親愛なるきみへ(第一話) 作・鰊かずの |
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<1>
港のヨーコヨーコハマヨコスカーっとくらぁ。
おお、こりゃまたべっぴんな異人さんだねぇ。おいおい、そんなに急いでどこ行くんでぇ? なに? 帝都へ? 帝都っても広いですぜ? いいから出せって? へいへい。じゃあ帝都へ向かって出発進行! とくりゃあ!
……で? お客さんどうします? そろそろ帝都へ入りやすが、行き先を決めてもらわねぇとあっしも困るんですがね。へ? あっしの好きな所でいいってかい? 変なお客さんだねぇ。いよし! 大帝国劇場へ行きやしょう! それがいいや!
なんでえなんでえ、そんなにうろたえちまってよ! あっしの一番好きな場所ですぜ? 好きな場所って言ったのはお客さんじゃねえですかい。嫌なら別の場所にしますがね。今帝都まで来て帝国歌劇団・花組のショウを見せないなんて花組フアンとして、いいや帝都市民として失格でさぁ! ああでも、今日は秋公演「青い鳥」の千秋楽かい。キップ売り切れちまってるだろうなぁ。それに今からじゃ開演にゃ間に合わなねえな。少し遅れっちまう。……いよし! お客さん。特別にかっとばして行くからつかまってなせえ。なぁに、こちとら帝都界隈の道の裏の裏まで知り尽くしてる帝都一の蒸気タクシー、五郎タクシーでぇ。裏道抜け道何でもござれってんだ。恐れ入ったか? はっはっは……え? 聞いた事ないって? しかもそんな事に興味はない、と。つれないなあ、お客さん。そりゃうちは万年赤字経営でボロの蒸気自動車が一台しかないポンコツタクシー屋だけど、心意気だけは帝都一よ!
それにしても、横浜港にいたって事ぁ、お客さんさっき着いたばっかりですかい? あ、やっぱり。え? どうして帝劇を行き先にしたんだって? そりゃああそこはあっしの一番の場所っすからね。花組のレビューがあっしの生きがいなんでさあ。へへへ。
……それにお客さん、痛んだ魚みてぇな目ぇしていますぜ? 何があったかは知らねぇけどよ、元気がねえ時ゃ花組レビューに限らぁな! あそこに行って花組さんの笑顔を見りゃあ、辛い事も嫌な事みーんな忘れっちまって、気がつけば自分も笑顔になっちまう。不思議なもんでさあ。いやあ、あっしもね、今日仕事じゃなけりゃ絶対見に行ったんすけどねえ。もう一回、もう一回だけアイリスのミチルを拝んでおきたかったっす! あの愛らしい演技にあっしはもうメロメロ。大奮発してブロマイドまで買っちまったい。へへへ。俺んとこにゃあ小僧っ子が一人だけっすから、まぁ、アイリスは娘みたいなもんすかねぇ。
……え? レ二はどうかって? そうそうレ二。いやぁ、正直言ってね、あっしはレ二はあんまり好きじゃなかったんでさあ。なんてぇのかなあ、こうつっけんどんで人を寄せつけねえっつーか、なんつーか。突き放されてるみてえな演技をするんで、今回のチルチル役は配役間違い……お客さんのお国言葉で『水着屋スト』っていうんっすか? え? それを言うならミスキャスト? しかもお客さんのお国じゃない。へえ、そんじゃどこですかい? 独逸? そりゃまた遠いところですなあ。そう、それだと思ってたんですがね。それがまたとんでもない! フタを開けてみりゃあ今までのレ二とは一味も二味も違ってたんでさぁ。いやぁ、あの年頃の女ってのは、一晩で化けるって言いますがね、レ二は本当に化けた。歳の割にゃあずいぶん大人びてる所は変わってねえが、なんてーかこう、雰囲気が柔らかくなったな。それに、アイリスとの息のぴったり合った演技もなかなかのもんだ。何があったかは知らねえが、触るとケガさせるみてぇな空気はずいぶんなりを潜めたなぁ。いい事だとおもいますぜ、あっしは。
ずいぶん詳しいなって? よくぞ聞いて九段下。あっしこそは、帝劇ふぁんくらぶ会員なんばー五十五番、五タクの五郎ちゃんでえ! 今日は千秋楽だし、本当は仕事さぼって見に行きたかったんだけどよぉ、それはそれ、世の中ってなぁ、せちがらいもんで。あっしの稼ぎを待っている女房子供がいる限り、帝劇ばかり見る訳にゃあ、いかねえんでさ。くぅっ! 今日で最後だってぇのになぁ。アイリス、レ二、そして花組のみんな、不甲斐ねぇあっしを許しておくんなせぇ
。……おっと。着きましたぜ、お客さん。一幕は見逃しただろうけど、今なら後半くれえ見れらあな。モギリのあんちゃんに頼み込みゃあ、ひょっとしたら見せてくれるかも知れねえぜ。
……おいおいお客さん、面倒だからってサイフごと渡さねぇでくだせえよ! って、ずいぶん入ってるねぇ。ずっしり重てぇや。くうっ! 金持ちはいいなぁってお客さん!? サイフ忘れてるってええ!? 残りは情報料だって? そんないけねえよ! なんでぇ、返されても受け取れねえっておい! お客さん!?
