親愛なるきみへ(第三話)  作・鰊かずの

<1>

 世界は白で包まれていた。
 目の前に広がる乳白色の光に満たされた空間は、ひどくうつろで、不安定で、あたたかかった。
 それは霧というよりミルクに近く、とろっとした陰影がゆっくりと渦巻いていたが、その割には液体に触れているという感触はなかった。眩しくはなく、寒くもない。産着に包まれているような感覚だけがあり、そこにいると存在自体が溶けて消えてしまいそうな錯覚に陥った。
 あまりにも現実味に欠ける光景に、レ二はこれが夢である事を自覚した。
 視界はゼロに等しい。体感気温は二十度前後と推察される。ああでも、そんな事はどうでもいい。この光の中でまどろんでいたい。
 そう思った時、ふいにすぐ隣を子供が一人笑いながら駆け抜けていった。
 こんなに近づくまで気配さえ感じなかった。その現実に、レ二は気を抜きすぎた自分を叱咤し、同時に辺りを警戒した。
 現実ではない。これは夢の世界だったが、高い霊力を持つ者にとって夢は何らかの意味がある事が多かった。
 相変わらず視界は開けず、何の音もしない。天地の境さえもはっきりしない空間で、レ二は目を閉じて辺りの気配を探った。閉じた目の奥も同じ白が渦巻いていたが、精神は集中する事ができた。
 静寂の中、後ろから駆け寄る気配に気付き、レ二は目を開いて手を伸ばした。
 その行動は素早く、見ていたように正確だった。レ二は確実に子供の腕を掴んだはずだったが、彼女の手はまるで霊魂のように空を掴んだ。
手の中に凪いだ涼しげな空気は、指先にひどく懐かしく感じた。
 ふいにレ二の心を、懐かしさと切なさと悲しさが綯い交ぜになった感情が支配した。ひどくやるせなくて、思わず去っていった子供に語りかけた。

 君は誰?

 言葉にするけど声にならない。

 きみはだれ?

 問いかけに答える声はない。

 キミハダレ?

 光はやがて濃度を増し、息ができないほどの輝きに包まれて、レ二は目を閉じた。

 きみは……

<2>

「誰?」
 自分の声に驚いて、レ二は目を覚ました。
 目を開くとそこに霧はなく、いつもの見なれた風景が広がっていた。
 まだ少しくらくらする頭を一つ振ると、防寒用に巻きつけていた毛布を捨てた。
レ二は座っていた椅子からゆっくりと身を起こすと、辺りを見渡して現実を確かめた。
 薄暗い室内は、わずかな私物が雑然と積まれているだけで、机はおろかベッドすらなかった。幼い頃から徹底した軍事訓練を受けてきたレ二は、睡眠時でさえ周囲を警戒するように訓練されていた。そのため、何があってもすぐに動けるように、椅子の上で眠るのがレ二の習慣だった。そんな体勢で熟睡できるはずもなかったが、睡眠とは体力を回復させる事ができればそれでよく、深く長い眠りは逆に邪魔なものだった。
窓には雨戸が閉められていて、そのわずかな隙間から射し込む光が、その部屋で唯一今が朝である事を告げていた。それはレ二が帝劇へ来た時からほとんど開けられた事がなかったが、朝の光がなくても、彼女の体内時計は今が何時かを正確に把握する事ができていた。だがこの日は珍しく、夢のせいで頭の芯がまだぼうっとしていた。
 レ二は、閉じられた雨戸を開けた。
 明るい日差しと小鳥の鳴き声が、殺風景な部屋に飛び込んできた。眩しい光を体一杯に受けると、眠気が完全に去っていくのが分かった。目の奥で感じる光は、さっきの夢の光とは全く異質なものだった。
 レ二は胸の奥にわだかまった、寂しさとも取れる切なさを振り払うと部屋を出た。


 朝。大神は普段と同じ時間に目覚め、いつもの通り身支度を整えた。
 波瀾の歓迎会から一夜明け、いつものように朝は来た。今日もいい天気だ。
 窓を開けて朝の光と空気を取り入れると、大神は思いきり伸びをした。この時、大神は完全に目覚めるのだ。
 大神の部屋も殺風景といえばそうかもしれない。部屋にあるのはベッドと机だけ。インテリアの類はほとんど見うけられなかった。しかも、彼の部屋の雨戸は台風の時にも閉められた事はなく、その存在を完全に忘れ去られていた。
「ゆうべは結局クリスくん、晩ご飯の時に降りて来なかったなぁ」
 大神は一人つぶやいた。
 あの後、何度か屋根裏部屋に声をかけたが返答はなく、ドアには鍵がかかっていた。
 数日前から、黒子がさかんに屋根裏部屋へと出入りして何かしら改装を加えていたが、そこは今クリスの私室として与えられていた。
一昨日、膨大な荷物の運び込みと荷ほどきを手伝ったが、そのほとんどが書物や筆記具、ちょっとした実験道具や何かのメカで、中には人を殴り殺せそうなくらい分厚い本もあった。
荷物の中には服や靴といった品物はあまり見られなかったが、化粧品や医薬品だけはいろいろ揃っていたのが、なんとなく微笑ましかった。
「今日はさすがに降りて来るだろう。何とか話をしないとな」
 一人決意を固めると、朝食を摂りに食堂へ向かった。

