事は花組と由里達に伝えられて、とりあえず黒魔術疑惑は晴れたようだった。ただ霊子計のゆらぎやは相変わらず定期的に続き、幽霊の噂はまだ未解決のままだった。マリアはまだ油断がならないといった面持ちでクリスを見ていた。

 夜の見まわりをしていた大神は、楽屋前を通りかかった時ふと背筋が寒くなった。
 秋も深まった最近は夜もずいぶん冷えるようになってきたが、それとは違う。異質な冷気を感じて大神は振り返った。
 そこに、人ならざるものを見た。
懐中電灯に照らされた薄暗い音楽室前に、あるはずのない人影がぼんやりと浮かんでいた。薄く紗のかかったような影に人の輪郭。それは、紛れもなく幽霊だった。
中肉中背の女はこちらをじっと見つめていた。長い髪を背中に流し、ブラウスの上からベストを着ている。その女はレ二の出遭った幽霊の特徴と一致していた。ただ顔ははっきりとしていて、何も言わずにただ大神を見ている女に不思議な既視感を覚えた。
大神は懐に持っていた銃に手をかけてゆっくりと近づいた。幽霊に対してこれがどれだけ有効かは分からないが、何かの足しにはなるだろう。
「誰だ!」
 大神は鋭く問い詰めたが、女は少しうつむくと何も言わずに消えた。
 確かに害意も敵意も感じられず、ただそこにいただけのようだったが、それは確かに霊的なものだった。音楽室のドアを開けて中を覗いても何の気配もせず、仕方なく廊下に戻ると一階の階段前でさくらとレ二に出会った。 夜も九時を回り、二人揃ってこんな場所で会うのは少し不自然だった。
「二人とも、どうしたんだい?」
 声を掛けると、二人は緊張した面持ちで大神を見た。
「あ、大神さん。幽霊を見ませんでしたか?」
「見たよ。……ひょっとして、二人とも見たのかい?」
 レ二は神妙に頷いた。昨日とは違う、見た事のない男の幽霊が出て、導かれるように一階へ降りたのだ。どうもあの男の幽霊は気になって仕方がなかった。
「ボクは自分の部屋にいたら現れて、追いかけたらここで消えたんだ」
「あたしは、お風呂上がりに髪をくくった女性の幽霊の後ろ姿が見えたから上がってきたんです」
「そうか……。俺が見たのはおそらくレ二が最初に見た幽霊だと思う」
 大神は腕を組んだ。レ二とさくらが同時に見たという事は、幽霊は少なくとも三人以上いるという事になる。導くように動く幽霊は、一体何を伝えたかったのだろうか?
 大神はまっすぐ伸びる廊下を見た。幽霊が三人をここまで導いたのなら、この先に何かあるに違いなかった。
「行ってみよう。この先に、何かあるかも知れない」
 二人は頷いた。