<2>
太正十四年 初秋。
蒸気文明が花開き、それによりもたらされた利器によりかつてない大輪の花を咲かせる街・東京。
蒸気によってもたらされた光は満月の明かりさえかき消し、人々の歩み行く先を明るく照らし出していた。通りを行く人々はもはや提灯など持たない。昼のように明るくなった夜の帝都は、光の届かない闇をなおいっそう深くする。
そんな帝都の中で最も輝く銀座の街に、大帝国劇場はあった。
銀座四丁目の一角で周囲より一層華やかに存在感を主張するその劇場は、洋風建築を取り入れた荘厳ささえ感じさせる佇まいだった。
そういった建物は普通敷居が高く、上流階級の社交場と化すのが常だったが、帝劇は違った。親しみやすい演目と上質な舞台内容で、最近目の肥えてきた帝都市民の娯楽の殿堂として、庶民にも広く親しまれていた。
そんな東洋一の規模を誇る大帝国劇場を根城にする帝国歌劇団・花組は、秋公演「青い鳥」の千秋楽を迎えていた。
最終公演の幕が開き、大神はようやく一息いれる事ができた。
公演初日から予想以上のお客様を迎え、連日満員御礼が続いていた。当日券はもとより立ち見券も完売し、開場から開演までは息をつく暇もないほどだった。
目が回るような忙しい日々も、連日のお客様とのやりとりも、とりあえず今日が最後かと思うと不思議と一抹の寂しさを覚えた。
「今日も忙しかったですね、大神さん」
パンフレットの整理をしていた売店の売り子代理の野々村つぼみも、嬉しそうな声を上げた。
初めての公演中の売り子に音を上げる事はなかったのだが、いかんせん回転数がカバーできず、事務所の先輩である由里に手伝ってもらったりもしていたが、初めてにしてはなかなか頑張っていた。
「そうだね。つぼみちゃんも大変だっただろう?」
「もう、目が回りそうですよ。でもあと一息ですから、スマイル、スマイルで頑張ります。……それにしても、レ二さんとアイリスさん、すっごい人気なんですよ。特にレ二さんのブロマイドなんか、今日は絶対に売り切れちゃいますよ。この間追加で入荷したばかりなのに、ですよ」
「へえ。それはすごいね」
でしょお、と我が事のように嬉しそうに笑うつぼみを見て、大神の口元にも自然と笑みがこぼれた。
お客様が客席に入った後のロビーはいつもよりも広く感じられ、壁の向こう側から微かに聞こえてくる声に、大神は心から安堵した。
「青い鳥」の公演が成功した要因の一つに、主演のレ二・ミルヒシュトラーセが笑顔を取り戻した事にあった。
帝撃に入隊したてのレ二は、ほとんど感情を表に出す事はなかった。
普段は口数も少なく、自分から会話に入る事もまれなレ二だったが、戦場では常に冷静な判断を下す、まるで戦闘マシーンのような、優秀だが冷たく凍った心の持ち主だった。
喜怒哀楽に乏しく、誰も信じない為に誰も愛さなかった少女はしかし、帝都に来て変化していった。数々の戦闘や舞台、日々の暮らしの中で大神や花組のあたたかさに触れ、少しずつ心の氷を溶かしていった。
そして、先月事件は起こった。
帝国華撃団の宿敵、黒鬼会五行衆の一人・水狐(すいこ)が、米田支配人の秘書の影山サキとして潜入していた事が判明したのだ。
水狐は帝撃を去り際、精神的に不安定になっていたレ二を連れ去り、洗脳の末同士討ちをさせようと目論んだ。
だが、花組の活躍と大神の説得が逆にレ二の心を開くきっかけを作り、「何の為に戦うのか」を自覚したレ二の心は、笑顔を浮かべるほどにほどけたのだった。
その時、大神はレ二の辛い過去を知った。
ヴァックストゥーム計画――独逸で極秘裏に行われた、高い霊力を持った兵士を人工的に育成するための計画――の被験者で、レ二は幼少時より戦う事のみを教え込まれ、戦闘マシーンとなるべく訓練されて育ったのだ。
確かに、レ二は笑顔を取り戻して花組を仲間として認めた。だが、その時の心の傷は本当に癒えたのだろうか?