<3>

 食堂にもやはり明るい朝日が差し込んでいた。いつもと同じ風景があるはずだったが、今朝は少し空気の毛色が違っていた。
「おはよう、みんな。どうしたんだい?」
 誰にともなく話しかけると、アイリスがくるっと振り返ってぱっと笑った。
「おはよう、おにいちゃん。あのね、クリスが降りて来てるんだけど……」
 アイリスは少し言葉をにごした。その視線の先には、辺りの空気を完全に黙殺して書物に向かうクリスがいた。
「おはようございます、クリスさん。何をしているんですか?」
 さくらが声を掛けたが、まるで聞こえていないかのように顔を上げようともしなかった。
「クリスさん?」
 なおも食い下がろうとするさくらの声に気付いたのか、クリスは万年筆を置くと軽く追い払うような仕草をした。
周囲の困惑もどこ吹く風なその様子からは、挨拶はおろか食事をしようという意思すら感じられなかった。
 そんな様子をしばらく見ていたが、レ二は意を決したように立ちあがると、トレイを持ってクリスの座った席の向かいに行った。
「ここ、いい?」
 その声が聞こえない訳でもないだろうが、クリスは全く反応しなかった。
 テーブルの上にはロールパンとグリーンサラダ、スクランブルエッグにミルクという、典型的な洋風朝食の乗ったトレイがあったが、どれもつついたような跡しかなく、真面目に食べてはいないようだった。
 レ二は何も言わずにクリスの前に座ると、黙って自分の朝食に手をつけた。
 二度目の姉妹対決のなりゆきを、固唾を飲んで見守る花組の視線を完全無視して、クリスはパンに手を伸ばした。
 半ばあきれて見守るレ二に、ノートから視線を離さずにクリスが話しかけた。
「ステラ。クリスタルザイテにおけるGPO値はいくつだっけ?」
 誰と間違えたのか、突然訳の分からない質問をされたが、レ二は動揺しなかった。
「3・35ppt」
「ん」
 それだけ言うと、今度は見開きページを一杯に使って複雑な図形を描いた。しばらくまた沈黙が降り立ったが、クリスはものすごく嫌そうな顔をした。
「違うだろう? 3.35は平均値であって、私が知りたいのは相対値。まったく、第三段階まで計算してしまったじゃないか。お前らしくもない」
 明かに非難の色を含むクリスの言葉に、レ二は平然と返した。
「平均値か相対値か指定しない、クリスが悪い」
 クリスはゆっくりと顔を上げると、レ二とばっちり目が合った。しばらくお互いなんとなくみつめあっていたが、クリスが先に口を開いた。
「……なにをしてるんだ?」
「今は食事の時間。クリスこそ何をしてるの?」
「お前さんには関係のない野暮用だよ」
 そう言うと、クリスはようやく本とノートを閉じた。閉じたはいいが、その後会話が続く様子はなく、きまずい雰囲気が流れた。
 助け舟を出そうと大神は立ちあがって、二人が座っているテーブルに近づいた。
「おはよう、クリスくん。ここいいかな?」
 返事を待たずに座ると、クリスは明らかに不機嫌そうな顔をした。それに気付かないふりをして、大神は話しかけた。
「昨夜はよく眠れたかい? 降りて来ないから心配してたんだ」
「おかげさまで少しも眠れなかったよ。誰かさんのお陰で」
 そう言うと、クリスはちらりと織姫を見た。織姫は小さく肩をすくめた。
「ワタシは別に悪くないですよ。……あなたのことだから、あの事をずっと隠しておくつもりだったんでしょうけど、そうは本屋が大根オロシでーす! 大体、遅かれ早かれ皆さんに話をしなければならない事でしょう?」
 織姫の言葉を、クリスは鼻先で笑った。
「あいにくと、私は花組の理解を得ようとは一切思わないな。帝都だの帝劇だの、どうだっていいよ、ばかばかしい。どうせ一ヶ月後にはもう会う事もなくなるんだから」
 にべもなく言うクリスに、大神は反論した。
「確かにきみが帝劇にいられる期間は、たった一ヶ月しかない。だからこそ、俺はきみを理解したいんだ。俺にとってきみは、もう仲間なんだから」
「お安いな、大神少尉。帝劇でたった一泊しただけでもう仲間扱いか。よほどお仲間ごっこがお好きらしいが、大変目障りなので他を当たってくれ」
 大神は、冷たく突き放すようなクリスの目を真っ向から見た。『青い鳥』の千秋楽にやってきたクリスは、確かに愛と慈しみに満ちていた。あの時と今とは、本当に同一人物かと思えるほど印象に隔たりがあった。しかし、あの微笑みが全部嘘だとは思いたくなかったし、思えなかった。
「『青い鳥』の千秋楽に来た時、俺はモギリできみは遅れて来たお客さんだった。何の打算も働かない時にきみが見せた笑顔が本物なんじゃないのかい?」
「笑顔一つで、あなたに私の何が理解できるというんだ? 思いあがるのもいい加減にしてくれ」
 クリスは鼻先で笑った。昨日に引き続きヒビの入った空気を和らげようと、カンナが割って入った。
「まぁ、なんだな。千秋楽に何があったかは知らねぇけどよ、とりあえずメシを食おうぜ、メシ。腹が減ったら気も立つさ。な?」
 クリスはちらりと自分のトレイを見た。
「いらない。話をしていたら食欲がなくなった。……これからは食事は部屋で摂る。こんな所で食べたって、不愉快なだけだし」
「なんだってぇ? もういっぺん言ってみろよ」
 カンナが立ち上がってこちらへ来た。クリスは怒ったようなカンナの視線を真っ向から受け止めて立ちあがった。
掴み合いのケンカが始まりそうな気配に、レ二はクリスの手を掴んだ。
「クリス、落ちついて」
「触るな!」
 クリスは反射的にレ二の手を払いのけた。乾いた音が食堂に響き、一瞬空気が静止した。クリスはレ二を一瞥すると、視線をそらした。
「……私に触れるなと、再三言っているだろう? 帝都はよほど楽しいらしいな。私の命令を忘れるくらいなんだから」
「……」
 レ二は黙って軽くうつむいた。クリスはレ二をちらりと見ると、ただ事務的に言葉を続けた。
「笑えるのは結構だが、戦闘における感覚は衰えさせるなよ。戦いとは非情なものだ。一瞬のミスが命取りになる。戦闘はお前の、数少ない取り柄の一つだろう? その輝かしい戦歴に傷をつけないように、せいぜい努力を惜しまない事だ。傷をつけられたら困るのは私なんだから」
「クリス! てめぇ……」
 食ってかかるカンナを押し留めるように、大神の声が割って入った。
「いや。クリスくんの言う事も一理あるよ。確かに、戦場では一つ判断を誤ると即命取りだからね。最近は平和な日が続いているけど、帝都を守るためにも少し気を引き締めないと。……そうだろう? クリスくん」
「そうね。隊長の言う通りだわ」
 マリアは神妙な顔で頷いた。かつてロシア革命の時、自分が援護をためらったせいで大切な人を失ったのだ。あんな事が帝劇でもう一度起きてしまったら、きっともう二度と立ち直る事はできないだろう。
 クリスに対する批判的な空気が薄らいでいく中クリスはうつむくと、やがてやがてふと顔を上げた。
 そこには、『笑顔』があった。
 クリスはにっこりと微笑んで、ゆっくりと口を開いた。
「……馬鹿?」
 笑顔に似つかわしくない罵声に言葉の意味を一瞬取り損ねると、クリスはゆっくりと目を開いた。
 人好きのする満面の笑顔に細めていた目をすっと開くと、そこには邪悪な色が宿っていた。漆黒の色が挑戦的に花組をないでいき、無意識のうちに引いた。大神はアイリスが「怖い」と言っていた視線はこれだと、直感的に悟った。
 顔は笑っている。でも目は笑っていない。そのアンバランスさの奥に潜むはっきりとした敵意を向けられて、アイリスはすみれにしがみついた。
「弁護してくれて、どうもありがとう。だがどうやら、皆さんははっきり言わなければ分からないらしい。これ以降、私への干渉は不要だ。この私があなたたちと付き合う価値があるとでも思うのか? 思いあがりもはなはだしい!」
 そう言うと、クリスは書物を持って立ち上がると、ロビーへと向かった。ふと立ち止まり出入り口で振り返ると、レ二に冷たく言い放った。
「レ二も、私と分かり合える、なんていう幻想は早く捨てる事だ。帝劇にいたって、私たちの関係は何ら変わらない。せいぜい仲間を大切にしていろ」
 クリスはそのままロビーの大階段を上がると、二階へ消えていった。
「クリスくん!」
「放っておくといい、隊長」
 立ち上がりかけた大神を、レ二が制止した。レ二はクリスの態度に気を悪くした様子もなく、ただ無表情に言った。
「クリスははっきりと、ボクたちと付き合う気はないって言った。強制するのはよくない」
「レ二……」
「クリスはいつもあんな感じだ」
 ぽつりと言ったレ二は、心なしかさみしそうに見えた。いつもああだ、とレ二が言いきるからには本当にそうなのだろう。クリスに一体どういう意図があるのかは分からなかったが、たった二人きりの姉妹の関係がああも冷え切っているのは、どうしても受け入れられなかった。少なくとも納得のいく理由がない限り、人と人とは分かり合える。それを証明したかった。
「俺は、クリスくんと一度、腹を割って話をするよ。でないと俺が納得できないからね」
「ニッポンのオトコって……ヘンでーす」
 織姫のつぶやきが、いろいろなものを代弁していた。