<11>

 三人で廊下を歩くと、厨房で人の気配がした。カンナが夜食を作っているのかとも思ったが、それにしては火の気配もなく、人影も小柄だった。もう少し近づくと、その姿がはっきりと分かった。
 クリスだった。
 クリスは、厨房の入り口で息をひそめて見守る大神達には気付かずに、何か丸い物を長い紐でぐるぐる巻きにして、びゅんびゅん振り回していた。こちらに背を向けて、一心不乱に振り回すクリスの背中は、なんとなく哀愁すら帯びていた。
 そのまま気の済むまでやらせようかとも思ったが、さすがに放っておくのも良くないと思いなおして声をかけた。
「何をしてるんだい? クリスくん」
「だれだ?」
 心底驚いたクリスは、振り向きざまにロープを手放した。
 丸い物は慣性の法則に従って宙を飛び、クリスと大神達の間をひゅーと飛んでぼてっと落ちた。
 大神は、間に落ちた丸い物体を拾い上げた。持ってみるとかすかにあったかく、布巾を開いて中を見るとそこにはご飯が入っていた。
遠心力で丸くなったご飯は案外しっかりと形を保っていたが、少し力を入れて握るともろく崩れた。
「クリスくん、これは……」
 自失から立ち直ったクリスは、すごい勢いで事態を繕おうとした。
「いや、私はただちょっとした知的好奇心に逆らえなかったというか、研究が一段落ついたから、息抜きでもしようかというか、なんというか、その……」
 動揺して訳の分からない言い訳をするクリスをよそに、レ二は冷静に厨房を観察した。
 調理台の上の大皿には、いびつな形に握られたご飯がいくつも乗っていた。練られて餅状になった物や、片手で握りつぶしたような物、三角形に寄せ集めて作ったらしい物までその形はさまざまだったが、表面にきらきらと塩の結晶が輝いている事が共通していた。その脇に置かれた平皿に塩が盛られていて、転がしたような筋がいくつもついていた。
「これは、おむすび?」
「……」
 ごはんの固まりを指差しながらのレ二の問いに、クリスは力尽きたようにその場にしゃがみ込んだ。調理台に手をついてひざを見ているクリスに、レ二はあきれたように言った。
「おむすびを作りたければ、そう言えばいいのに」
 その言葉に、クリスは乾いた笑いをこぼした。しばらく自嘲気味に笑うと、すっと立ちあがって三人に向かい合った。
「何だか、いろいろばかばかしくなってきた。……そうだよ、レ二。ご名答だ。私は霊子水晶を固める事はできてもご飯を固める事はできないんだ。悪かったな」
 照れたような顔でクリスは視線をそむけた。そんな様子にさくらは笑って手早く手を濡らし、塩をまぶしてご飯を手に取った。
「クリスさん、おむすびはこうするんですよ」
 手早くできあがる見事なおむすびを見て、クリスは感嘆の声を上げた。
「へえ、すごいな」
 子供のように感心するクリスを見て、大神は提案した。
「じゃあ、おむすびの練習をしようか。何だか、無性に食べたくなってきたよ。レ二も手伝ってくれるかい?」
「うん」

<12>

 時刻は夜中の九時半を過ぎたところだった。
 秋の夜中を満喫するように、厨房は臨時おむすび教室と化していた。
 生徒一人に講師が三人というずいぶんバランスの悪い教室だったが、生徒のできの悪さにしてみれば丁度いいくらいかもしれなかった。何度か手本を見せてそれに倣ってやっているはずだが、どうにも形にならないのだ。
「ああ、ちがいますよ。まず左手をこうして丸めて、右手を添えて、こうやって握るんです」
「こうか?」
 言われた通り手を添えて、クリスは力いっぱい握った。
 当然のようにご飯は手のひらで平らになり、指の間からご飯つぶがこぼれ落ちた。
「力の入れすぎ」
 レ二が、二つ目のおむすびを握りながら冷静なつっこみを入れた。できあがったおむすびは、形も海苔の巻き方も全くと言っていいほど同じだった。
 つぶれたご飯を調理台に置いて、クリスは新しいご飯を手に取った。
「なら、これでどうだ?」
 改めてご飯を手に取ると、今度は腫れ物に触るように握った。
 案の定、手を開いただけでおむすびは脆く崩れていった。
「力の入れなさすぎ」
「分かってるよ。……こんな事なら、あの時、母に教わっておくべきだった」
 新しいご飯を手に取りながらため息をついた。情け容赦なく新しいご飯を使って練習するため、調理台の大皿の上には失敗作が小高い山を作っていた。注意しても良かったが、せっかく和解の兆しが見えているのにこんな所でへそを曲げられるのは嫌だったので、とりあえず気の済むようにさせた。
クリスの「母」の一言に大神はふと疑問に思った。真宮寺大佐の妹というのはどんな人だったのだろうか?
「そういえば、クリスくんのお母さんは日本人だってね。おむすびはよく作ったのかい?」
「いや。独逸ではコメ自体手に入りにくいからな。……かつて一度だけ母の『帝都の知り合い』がコメやミソ、ショーユや何かの根菜類や雑貨なんかを送ってきたんだ。母は喜んで日本食を作ってくれたよ」
「そうなんですか……。そうだ。さつきさんはお元気ですか? 口には出しませんけど、おばあ様も心配して……」
 クリスはさくらの目を覗きこんだ。そこには深く静かな色があり、さくらは思わず黙った。
「死んだよ。八年前に。だから私は家を継いだんだ」
 厨房にきまずい雰囲気が流れた。クリスがあまりに明るく語るから独逸で元気にしているのかと思ったのだが、これでは共通の話題にはなりえなかった。ジョーカーだと思っていたのがババだったのだ。
「……ごめんなさい、あたし無神経な事言っちゃいましたね」
 うつむくさくらに、クリスは軽く頭を振った。
「昔の話だよ」
 それだけ言うと、クリスはつぶれたご飯を大皿に置いた。