「大神さん? どうかしたんですか?」
つぼみの声に、大神は我に返った。しばらくぼーっとしてしまっていたらしい。
今日は支配人もかえでもいない。二人が不在の今、実質大神がこの劇場を預かっていると言っても過言ではなく、大神は気を引き締めた。
「いや。何でもないよ」
そう言って振りかえった大神は、ロビーに現れた人影に思わず目を奪われた。
<3>
華やかな銀座の大通りから帝劇の光の中へ、染み出すように現れたのは一人の若い女性だった。
美人にはなぜか縁がある大神の目にも、その人はとても美しく見えた。しかしそれは、花組の太陽のような華のある活き活きとした美ではなく、月明かりの許でしか咲くことを許されない月光花のような、そんな美しさだった。
まず目に入ったのは、見事なまでにまっすぐに長く伸びた金色の髪だった。
アイリスの太陽ような明るい金ではなく、マリアの実りの色を思わせる色でもない。それはまるで月明かりを染めたような淡い色で、光に透けると銀色に輝いた。
年齢は二十歳前後で、背は高くもなく低くもない。白いコートを羽織ったその姿は、縦に細長い。彼女にはやや不釣合いな大きめのバッグを少しおっくうそうに肩から下げていた。
「いらっしゃ……」
声をかけた大神は、女性と目が合い思わず言葉を失った。色が、あまりにも深いのだ。
髪も肌も色素が薄いにも関わらず、その目は闇の色をしていた。静かな色をしたその双眸には、深海のような深くて濃い黒が、何の感情も抱かない人形のような輝きを見せていた。
大神はふと、以前のレ二のようだと思った。
二人の容姿は全くと言っていいほど似ていなかったが、そこから受ける雰囲気は不思議と似通っていた。
例えるなら、レ二が精巧なフィギュアなら彼女はガラスケースに納められたフランス人形のようだった。
眩しそうに帝劇のロビーを見ていた彼女は、思わずまじまじと見つめる視線に気付いたようにふと大神を見た。
少し首をかしげている彼女に、大神は慌てて話しかけた。
「いらっしゃいませ。帝劇へようこそ。何かお探しですか?」
「……あなたが、帝劇のモギリさん?」
「は、はい?」
つぶやくような声に、大神は言葉の意味を一瞬とりそこねて、思わず間抜けな声を出した。そんな様子に、彼女はちらりと大神を見て軽くためいきをつき、どこまでも静かに言った。
「今日、これから、劇は、見られるかと聞いている」
「い、いえ。申し訳ありませんが本日のチケットは全て完売していますので……」
大神の答えに、突然女性は大神にくってかかった。そこに感情の光が射し、やっと人形には見えなくなった。
「どうしても? どうしてもだめなのか? ここまで来て、どうしてそういう事を……」
「で、ですが……」
大神は困惑した。今日はどうしても見たいというお客様を何人も断ってきた。
普段なら融通を効かせるところだが、いかんせん「青い鳥」は立ち見券完売後も「見たい」とおっしゃるお客様が多かったため、初日以降はぎりぎりまで立ち見券を発行し、それ以上のお客様は全員お断りするという方法が取られた。入場を断られ、みな一様に落胆して帰っていく後ろ姿を見送るのはどうにも心苦しかった。中にはしつこく食い下がってくる人もいて、さっきようやく一段落ついたところだった。
一人の例外を認めてしまったら、そんな断られたお客様に対して示しがつかない。大神の困惑を感じ取ったように、女性はふと冷静さを取り戻した。
「……すまなかった。無理なものは仕方がないか。邪魔をした」
唐突にやってきた感情の波は唐突に去った。
彼女は目を伏せると、一瞬痛そうな顔をした。しかしそれも一瞬の事で、すぐに表情を失って以前の人形に戻った。
大神は、それがどうしても放っておけなかった。
「あの、今はもう第一幕が始まってしまっているので、あと三十分ほどお待ちいただければ二幕からならご覧いただけますが……」
その言葉に、彼女はうつむきかけた顔を上げた。おずおずと確認するような声で、少し上目遣いに大神を見た。
「本当か?」
「はい。ただ、本日は立ち見券も完売していますので、相当狭い場所での立ち見となりますが……」
「見られるのなら席は問わない。ありがとう」
心底安心したように、彼女は軽く笑顔を見せた。
<4>
「青い鳥」最後の客人はクリスと名乗った。
クリスは食堂で待つよう勧める大神の誘いを断って、一階客席のドアにもたれかかっていた。