<4>

 予告通りクリスはその日の夕食から、食堂に一切姿を現さなくなった。
 秘密プロジェクトに関係する任務を遂行しに紅蘭と共に神崎重工へ出向くため、朝八時前に玄関へ降りて来て、夕方七時過ぎ、もしくはもっと遅い時間に帝劇へ帰宅する。その時厨房から適当に見繕った食料を持って屋根裏部屋へ上がった。クリスの分も取り分けてあったが、それを持って上がる事はほとんどなかった。その後は翌朝八時にトレイを持って降りて来るまで、その姿を見かけるのはまれだった。
 横浜にある神崎重工の霊子力学研究所への送り迎えは、帝撃が手配した蒸気自動車によってされていた。紅蘭が一人で出向く時には帝鉄か、自作の蒸気バイクを利用して行っていたため、それは明らかにクリスの為に出された物だった。以前よりはかなり蒸気自動車も普及してきたが、それでもまだ蒸気自動車通勤をするなんて事は考えにくい事だっただけに、破格の待遇と言って良かった。
 紅蘭は最初申し訳なさそうな、もったいなさそうな顔をして断ろうとしていたが、運転手に押しきられるような形で結局一緒に乗って行っていた。クリスはこの待遇がさも当然のような顔をしていて、特に疑問を抱いたりはしていないようだった。

 数日が経ち、そろそろほとぼりが冷めてもいいはずだったが、クリスは相変わらず他者との関わりを徹底的に避けていた。
 他の花組のメンバーも何かにつけて会話を持とうとしたが、クリスの方に意思を疎通させようとする意思がまるでないために三言以上の会話が成立する事はほとんどなかった。
 レ二に対しては誰よりもそれが顕著で、会話どころか廊下ですれ違っても挨拶ひとつしなかった。
 レ二の方でもそれがいつもの事だと割りきっている様子で、和解はなかなかうまくいきそうになかった。
 部屋から出るのはトイレか洗顔の時のみで、たまに見かけても、返事もそこそこに追い返されるか、無視されるか、逃げられるかのどれかだった。
 最初は何とか話しかけようと努力していた花組もその態度には批判が集中し、ほとんど姿を現さないのもあいまって次第に会話も減っていった。
 なんとか話しをしようと、何かにつけ屋根裏部屋へ足を運んだが、その度に無言で追い返され、さすがの大神もお手上げだった。
 大神は思わず頭を抱えた。クリスが帝劇へ来てからした会話らしい会話は初日の朝食時のみで、これでクリスを理解しろという方が無理だった。
 今までも、みんな最初から友好的だった訳では決してなく、どちらかといえば協調性に欠けるメンバーが多かったためにこういう事態はままあったものの、会話自体を拒否されるとどうしようもなかった。