 三十分後。
ようやく合格ラインのおむすびを握れて、夜食タイムとなった。
お茶と共にトレイに乗った四者四様のおむすびを見て、大神は素直な感想をもらした。
「すごいよ。置いておいても崩れないし、倒れないじゃないか、クリスくんのおむすび」
「具を入れるようなテクニックはないけどね。ちゃんと形になっているだろう?」
 どこか得意げなクリスだったが、さくらは思わず苦笑いした。
 一時間とご飯約一升分を費やして完成と呼べるのは二個だけというのは、もはや一種の才能かもしれなかった。
「もう少し練習したら具を入れられますよ」
「そうか。それなら、私はあの赤いプラムを入れたいな」
「あれは梅干っていうんですよ」
 それから、不思議なくらい自然に話が弾んだ。研究が一段落ついて、クリスにも余裕ができたからかもしれなかった。
 ただ、相変わらずレ二とクリスの間には会話がなく、それが少し不安だった。
「クリスくん、こうしてみんなで食べる食事もいいだろう?」
「悪くはない」
 大神は、クリスに向き合った。
「クリスくん。レ二が嫌いなら、今はそれでも構わない。俺たちと話をしたくないならそれもいい。だけど、せめて一緒に食事をしよう。同じ時間に同じ場所で、同じ物を食べよう」
「……考えておく」
 ぽつりと答えた声にかぶさるように、厨房からカンナの叫び声が響いた。
「あーっ! あたいの夜食がねえ!」
 四人は顔を見合わせた。
 今思えば、晩ご飯に合わせてご飯を炊いたのならば、冷めていてもおかしくはないはずだったが、ご飯はおむすびにできるくらい温かかった。
 クリスにご飯を炊く技術なんてあるはずもなく、カンナが夜食用に炊いたものと考えるのが妥当だった。
「それになんだよ、もったいねえなあ! せっかくのメシをこんなにしちまってよう」
 調理台を見てぶつぶつ言うカンナから逃げるように、クリスはそそくさと席を立った。
「それじゃあ、私はこれで」
「あっ! クリスくん!」
 ぱたぱたと大階段へと遠ざかる足音を聞いて、カンナが食堂へ顔を出した。
「なんだあ? 隊長じゃねえか。それにさくらとレ二も。こんな時間に珍しい取り合わせだなぁ」
「すまない、カンナ。実は……」
 大神はカンナに一部始終を話した。その話を聞いて、カンナは大笑いした。
「はっははは! そりゃ良かったじゃねえか。ちったあ話ができたんだろう?」
「収穫はあった」
 カンナは妙に納得したように何度も頷いた。
「そっか、そっか。あいつも人間だもんな。腹が減ったらメシを食う、と。今度一緒にメシでも食いに行くか。……それにしてもよう、このメシの山もったいねぇなあ。いよし! 雑炊にでもして食っちまうか。塩味もついてるしちょうどいいな」
「いいっ!? カンナ、これを食べるのかい?」
 大神は信じられない面持ちで調理台を見た。そこには、あまり食べようという気を起こさせない奇妙なオブジェが、文字通り山になっていた。
 水と塩でてらてらと輝くそれらの物体は、おむすびというよりも陶器のように見えた。
「こ、これは処分した方がいいような気がするんですけど……」
「なぁに言ってんだよ。そんなもったいねえ事は、お天道様が許しても、このあたいが許さねぇ。それに昔から言うだろ? 一粒の米にゃあ七人のお百姓の血と汗と涙がこびりついてるって」
「そ、そんな風に言われるとあんまり食べたくなくなるような……」
 大神のつぶやきを無視して、カンナは歌いながら夜食作りの準備を始めた。
「塩気がある飯ぁ雑炊で決まりっと。いやー、でもさすがに全部だと腹ぁたぷたぷになっちまうなぁ。……いよし! 半分雑炊で半分はチャーハンにすっか! そうと決まれば具の準備、っと。タマゴにネギに豚肉にっと」
「……カンナがいいなら、それでいい」
 上機嫌で夜食の支度を始めるカンナを見て、レ二はぽつりと締めくくった。
 こうして、一升のごはんは無事カンナの胃袋におさまったのだった。