話しかけられる事を拒否しているかのように、ドア越しに聞こえてくる微かな声に聞き入る姿に捨ててはおけないものを感じた大神はふと思い立つと、厨房へと向かった。
紅茶を淹れてホールへ戻ると、クリスはバッグから何か取り出して、手の中でもてあそびながら微かに聞こえるテーマ曲を口ずさんでいた。そんなクリスに、大神はティーカップとソーサーを差し出した。
「どうぞ」
「……ありが、とう」
クリスは驚いて目を見開いた。大神の行動はかなり意外だったらしく、クリスはぎこちなく差し出された紅茶を受け取った。ティーカップからは、心地よい湯気とかぐわしい紅茶の香りがした。
「いい香りだ。あなたが淹れたのか?」
「ええ。以前紅茶の淹れ方を仕込まれまして。おかげで得意になりました」
へえ、と言って紅茶に口をつける。緊張していたクリスの表情が少しほころび、かすかに笑みを浮かべた。
「教えた人はよほど紅茶が好きらしいな。とてもおいしい」
「ありがとうございます」
すみれくんが聞いたら喜ぶだろうな、と思いながら、大神は女の隣の扉にもたれた。
しばらくは沈黙が流れた。背中越しの声を聞きながらリラックスする女の表情からは、先ほどまでの人を寄せ付けない空気が薄れ、明るささえも感じられるようになっていた。
「舞台…お好きなんですね」
大神の問いに、クリスは首を横に振った。
「いや。観劇自体八年ぶりだよ。……すまなかったな、無理を言って」
「何か特別な思い入れでもあるんですか?」
何気ない大神の問いにクリスは少し口篭ると、独り言のようにようにつぶやいた。
「船の中で劇評を見た。どの評論家も口を揃えて絶賛していた。それだけなら捨て置くけど、『主演の二人の息のぴったり合った演技』という記述がそこかしこに見られた。……今まで、そんな風に評価された事はなかった。本当は、見に来るつもりなんてなかった。今更見たところで、何も変わらない。だけど……」
その言葉に、大神は悟った。
クリスはレ二を見に来たのだ。確かに、心を閉ざしていた頃のレ二の評判は「素晴らしい」と「冷たい」の二通りがよく書かれていた。
「クリスさんは、レ二のお知り合いですか?」
「あなたには関係のない事だ」
素っ気いその言葉に、大神は思わず力説した。おそらくレ二には親兄弟はおろか、こうして劇を見に来てくれる知り合いさえいないだろう事はたやすく予想できた。だから、せっかくこうして横車を押してでも見に来てくれる人がいたなら、その人はきっとレ二を支えてくれていた人だろう。
「いえ。レ二は俺たちの大切な仲間ですから。もしお知り合いなら改めて挨拶をと思いまして」
クリスは驚いて大神を見た。そんなに意外な事だったのか、信じられない単語を聞いたという風に目を見開いて聞き返した。
「仲間……本当に?」
「ええ。一緒に劇をした大切な仲間です」
大神は真っ正直に答えた。その言葉は真っ直ぐで、どこを探しても嘘は見うけられなかった。
「そうか……」
クリスは微笑んだ。その微笑みは我が子の成長を心から祝う聖母のような慈愛に満ちていた。
その笑顔に、大神は目を奪われた。
「ありがとう。あなたがそう言ってくれると、私も嬉しい。……これで、思い残す事はない」
「それはどういう……」
大神が言いかけた時、劇場内から大きな拍手と歓声が響いて、アナウンスが十分間の休憩を入れる事を告げた。
クリスはすっといつもの顔に戻ると、カップとソーサーを大神に渡した。
「……これからも……」
「え? 何か言いましたか?」
騒がしくなったロビーの声にかき消されて聞き返したが、クリスは何も答えなかった。
クリスはふと笑みを浮かべると、客席から出てきたお客様の波にのまれてそのまま劇場内へと消えた。
何だか釈然としないまま、大神はクリスを見失ってしまった。
<5>
舞台の幕が降り、その向こう側から聞こえる割れんばかりの拍手を聞きながら、レ二は今まで一度も感じた事のない充足感を感じていた。
今まで、何度も舞台に上がってきた。
自分が主演の舞台も、一度や二度では利かないくらい踏んできた。その度に歓声は惜しみなく注がれてきたが、客席の拍手が温かいと、嬉しいと感じたのはこれが初めてだった。
「青い鳥」も、今までの舞台も、同じ舞台には違いない。でも、今までとは決定的に違うものを、レ二は自覚していた。それは……
「楽しかったね、レ二」
歓声の隙間から、アイリスの声がした。