<5>

 自室に帰った大神は思わずため息をついた。今までも何度となく会話を試みてきたが、それら全て空振りに終わっている。頭を抱えて思い悩んでいると、どこからともなくギターの音色が響いた。大神は振り返ると、案の定そこには加山がいた。
「しーあわせだなぁ。こうしてお前と話ができて」
「何だ、加山か。何の用だ?」
 大神は横目で加山を見た。相変わらず神出鬼没で何を考えているのかよく分からない奴だったが、今は加山の相手をする気にはなれなかった。
 そんな大神の態度を気にする事はなく、加山は続けた。
「何だとはごあいさつだなぁ。それはそうと、大神。人間は十人十色だと言うじゃないか。俺はこうしてお前と話ができてしあわせだが、人によっては苦痛に感じたりもするもんだ」
「加山、お前……」
「でもな、生きている以上、食う・寝る・遊ぶは必須だ。これを嫌だと感じる人間はそうはいないぞ」
 加山の言葉に、大神はぴんときた。確かに、クリスは食事らしい食事をほとんど摂っていない。朝返却されたトレイの中身は相変わらずつついたほどしか減っていない上に、神崎重工でもそんな感じだと以前紅蘭に聞いていた。
 もしもクリスに生存本能があるのだったら、会話よりも食事の方面からアプローチしてみるのも悪くないように思えた。
「そうか。そうだよな。ありがとう、加山」
「礼には及ばないさ。じゃあな、大神。アディオース!」
 そう言うと、加山は窓から逆さ吊り状態で出ていった。
 相変わらずよく分からない加山を見送ると、大神は夜の見まわりに出た。

<6>

 見まわりの途中舞台に立ち寄ると、さくらが舞いの稽古をしていた。
 帝劇の花形スタアとして実力もかなりついてきた最近でも、さくらは稽古を欠かさなかった。
 特に心配事や悩み事があると稽古に熱中する事が多く、その夜もそうなのだろうとあたりがついた。
 基本の動作を一手一手ていねいにおさらいする姿に、大神は話しかけた。
「やあ、さくらくん。熱心だね」
「あ、大神さん。夜の見まわりですか?」
 さくらは稽古の手を止めると、大神に歩み寄った。
 さくらはしばらく迷ったような素振りを見せたが、思いきって大神に打ち明けた。
「大神さん……あたし、クリスさんと仲良くなれる自信がないんです。何度も話しかけているのに、あからさまに避けられるんです。せっかく、従姉と会えたのに。あたし、何か気に障るような事をしたんでしょうか……」
 さくらの悩みはもっともだった。悪口でも何でも話をしてくれれば理解する糸口も見出せるが、無視されるのがいちばんこたえる反応だった。
「さくらくん。相手を純粋に思い続ければ、気持ちは伝わるよ。でも、今のクリスくんに会話を無理強いするのはかえって逆効果じゃないかと思う。だから、クリスくんの意思を尊重しながら何ができるか考えてみたらいいんじゃないかな」
 さくらは首をかしげた。クリスの意思を尊重していたら、一ヶ月間ほとんど会話がないままに去って行きそうだった。
「あたしに、何ができるでしょうか……」
「クリスくんは、きっとお腹が減ってるんじゃないかな。今日もほとんど食べている様子はないし。何か作ってあげたらどうだろう」
「食事、ですか?」
 さくらは驚いて目を見開いた。一体どこからそういう発想になったのかは分からなかったが、確かにそれならばできそうな気がした。
 何より大神の判断や助言に信頼を置いているさくらは、笑顔で頷いた。
「そうですね。やってみます」