<13>

 翌日。定期的に朝は来た。好天続きの最近の天気にならって、その日も朝日がまぶしかった。
 大神はいつもの習慣に従って窓を開けると、胸一杯に空気を取り込んだ。
思えば昨夜はいろいろあった。白い幽霊の事は気になったが結果的にクリスとも話ができたし、彼女も何かをふっきれたようだった。それだけでよしとしよう。
「クリスくんも、今朝は降りて来てくれるといいんだけど……」
 そうつぶやくと、大神は部屋を出た。

 部屋を出て階段に差し掛かり、つい最近の習慣で屋根裏部屋のドアを見た。薄暗い階段の奥のドアが見えるはずだったが、その日は少し違った。
 クリスが部屋から出て、屋根裏から二階の廊下までの短い階段でうろうろしていた。二、三段階段を降りては足を止めてまた戻り、振りかえっては降りかける。そんな事を繰り返していた。
「おはよう、クリスくん。これから朝食かい?」
「お、大神少尉か。びっくりした」
 クリスは階段を降りると、最後の一段を残して立ち止まった。眩しいくらいの光に満ちた廊下に躊躇したように立つクリスは、どこか迷いの色が隠せなかった。一緒の食事をずっと拒否し続けていたため、歩み寄るのが照れくさいのだろうか。困ったような視線がどこか泳いでいた。
「……いざとなると、怖いな。いいや。やっぱり」
 そう言って背中を向けて階段を駆け上がるクリスに、大神は慌てて声を掛けた。今までずっとドアを開ける事さえ拒んできた彼女が、今日は自分から外に出たのだ。この機会を逃すのはもったいなかった。
「クリスくん。みんな待ってるから、こっちに来て欲しい。大丈夫だから」
 大神は手を差し伸べた。ドアノブに手を掛けたクリスは振りかえると、その手をじっと見つめた。
 しばらくまた迷ったようだったが、やがて意を決して階段を降りた。大神の手を取り、二階の廊下に降り立ったクリスは、眩しそうに目を細めた。朝日に目が慣れたのか少し微笑むクリスの表情は、どこか晴れ晴れとしていた。
「おはよう、大神少尉」
「おはよう、クリスくん。これから朝食だけど、一緒にどうだい?」
「ああ」
 クリスは頷いて、一階に続く階段に足を掛けた。



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次回予告

浅草にはねえ、たのしい事がいっぱいあるんだ。
あんみつに、仲見世通りに、浅草寺。
アイリス浅草だーいすき。
だけど人ごみだいきらい。

次回 「親愛なるきみへ 第五話
__________マイ フェア 浅草」

太正櫻に浪漫の嵐!
今度は二人で来ようね、おにいちゃん。

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