隣でアイリスが、本当に嬉しそうに微笑んでいた。心からの笑顔に、レ二も我知らず微笑みを返していた。
「うん。こんなに楽しい舞台は、初めてだ」
舞台が楽しい。みんなと一緒にライトの下で輝けて嬉しい。自分は一人じゃない。この拍手はみんなのものだ。
レ二には、それがとても嬉しかった。
「今日は皆さん、千秋楽に恥じない、いい舞台でしたわね。まあ、帝劇のトッッッッップスタアであるこのわたくしが舞台に立つのですから、それも当然の事ですけれども」
満足そうに語るすみれに、カンナがすかさず茶々を入れた。
「なーに言ってやがんだ? このサボテン女。おめえ一人で舞台ができた訳でもねえだろうが」
「あら、そんな事は一言も……」
また始まりかけたいつもの口ゲンカも、何故かほほえましく映った。
「ほら二人とも、カーテンコールよ。最後まで気を抜かないで」
マリアの言葉にケンカの矛先を収めた二人が黙ってそっぽを向いた直後、「青い鳥」最後の幕が上がった。
客席の拍手が更に大きくなる。顔も知らなければ名前も知らないたくさんのお客様が、薄暗がりの中で自分達に拍手と歓声をくれる。なんだかとても誇らしくて、少し照れくさいような気持ちがした。
その時、レ二の目に輝きが映った。
一階客席の、立ち見席の端だった。不届きな雑誌記者がフラッシュを焚いて撮影したのかと思ったが、それとも違う、何かが反射したような光だった。
思わずそちらに目を向けると、また光が輝いた。
今度は懐中電灯のようなぼんやりとした光が見えた。それは、そこにいるはずのない人物の姿を映し出し、何かに吸い込まれるように消えた。
光に照らされ、ぼんやりと、だが確実に映し出された人物に、レ二は内心ひどく焦った。
可能性がない訳じゃない。でも、限りなくゼロに近いはずだ。
幕が降りた直後、レ二はわき目も振らず駆け出した。
アイリスの声も、マリアの制止も、耳には入っていなかった。ただ、追いかけなければ後悔する。そんな思いに後押しされるように、舞台を飛び出してホールへと走った。
――この時の事を後で思い返しても、どうして自分がこんな行動を取ったのか、レ二には分からなかった。
<6>
ホールは、舞台の余韻を胸に秘めつつ家路につく人の波でごった返していた。
口々に劇の感想を言い合うお客様の声を聞きながら、その対応に追われていた大神は誰かのあっという声に振り返り、思わずぎょっとした。
食堂奥の通路から、舞台衣装のままのレ二が飛び出してきたのだ。
「レ、レ二! どうしたんだい?」
レ二は大神の声も無視して、人ごみを器用にかき分けながら、ただ一点を目指して駆け寄った。
周りのどよめきを無視してホールを歩く金色の髪の女性――クリスの腕を取り、帝劇内に留めた。
「クリス!」
クリスは驚いたように立ち止まり、レ二を見た。信じられない、という感情が遠目でもよく分かった。
「クリス……。またボクの事を無視して立ち去るつもりだったの? いつもみたいに」
レ二の言葉に、クリスは明らかに動揺したようだった。
クリスは何か言おうとしたが、それは観客の声にかき消された。
「チルチルよ! チルチルがいるわ!」
「レ二さんだ! すごい! 目の前にいるよ!」
「きゃあっ! サインください! 握手してください! 一緒に写真撮ってくださーい!」
周囲の観客は、口々に好き勝手な事を言いながらレ二に駆け寄った。その目には一様に少々異常な光が宿っていた。
舞台の興奮がさめやらぬ中で、舞台衣装のままの俳優が出てきたのだ。群集心理に飲まれた観客は、我を忘れて波のようにレ二に押し寄せた。
「みなさん、落ち着いてください!」
大神は奮する観客を何とか落ち着かせようとしたが、周囲の見えなくなった人の波は大神の姿など気にも止めなかった。観客の熱気は徐々に膨らんで、次第に奇妙なまでの盛り上がりを見せた。
このままでは、誰かが転んだだけで大惨事になってしまう。どうしようか思案する大神の耳に、声が響いた。
「
どうしてこんなに悲しいんだろう
どうしてこんなに悲しいんだろう……」
レ二とクリスがいつのまにか食堂のテーブルの上に移動していた。
クリスは、テーブルの足元までやってきた観客に向かって歌を歌っていた。
伸びやかで高い、澄んだ声だった。
ロビーを包んでいた異様な熱気が、悲しいまでに澄んだ歌声に、打ち水をされたように引いていった。
大神はそっと人の群れをかき分けると、放送機材のスイッチを入れた。
「