<7>

 その日も、クリスは食料を見繕おうと、厨房へ向かった。
 時刻は夜の六時を過ぎたところで、気の短い秋の陽はすでに地平線の向こう側へ消えて、夜の闇が帝都へやってきていた。
 夕食にはまだ早い時間のため、食事ができているという事はあまりなく、いつもはリンゴやパンといったすぐに食べられる物を持っていっていたが、その日は違った。
 厨房ではさくらが、慣れない手つきで鍋の中をかきまぜていた。
 クリスの姿に気がついたさくらは、鍋にフタをして食器棚から食器を取り出した。
「あ、クリスさん。もうすぐできますから、ちょっと待っていてくださいね」
 白い割ぽう着姿のさくらの隣で、帝劇の賄いさんがはらはらしながら見守っていた。
 厨房には賄いさんしかいないと思っていたクリスは、予想外の出来事に少しあっけにとられた。
「何をしてるんだ?」
「クリスさん、夕食はいつもパンとかだけですから、せめておかずだけでもあったかい物をと思ったんです」
 そう言うと、さくらは鍋の中の野菜の煮物を器によそった。
 レンコンとニンジンとシイタケとゴボウを鶏肉と一緒に煮込んだ料理――筑前煮だった。
「あたし、あんまり料理は得意じゃないんです。だから、口に合うかどうか分からないんですけど……」
 そう言って差し出された料理は、確かに見目うるわしいとは言えなかった。
 野菜は不揃いで煮崩れていたし、全体的にそこはかとなく焦げたような臭いもしていたが、それはまぎれもなく、さくらがクリスのために作ったものだった。
 ほかほかと湯気を立てる器をじっと凝視して、クリスはつぶやいた。
「なつかしいな……」
「はい?」
 一瞬表情を和らげたクリスは、次の瞬間には冷たい目でさくらを睨んだ。
「こんな手間のかかる事をして、何が目的だ?」
 冷たく突き放すような言葉に、賄いさんは持っていたお玉じゃくしをクリスにつきつけた。
「ちょいとあんた! せっかくさくらちゃんが一生懸命作ったのに、その言いぐさは……」
 賄いのおばちゃんが言いかけた言葉を、さくらは右手で遮った。
「あたしは、クリスさんと仲良くなるのが目的なんです」
「ムダな努力だ」
 冷たい目で睨むクリスの視線を、さくらは真っ正面から受けて立った。
「ムダかどうかは、あたしが決めます。あたしは、クリスさんがどう思おうと、仲良くなりたいんです」
 嘘のない、真っ直ぐな言葉を、クリスは冷静に返した。
「真宮寺さん。……私は、ヴァックストゥームの首謀者だ」
「レ二は、クリスさんのことを理解して、改めて嫌いたいんだって言ってました。それに、クリスさんはその事を後悔して、償おうとなさっているんでしょう?」
 クリスは言葉をつまらせた。一瞬反論しかけたが、言葉には何もならなかった。さくらは、そんなクリスに笑いかけた。
「もしそうなら、周りにいるあたしたちは、その気持ちを受け入れてあげたいんです。……って、大神さんの受け売りですけど、あたしも、そう思います」
 クリスはうつむくと手を握り締め、戸口に叩きつけた。ばん、と大きな音がして、おばちゃんは飛びあがって驚いたが、さくらは冷静にクリスを観察した。
 クリスの顔からはいつもの冷淡な色が薄れ、その奥から感情の色が浮かび上がっていた。
 怒りにも似た苛立ちの感情を必死に抑えようとしているクリスは、吐き出すように言った。
「……お前に何が分かる? 仙台で、帝都でぬくぬくと暮らしてきたお前に! 私の、私達の何が!」
「クリスさん……」
 クリスは小さく深呼吸すると、少し困ったような笑みを浮かべた。さっきまでの感情がなりを潜め、まるで子供に言い含めるような口調で言った。
「真宮寺さん。友達になりたいだとか、理解したいだとか、今更そんな事を言われても、迷惑だというのが分からないのか? 大体……」
 なおも言い募ろうとしたクリスを、本人の腹の虫がさえぎった。
 隣で聞いていてもはっきりと響いたその音に、クリスは顔を赤くした。
 さくらは笑って、煮物の皿とお茶と、お昼に握っておいたおむすびをトレイに乗せた。
「どうぞ。……せっかく帝劇に来たんですから、本当は一緒に夕食を食べたいんですけど、今はいいです。筑前煮はおかわりありますから、足りなかったらよそいに来てくださいね」
 クリスはうつむいたまま無言でトレイを受け取ると、逃げるように屋根裏へと駆けていった。
「なんだい? あの子は。さくらちゃんが一生懸命作ったのに、礼の一つもなしかい? 親の顔が見てみたいよ、まったく」
 賄いのおばちゃんが、心底腹立たしそうに言った。さくらは気を悪くした様子もなく、おばちゃんをなだめた。
 今まで三言以上会話が続かなかった事を思えば、今日はクリスの本音が聞けた分ずいぶんな進歩だった。
「いいんです。ちゃんと受け取ってくれましたし。それより、すみません。忙しいのに無理言って」
「あぁ。あたしの事はいいんだよ。それより、明日も何か作ってやるのかい? 物好きだねぇ。あたしが早めに来て、何か作ってあげようか?」
 心配そうに提案するおばちゃんに、さくらは手を振って答えた。
「そんな、いいですよ。おばちゃんは、お子さんが九人もいて大変じゃないですか。それに……なんとなく放っておけないんです。こうして、少しでも何かしてあげれば、少しは話ができるかもしれません。それに、この際だから少しお料理の練習をしてみたいんです」
 健気なさくらの言葉に、おばちゃんは割烹着の裾で目頭を押さえた。
「そうかい。本当に、やさしい子だねぇ」