悲しくて 涙をこらえれば のどが痛くて
悲しくて 誰かをうらんでも 胸が痛くて」
その歌声は客席でたむろしていた観客の許にも届き、外に出られず騒ぎ始めた人達を静めた。
ラストシーンでチルチルとミチルが歌い上げた、「青い鳥」の劇中歌「希望」だった。
クリスの歌声は、そこにいる全員の胸の奥に染み渡るように広がっていった。
「
遠く森のみどりが 今日もにじんで見える
白い雲がちぎれて 今日がせつなく消える」
静かになったロビーを見て、クリスは歌をやめたが、歌声は終わらなかった。
その歌を引き継いで、レ二が歌い始めた。
「
思い出が つらくて消しゴムで こすりつづけた
思い出を あつめてごみ箱に まるめて捨てた
この場所を離れ はるかかなたへ行こう
すがりつけるなにか 見つけるために」
もはや誰も騒ごうとしない。黒子がテーブルを移動させるのにも、気にも留めない。さっきまでの騒ぎが嘘のように静まったロビーに響いたレ二の歌声に応じるように、同じく舞台衣装のままの花組が、食堂奥から一人ずつゆっくりと歩み寄って、即席で作られたテーブルの舞台に上り、パート毎にソロで歌を繋いでいった。
「
だけど どうして悲しいんだろう
だけど どうして悲しいんだろう」
呆然と立つクリスの隣に、さくらが歩み寄った。
「
悲しくて 涙の枯れたあと ぼくは見つけた
悲しくて 誰かに支えられ わたし見つけた」
マリアが気持ちをこめて歌う。
「
熱い人のやさしさ ここに感じて気付く
愛のあふれる家は ここにあること 気付く」
アイリスがそっとレ二の手を取る。
「
この場所に生きて はるか明日を見よう
ぼくこそが希望 きっと未来への道
この場所に生きて はるか明日を見よう
あなたが希望 きっと未来への道」
カンナとすみれが素晴らしいハーモニーを奏でながら歩く。
「
この場所に生きて はるか明日へ生きる
ぼくこそが希望 未来へとつづく道
この場所に生きて はるか明日へ生きる
あなたが希望 未来へとつづく道」
紅蘭と織姫が共に手を取って希望を歌う。
食堂に花組が全員揃い、最後のコーラスへと入っていった。
「
ラララララ〜
あなたが希望 未来へとつづく道」
事前に打ち合わせが全くなかったとは思えない、息のぴったり合った歌だった。
まるでロビーの時間は止まったかのように、誰も動かなかった。
息をするのも忘れてしまったような空間に、花組の歌だけが響いた。
最後の歌詞が終わり、沈黙が訪れた。そんな中、レ二が観客に語りかけた。
「皆さん、今日は本当にありがとうございました。こんなに楽しい舞台が踏めたのは、初めてです」
レ二の隣で、アイリスが笑って手を振った。
「アイリスも、すっごく楽しかったよ」
マリアが観客を見渡し、一礼する。
「今日はとうとう「青い鳥」の千秋楽です。皆様には改めて、感謝の気持ちを捧げたいと思います」
カンナが力強く拳を握る。
「あたいたちの舞台、楽しんで貰えたら最高に幸せだぜ」
すみれが艶やかに微笑む。
「皆様方あってのこの舞台。こうして最後まで演じられた事、この神崎すみれ、一生忘れませんわ」
紅蘭が人なつっこい笑みを浮かべる。
「こうして応援してくれはるお客様がいてくれる。これがうちらの宝物や」
織姫が華やかな笑顔とともに宣言する。
「クリスマスまでお別れデスが、次回も今以上の舞台をお送りするとお約束しまーす」
さくらが観客の視線を堂々と受け止める。
「これからも、花組みんなで素晴らしい舞台を作り上げていこうと思います。本日は本当に」
花組全員が声を揃える。
「ありがとうございました」
深深と頭を下げる花組に、ロビーから客席から、劇場が割れんばかりの拍手が巻き起こった。
翌日の帝都日報には、このパフォーマンスが大々的に報道され、「千秋楽の花組には何かが起きる」という噂がまことしやかに囁かれた。その余波で、今後花組の千秋楽公演のチケットはますます入手困難な物になっていくのであった。
最初に歌った見なれない女性は誰かという事について、様々な意見や憶測が飛び交ったが、帝劇からは正式なコメントは一切出されず、やがて忘れられていった。
<7>
「何をしに来たの?」
花組が楽屋へと場所を移して開口一番に、レ二がクリスに問いかけた。
掴んでいた手を放し、二人は真正面に向かい合ったが、その間には友好的とは言い難い空気が漂っていた。