<8>

 クリスが帝劇へやってきて、七日が過ぎようとしていた。さくらが食事を一品作るようになった後もクリスは相変わらず他者との接触を避け続けていたために、事態は一向に改善しなかった。大神はいつものように神崎重工へ出向く二人を見送って帝劇内をぶらつきながらどうしようかいろいろと考えていると、後ろから声をかけられた。
「大神さん! ちょっと、こっちこっち!」
 いきなり呼びとめる声に振り返ると、そこには事務の榊原由里がいた。
「ゆ、由里くん?」
「いいからちょっと来てください」
 由里は大神の腕を取ると、大神の都合も聞かずに強引に事務室へ引っ張って行った。
 帝劇の事務を引き受ける彼女は無類の噂好きでもあり、どこから仕入れてくるのか豊富な噂話を大神に提供してくれていた。噂といっても馬鹿にならず、「ただの噂だろう」と思っていた事が後になって正鵠を射ていたという事もよくあり、これがなかなか侮れなかった。
「どうしたんだい? 由里くん」
「大神さん聞きました? 最近、帝劇に幽霊が出るんですって」
「幽霊? 誰かの見間違いなんじゃないのかい?」
 大神は首をかしげた。今までもたまに幽霊の噂が出た事もあったが、そのすべては単なる見間違いや勘違いの類だった。それまでにも大神の耳には入ってはいないし、また恒例行事みたいなものだろう。
 そう思って楽観的に構える大神に、帝劇の事務員の一人、かすみは首を振った。
 由里の先輩で、帝劇の事務を由里とともに引き受ける彼女は、現在出張中の売店の売り子の高村椿と共に「帝劇三人娘」と称される三人組の中では最年長で、おっとりとしたしっかり者として有名だった。
「それが……そうでもないらしいんです」
 そう言うと、二人は「目撃談」を語り始めた。いわく、アイリスが夜中に白い影が廊下を横切るのを見たとか、誰もいないはずの厨房で物音がしたとか、誰かの視線を感じるだとかが主で、そう大した証言とも思えなかった。
「うーん、それだけじゃなあ。みんなからもそういう話は聞かないし……」
「ええ。そうです。それだけなら本当に無視しても構わない話なんですけど、今帝劇にお客様がいますよね」
「クリスくんか……」
 大神はバツの悪い顔をした。由里の事だから、クリスの経歴を既に知っているのだろう。霊子力学者にして呪術師という、ただでさえ疑ってくださいと言わんばかりの経歴の持ち主な上に、夜間彼女が自室で何をしているのかを知っている者はほとんどいないのだ。黒鬼会のスパイが帝劇内部にいた、という過去の教訓もあるし、疑いの声が上がるのも当然といえば当然だった。
「誤解なら、それでいいんです。でも、誤解じゃなかったら怖いです。帝劇は、ただの劇場じゃありませんから」
 かすみの懸念はもっともだった。帝都の霊的防衛の要石である帝劇は、外部からの霊的圧力にはかなり抵抗できるように設計されているが、そういう建物は得てして内部からの圧力にはもろいものだった。実際、アイリスが霊力を暴走させた時にはガラス窓が砕けたりしている。
 大神の直感では、クリスは決して悪人ではないという思いが強かったが、本人の意思に関係なく第三者に利用されているという危険性もあった。
「分かったよ。なるべく早く誤解が解けるように、クリスくんとも話をしてみるよ」
「お願いしますね、大神さん」
 由里は少し安心したように微笑んだ。相変わらず米田支配人もかえでも不在がちな今、何としてでもクリス本人と話をする必要があった。無理強いは大神の主義に反する事だったが、このままではそうせざるを得なくなるかもしれない。大神にとっては頭の痛い問題だった。

<9>

 その夜。追い討ちをかけるように頭の痛い問題が浮かび上がった。神崎重工から帰ってきた紅蘭がついにさじを投げたのだ。
「うちはもうどないしていいんか分からんわ。シュトックハウゼン博士の人嫌いは聞いとったけど、まさかここまでとは思わんかったわ。うち、そないに気に障る事したんかいなぁ」
 帰ってくるなり食堂のテーブルにつっぷして、紅蘭が嘆いた。時刻は十時を回り、辺りには人影はなかった。
 ちょうど食堂にいた大神とマリアが顔を見合わせた。帝劇では避けている様子のクリスも、神崎重工では少しは話をしているものと思っていたが、どうやら違うらしかった。
「神崎重工でもあんな調子なのかい?」
「せや。全然話にも応じてくれんのや。かろうじて仕事の話やったら反応してくれはりますけどな、それ以上は話が続かん。……前に会うた時は、もっと話してくれたように思うねんけど、ウチの記憶違いやろうか?」
「そう……」
 マリアはため息をついた。それに触発されるように顔を上げると、紅蘭は真剣そのものの顔で言った。
「ボケてもな、ツッコむどころかちらりとこっち見てそれで終いにされんねん。これは芸人殺しやで」
「そっ、それは辛いね」
 大神は思わず天井を見上げた。彼女と一番長い時間一緒にいるはずの紅蘭でさえこの調子では、クリスは本気で帝劇のみんなと交流するつもりはないとしか受け取れなかった。仲間として受け入れたいのはやまやまだが、こうも相手が拒否するとどうしようもない。無理強いしても、それで仲間とはいえない。
「クリスくんは、一人でいる時は何をしてるんだろう? 紅蘭、何か知らないかい?」
 紅蘭は首をかしげた。そう言われれば、帝劇で一人でいる時間は謎だったし、クリスの態度に気になる点がいくつかあった。
「何や、えろう疲れてはるみたいやなぁ。行き帰りの蒸気自動車の中で寝てはるし、この間も、休憩時間にうたたねしてはったし。たまにノートにメモる内容も、神崎重工での仕事とは関係あらへんし。仕事以外にも、何や抱えてはるみたいに見えるで」
「何かって、何?」
「そら、分からへんけど……」
 大神は腕組をした。そう思って思い返せば、そういう節がいくつかあった。
「夜の見まわりの時にも、屋根裏部屋のドアの隙間から遅くまで明かりが漏れていたからね」
「何か、独逸語でぶつぶつ言いながら歩き回っている姿を見た事があります」
 マリアの言葉に、紅蘭は更に暗い顔でバッグの中から巻紙を取り出した。
 それは、何かの記録がされていて、引っかいたような赤い線が延々記されていた。しばらくは素人目には規則正しく、振り幅も小さく記録されていた線が、グラフが進むにつれてところどころ振り幅が乱れたようになっていた。
「これは?」
「帝劇の霊力の値をグラフ化する、『けいそくくん』のデータや。これの振り幅がおかしかったら、霊力的に何か妙な事があるっちゅー事やねんけどな。見てほしいんはこっから先や」
 そう言って指差した先のグラフは、確かにそれ以前の細かな振り幅ではなく、大きくうねっていた。
 長いグラフ用紙を見ていたマリアが指摘した。
「横軸が時間ね。……振り幅がおかしくなっているのは、クリスさんが来てからね」
「せや。クリスはんの霊力が高いんは知っとるけど、せやたらこないに定期的にグラフがゆらぐんはおかしいねん。しかもクリスはんが帝劇に帰って来てから何してはるかさっぱり分からんし、聞いても答えてくれへん。……うち、クリスはんの事疑いたない。疑いたないけど……」
 大神は、うつむいてしまった紅蘭の肩を叩いて、安心させるように笑った。
「大変だったね、紅蘭。分かった。クリスくんとは明日、俺が必ず話をするから。紅蘭は安心してくれ」
「ホンマか? 頼むで、大神はん」
「ああ」
 力強く頷く大神を見て、紅蘭はようやくほっとしたようだった。そんな紅蘭に、マリアは釘をさした。
「紅蘭。この事は、はっきりするまでみんなには秘密にしましょう。いたずらに誤解を招くような事は避けた方がいいわ」
「せやな。でも、米田はんやかえではん達には報告すんで。明日はかえではんもいるみたいやし」
「そうだね。それがいいよ」
「ほな、うちはこのデータをもう少し整理してみるわ。ほなな」
 そう言って、紅蘭は食堂の奥へと消えた。その後ろ姿を見送って、大神はマリアに意見を求めた。
「マリア。今の話をどう思う?」
 マリアは少し考えて、意を決したように言った。
「隊長。この事は、憂慮すべき事だと思います。早急にクリスさんが何をしているのかを把握するべきです」
 思っていた以上に強いマリアの言葉に、大神は意外さを隠せなかった。
「どうしてだい?」
「クリスさんは霊子力学者です。しかも、世界屈指と呼ばれる程有能な方です。霊子学者は、霊力について誰よりも詳しいのです。黒魔術や呪術も霊力を使用する事ですから、彼らは研究次第でそういった系統にも詳しくなります。……危険性だけで言うなら、霊力の低い一般の人達にも使える呪術を開発したり、対処法の発見されていない新しい黒魔術を開発したりできます」
「それはつまり、クリスくんが内部から帝劇を破壊しようと目論んでいる危険性がある、という事だね」
「あくまでも推論ですが」
 マリアの指摘に、大神はうなった。クリスの事を信じたいのは山々だが、この不安はいずれ花組全体に行きわたるだろう。米田支配人やかえでさんが気に掛けているとはいえ、それを逆手に取られているかも知れないと思うと、どうにも疑惑が止まらなかった。
 『青い鳥』の千秋楽の笑顔が本物なのか、朝食時のあの目が本物なのか分からなくなった。しかし、大神は『青い鳥』のクリスが本物だという直感を信じた。
「いや。それでも俺はクリスくんを信じるよ。明日の夜、クリスくんと話をする。拒否されても、何とか疑惑を晴らさなければね」
 マリアは、そんな大神を見て笑った。一度懐に入れた者は、絶対に見捨てたりしない。それでこそ彼女の隊長だった。
「分かりました。よろしくお願いしますね、隊長」