ロビーではあんなに感情が希薄で澄んでいたにも関わらず、レ二本人を目の前にしたクリスからはさっきの慈愛に満ちた微笑みのかけらも感じられなかった。
息をのんで花組が見守る中、クリスはひょいと肩をすくめた。
「かわいいレ二の、花組初主演作品を見に」
「嘘だ」
「とでも言えば満足か?」
「……」
思わず押し黙ったレ二には構わず、クリスは続けた。それは感情の入り込むすきのない、事務的な言葉だった。
「帝都へは仕事で来たんだ。別にお前のためだけじゃない。……ああ、それとも」
クリスは邪悪な笑みを浮かべた。少し腰をかがめると、硬直したような無表情を浮かべるレ二の頬を軽く叩いて視線を合わせた。
「感極まって抱きついて、キスのひとつもくれてやろうか?」
「レ二にひどい事言わないで!」
アイリスが、クリスとレ二の間に割って入った。
怒ったような目でクリスをにらみつけながら、両腕を精一杯伸ばしてレ二をかばっていた。そんなアイリスを、クリスは物珍しそうに見物していた。
「お嬢さん……」
「レ二のことをいじめたら、アイリスおこるからね!」
クリスはアイリスを見据えた。アイリスもクリスを見返したが、にらみ合いはそう長くは続かなかった。
アイリスは何かにおびえたように一、二歩さがると、後ろ手にレ二の手を握った。アイリスの手の温度に、少し表情を取り戻したレ二は、気遣うように声を掛けた。
「アイリス?」
「おねえちゃん、怖い」
「え?」
ぽつりとつぶやくと、アイリスはうつむいた。
心なしか青ざめているようにも見えるアイリスから視線を外したクリスは、改めてレ二に向き合った。
「それにしても、本当にお前にも友達いたんだな。ずいぶんな進歩じゃないか」
「友達……うん。仲間だよ」
レ二は毅然と頭を上げて、クリスの目を見返した。その目の輝きには、今までのレ二にはなかった確かな意思が込められていた。
「クリス。あなたがどうしてここにいるのか、今は何も聞かない。でも、ボクはあなたを許せない。もしもみんなに何かしたら、ボクは一生許さない」
「そうだな。私もだよ」
クリスはさらりと言った。「お前さんの許しを請うつもりはない」くらいの言葉を覚悟していたレ二は、思いがけないその言葉の意味を一瞬取り損ねた。
「どういうこと、クリス……?」
「ところで、そちらの無礼な方。そろそろ自己紹介してくださらないこと? 先ほどから話が見えなくて気持ちが悪いですわ」
二人の会話にすみれが割り込んだ。改めて周囲を見渡すと、さっきの発言に対してクリスに非難の目が集中していた。
「そうだぜ。大体、何の権利があって、レ二にそういう事を言うんだ? お前ら、どういう知り合いなんだよ?」
問い詰める口調のカンナに、クリスはちょっと肩をすくめた。
「私は、レ二の保護者だよ」
「いいっ!?」
「保護者ですって?」
花組に動揺が走った。今までレ二の親兄弟といった話題は一切出なかったし、彼女の過去を考えれば質問するのも憚られる事だっただけに、自称『保護者』は注目を集めた。
そんな中、織姫はおもしろくもなさそうに口をとがらせた。
「ホゴシャだろーがラクゴシャだろーが、ブレイな発言はシャクにさわりまーす。取り消して訂正して謝るがいいでーす」
にべもなく織姫は言い放った。
その口調には、少なからずトゲが含まれていた。二人は知り合いなのだろう。そこにはレ二との間以上に険悪な感情の交流が生まれていた。
つっけんどんな織姫の言葉を、クリスは鼻先で笑った。
「間違った事は言っちゃいないさ」
「反省すらしないなんて、もう信じられませーん! 相変わらず日本のオトコと同じくらいデリカシーのカケラもないですね」
「織姫にデリカシーの話をされるとは、私も落ちたもんだ」
「どーいう意味ですか!」
「聞いたままの意味だが?」
「二人ともおやめなさい」
直球勝負でケンカする二人をマリアがなだめたが、レ二の反応は冷たかった。
「好きなだけやればいい。……ケンカできるだけ、正常な関係なんだから」
「レ二?」
大神は聞き返したが、レ二はそれ以上何も言わずに二人の嫌味の応酬を見守っていた。
「大体、あなたが仕事で帝都へ来たって辺りがウサギ臭いでーす! 帝劇に何かしたら許しませんからね!」
「うなぎ臭い、だ」
「うさん臭いよ」
「まあまあ、織姫くんもクリスさんも落ち着いて」
織姫の言葉を訂正するクリスへのマリアのつっこみに沈黙したスキをついて、大神が割って入った。
こういうケンカに割って入るのは、すみれとカンナで慣れているため、今回も声を掛けるタイミングは絶妙だった。特技として磨かれてしまった事が幸か不幸かは、意見が分かれるところだが。
何とか二人をなだめると、大神はクリスに向き合った。
さっきロビーで会った時とはうってかわって好戦的なのが少し気になったが、あの時機転をきかせてくれなければ、下手したら大惨事につながっていた。
「クリスさん。何はともあれ、今日はありがとうございました。お陰で、何とか場をおさめる事ができました」
真っ正直な大神の言葉に、クリスは心なしか照れたように笑った。
「いや。礼を言いたいのはこっちの方だよ」
そう言うと、クリスは立ち上がり、辺りを見回した。
「さてと。私はそろそろ退散させてもらうよ。招かれざる客は、さっさといなくなるに限る」
その後ろから、ポロロロ〜ンとギターの音色が響いてきた。
「千秋楽はいいなあ。開放的な気分に浸れて」
「そ、その声は……加山!」
「いよぅ、大神ぃ!」
振りかえると、そこには自称・大神の海軍士官学校以来の親友、加山雄一が、楽屋の入り口で器用にカッコつけていた。
「加山。どうしてここに?」
「いやぁ、クリスさんを横浜港まで送ってほしいって頼まれたんだ」
「横浜港? またどうして? 大体なんでお前が……」
大神の声に、加山はふと真面目な顔になって、質問内容を半分だけ答えた。
「当然だ。クリスさんはまだ、税関を通っていないんだ。彼女が消えたって、港じゃ大騒ぎだ」
「ええっ!?」
「じ、じゃあクリスさんは……」
「今の身分は密入国者ってところだ。という訳で、送りますからご一緒にどうぞ」
「分かった」
少し気障に差し出された手を無視して、クリスは挨拶もせずに楽屋の戸口から出ていった。
そんなクリスに気を悪くした様子もなく、加山はその手を大神に振った。
「じゃあな、大神。アディオース!」
「あ、おい加山!」
呼びとめる間もなく出ていった加山を大神は見送った。
そんなやりとりには目もくれず、レ二はアイリスを気遣っていた。
「アイリス大丈夫? どうしたの?」
「もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね」
にっこりと笑うアイリスに、大神は質問した。霊的にも感受性の強いアイリスは、クリスから何か感じ取ったのかもしれない。
「怖いって、どういう事だい?」
「あのね、……クリスも、霊力を持ってるよ。でも、怖いの。どうしてかわかんないけど、怖いの……」
「アイリス……」
大神は、うつむいてしまったアイリスの頭をなでた。
クリスから感じる恐怖の正体も気になったが、今はアイリスを安心させる事の方が大切だった。
「大丈夫だよ、アイリス。怖い事なんか何もないよ。俺がついているからね」
「ホントに?」
「ああ」
相変わらず自信たっぷりな大神の笑みに、アイリスも思わず笑った。今までどんな時でも、どんなに勝ち目のない戦いも、大神のお陰で乗り越えられてきた。今度もきっと大丈夫。根拠のない自信だったが、それで十分だった。
「うん! おにいちゃんがいるから、だいじょうぶだよね」
元気を取り戻したアイリスの後ろから、ドアをノックする音が響いた。
楽屋の扉が開き、クリスが顔を出した。
「クリスさん、何か忘れ物かい?」
「ああ。……レ二」
呼ばれて振りかえったレ二に、クリスは一冊の本を手渡した。
革張りの古びた表紙の、分厚い本だった。
茶色い表紙はところどころ剥げてはいたが、きちんと磨き込まれた表紙はみすぼらしさを感じさせなかった。
飾り気の無い装丁やその本自体の雰囲気から、それはアルバムのように見えた。
「これは?」
「贈り物だよ」
レ二は手の中の本を開いたが、眉をひそめるとすぐに閉じた。
「貰ういわれがない」
「必要ないと判断したら、処分してしまっても構わない。だから、お前が持っていろ」
「それは命令?」
何気ないレ二の言葉に、クリスは苦笑した。
「いや。……お願いだ」
「……」
黙ってアルバムを握り締めるレ二を見て、クリスはひどく真面目な顔で告げた。
「さようなら。……元気で」
「えっ?」
言葉の真意を図りかねたレ二が口を聞こうとしたが、すでに立ち去った後だった。
レ二は釈然としない面持ちで、アルバムを抱きしめた。
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