<10>

 深夜。すみれは一人浴室へと向かった。
 帝劇のトップスタアとして、時には高慢ともとれる態度をする事のあるすみれだったが、その地位を守るために努力を惜しまなかった。
 優雅な白鳥は、水面下の努力を表に出したりしないもの。という信念のもと、みんなが寝静まった深夜にこうして踊りの稽古をする事も多かった。
 すみれにとって、「私はこんなに努力しています、頑張ってます」なんて事を他人に知られるのは我慢ならなかったし、富士山よりも高いプライドがそれを許さなかった。
 自分が陰ながら頑張っている事は、ほんの少数の人が知っていてくれたらそれでいい。それがすみれの原動力になるのだから。
 もっとも、花組のメンバーはそれに気付いていた。気付きながらもあえて何も言わないのは、すみれに対する心配りというものだった。
 その日も、後に控えた映画撮影に向けて踊りの稽古をしていた。九月も半ばを過ぎ、秋の夜長はだいぶ涼しくなってきているとはいえ、真剣な稽古の後はいつも汗だくになっていた。
 脱衣所で衣服を脱ぎ、バスタオル一枚で浴室へ入ると、そこには先客がいた。
 クリスだった。
 七日ぶりに見たクリスは、浴槽の片隅に背中を預けて、放心したようにぼーっとしていた。
 すみれは、大神やさくら達が何とか話をしようとしている間、あえてクリスに話しかけたりはしなかった。織姫の言葉ではないが、話をしたくない相手と話をするのはナンセンスな事だし、敢えて努力する事でもないように思えた。
 朝食の席で見せた、あのふてぶてしいまでの高慢さもどこへやら。クリスはすみれが入ってきた事にも気付かない様子で、うとうととしているようだった。
 帝劇の浴室は広い。以前はシャワールームがあるだけだったが、去年帝劇を改装した時に「風呂は広い方がいいじゃねえか」という米田支配人の鶴の一声で、地下にある浴室は十人以上が一緒に入浴できそうなほど広くなった。だからといってみんな一緒に入浴するでなく、それぞれ時間をずらして利用するため、ほぼ二四時間態勢でお湯の準備がなされていた。
 この時代、内湯がようやく浸透してきたばかりだというのにずいぶん贅沢な事だったが、それは舞台に戦いにいつも体を張って命をかけている彼女たちに対する、ごほうびのような特権だった。
 クリスも帝劇に寝泊まりしている以上、入浴するのは当たり前だったが、いつ入っているのか、こうして一緒になるのは初めてだった。
「何をなさってますの? クリスさん」
 すみれの声に、ようやくその存在に気付いたクリスは、おっくうそうに顔を上げた。
「何も。何も考えない事をしてるんだ」
「そうですの」
 すみれはそう言うと、それ以上の事は何も聞かずに汗を流した。
 クリスも何も言わず、広い浴室にすみれが髪や体を洗う音だけが響いた。
 やがて洗い終わると、すみれは浴槽へと入った。石鹸のかぐわしい香りが広がり、少し離れた所で相変わらずぼーっとしているクリスの鼻腔をくすぐった。
 すみれは何も聞かない。クリスも何も言わない。二人はただ、同じ時間と場所にいた。
 しばらくして、クリスはふとすみれに話しかけた。
「神崎さんは、何も聞かないんだな」
「必要ありませんでしょう? 人は誰しも、聞かれたくない事の一つや二つ、あって当然ですもの」
 そう言うと、すみれはふとクリスを見た。湯気の向こうのクリスは、心ここにあらずというように湯気の向こうのどこかを見ていた。
「いつもいつも考え事ばかりしているから、たまには何も考えない時間が必要なんだ。そんな時に外野に色々言われるのは迷惑だから、そう言ってもらえると在り難い」
「そうですの。まあ、何をしているのかは敢えて問わない事にしておきますわね」
 そういうすみれに、クリスは少し意地悪そうに質問した。
「そんな呑気な事を言っていていいのか? ひょっとしたら私は、帝劇に呪いをかけに来たスパイかもしれないぞ?」
「ほっほほほ。ご自分からスパイだと明かすスパイなどありませんわ。それに、わたくしはあなたの事を、額面通りの方だとは思いません」
 すみれは平然と言った。クリスに関する噂や疑惑を知らない訳じゃないだろうが、そんな事をおくびにも出さなかった。
「へえ。どうして?」
「権力や財力にばかり執着する豚どもには、共通する家畜臭さがございますの。クリスさんからはそれが感じられませんわ」
 神崎重工の令嬢として、政界や財界のさまざまな人間を見てきたすみれだけに、その言葉には重みがあった。
 クリスは何も言わない。ただすみれを少しとろっとした目で見ていた。
「それに、米田支配人やかえでさんがあれほど気に掛けているあなたが、悪人だなんて思えません。何か事情がおありなんでしょう?」
「……信頼してるんだな」
「当然ですわ。あの方々がいらっしゃるから、帝撃は帝撃でいられるのですもの。クリスさんも、米田支配人の事を信頼していらっしゃるんでしょう?」
 すみれはクリスを見た。クリスは意味不明な笑みを浮かべると、力尽きたようにゆっくりと湯船の中に沈んだ。
「クリスさん!?」
 すみれは急いで近寄った。金色の髪がお湯の表面に散って、気泡がぶくぶくと上がっていた。
 お湯の温度と大して変わらない腕を掴んで何とか引き上げると、クリスは激しく咳き込んだ。
 一体いつから湯船につかっていたのか、間近で見るクリスは、明らかにのぼせていた。

<11>

 何とか湯船から立たせて脱衣場まで歩かせたが、クリスは床に座り込むと力尽きたようにロッカーにもたれかかった。
「まったく! こんなにのぼせるまで湯船につかるなんて。自己管理くらいしっかりしてくださいな。わたくしがいなかったらどうするおつもりでしたの?」
「……すまない」
初めて間近で見るクリスは驚くほどやせていて、力がなかった。腕から肩にかけて複雑な文様が刺青されているのを見て、すみれはぎょっとした。三日月をデザイン化したような絵を取り囲むように、文字にも見える複雑な図形が描かれ、その四方にひし形が配置されていた。
 白い肌に毒々しいまでの青い図形が、彼女にはどうしてもそぐわなかった。
「クリスさん、この刺青は一体なんですの?」
 思わず尋ねると、クリスはうつむいたまま小声で答えた。
「外霊力循環公式による相対性魔術方式における……」
「言いたくないのならそれでもよくてよ」
 すみれはため息をついて、バスタオルをクリスの肩にかけた。
 クリスが息を整えている間にすみれは着替えた。着替え終わっても、裸のまま座り込んで動く気配のないクリスに、自分一人の手に余る事を悟った。
「わたくし、マリアさんを呼んでまいりますわね。まだ起きてらっしゃるといいんですが……」
 そう言って出ていこうとするすみれの着物の裾を、クリスは反射的に掴んだ。
「大丈夫。大丈夫だから。もう夜も遅いし、人を呼ぶ必要はない」
 そう言うと、大きく深呼吸して立ちあがった。少しふらついたが何とか立つと、ゆっくりと体を拭いて服を身につけた。
 すみれはクリスを見た。顔色はまだ悪く、呼吸も少し荒い。何より足元が少し震えている事を見ても、まだ本調子ではない事は確実だった。ここで人を呼ばれると、今夜の事は花組全員に知れ渡る事だろう。それを嫌がって多少の無理を押し通すクリスの姿に、すみれは共感できるものがあった。
「でしたら、少し医務室で休んでいらしたらいかが?」
 医務室は浴室の向かいである。この状態で屋根裏部屋まで歩くのは確かに自殺行為といえた。すみれの心遣いに、クリスは頷いた。
「ああ。……そうさせてもらおうかな」
 そう言うと、クリスはゆっくり歩き出した。赤くほてった細い手をさりげなく取って、すみれは医務室まで付き添った。
 力尽きたように医務室のベッドに横になると、クリスは眩しそうに目を細めた。
「しばらく横になってらっしゃいな。どうしてもお加減がお悪いようでしたら、深夜でもわたくしを呼んでいただいても構いませんわ。お医者様をお呼びいたします。では失礼」
 くたっとして動こうとしないクリスに毛布と布団をかけてやり、戸口の所で蒸気照明を消そうとするすみれに、クリスはぽつり言った。
「神崎さん……。ありがとう」
「どういたしまして。おやすみなさいませ」
 すみれは蒸気照明を消すと、そのまま自室へと帰った。
 時刻は深夜零時を回り、帝劇は深い眠りに落ちていった。


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次回予告

梅干し、コンブにしゃけおかか。
米は越後のコシヒカリ!
鍛錬の後の握りメシは最高なんだぜ!
次回 「親愛なるきみへ 第四話
_________オムスビ・レッスン」
太正櫻に浪漫の嵐!
腹が減ってはいいクソはできぬってね!

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